2014/11/25-26 別子銅山・来島海峡
新型コロナ感染症の拡大で、外出自粛が続いています。2019年11月末に東海地方に紅葉を見に行ってから、1年以上も旅行に行けていません。ブログには旅行記を載せ続けていましたが、コロナ前の一番最後に行った旅行の記録も書き終わってしまいました。旅行記は2015年のものから書き始めています。それ以前にもいろいろなところに行っています。新しい旅行ができその記録がかけるまではその記録を逆順で書いていくことで記事をつないぐことにしました。
かなり古い旅行になりますから、記録に残っていないこともありますし、記憶も定かではありません。思い出せる限りで書いていきます。どちらかというと写真の掲載中心になりそうです。少なくともどこで何を写した写真なのかという記録はつくっています。これはだいぶ参考になりそうです。
旅行会社のパッケージツアーを見ていると、別子銅山と来島城を回るというものがありました。別子銅山は見学できる場所としては、東平(とうなる)と端出場(はでば)が代表的です。鉱山としての記録なら記念館が、東平から山を越えたところにも古い鉱道の跡が残されています。ここまでいくのは1日はかかるでしょう。
東平は、最近東洋のマチュピチュとして有名になっています。端出場はいったことがあります。これについては機会があれば報告したいと思います。東平の方にいろいろな施設が残っているようです。いくだけの価値がありそうです。もう一つの見どころは、来島海軍の本拠のあった来島城を案内してもらえるという子です。これもおもしろそうです。
行程は梅田からバスで移動し別子銅山を見た後、松山市内の全日空ホテルに一泊します。2日目お最初は、大島に移動して亀老山から来島海峡を遠望します。次に船に乗り来島に渡り来島城を案内してもらいます。その後はひたすら大阪に向けて帰ってくることになります。
ツアーの行程以外に何が見られるかを考えてみます。四国の西海岸では、だるま太陽というものが見られることがあります。沈む太陽がだるまのような形になる現象です。一度見たいとは思っています。できるための条件がありますが、それは運次第でしょう。少なくとも海に沈む夕陽が見えるということは最低条件です。松山市の海岸沿いでも何カ所か夕陽の見られるところがあるようです。一応場所の候補は調べておきます。
もう一つ条件があります。その時間帯に夕陽の見られる場所に到着できるかどうかです。日の沈む時刻と、そこに移動するための交通機関の最終時刻も調べておきました。
夜は松山市街地の真ん中にいますから、星は期待できないでしょう。星見はなしにします。その分日程選びには余裕ができます。
宿は、松山城のすぐ近くです。朝の散歩には行けるでしょう。早く起きていくことにします。ロープウェイであがっていくのが通常のコースです。朝の早い時間帯は動いていないようです。松山城くらいだと歩いて登っても大丈夫でしょう。
出発日は11月25日出発と決まりました。
25日出発までの記録や記憶はありません。梅田集合といっても中津との真ん中にあたり梅田芸術劇場前です。そこから駐車場まで歩いて行ったのか、ホテル前までバスがきたのか覚えていません。とにかくバスに乗って出発です。
その後のコースもはっきりしていません。覚えているのは明石海峡大橋から鳴門海峡大橋を渡ったことくらいです。鳴門海峡を越えたときに添乗員さんが四国に入りましたといっていました。この時点ではまだ四国には入っていません。大毛島に着いたところで、四国はまだ次の橋を渡ってからになります。訂正をいれようか迷いましたが、しませんでした。
鳴門に入ってから先もどこを通ったのか。当時は高松自動車道と徳島自動車道はつながっていませんでした。板野ICから藍住ICまで地道を乗り継ぐのが普通でした。鳴門から徳島まで国道を走っていたような気がします。
吉野川SAで休憩が入りました。距離的に見て淡路SAあたりで休憩が入りそうですが記録はありません。写真の記録はここから始まっています。ハイウェイオアシスに農産物直売所があります。まだ買うのは早いということで見るだけにしています。ここでは吉野川が見えるので、見にいっています。
展望所からの吉野川です。ガスがかかって遠くはぼやけて見えいます。
川原にいたカモです。SAとハイウェイオアシスとの間の遊歩道を歩いています。
このあたりの岩石は結晶片岩が主体です。薄く剥がれるように割れます。ここのものは緑がかったものが多いようです。
吉野川SAからは別子銅山に向かいます。まずはマイントピア別子につきます。ここからは道が狭くなるので、マイクロバス2台に乗換です。ガイドさん付です。マイクロバスは途中ですれ違いができませんから、時間を調整しての出発になります。乗用車でも行けますが、狭いところを通るので、運転に自信のない方はお控えくださいと書かれています。
南側の山地の向こう側にある銅山川にぬける道から脇道に入り、くねくねと曲がりながら進んで行きます。東平に近づいてくると、活気があった頃の建物が、ところどころで見えてきます。一瞬なので写真には収めることができません。
すぐに東平に到着します。このあたりは、鉱山鉄道の駅があったところになります。これを書いていて思いだしたことがあります。平らな場所は「なる」とよぶ地域があります。たとえば大山の「鏡ヶ成」や「一向平(いっこうがなる)」、岡山県西粟倉村の「ダルガ峰(なる)」がそうです。これと同じ読み方なのでしょう。
バスを降りてからは建物の中に入ったりしたようですが、どう回ったのかよく覚えていません。資料館だったのかな。小さなトンネルがありました。小マンプといいます。
小マンプのなかに運搬機が展示されています。
いろいろな施設のあったところを順番に巡っていきます。これは貯鉱庫を上から見ています。すきまから向こう側が見えていますが、当時は壁になっていて、そのすきまに鉱石がためられていました。
インクラインといます。京都蹴上の琵琶湖疎水にも同じ名前のものがあります。階段になっていますが、当時はレールが引かれていました。荷物を車輪のついた台に乗せ、ロープで引っ張り上げていました。
下の貯鉱庫を横から見ています。此の上の平らな所で鉱石を選別していました。ガスがかかっていてぼんやりとしています。
索道停車場跡から下の貯鉱庫を見たものです。このあたりが東洋のマチュピチュぽいところになります。はっきり見えないので雰囲気はわかりません。天気がよければ上の貯鉱庫も見えていたはずです。
東平で40枚ほどの写真を写しています。見直していてその位置関係がよくわかりませんでした。調べ直している内にわかったのは、バスが着いたところは鉱道の出口で、坑内に入る鉄道の駅舎がありました。小マンプはそこから鉱道入口までの間にあるトンネルです。ここを通って運ばれてきた鉱石は1つ目(上)の貯鉱庫に上から投げ込まれるようにしてためられます。貯鉱庫の下ではたまった鉱石を下から掘り出して、選別する場所(選鉱所)でより分けていました。選別された鉱石は、そのまま下の貯鉱庫に放り込まれためられます。
選別された鉱石の貯鉱庫の下には、篭のぶら下がったロープウェイ(索道)の駅があり、たまった鉱石を下から崩して篭に乗せていきます。索道は麓につながっていて鉱石を運び出していました。
篭に鉱石を乗せていた場所です。索道停車場とよばれています。
索道停車場です。右側が貯鉱庫になります。花こう岩でできた石垣だそうです。壁に穴が開いています。草が顔を出しています。ここから貯鉱庫にたまった鉱石を索道の篭に落として積み込んだようです。
バスを降りてからここまでは下ってきたことになります。さらに下には、住宅地の跡なども見えています。上から見るだけの様です。ここからは引き返すようで、再びバスの止まっているところに向かってあがっていきます。
下貯鉱庫の上にある選鉱所にでました。レンガ造りの柱のようなものがあります。
選鉱所から下側です。上の貯鉱庫と同じように壁との間にすきまがあって鉱石を落とし込めるようになっています。
選鉱所から上の貯鉱庫を見上げたところです。
バスの駐車しているところまで戻ってきました。駅跡から上に行く階段があって、その上に建物があります。保安本部として使われていました。現在はマイン工房として使っています。階段は当時も使われていたそうです。
マイン工房前のモミジです。きれいに紅葉しています。
東平の見学は以上で終わりです。バスに乗って端出場に戻ります。
別子銅山端出場は、2回目なのであまり写真を写していません。1回目の見学時の記録は、機会があればということで、今回記録した分だけをお伝えします。
端出場には、マイントピア別子という建物があります。どちらかというとお土産物屋さんかな。これ以外の見学場所としては通洞を利用した鉱山探検があります。これはツアーで組み込まれていました。ツアーではルートに従って進んで行きます。マイントピア別子の横から、昔の鉱山鉄道の線路を利用したトロッコ列車にのって通洞の入口までいきます。前回は乗るほどのこともないので歩いて行きました。
出発を待っている間に山の斜面側を見ると桜が咲いているのが見えました。冬桜と説明が書かれています(解説があったのかな)。
さくらの拡大です。ちょっと雨にぬれています。
密集して咲いているところです。
出発してからみえた少し大きな木です。
鉱山体験の記録は残っていません。戻ってきて、駐車場付近をぶらぶらしている間に写した発電所の跡です。
下を流れる川も写していました。別子川です。
この後はバスに乗って宿泊する松山市に向かいます。
別子銅山をでたのがだいぶ遅くなっています。だるま太陽が気になりますが、天気ももう一つの上に到着したのは日没になっている時間でした。今回はだるま太陽はダメだったようです。
宿泊場所になるホテルに到着です。夕食は各自好きな場所でということで付近の案内図を渡されました。載っているのは飲み屋さんばかり、お酒は飲めませんからパスです。食べ物屋さんがないか付近を歩いて探したのですが見つけられません。結局伊予鉄の松山駅まで行ったような気がします。
食事から戻ってからは、道後温泉にいきました。たぶん歩きです。いきは松山駅前からなので距離が長く路面電車を使ったかも。
道後温泉の本館の入口です。人のいるところで入場券を買って入ります。軽くくつろぐコースを選んだような。入口は広いところではなく灯籠の向こう側です。
でてきてからは、建物を一周することにしました。右側に回ったところです。
玉の石というものがありました。何なのかは不明のままでした。
広い道路にでて右側を見ると高台の上に不思議な建物があります。地図では城跡があったような。ちょっと離れています。調べ直してみると湯神社と書かれています。よく見ると鳥居もあります。
道後温泉の裏側です。
道後温泉駅前の広場です。からくり時計なるものが置かれていました。何が起こるのだろう。20分以上待たないといけないということでそのまま帰ったような気がします。
大きな灯籠もあります。
朝目が覚めてから松山城に行きました。この文をまとめようとした時に、朝ご飯をどうしたのかが気になってきました。最初の写真記録が7時20分です。回り道をして行っていますから、7時を回ったくらいから歩き始めたということになります。ビジネスホテル風の宿なので、朝食はついていたでしょう。だいたい食事開始は7時からのところが多いようです。それからすると朝を食べずにでたことになります。
ぐるっと回って最後の写真撮影が9時半です。そこから宿に戻るまでの時間を考えると、10時のチェックアウト直前の時間になります。戻ってからも食べている時間はないでしょう。となると朝食はどうしたかわからなくなってきます。松山城に出かける前に食べる事ができたのかそれとも朝抜きだったのか。
松山城は黒門口登城道を登って、東雲口登城道を降りてくることにします。その後は南側にある建物を回って宿に戻ります。
黒門口に行く途中で愛媛県庁の前を通りました。県庁です。まだ開いていません。
二の丸庭園が見えてきました。
ぐるっと回って行くと二の丸庭園の横にでました。庭園の塀と走長屋です。
登っていく途中の木の上にいたシジュウカラです。
登っていって見えた櫓です。太鼓門続き櫓かな。位置関係がはっきりしません。
松山城の石垣の解説板があったところの石垣です。
門の跡があります。大手門かな。
ここから北側に天守が見えています。手前の櫓は太鼓櫓です。
木の幹に鳥が止まっています。盛んに何かを食べているようです。
地面にいた鳥です。ヤマガラです。
木の幹にいたのは、コゲラです。
Uターンするように進んでいった先に見えてきたのが戸無門です。
戸無門をくぐって進んで行くとすぐに道は回れ左をして、筒井門が見えてきます。櫓門になっています。壁板の上に鳥が止まってさえずっています。シジュウカラです。
別のところにはスズメもいました。今日は鳥をたくさん見ます。
門の前の広場からは南側に連なる山々が見えます。石鎚山がどれか気になります。
どうもこの林の向こうにあるのが石鎚山のようです。
振り返って見た戸無門です。形式は高麗門になります。城郭の枡形の外側にある門はこの形式のものが多いそうです。
筒井門です。櫓門とその向こうに続櫓が見えています。
筒井門を正面から見たところです。
筒井門の横に小さな門があります。隠門とよばれていますが、役割が何か理解できていません。
筒井門を入って、内側から見たところです。右側にも続櫓があります。この下に戸無門があります。
筒井門を抜けると続けて太鼓門があります。この間も枡形になっていて攻め込んだ敵はまっすぐには進まず勢いをそがれます。もうそろそろ本丸に入ってもよさそうですが、ここにきてなかなか本丸への防御は固いようです。石垣を登ろうとしても上の櫓には石落としがしっかり作られています。
太鼓門です。ここでもしっかりと上からの攻撃に遭いそうです。
太鼓門をくぐり抜けて内側から見たところです。敵が入ってきても、まだ上からねらわれそうです。ここからが本丸になります。
本丸に入ったものの天守はまだまだ遠くに見えています。左側の建物は北西(搦め手)側の入口にある乾櫓野原櫓になります。
近くから見た天守です。天守台をかこむように天守、小天守、櫓などが配置され渡り櫓でつながっています。
早朝なので天守は開館していませんから中を見ることはできません。天守台を時計回りに回っていくことにしました。
天守の下にあった紫竹門です。高麗門です。搦め手から攻めてきた敵は、ここを打ち破って本丸に入ってくることになります。
紫竹門から乾門方向の外側の石垣を見たところです。
松山城天守台の周りを反時計回りの方向に回っています。紫竹門を抜けて最初に見えてきた建物が、乾門とその上の乾櫓です。古町登城道からあがってきたときの搦め手門になります。
横にあるのが野原櫓です。城内最古の建造物と考えれているみたいです。
このあたりにもたくさんの鳥がいます。これはヤマガラです。
次に見えてきたのが艮(うしとら)門続櫓です。下に艮門があります。
天守台の一周はほぼ終わりました。本丸広場東側の下に続く石垣が見えています。
二の丸広場休憩所兼売店の前にあった井戸です。
目の前は太鼓門です。本丸を後にして東雲登城道から麓に下りて行くことにします。
ロープウェイの乗り場がありますがまだ動いていません。そのまま、道を下っていきます。
東雲神社を通りぬけて神社に登る石段を降りていきます。途中にあったもみじです。
駐車場にでた後、右側の階段を降りていくと、ロープウェイの発着場の建物がありました。トイレも行きたくなっていたので通りぬけることにしました。その中では松山城のしゃちほこが展示されていました。交換で取り外されたものと書いてあったような..。
松山城から麓まで降りてきたのですが、まだ出発までは時間があります。城山の南側にいくつか施設がありますから、見ていくことにします。といってもミュージアムのように開いていない施設がほとんどです。ドラマ関係の展示場も興味がありません。
萬翠荘というのがあります。大正時代に作られたフランス風の建物です。展示施設のような使い方をしているようですが、外観は見ることができそうです。まずはここから見に行くことにしました。
萬翠荘に続く道をあがっていくと、庭園風の場所にでました。小さな池もあります。ここのモミジはきれいでした。
さらにあがっていって、見えてきた萬翠荘本館です。
ま近からみた建物です。東側から見ています。
表通りまで戻って、三の丸の方に行ってみます。三の丸入口東御門櫓台付近から見た堀です。
ここからは二の丸とその上に天守が見えます。
松山城にあがるときは、二の丸への近道をしていました。まだ時間がありますから、正規の黒門口登城道に行ってみることにしました。ここが、三の丸から二の丸への入口になります。これが黒門跡のようです。
ここを入ってからも石垣に挟まれて道が曲がりくねって続いています。
いったん二の丸の見えるところにでました。ここのカエデは色づき始めたところです。
槻門(けやきもん)跡を通過しました。これで二の丸に入ったようです。
石垣にいた鳥です。ジョウビタキでしょう。
二の丸の建物の入口です。二の丸四足門と書かれていました。
二の丸奧門と登城道の脇にあるモミジです。
ここを少し登ったところから、二の丸庭園の中が見えていました。
二の丸庭園の入口を入って入口を見たところで。多門櫓が続きその下に門があります。埋み門という形式になります。
そろそろ宿に戻らないといけない時間になっています。中はパスして宿に戻ります。
写真の撮影時間の記録を見ると、松山出発はかなりゆっくりめだったようです。この日の予定は来島海峡近辺を巡ることになっています。バスは高速道路で松山から伊予小松IC経由で今治湯ノ浦ICまでいき、地道をしばらく走った後、今治ICからしまなみ海道大島南ICに抜けます。ここから山道を進んで行くと亀老山展望台に到着です。
亀老山展望台からは来島海峡を望むことができます。
来島海峡の潮の流れです。海面に筋がいっぱいできていることから、かなり速い流れができていることがわかります。
亀老山のモニュメントです。黄金色の観音像を背負った大亀がいたとか..。
北側の景色です。大島の北半分とその向こうに大三島が見えています。
次の予定地は来島です。船で渡ります。船に乗るまでの間に昼食タイムもあったようです。それからすると、記録がはっきりしないのですが、吉海の道の駅から船に乗ったようです。
船で、来島に渡るには来島海峡を横断しないといけません。いったん来島海洋第一大橋に近づいたようです。下から見上げています。
記録には毛無島とアンカレイジと書かれています。写っているのは橋脚の土台です。島は武志島と横の小島になります。アンカレイジの説明があったようですが、それはこの後ろ側だったようです。
海峡大橋の大島側です。水色の屋根のある建物のある所が道の駅になります。
いろいろな説明がありました。船頭さんからだったのだと思います。詳しいことはよく覚えていません。来島海峡は流れが速いうえにたくさんの船が通過するので、横断するのにルールがあるようなことをいっていたような気がします。どんなルールだったのかな..。ルールに従って来島海峡を横断したようです。
正面に見えてきたのは小島です。日露戦争の時に芸予要塞が作られたところです。今の施設の跡がたくさん残されています。港には大砲のレプリカが置かれています。テレビドラマに使われたものだそうです。
ここから来島に直接向かわずに、いったん四国側にある大きな湾に入ります。波止浜という場所で、ここにはたくさんの造船所が並んでいます。この船は進水したばかりだそうです。船の前方水面下に入るところに丸い膨らみがあります。バウバスバウといって、これがあると航行時に水の抵抗が小さくなるそうです。水面下に沈んで見えませんから、存在を示すために、船首海面上に「と」の字ような記号が書かれています(見えているのは逆向きです)。もう一つのマークは横方向に動くようにスクリューがつけられているというものだそうです。
船を組み立てているようすです。取り付けたいところの形に合わせて作った鋼板を、その位置にセットし溶接していくのだそうです。
ものを運んだりするのに使われる台船です。タグボートに引かれて移動しています。
造船所の見学が終わったらいよいよ来島に上陸です。上陸後最初に八千矛神社に行きました。
裏手にある神殿です。
神社横の海岸近くから波止浜の造船所群が見えます。
八千矛神社にはかなり長い時間いました。ガイドさんがやってくるを待っていたような気がします。トイレ休憩も兼ねていたのかな。
ガイドさんが到着したところで自己紹介や簡単な説明があり、その後連れられて来島城跡に向かいます。民家の前を通って、山道に入っていきます。民家の前にピンク色の大きな花が咲いていました。花に詳しい参加者によると。皇帝ダリアというのだそうです。
お堂のようなところの前を通過します。心月庵といいます。
その横に石仏さんが奈欄置かれたところがあります。
本格的な山道になるところに石垣が見えました。来島城の石垣だそうです。野面積みです。
だいぶ登ったところに村上神社があります。建物の前は狭い上に人が多くて写せていません。中に歴代城主の額がかけられています(といっていたような)。
さらに登っていきます。海が見えてきました。来島海峡です。潮流のようすがわかります。
すぐ上は頂上でした。ここが来島城の本丸のあったところだそうです。どちらかというと林の中の少し開けた場所にみえます。
景色のよさそうなところから見えた来島海峡大橋です。向こうは大島側になります。
港まで戻ってきました。再び八千矛神社の見学です。詳しい説明があったようですが、何だったのか..。来島城と関係していたような。
建物の細部を見て回ります。まず、屋根です。たくさんのしゃちほこが乗っています。八千矛だからかな。鬼瓦のある所にもいます。丸瓦にある丸に三のマークはネットで調べると折敷に揺れ三文字というものに似ています。大三島にある大山祇神社の紋からの派生だそうです。村上水軍のものと思っていました。
狛犬です。花崗岩製で何となく古そうです。ガイドさんも古いといっていたような..。
前の港から見える来島城の方向です。高圧線鉄塔の下に本丸がありました。
説明の間は船待ちもしていたようです。ちょっと時間が空いてからの出発になります。
来島海峡の方に向かいます。四国側の高台の上に塔があり、電光掲示で「N」の字がでています。潮流が北向きということを示しています。「↑」「↓」の記号もでます。流れが速くなっているか遅くなっているかのサインです。どちらだったかな。昼は↓でした。
来島海峡は、船舶航行で唯一の例外あるところだそうです。基本的には船は右側通行になります。ところで、来島海峡は真ん中の馬島を境にして中水道と西水道に分かれています。中水道は狭いけれどもまっすぐなのに対して、西水道は広いけれども大きく曲がっています。船は潮の流れに乗って進むと勢いがついて曲がりにくくなります。
そのため、流れに乗る方向に進む(順潮)ときはまっすぐな中水道を、逆らって進むときは西水道を通るという決まりになっています。これを略して「順中逆西」とよんでいます。南向きに潮流があるときは、北に向かう船は西水道を通ることになります。この時だけ左側通行になっています。
北流ですからルールに従って右側通行になります。馬島を左回りに回っていくことになります。
来島海峡大橋を越えたあたりでは、うずしおができていました。
渦ができていてもすぐどこかに行ってしまうので写真にはなかなか写すことができません。これが比較的きれいにできていたものです。
渦も長続きしないようです。
海面がべたっとしているところは、下から上に海水があがってきているところだそうです。湧き潮といいます。
中水道・東水道を横断して。大三島に戻りました。ここからはバスで大阪まで戻ります。どの経路で帰るか気になりましたが、よく考えてみると一つしかありませんでした。このまましまなみ海道を尾道に渡ってしまった方が距離は短くなります。今治側に戻れば、高速道路はつながっていません。帰り道はこのとおりとなりました。姫路を越えてからはどう通ったのか..。暗くてわかりません。気がついたら大阪でした。バスは大阪駅ガード下まで送ってくれます。そこから迷わず帰れたのだろうか..。