ヨッシンと地学の散歩 > 散歩道の四方山話  > 室生火山のなぞ 

ヨッシンと 地学の散歩

散歩道の四方山話 


1.室生火山岩とは

 奈良県の地図を見ると東側に大きく出っ張ったところがあります。ここに曽爾(そに)村があります。 のどかな田園風景の広がる田舎といった感じの場所です。ところが周囲の山を見ると切り立った崖に取り囲まれていることに気がつきます。 グランドキャニオンの谷底を広げたようにも見えます。周囲の倶留尊(くろそ)山・国見山(2つある)は断崖絶壁に囲まれています。 特に西側の国見山にある南東斜面の崖は大きく、幅2km高さ200mもあり屏風岩と呼ばれています(右下写真)。 屏風岩は東隣にある兜岳・鎧岳とともに国の天然記念物に指定されています。
室生火山岩  屏風岩をはじめとする周囲の崖には、縦方向に筋が入っているのがわかります。この筋は柱状節理といって、 流れ出た溶岩などが冷え固まるときにできるものです。このことから、この岩石は火山岩または類似の岩石でできていることが推定されます。 曽爾村にある火山岩様の岩石は、同種の岩石が最初に研究された西側の宇陀市室生区の名前をとって室生火山岩と名付けられました。
 室生火山岩は、奈良県では宇田市全域・曽爾村・山添村、三重県の名張市・御杖村・美杉村の東西約30km 南北約20kmの広い範囲で見ることができます。火山岩の下位(下)には、第三紀中新世の貝化石を産出する、山辺層群・山粕層群があり、 中新世中期〜後期の噴出物と考えられます。放射性元素を使った絶対年代の測定結果は中期中新世の1500万年前を示します。
先頭 散歩道の四方山話(目次) 道標(top)



2.室生火山岩のなぞ

 火山岩があることは、火山があって、そこから流されてきたことになります。たいていは火山のあったところが火山岩がいちばん厚くできるので、 残されやすくなります。そのため、ふつうは火山岩が分布している中心に火山があったと考えます。それでは、 現在室生火山岩が分布している中心の室生地域に火山があったのでしょうか。室生地域の火山岩の厚さは最大というわけではなく、 ここに火山があったと決められません。分布域の南側は断層で持ち上げられていて、浸食されてなくなっていて、 火山岩の分布の範囲は特定できません。
 また、火山の中止付近では火山岩の厚さが最大になることを利用して火山の位置を特定できます。 ところが室生火山岩の厚さはどこでもあまり変わりがなく、厚さでも火山の位置を特定するのは難しいようです。
 少なくとも、これらのことからわかることは、室生火山岩の分布域の中に火山があったのではないことです。それでは、 火山はどこにあったのでしょうか。
 さらに不思議なことがあります。火山岩の厚さは、屏風岩付近で400m近くあります。 柱状節理は岩石を縦断していますから、ほぼ一度の噴出でできたことになります。分布域の面積と掛けあわせて、 少なくとも200立方kmの噴出物が一度に放出され、現在に残されていることになります。この量だけでも、 歴史上知られている最大の火山噴火である1815年インドネシアタンボラ火山噴火での噴出量を超えています。 このような巨大噴火がどのようにして起こり、おそらくあったであろうと思われる巨大な火山はどのようにして消えていったのでしょうか。
 とにかく巨大火山があって巨大噴火を起こしていたことは確かです。現在の火山と紛らわしくなりますが、この火山を室生火山と呼ぶことにします。
先頭 散歩道の四方山話(目次) 道標(top)



3.室生火山岩を調べてわかったこと

 室生火山岩は何であるか詳しく書かずにきたのですが、まず、その正体を正確にを明かすことにします。岩石を詳しく見ると、 黒い曲がったレンズのようなものが見られます。室生火山岩と呼ばれていた頃は流理構造の一種で、 流紋岩質溶岩が流れたときに、流れにのばされてできたものだと考えられていました。ところが、実際には溶結レンズ(フィアメ) と呼ばれる構造であることがわかりました。火山から放出された軽石を含む火山灰が大量に積もり、火山灰や軽石の熱で軽石が軟らかくなり、 上に乗った火山灰の重みで押しつぶされてできたものです。従って、室生火山岩は溶岩ではなく、火山灰が固まってできた凝灰岩で、 軽石が押しつぶされていることから特に溶結凝灰岩と呼ばれるものを主体とすることがわかってきました。しかし、 成因が違うとわかってもそれを噴出した火山のなぞがなくなったわけではありません。
 ところで、溶結凝灰岩は、火山灰などの火山砕屑物が大量に放出され、その重みで空気と混ざりながら山の斜面を下り降りてくる現象、 言い換えれば火砕流によって作られるという事が考えられています。火砕流といっても雲仙岳で見られたような、 山頂の溶岩塊が崩れ落ちるというようなものでなく、火山の噴火口から火山砕屑物が火山ガスの力でものすごい勢いで吹き上がられ、 上昇の勢いがなくなった1万mを超える高さから滝のように落ちてきて周囲に流れ下るというすさまじいものです。
 室生火山岩は実際には火山岩ではないので、室生火砕岩とか室生火砕流堆積物といった呼び方をするようになってきました。
 大量に火砕流を放出するような噴火が起こると、火山の下にあったマグマだまりはからになり、 上の火山が陥没して巨大なカルデラが形成されます。このようなカルデラの周囲には溶結凝灰岩が見られます。 たとえば、阿蘇山の周囲には灰石と呼ばれる溶結凝灰岩があり、高千穂峡などの曽爾村に似た景観を作っています。 姶良カルデラの周囲は溶結の度合いは小さく溶結凝灰岩になりかかっているシラスが見られ、 鹿児島空港周辺の風景などは曽爾村とよく似ています。
周辺図  一般に火砕流の堆積物は、溶岩流に比べて広い範囲にたまります。そのため、火山があった場所を捜索するのに、 今まで以上に広い場所を探す必要が出てきました。 火砕流堆積物(溶結凝灰岩)だということに注目してみると似たような岩石が、他にも見つかっていることがわかってきました。 大阪府柏原市の玉手山凝灰岩や奈良市東部地獄谷の石仏凝灰岩が室生火砕流堆積物と同じものであることがわかってきました。 従って分布域は東西45km南北30kmに渡っていることがわかりました。新しく仲間入りしたところでは溶結度は小さく地層も薄いので、 こちらの方向に火山があった事は考えられません。溶結凝灰岩層は南ほど厚いことと合わせて考えてみると、火山は曽爾・ 室生地域の南側にあったと考えるのが妥当だと思われます。
 火砕流堆積物でできた地層をよく観察してみると、下の方(基底部)で火山豆石を含む黒っぽい凝灰岩があることがわかりました。 この凝灰岩をフッ酸という薬品で溶かし溶け残ったものを顕微鏡で見ると放散虫という海洋に住むプランクトンの一種の化石が見つかりました。 放散虫の種類によって生きていた時代が違うので、種類が何であるかを調べてみると、その放散虫がいた時代がわかります。 その結果はなんと古生代中生代ジュラ紀と、火砕流が噴出するよりはるかに昔の生物であることがわかったのです。ところでどのようにして、 大昔の生物が紛れ込んだのでしょうか。
 黒っぽい色をした凝灰岩は、マグマが砕かれてできた物質(本質岩片)はほとんどなく、岩が砕かれてできた物質(異質岩片)でできています。 噴火の時に火口周辺にある岩石を大量に吹き飛ばしたらこのように岩片の多いものができます。もし、 火口の周囲にあった岩石に二畳紀〜ジュラ紀の放散虫化石が含まれていたらどうなるでしょうか。 噴火の時に放散虫化石も吹き飛ばされてきていっしょにたまることになります。このようにして、ジュラ紀の化石を含む凝灰岩ができました。
 この凝灰岩があることから、噴火口の近くにはジュラ紀の地層が露出していることが推定されます。それでは、 そのような岩石があるのはどこでしょうか。室生・曽爾地域より南では、同時代の地層は東西方向に並んで分布しています。その中で、 ジュラ紀の地層が露出しているのは秩父帯と呼ばれる区域で、紀伊半島では、和歌山県有田市・湯浅・広川町と三重県伊勢市を結ぶ地域にあります。 室生火砕流堆積物が分布する真南では、大峰山・大台ヶ原山などにあります。地図では黄緑色に塗った地域です。
先頭 散歩道の四方山話(目次) 道標(top)



4.大台・大峰山系の不思議な地質構造

 先に紀伊半島では地層は東西方向に伸びるように分布していると書きました。このことは日本列島や西南日本の地質図を見ればよくわかります。 これは、各時代の地層が東西方向の垂直な断層で区切られて分布しているからです。ところが紀伊半島の秩父帯に限ってみれば、大台・ 大峰山系のあるところだけ南の方に広がって分布しているように見えます。これは断層が南の方に曲がって来ているからなのでしょうか。 詳しく調べてみる必要があります。
 大台大峰地域の地層を調べてみると、まずこの地域の地層は2階建て構造になっていることがわかりました。 1階は四万十層群と呼ばれる白亜紀〜古第三紀に深海でできた地層です。2階は、秩父帯に属する岩石です。2階の方が古い岩石でできているのは、 2階の岩石が北の方から断層面上を滑るように水平に運ばれてきたからです。衝上断層と呼ばれる構造で上に乗った地層をナップといいます。 2階の床(衝上断層面)の高さは、南側ほど高くなっていき、大台大峰山付近では浸食されてなくなっている高さになっているはずなのですが、 どういう訳か大台大峰山のあたりだけ300〜600m近く低くなって境界面が残されています。
 さらにわかったことは、大台大峰山を環状に取り囲むように垂直な断層があることです。どうも、 この断層を境にして内側の衝上断層面が低くなっているようです。大規模な円形の陥没が起こり、 その縁が環状の断層として残されたのではないかと考えられます。このような円形の陥没を示す地質構造をコールドロンと呼んでいます。
 もし、コールドロンを作るような地殻変動が起こったならその地表面では大きな円形の陥没地形ができているでしょう。 これが火山によるものだったらカルデラと呼んでよいものです。このコールドロンは2重になっています。一つは大峰・大台両山系を取り囲むもの、 もう一つはその内側にあって大台山系だけを取り囲むものです。コールドロンができた当時は、カルデラは2重になっていたでしょう。ただ、 この陥没が一度に起こったのか、二回に分かれて起こったのかはよくわかりません。大峰山系の稲村が岳付近に秩父帯を直接覆うレキ層があります。 このレキ層はカルデラ陥没によってできた低地に外からレキが運ばれてたまってできたと考えれば、カルデラ陥没は2回あったと考えることができます。
先頭 散歩道の四方山話(目次) 道標(top)



5.紀伊半島の奇妙な岩脈

 岩脈とは、岩盤中に火成岩が縦に板状に入り込んだ地質構造をいいます。地下の岩盤に大きなひび割れができていて、 その中をマグマが上昇してきて冷え固まってできます。紀伊半島にはこのような岩脈は無数にあります。1500万年前には、 熊野酸性岩類と呼ばれる、花こう岩や流紋岩(流理が見られないので粗面岩と記述されている)等ができています(地図中酸性火砕岩類−桃色のところ)。 この火成岩を作るマグマの上昇に伴って、たくさんの岩脈が作られています。これらの岩脈は水平方向にはまっすぐつながり、 その中にある岩石は当然、花こう岩や石英斑岩、流紋岩等の火成岩です。(石英斑岩は石英・長石などの大きな結晶の目立つ流紋岩のような岩石です)。
 このような岩脈を調べている内に、他とは全く違ったものが発見されました。軽石をたくさん含んでいて、 その軽石も熱で押しつぶされ扁平になっているものが入っている岩石です。このような構造は溶結凝灰岩に見られるものです。溶結凝灰岩は、 火砕流によってできるので水平に広がっているはずです。ところが、ここで発見された岩石は明らかに岩盤を縦に貫くように入っているのです。 溶結凝灰岩のようで、産状から考えるとでき方はあきらかに違うので、この岩石をタファイトと呼ぶことになりました。 またこのような岩脈は火成岩でできていないので火砕岩脈として区別する事にします。
 タファイトがあることは、地下のマグマだまりでは、マグマが大量に発泡していてすでに固まり始めていたこと、 それが火山ガスが押し出される勢いで地下の岩盤のすき間を上昇してきたことを示しています。詳しくは「タファイト」で。
 この火砕岩脈が現在の地表でどこに出ているかを調べてみると、まっすぐつながるのではなく、次第にカーブしていき、 環状になっていることがわかりました。環状の割れ目は、地下からマグマが上昇してくるときにそれを取り巻くようにできます。 実にその大きさは東西15km南北20kmにもなっています。
 環状の火砕岩脈の中心は大台ヶ原山で、さらに大台ヶ原山を中心とするコールドロンを作る断層とほぼ平行に岩脈が入っています。 コールドロンと何か関係があるのでしょうか。
 火砕岩脈が入る前にすでに環状の割れ目ができていました。それはマグマが上昇してできたマグマだまりを取り囲むようにできます。 従ってこのマグマだまりは直径が10kmを超え、一般的なものの数倍もあるような巨大なものであったことが推定できます。 100kmに近い長さの割れ目にマグマ物質を供給していることもこれを裏付けています。おそらく、 このマグマだまりの上半部は泡で満たされていたのでしょう。それが一気に放出されることで空っぽになります。噴火が終わると、 巨大な空洞ができ、冷却とともにその上部が陥没します。地表では円形の陥没地形であるカルデラができます。マグマだまりの上部にある地層は、 陥没を示す構造を持つようになります。これがコールドロンです。
 火砕岩脈のできた時代を測定してみると今から1500万年前を示しました。さらに、 火砕岩脈を作るタファイトの中にある黒い岩片を調べてみると、この中からもジュラ紀の放散虫が見つかりました。

先頭 散歩道の四方山話(目次) 道標(top)



6.室生火山の姿

 以上の3つ研究は「カルデラ」をキーワードにすると一つにつながることに気がつきます。室生火山岩の特徴から、 室生火山はカルデラを作るような超巨大噴火をしていたこと、大台・大峰地域にはカルデラの地下にできるような地質構造があること、 その地質構造に沿ってカルデラが形成されるような超巨大噴火があったことです。時代や岩石の特徴も非常によく似ています。
 これらのことを総合的に考えてみると、次のようなことがわかります。今から約1500万年前、大台・ 大峰地域にカルデラを形成する様な巨大噴火を起こした火山があり、その噴火によって発生した火砕流(軽石流) は室生付近で厚さ500mもの堆積物を残し、さらに北は奈良市までに達していました。その後の紀伊半島の隆起と浸食によって、 火山の跡は削られほんのわずかだけが残され、火山の様子はわからなくなってしまいました。
 室生火山の様子について他の地質的証拠も合わせて詳しく見ていくことにします。一連の様子は図のようになります。 番号は右図の番号に合わせています。

室生火山の形成
(1)今から約1500万年前、紀伊半島は、四万十層群(白色の部分)の上に秩父帯(緑色)が乗る2層構造になっていました。 (室生付近の構造も同じように書いていますが、実際には違う構造を持っています) ここに、 地下深くからマグマ(紫色)が上昇し地殻が持ち上げられ環状の割れ目ができます。

(2)大台・大峰山地を取り囲む地域が陥没し、この地域に円形の大きな窪地(カルデラ)が作られます。 この陥没の前に噴火があったかどうかは不明です。

室生火山の形成


(3)陥没した地域の内側の大台地域を中心とする、半径約10kmの環状の割れ目ができ、そこから噴火が始まりました。大規模な噴火は、 少なくとも2回あり、1回目は火山ガスの放出を主とし岩片を大量に放出する噴火、2回目は大量の軽石を放出する噴火でした。

室生火山の形成


(4)2回目に噴出した火砕流(軽石流)は近畿地方中南部を覆い尽くし、大台大峰地域を中心に、厚い火砕流堆積物(赤色)がたまりました。 地表は火山灰で平らになり、白い砂漠のような風景となっていたでしょう。

室生火山の形成

(5)噴火の直後、環状の噴火口のすぐ内側に沿うような環状の割れ目ができ、その内側の地盤が、コルクの栓を押し込むような形で陥没し、 地表にはカルデラが作られました。


(6)その後この地域は隆起を続け、現在では、室生・曽爾地域をのぞいて火砕流堆積物は、 浸食されてなくなりました。また、カルデラ本体も浸食され、その地下構造であるコールドロンと環状の火砕岩脈だけが残されました。

 この時の火山の噴火は、ふつう私たちが知っている火山の噴火とはだいぶ様相が違います。噴火口ができ、 その周辺に火山噴出物がたまった火山ができていたとは考えられません。このような噴火を中心噴火といいますが、 中心噴火につながるマグマの上昇経路(火道)が見あたらないからです。おそらく直径数十kmの範囲がゆっくりと盛り上がり、 地表には同心円状の割れ目ができます。初めのうちは蒸気とか温泉を吹き出していたのですが、 ある日突然隆起地域を取り囲む環状の地域から大量の軽石と火山ガスが放出されました。噴煙の高さは20kmを超えていたと思われます。 そこから、大量の軽石を含む火山灰と熱い空気が混ざったものがそのまま落ちてきて、その勢いで周辺に広がっていきました。 この噴火が終わった後、大台地域を中心とした大きなカルデラができていて、周辺地域には火砕流台地が形成されました。 噴火後の地形は、現在の姶良火山跡(鹿児島県)ににていたでしょう。姶良カルデラ周辺では火砕流台地(シラス台地) が広がりその中心部が円形に陥没し大きな窪地(カルデラ)ができています。海が入り込み錦江湾北部を作っています。また、 姶良カルデラの南縁には桜島火山があります。このようにカルデラ外輪山上に火山ができていたかどうかは不明です。 一般的な火山を作ったマグマの通り道であった火道の跡が見つかっていないことから、火山ができなかった可能性が大きいと考えられます。 海が入っていたかどうかについてや、その後の噴火のようすについては証拠が残っていません。
 カルデラ陥没は解説のように2回ありました。1回目は大峰山・大台ヶ原山の両方を囲む広い地域が陥没します。続いて、 大台ヶ原山を中心とする地域が陥没しました。2回目の陥没の直前に巨大な火砕流を放出する2回目の噴火がありました。 1回目の岩片を大量に放出した火山ガス放出を主体とした噴火と1回目の陥没との関係はよくわかっていません。
 噴火前には、ふつうの山の高まりでちょっと温泉が多いかなという地形で、それほど目立った火山はなかったと考えられます。 それが、いきなり噴火が始まり、終わったらカルデラができていた、といったふつうにみかける火山としては考えられないような火山だったようです。 また、その噴火にしても、 人工衛星からでないと全容をつかめないような巨大なものだったようです。

先頭 散歩道の四方山話(目次) 道標(top)



7.室生火山その後

 室生火山本体はその後の激しい隆起と、それに伴う浸食によってなくなってしまいました。ところで、火山を作ったマグマはどうなったのでしょうか。 そのヒントは、紀伊半島中部の岩脈を調る事によって得られました。紀伊半島には、流紋岩や石英斑岩といった酸性火成岩の岩脈が無数にあり、 その内のいくつかは火砕岩脈を横切っています。これは、室生火山噴火後にまだマグマの源が地下深くに残されていて、 それが何回か上昇してきた事を示しています。次のようになっていたのでしょう。
 室生火山の大規模な噴火が起こりました。そのとき、地下にあったマグマの大部分は火山ガスとともに放出されました。それでも、 元あったマグマの何%かは地下に残されたようです。このマグマからは、大規模な噴火によって火山ガスが抜けきってしまい、 再び噴火を起こすような力は残っていません。残されたマグマは、周囲の岩石より密度が小さいため徐々に上昇してきたでしょう。 ある時、地下の割れ目に急激に入り込んできて、流紋岩や石英斑岩の岩脈を作りました。
 紀伊半島には中新世の酸性火成岩が至る所に見られます。これらの岩石はまとめて熊野酸性岩類と呼ばれています。 紀伊半島南部では流紋岩が岩脈や溶岩流状に見られるのですが、中部では一部に花こう岩様の岩石になっているものも見られます。 この花こう岩の中には、室生火山のマグマと関係があるものがあるかもわかりません。
 花こう岩マグマの上昇に伴って、周囲の岩石が接触変成作用を受けます。秩父帯の岩石には石灰岩が混じっています。 そのようなところでは、石灰岩中の元素の一部が他の元素と置き換わる事があります。この現象を接触交代作用といい、 この作用によってスカルンが形成されます。大峰山系には小規模ですが、 五代松鉱山に代表されるスカルン鉱床が何カ所かにできています。
 さらに、室生火山を作ったマグマの熱は完全に冷え切ってしまったのでしょうか。紀伊半島には、龍神温泉、川湯温泉を始め、 数多くの温泉があります。一般に温泉ができるのは、近くに火山があり、その熱で地下水が温められるからです。ところが、 紀伊半島(近畿地方でさえ)にはそのような火山がありません。そこでこれらの温泉の熱源として考えられているのが、 熊野酸性岩類を作ったマグマの熱です。室生火山を作ったマグマはは代表的なものです。だとすると、 室生火山を作ったマグマは1500万年もの間熱を保って、現在も温泉を提供していることになります。これはすごいことです。
先頭 散歩道の四方山話(目次) 道標(top)



  終わりに
 室生火山岩については室生団体研究グループ、大台大峰地域の地質は大和大峰研究グループ、 火砕岩脈については奈良教育大学和田先生の研究成果から引用しています。これらの成果をまとめたのは主に佐藤さん(三国ヶ丘高校退職) の研究によります。巨大カルデラ火山の研究については「超火山[槍・穂高]」(原山智+山本明著山と渓谷社2003年発行1575円) が参考になります。
 背景画は、熊野酸性岩類の中で花こう岩質な岩石を接写したものです。




ヨッシンと地学の散歩 <[道標(top)]に戻る>   <[散歩道の四方山話 目次]に戻る>