火の山ぐるっと 2017/04/23-29
望遠鏡を車に積んでどこかに出かけたくなっています。冬の間は寒さに負けて出損ねています。3月に行こうと計画を立て初めました。日程は月明かりのない3月末。28日が新月です。土曜日の宿は取りにくいので、この日発の夜行フェリーで帰ってくることにします。となるとこのフェリーに乗るのは、3月25日か4月1日になります。1日の夕方にアルデバラン食があります。フェリーの中で見るのは今ひとつなので、25日のフェリーで帰ってくる方がいいようです。となると帰りのフェリーの乗船日は25日になります。逆算して出発日は、19日の日曜日か、20日の春分の日かになります。21日が下弦なので、あまり早い日に出ても月明かりがあります。20日出発とします。
行き先は南の方、となると九州方面です。見てみたいところとしては、吉野ヶ里遺跡があります。九州までのフェリーは、門司・別府・宮崎とあります。別府か門司が便利そうです。宮崎との間がぬけることになりますから、宮崎まで行って門司か別府から帰ってくることにします。
泊まる宿を探します。基本、公営の宿を探しています。宮崎から高千穂は距離的にはいいのですが、宿は高めです。阿蘇で一泊することにします。八女市星野村で天体観測とセットになった宿泊プランのある宿があります。ここも決定です。唐津市に夕日がきれいという宿もありました。春先は黄道光が見やすい時期です。ここも候補です。宗像市にも夕日がきれいなところがあります。宗像も内容はよくわかっていないけれども、世界遺産を目指しています。ここもいいでしょう。後は、門司から帰ってくることになります。
大まかなコースが決定したところで、宿に予約の電話を入れることにします。この中で、空き室状況がわからないのは、唐津の宿です。まずここから予約を入れようとしました。ところがいきなり空いていないとのことです。ここに泊まれなかったら、吉野ヶ里へ便利なところはなくなってしまいます。別の機会といっても、それなりにコースを考えるのも、新たに何を見るのかを考えるのも面倒です。出鼻をくじかれ、計画を立て直す気力がなくなってしまいました。これで、3月の旅行はなしとなりました。
一月ほどして、再び計画の立て直しにかかります。1から考え直すのは大変なので、前回の計画をベースにすることにします。4月は26日が新月です。23日日曜日出発、29日昭和の日帰宅が基本的な日程となります。問題は、23日に自治会の総会が入りそうです。毎年午前中には終わっているので、夕方のフェリーにはじゅうぶん間に合います。午後開会となると途中でぬけないといけません。
まずは、計画が頓挫した元となった宿からあたってみることにします。ネットなどで情報を整理した所、市の業務委託契約の期限が切れ、この4月から委託する業者を落札で決めたようです。まだ受け入れ準備も整っていないようなので、今回も保留することにします。夕日のきれいなところというのは相変わらず魅力となっています。
九州で西海岸にあるところを、ずっと見ていると、天草下島にサンセットロードというのがあって夕日のきれいなところが何カ所かあるようです。ここで、公営の宿を探したのですが、ないようです。白浜温泉はその中でも夕日のきれいなところのようです。旅館などから調べて、安くて空いているところがありました。ここを候補に入れます。となると、吉野ヶ里は今回は完全にパスとなります。
天草まで行くとして、宮崎からまっすぐでは無理でしょう。だいたい寄り道しながらいく事になりますから、途中で1泊は必要です。真ん中くらいの場所でないか探していたら、人吉の近くの相良村のやっている温泉に宿泊設備があるのを見つけました。ここも空いていて泊まれそうです。
3月の旅行用に見つけていた星野村の宿も空いています。久住高原に公営の宿があります。別府から帰ってくるのにちょうどいい場所になります。山麓の開けたところにあります。星を見るのにはうってつけです。ここを4泊目の宿とします。宿が確定したので、往復のフェリーも確定です。予約を入れ、代金を振り込みます。
次は、途中の見所を調べることにします。宮崎から、人吉までです。宮崎神宮は有名な場所のようです。その近くに生目古墳群というのがあります。ここも見ていくことにします。宮崎から人吉に向かってすぐの所に西都原古墳群というのもあります。ここも立ち寄りどころです。宿に着くまで時間によっては、椎葉村を経由したり、人吉市街をまわってみるのもいいようです。城跡や青井阿蘇神社の山門も見所のようです。途中、錦町にある釜の奥戸と書かれている場所も気になります。
相良村から天草下島です。コースとしては、球磨川を下っていき球磨村から芦北町にぬける道に入ります。そこから海岸沿いに南下し、阿久根市から長島にわたります。長島の蔵之元からはフェリーで天草下島に渡ることができます。後は西海岸を走っていけば白浜温泉に到着です。
見所です。球磨川に沿っては球泉洞や神瀬の石灰洞があります。芦北にぬけてからは阿久根市までまっすぐです。出水市のつるの飛来地は前回来ていますし、季節ではないのでパスします。となると、芦北から長島にわたるまでの間はこれといってみるものはないでしょう。長島・天草下島は現地でパンフを入手することにします。
天草下島から星野村です。天草下島の富岡半島に何かありそうです。本渡から天草上島に渡り、島は北側の方が見所がありそうです。宇土半島に渡ってからは不知火海沿いにいくことにします。ここから、熊本市街をどうするかが問題となります。熊本城の被害状況は見ることができないでしょう。なら、益城町付近の断層ということもあります。どこでずれたかという報告書をネット上で見つけました。印刷して持っていくことにします。
星野村から、久住高原です。耶馬溪は、青の洞門付近はいっているのですが、何とか耶馬溪といって見所は他にもいっぱいあるようです。ここに寄ってから久住高原に行くことにします。
久住高原から別府です。九州の東海岸に、佐伯とか臼杵といった見所はいっぱいあるようです。このあたりによりながら別府にぬけることにします。
他に調べておくことは、日の出日の入りの時刻と、北天に彗星が見えるかも知れないので、その位置の確認です。持ち物は、いつも通りに望遠鏡関係が加わります。
今回は、阿蘇山を反時計回りにおおきくまわって帰ってくるコースになります。なので旅行記のタイトルは、「火の山ぐるっと大回り」になります。阿蘇山はどの程度絡んでくるのでしょうか。こうご期待。
出発当日です。自治会の総会は、思っていた通りに午前中で終了しました。終了後、弁当とか予備のパンとかを買いに行きます。弁当は夕食、パンは昼食にあぶれたときのためです。おやつ代わりにもなります。いつも通り、眠気覚ましのするめも買っておきます。
植物の水やりもたっぷりとしておきます。自動給水器も水揚げが大きい鉢にセットします。戸締まりも入念にしていたりとかする内に、出発時刻になりました。
出発することにします。フェリーは三宮港からなので、名神高速道路と阪神高速道路を乗り継いでいくことになります。名神高速道路には、先のインターからと戻ったインターから入れます。先のインターからはいることにします。ここまでの経路は2通りあります。いつも使う道は、入り口前200mの間で3車線を横切るということをしないといけません。別のルートをとることにします。こちらは駅前の渋滞路をぬけないといけないのが難点です。2kmくらいの距離ですが、ここだけで30分以上かかってしまいました。後は、スムーズにいけたので、少しだけ余裕のある時間に三宮港に到着しました。
前回、ここから乗った時は切符売り場から遠く離れた乗船待機所まで誘導されました。今回はわかっているので、売り場の近くで買えないのか確認したのですが、待機所まで行くようにいわれました。距離は長いですが、歩いて行って、切符を買わないといけないようです。通路の中程から振り返って見たようすです。延々と長い廊下です。
車検証と、申し込み確認メールの印刷物、乗船名簿を持って乗船券売り場まで行きます。切符を買った後、九州アラウンド割引証明書がもらえないか確認します。これがあると、帰りのフェリーが別会社でも、割引されるみたいです。聞いてみたところ発行に時間がかかります。電話で、用紙の場所とか書き方とかをどうしたらいいのか問い合わせています。あまり利用がないのでしょうか。時間がかかってわかったことは、行きが正規料金で支払っている場合のみ発行されるとの事です。割引プランを使っていますからもらうことはできませんでした。
前回利用したときは、買い出しのことを考えていたので、ターミナルの中を歩き回ることはできませんでした。
少し歩き回って見ることにしました。待合室に宮崎近辺の観光パンフが何種類か置かれていたのでいただいていきます。階段から上に上がれて、そこい展望デッキというのがあるのがわかりました。上がってみました。港側にフェリーが見えます。その右横の鉄管のような筒状のものが長い廊下です。
反対の山側です。左の建物が神戸市役所で、まっすぐ延びる道路が、その前につながる道路です。茶色い税関の手前の交差点から次の高速道路(税関の建物の上に見えている)の下の道路との交差点までが、日本で一番短い国道174号線です。写真を拡大してみたら、向こう側の行き先表示案内の柱についている青い看板に、日本一短い国道と書かれているのが見えました。この写真からは看板の青色のみが見えます。
景色をあまりゆっくと見ていられません。いつ乗船開始になるかわかりません。車の方に戻ることにします。
フェリーの乗船待機場所に戻って、客室内に持ち込む荷物をより分けようとしたら、乗船が始まりました。荷物は後にして、順番に乗り込みます。待っている車は少なく船内の車両甲板はがらがらです。トラックも車を止めた階には入っていないようです。曜日の関係なのでしょうか。車の中にある荷物から、弁当・水筒・洗面用具など、今晩と明日の朝に使うものを持って、客室に上がります。靴ではなく、スリッパで上がりましたが、客室内に備え付けてありました。
荷物を整理したりいろいろしている内に、出航時刻になります。出港のようすを見にデッキに上がります。出港した後、しばらくはポートアイランドの横を南下していきます。横を、座敷船のようなものが並走しています。この近くのものかと思ったのですが、浦安と書かれています。東京から来たのでしょうか。船尾のロゴは神戸港150年となっています。
太陽がだいぶ西に傾き、景色が夕焼け色に染まっています。前回は出航時刻が1時間ほど遅く船が出るときはあたりは真っ暗でした。今回は、大阪湾航行のようすを見ることができます。ポートアイランドを過ぎるとその南は神戸空港です。管制塔らしき建物の横に飛行機が止まっているのも見えます。ここを関西の拠点とする航空会社のものです。
西の空を見ると、太陽が山の端ぎりぎりにかかっているのが見えます。このまま南に進んでいけば、明石海峡大橋とのコラボになりそうです。
太陽が明石海峡大橋にかかる頃には、だいぶ低くなって、主塔と同じくらいの高さの所までさがってきています。
太陽が二つの主塔の真ん中にさしかかったときのものです。道路面の少し上の高さまで下りてきています。この後ずっと下がって、海の上に沈むところを見たいのですが、海峡を渡りきるのとどちらが早いのか微妙なところになっています。
太陽が南側の主塔と重なりました。下端がちょうど路面にかかったくらいの高さです。このままだと、海峡を渡りきる方が早いような感じです。
結局、橋梁の下に降りないうちに、海峡を渡りきってしまいました。後で写真をよく見たら、海峡上に同じ形をした島影がずっと写り続けています。海の上に沈むのを見るのは最初から無理だったようです。太陽がまぶしく、島影があるかどうかまでは直視していられませんでした。
太陽が沈んでだんだん暗くなっていきます。それでもまだ写真を撮り続けている人たちがいます。こちらは別の景色を楽しむことにします。大阪平野側の町も気になります。大阪市内はわからなかったものの、南東側にひときわ大きくそびえる建物が見えます。りんくうゲートタワーのようです。写真で見ると、横の観覧車や関空橋も写っているのがわかります。
暗くなって、景色も見えなくなってきました。天気がいいので、星を見ることもできますが、デッキに明かりがついていて、まぶしそうです。これはあきらめます。
弁当を食べ、風呂に入って、しばらく本を読んでいましたが、消灯時間になり電気も消えたことなので寝ることにしました。
船の中で早く寝た分、早くに目が覚めます。まだ日の出前の時間ですが、だいぶ空が明るくなってきています。デッキに出て、日の出のようすを見ることにします。
デッキには何人かの人が、日の出を見ようと出てきています。空は雲があるものの晴れ間が広がっています。東の水平線近くの空は朝焼けでだいぶ赤くなっています。右舷後方に陸地がうっすらと見えています。予想される現在位置からすると足摺岬近辺のようです。
西の空です。陸地の影は見えないようです。水平線より少し上が暗くなっています。地球の影が大気の層に映っているからです。その上の赤っぽいところはビーナスラインといいます。同じ名前の道路があります。
地球の影が水平線に近づいてから太陽が昇ってくるとのんびり構えていたのですが、その前に、太陽が出てきたようです。水平線からではなく、雲の上に見ています。
何枚かとった後は、太陽がまぶしくなってきました。これ以上見続けると目を痛めることになります。時々、ようすを見ることにします。それでも、ほとんどの人は太陽を見続けています。
10分足らずの間にだいぶ高く上がってきました。海面に映る太陽とできれいですが、長い間見ていると目が痛くなってきます。
足摺岬もうっすらとし、見えにくくなってきました。九州方面はまだのようですので、しばらくの間朝食をとったりして休みます。
1時間半ほどすると、うっすらと九州が見えるようになってきました。それよりも気になるのは、左手前方に見える雲の列です。何列かあるようです。山の斜面などを上がってできた雲が流されてきているようです。
30分後です。九州はだいぶはっきりと見えるようになってきました。特に白い建物が目立ちます。その中でも際立っているのが、宮崎平野の巨大リゾート施設です。
船は、宮崎港に入ってきました。港内はせまく、タグボートに押されたりとかで着岸に時間がかかります。霧島山が気になりますが、見えていないようです。たぶんこの雲の中なのでしょう。
前回は、着岸してから下船の案内があるまで時間がかかりました。今回もそうだろうとのんびり構えていたら、いきなり車両甲板に下りてくださいとの案内が入りました。急いで下りていきますが、車の所まで戻った時には、もう下船が始まっています。荷物を放り込んで、車にエンジンをかけます。ぎりぎり間に合いました。カーナビとかの設定ができていませんが、これは信号待ちの間にする事にします。荷物は特に大事な地図以外はそのままです。
宮崎港から宮崎神宮までの道順は事前にチェックしているのでわかっています。正面までは順調に到着しました。駐車場はどこにあるかわかっていません。案内を見つけそれに従って進みます。
駐車場までは狭い道を指示さます。どこに行くのか心配で心細くなってきます。その先でいきなり広い道に出ます。ここからどう進んでいいかわかりません。さらに追い打ちをかけられたようです。右側を見ると護国神社と書かれた車を入れられそうな広いスペースがあります。いったんここに入れることにしました。正面に見えた鳥居です。
何か案内がないか探していると、宮崎神宮駐車場はこの鳥居をくぐって奥にあると書かれています。その通りに進んで行きます。行き止まりになる手前にあったのが会館前のスペースです。一応ここに入れましたが、神宮のものとしたら狭すぎます。後で考えてみると、道路の反対側にグラウンドのような場所がありました。そこだったのかも知れません。
車を止めたところから宮崎神宮の方に向かう入り口にある手水鉢です。立派な石でできています。自然にできたものでしょうか。そもそもこれはどこの神社のためのものなのでしょうか。横には車祓い所というのもあります。
道の反対側にあるツツジです。高さは3mくらいはあります。大阪ではこんなに大きくはしません。花も満開になっています。
道を進んでいくと、広い参道の真ん中くらいの場所に出ました。神宮の本殿はずっと先に見えています。
本殿の方に歩いて行くと、向から巫女さんが2人並んでやってきます。左右に分かれて道の端を歩いています。こういうしきたりでもあるのでしょうか。真ん中を歩かないというのは聞いたことがあります。
巫女さんの背後に写っていた神門をくぐって内側から見たようすです。紋は菊の模様です。
拝殿です。壁のない東屋風の作りになっています。神門から拝殿の間の両脇と拝殿から先には柵があり、立ち入れないようになっています。
拝殿の奥には、神楽殿があります。直接神殿がないのは宮崎県独特のものです。県内でも地域によって神楽はだいぶ違っているみたいです。
宮崎神宮は、神武天皇が初めに治めていた場所に孫にあたる健磐龍命(たけいわたつのみこと)が、祖父を湛えるために作ったのが起源とされています。フェリーの中では、天尊降臨の後ここに立ち寄ったと書かれていたようですが、その時にすでにあったと考えると、つじつまが合わないようです。
参道脇にあるオオシラフジです。国指定の天然記念物になっています。この種では国内最大だそうです。
宮崎神宮の裏に、宮崎県総合博物館があります。定休日ではないのと、無料というのに引かれていって見ることにします。
宮崎県総合博物館は、宮崎神宮参道から見て本殿の向こう側にあります。ぐるっと回っていくことになります。車を止めた位置を考えると反時計回りにまわっていく方がいいようです。この経路でいくと、博物館に着く直前に民家園というのの中を通って行くことになります。
民家園には、宮崎県の各地方の代表的な民家4軒を移築しています。進んできた道から一番近い所にあるのが米良の民家です。あおいトタン葺きになっていますが、茅葺きだったのでしょう。まわりに柵があって近づくことができません。中は畳ようなものを立てています。屋根の痛みが激しく雨漏りでもしたのでしょうか。
横に馬小屋が作られています。こちらの屋根は茅葺きです。壁がありません。これから見ても主屋は茅葺きと考えられます。
建物の横では、レンゲの花がきれいに咲いています。
進んできたところから見て右奥にあるのが、椎葉の民家です。こちらも茅葺きで、右側に玄関のある平入りの建物となっています。
奥に見えるツツジの花に黒いアゲハが何匹かやってきています。ナガサキアゲハです。最近は温暖化の影響で大阪付近でもみられるようになったようです。
民家の中です。畳敷きでいろりがあります。天井板はなく屋根の骨組みが見えます。
左手前にある旧黒木家住宅です。高原町にあった郷士の家だったそうです。二つの建物がくっついたような作りになっています。手前の建物が「ナカエ」、奥の建物が「オモテ」だそうです。
ナカエの内部です。ここには天井板があります。
左奥の旧藤田家住宅です。北西部の五ヶ瀬町のものです。寄せ棟造り茅葺き2間の建物です。
「オモテ」と呼ばれる広い方の部屋です。右側板壁の向こうに「ヘンヤ」と呼ばれる板敷きの部屋があります。
民家園にあるのは以上の4軒です。右側の2つが建物を地名で呼んで、左側の2つを住んでいた人の名前で呼ぶというように使い分けているのは不思議です。
民家園から博物館に行くには、左側二つの民家の間を通りぬけ正面に見える博物館の建物を左に迂回して進みます。右側にも埋蔵文化財センターがあって、展示室があるようです。
民家園から博物館の入り口までの道沿いにいろいろなものが置かれています。都農というところにあった道標という道路標識のようなものです。正面に読み取れるのは「距宮崎元標十一里十三町五十六間」と宮崎からの距離が書かれています。側面には次の道標と底までの郷里が書かれているようです。
石棺も置かれています。これは薄い石板を組み合わせて箱のようにしたものです。他にも石をくりぬいて作ったものなどが置かれています。
博物館の正面に到着です。彫像とかいろいろなものが置かれています。これは正面に向かって右側にある石です。新富町で見つかる二枚貝化石です。メタンや硫化水素を栄養源とする貝だったそうです。
建物入り口階段左脇にある化石です。メガロドンという中生代はじめの貝化石です。厚歯二枚貝ともいいます。カキのような生活をしていたようで、カキと同じようにからの形が定まっていません。名前は、新生代のサメに似ています。こちらはカルカロドン・メガロドンという種小名の方になります。
メガロドンと一緒に並んでいたのが、川底から引き上げられたクスノキの大木です。推定樹齢は500年で縄文時代から弥生時代にかけて、生きていたそうです。切り口を磨いたものとかと一緒に並べられています。
館内は、宮崎県の自然や化石、遺跡、遺物、生活道具、昭和時代の建物とありとあらゆるものが展示されています。ほとんどのものは行ってみてくださいということにして、一つだけ紹介することにします。宮崎県内で五ヶ瀬町鞍岡で採取されたクサリサンゴの化石です。この棚に並んでいるものは、宮崎県の化石として昨年登録されたものの見本です。さっと目を通しただけだったので気がつかなかったのですが、横の化石のラベルはクラオカエンシスとなっています。どうもこの棚にある化石の中ではこれが一番重要だったようです。
博物館を後にして、駐車場に戻ります。ここからは宮崎神宮と護国神社の間を通って行くことになります。途中で見えた護国神社の拝殿です。柱の形は、駐車場横にあった手水舎の柱に似ています。手水舎は護国神社関連のものと考えた方がいいようです。
宮崎神宮の次は、生目古墳群に向かうことにします。該当区域は広く、駐車場がその中のどこにあるのかよくわかっていないので、とりあえず生目の杜遊古館を目指すことにします。遊古館は今日は定休日です。車を入れたり、情報を入手できたりするかどうかが問題です。
なんとか遊古館に到着できました。埋蔵文化財センターが併設されているので、人の出入りはあり、中に入れることはできました。
駐車場のフェンスには至る所にアケビが絡みついていて、黒い花をつけていました。
遊古館そのものは研修センターのようです。中に展示室があるのですが、ここが閉まっていました。最低限、案内パンフが入手できればいいので、探してみると置いてあるのを見つけました。これを持って、古墳群を歩くことにします。
古墳群は離れているようです。歩き始めたのですが、まだまだ先で駐車場もあるみたいです。引き返して車で移動することにしました。
駐車場は、高台より一段低くなっているところにあります。一番高いところは障がい者用駐車場になっています。古墳群へは駐車場から階段を上がっていくことになります。階段の登り口に、先ほど入手したパンフと同じものが置かれていました。探す必要はなかったようです。ただこの駐車場場所はわかっていませんでした。
階段を上がると、台地の上に出ます。その前からいくつかの古墳が見えてきます。左手前の石を並べたようなものがあるのが21号墳、奥の小山みたいなのが22号墳です。
反対側は遠くまでよく見渡せます。見えている山は、鰐塚山(1118m)、宮崎県南部にある山です。霧島山を見たいのですが、ここからは見えていないようです。
台地の上は木は伐採され、草も刈られていて小さな古墳のような高まりがよくわかるようになっています。真ん中に見えているのが14号墳、右にくっつくように15号墳が見えています。
ここからは、生目古墳群史跡公園の中を反時計回りに回っていくことにします。いったんバックするような形になります。後ろ側です。草地に生えていた、ノダイコンが花をつけています。ちょっと伸びすぎのような気がします。後方に見えるのは22号墳です。ここでは、3番目に大きな古墳だそうです。前方後円墳の後円の部分だけが見えています。
台地の周囲にはシイの木が生えています。今はちょうど花の時期です。だいぶ強いにおいが流れてきています。
13号墳です。横に社のようなものがあって、ここだけ木が刈られていません。古墳自体は小さなものなのですが、かなり大きな古墳のように見えます。
7号墳です。前方後円墳というのがよくわかります。周壕が深く掘り下げられています。発掘調査でこの中に地下式横穴墓が見つかっています。後の時代に作られたものでしょう。シートがかぶっているのはそのためでしょうか。
5号墳です。古墳が作られた1600年ほど前の姿に復元されています。手前の風呂桶のようなものは、これも地下式横穴墓です。この位置で見つかったそうです。5号墳と関係のある人の墓ではないかと考えられています。
史跡公園は、ここから谷を隔てて北側にもあります。いったんそちらの方に行くことにします。
いったん階段を下り谷になっているところにでます。ここにも駐車場が設けられています。その向こう側にも小高い丘があり、その上に1号墳、2号墳等合計5個の古墳があるようです。こちら側から見ると、手前側は林になっていて、古墳に近づくことはできません。
パンフによると向こう側は草が刈られているみたいなので行ってみました。丘の斜面の草が刈られているだけで上にはあがることはできません。一応看板がありますが、どれが古墳なのかは見ただけではわかりません。
しかたがないので一番古墳らしいものが見える所を探します。階段をおりたあたりから見るのがわかりやすそうです。一番高くなっている丸い所が1号墳の後円部のようです。
階段を戻って、元の台地の縁を進んで行きます。このあたりは林の中を進んでいくような感じです。足元にはタケノコが一斉に顔を出していました。
林といっても、左側にある小高い丘のようなものの周りをずっと回っているようです。これも古墳で、ここの古墳群では最大の3号墳になります。林をぬけたところで前方部が見えてきたので、古墳だということがわかります。
ここから右側には展望台が見えています。谷を隔てた向こう側になるのですがいってみることにします。谷を下りたところからみた展望台です。
展望台のあるところはそれほど高くないので、古墳群の見え方はそれほど変わりません。横の木で鳥がさえずっていたので写真を撮ってみました。ホオジロのようです。鳴き声は知っているはずなのですが、何となく違う鳴き方のようでした。
再び元のところに戻ります。ここでもノダイコンの花がいっぱい咲いています。アオスジアゲハもやっていていました。
3号墳の方を振り返ってみると、斜面に道がつけられています。上に登れるようです。ここまで来て引き返すのも大変だし、上がったところで林の中に入るだけと考えいきませんでした。
9号墳です。大きな丸い円形の高まりのように見えます。高さは2m足らずでしょうか。それほど高くありません。上面が平です。円墳に分類されていますが、周壕が脇にある小さな古墳を取り囲んでいるので前方後円墳と考えられます。
14号墳の所まで戻ってきました。これも前方後円墳です。22号墳の次の首長の墓らしいのですが、比較するとだいぶ小さくなっています。この付近の首長の勢力が衰えてきたためと考えられているようです。
ここからは、駐車場まではすぐです。だいたい一通り見終わったようなので車に戻って次に向かうことにします。
次の行き先の予定は西都原古墳群になります。生目古墳群の次の時代とされている古墳群です。ここから来た道を引き返してもいけますが、かなり遠回りになります。地図でルートを確認するのも大変です。カーナビを設定します。
いきなり案内してくれたのは、切り通しの間の狭い道です。いけるかどうか、対向車が来ないかどうかが心配になりますが、それより両脇の地層の方が気になります。下の方の白いのはシラスでしょうか。上にロームが乗っています。これからするとこのあたりの高台はシラス台地ということになります。この左上が22号墳23号墳のあった場所ですから、生目古墳群はシラス台地の上に作られているということになります。
道が狭かったのは、この一画だけでした。すぐに広い道に出て、カーナビの示すとおり進みます。一ヵ所、大きく迂回するところをまっすぐ進むことのできる橋が架かっていたので、ここだけはカーナビの指示を無視しました。GPSロガーは、生目古墳群をでるときから記録を停止していて、これ以後どう進んだかが残されていません。
西都原古墳群内で、車の行き先として設定したいのは、ガイダンスセンターです。カーナビには表示されなかったので、適当な場所を指示しました。だいたい近くまで案内してくれたようです。古墳群の区画は広く、その中のどこについたのかさえわかりません。適当に走らせていると駐車場が見えたので、そこに車を入れ案内図を探し、ガイダンスセンターに行くことができました。
ガイダンスセンターに着いたのは良いものの、定休日で開いていません。観光案内所とか一切の施設が閉まったままです。唯一見られたのが、上り窯です。
パンフレット類も入手できません。三宮港で手に入れた西都市のパンフに地図が載っていますので、これを参考に回ることにします。問題はもう一つあります。史跡はかなり広いようです。歩いたら1日かかってしまいそうです。車で近くまで行って見学してということを繰り返しても、車の所まで歩いて往復しないといけません。かえってたくさん歩くことになります。奥の手の自転車でまわるということにします。車から降ろして出発します。
まわる向きは反時計回りにします。駐車場から道を南に進んで、最初の交差点を西に折れたところに、横穴墓群を覆って保存した施設があります。いってみたのですが、ここも閉まっています。あきらめて西進します。振り返って見たその施設と小さな古墳です。
この道沿いにあるのが、202号墳(姫塚)です。比較的大きめの前方後円墳です。生目古墳群の5号墳7号墳くらいの大きさでしょうか。この付近では後期のもののようです。
さらに南下していくと第1古墳群の駐車場があります。これを通りぬけると、広場のようになっていて、いくつかの高まりとして古墳が見られます。円墳が多いようです。
正面に見られる比較的大きな前方後円墳が46号墳です。姫塚と同じくらいの大きさでしょうか。
第1古墳群の中も左回りに回っていくことにします。古墳群の区域内も草は刈られているのですが所々に樹木があります。ツツジや桜の花が満開です。それにしてもツツジの木は大きいものが多いようです。
一番奥にあるのが13号墳です。石室の中には入れるようになっているみたいですが、入り口の扉は閉まっていました。柄鏡式前方後円墳という形らしいです。生目古墳群と同時代のものだそうです。
次に見えてきたのが35号墳です。これも前方後円墳です。13号墳よりちょっと小さい感じです。
第1古墳群中心部の方向です。円墳がたくさん見られます。これに対して南側には、前方後円墳が並んでいるようです。
さらに進んであるのが一本松塚(72号墳)です。これも生目古墳群と同時代のものだそうです。見ただけでは区別がつきません。
ここから先に進むと駐車場の反対側の端に出ます。このまま戻らずに、東隣の第2古墳群の方に行くことにします。
第1古墳群から農道のような道を通って進んでいくと、道路を横断します。ここから先が第2古墳群になります。道路を横切るところに、西都原古墳群と書かれた石碑があります。来るときにここをとおったはずなのですが、これがあったのかどうかよく覚えていません。
写真を見ていた気がついたのですが、左側の高まりもなんか古墳っぽく見えてきました。高いところに、標柱があります。古墳があるところに立てられていますから、これも古墳なのでしょう。ここからが第2古墳群になります。
林の中の遊歩道というような所をぬけていくと再び広場に出ます。この右側に今まで見てきたのと同じくらいのサイズの前方後円墳が見えます。83号墳です。
この後ろ側です。道路沿いの桜が満開です。桜の木の向こうに駐車場があります。西都原古墳群についてから最初に車を入れた場所です。
駐車場のさらに向こうに、鬼の窟古墳(206号墳)というのがあります。今いる場所が一番近いようなので、こちらを先によることにします。
近くまで来た、鬼の窟古墳です。まわりに高い土手をめぐらした他ではあまり例を見ないような形の古墳です。土手に一ヵ所トンネルが掘られて向こう側にぬけられるようになっています。トンネルの壁面では土盛りの断面を見ることができます。
土手の上にあがって第2古墳群の方を振り返ってみました。桜の木が並んでいるところを道路が通っていて、その向こうが第2古墳群になります。車の停まっている向こうに見える高まりが先ほど見えていた83号墳です。
土手の上から見た墳丘です。横穴式石室があります。これが鬼の窟と呼ばれる元になったのでしょう、鬼が1日で作ったとされる伝説があります。
ここの石室は明かりがついていて、石組みのようすなどを見ることができました。
土俵の覆い屋のような建物の方から第2古墳群に戻ります。途中で振り返って見た鬼の窟古墳の全景です。独特の形をしているのがわかります。6世紀後半から7せき始め頃のもので、最後の首長のものと考えられているそうです。
再び第2古墳群に戻って正面に見えたのが88号墳です。小ぶりの前方後円墳です。
88号墳を通り過ぎたところから記紀の道への分岐路があります。ニニギノミコトとコノハナハクヤヒメ関連の史跡がたくさんあるようです。道のりはかなりあるようです。自転車なら回れる距離ですが、古墳群だけで手一杯です。今回はパスします。といって次回チャンスはあるのでしょうか。
道を曲がらずにまっすぐ進んで次に見えてきたのが大山祇塚(90号墳)です。これもこの古墳群初期のものです。
似たような前方後円墳が続きますので端折って、ちょっと変わったもののみにします。まわりにツツジの花で囲まれたこの古墳は95号墳です。
このあたりの古墳のまわりを足元を見ながら歩き回っている人たちをたくさん見かけます。目当ては、どうもワラビのようです。
100号墳です。周溝に砂利が敷かれています。この古墳群では最も古い部類に属します。
だいたいこれで第2古墳群は見終わったようです。西都原古墳群では前方後円墳の多い古墳群でした。
第2古墳群の100号墳のあともう一つ前方後円墳(109号墳)を過ぎると古墳はしばらくなくなります。さらに進んでいくと、道路を横切ります。この先からが第3古墳群になります。
入り口から見えた第3古墳群です。小さな円墳がたくさん並んでいます。直径が10m高さが1mくらいのものが多いようです。向こうの方にもたくさんあるようです。
第3古墳群でも比較的大きな11号墳は付属する地下式横穴墓が見られるようになっているみたいですが、その建物は閉まっていて見ることはできませんでした。その裏側に回ってみると墳丘を覆っていた石のようすが見られるようになっています。
横の階段から11号墳の上にあがることができます。その上から見た第3古墳群です。
ここは、反時計回りに回ることにします。写真の右奥にあたる場所に見えたのが船塚(265号墳)です。第3古墳群で唯一の前方後円墳になります。西都原古墳群で最初の頃に見た姫塚とほぼ同じ頃のものとなります。
ぐるっと回っても、丸いマウンドのようなものがいっぱい見られるようすはあまり変わりません。どれが何号墳かといっても区別がつけられません。ほとんど素通りです。
ほぼ回り終わった頃に、西都原考古博物館が見えてきました。古墳といっしょに写してみました。
西都原考古博物館は定休日です。入館できません。パンフにはここから南に大きな古墳が4つあって、その間を通る道が書かれています。ここを進みたかったのですが道が見つかりません。4つの古墳の西側を南下していきます。右側はうっそうとした森です。進んで行くと、宮内庁の陵墓参考地の札が立てられていました。男狭穂塚と女狭穂塚は、それぞれニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの墓とされているようです。
古墳が気になりますが、見えるのは山の斜面のような高まりだけです。古墳の形がわからないまま森のあるところは通り過ぎてしまいました。その先にあったのが、御陵墓前広場です。ここには参拝所のようなものがあります。正面は森しか見えません。
陵墓参考地を反時計回りにまわるように進んで行くと、古墳が一つ見えてきました。171号墳です。女狭穂塚の陪塚と考えられています。今までのものと形が違い方墳になっています。西都原古墳群ではここだけだそうです。周溝の場所は砂利が敷かれています。
墳丘の頂部には埴輪が置かれているようです。斜面のかげになってよく見えません。家の形をしているようにも見えます。
ここにある4つの大きな古墳が気になります。
171号墳の横から、きつめの登り坂があります。ここを登っていくと西都原考古博物館に行くことができます。その途中の右側に2つの大きな古墳があります。
坂を登り切ったところで見えてきたのが、雑掌塚(殺生塚;170号墳)です。大きな円墳です。第3古墳群で見てきたようなものとは規模が全然違います。家型の埴輪が出土したとかが解説文に書かれています。
左側の谷の向こうに見えるこんもりとした山が男狭穂塚のようです。女狭穂塚はその右側に見えるはずですから、雑掌塚の向こうに見える高まりなのでしょうか。
さらに左側には、飯盛塚(169号墳)が見えるそうです。どれなのかはっきりしませんが、大きな木の向こうに、ちょっとした高まりが見えています。これでしょうか。これも円墳です。
飯盛塚の方に行くには少しアップダウンがあります。この感じでは近くで見られるようでもありません。ここで引き返すことにします。これで、西都原古墳群はほぼ一周できたようです。御陵墓前広場の交差点の対角がガイダンスセンターこのはな館になります。ここがゴールです。戻る途中で、すれ違った中学生に挨拶されました。こちらが自転車だったからでしょうか。
思ったより時間を使っています。この先の距離とかを考えると、椎葉村とか人吉までの道から大きく外れたところに寄っている時間はなさそうです。それでも途中に、杉安峡とか興味を引かれる地名の所はたくさんあります。
杉安峡は車を止められそうな所を見つけられませんでした。あっても木々の生い茂ったところで渓谷が見られるという場所ではなかったので、素通りでした。その後も、なかなかいいところがありません。やっと見つけた、渓谷です。このあたりの地名は瓢箪淵といいます。これがそうなのでしょうか。
さらに、30分ほど進むと河原に下りられるところがありました。そこの風景です。途中に大きなダムがありました。ダム湖は通り過ぎたところです。砂利がたまっているのは、ダムによって川の流れが緩やかになったためです。この感じではダム湖にはかなりの量の土砂が流れ込んでいるように見えます。
西米良村の役場付近を過ぎると道は枝谷に入ります。川はいっぺんに細くなります。対岸の山肌が近くに見えます。すこしいったところで、正面の山肌が大きく崩れているのが見えてきます。地震によって崩れ落ちたものでしょうか。検索サイトの航空写真で崖崩れのある場所を、車からの眺めの表示に切り替えると崖崩れ前の様子がわかります。それと見比べると、大きく崩れているのは杉を植林した場所のようです。
しばらく走ると、長いトンネルがあって峠を越えます。ここからが熊本県です。結構時間がかかりました。人吉まではまだしばらく走らないといけません。この感じでは、人吉での滞在時間は1時間程度になりそうです。人吉に寄るのは明日の朝に回します。途中で何か見所があれば、そこに寄って行くことにします。車を走らせながら思いだしたのは、錦町の道の駅を過ぎたあたりに釜の奥戸というものがあるらしいことです。正確な場所がわからないので、どこかで情報を入手する必要があります。道の駅に寄ってみることにします。
道の駅にはパンフレット類はありませんでした。知っている少ない情報を頼りにいくしかありません。わかっているのは国道より山側の鳩胸川という川沿いにあるということくらいです。このあたりには石野公園というのがあるみたいなので、これを目印にいくことにします。
道路を進んで行くと、石野公園東駐車場というのがありました。車を入れて周りのようすを見たのですが、案内図とかいったものは何もなく、ここからどういったらいいかわかりません。車を先に進めて、鳩胸川に近寄れるところがないか探すことにします。
道路はだんだん川から離れていきます。川を横切りそうな道があったので、そちらに入って、川を渡ってからみつけた国道側に行く道を戻っていきますが、ここでも川から離れる一方です。川に近寄れないまま国道に戻ってしまいました。
国道から駐車場のあった方に進んでいくと、右側に石野公園クラフトパークと書かれた場所に着きました。しっかりとした駐車場もあります。階段があってその上に売店のような建物が見えています。最悪そこで聞いてみようと歩いて行くと、階段の登り口に案内図があります。それを見ているとここからキャンプ場の方に行く途中に目的のものがあるようです。距離は500mくらいなので歩いて行くことにします。
川底に変わったものがないか注意しながら歩いていると、前方に岩が露出したところが見えてきました。距離的に考えても、ここが釜の奥戸のようです。
「釜の奥戸」とかいて「かまのくど」と読むようです。「くど」ということばで連想するのが「おくどさん」です。台所のかまどのことです。小さい頃によく聞いたことばですが、最近ではかまど自体がなくなって、耳にすることはありません。「くど」に「お」と「さん」をつけて親しみを込めて呼んでいたのでしょう。このあたりでもかまどではなく、「くど」といっていたのかどうかはわかりません。ちなみに「御」だけをつけると「奥戸」になります。
近くにあった解説には、この付近に露出している岩石は加久藤カルデラに関連した溶結凝灰岩で、その表面にたくさんの甌穴が作られていると書かれています。加久藤カルデラの岩石といえば曽木の滝や関之尾の滝の岩石です。滝の上流側にはたくさんの甌穴が見られました。水流で丸く削られているようすはおくどさんの内部のようにも見えます。ここでもそのようすは見られるのでしょうか。
解説板のあるところから川の方に歩いて行って正面に見られた岩です。バターナイフで削られたバターのように丸く削られています。上に釜を乗せられそうな雰囲気があります。
上流側の風景です。黒っぽく見えるのが溶結凝灰岩です。上面の高さはそろっているように見えます。
下流側です。岩が露出しているのはここまでです。地層の下底まで浸食されると壊れやすくなるので、壊され運び去られたのでしょう。岩の側面に独特の浸食のようすが見られます。これも「おくどさん」ぽい形をしています。
岩の多い所まで行って上流側を見てみました。ここだけ川幅が狭くなっていて、岩に囲まれています。
細く長く削られた水流の跡です。洪水時には流れているのかも知れません。側面は甌穴の連続のように見えます。
水の下ですが、典型的な形をした甌穴がいくつか並んでいます。
これも甌穴ですが川岸に近い所にありました。中に砂利が詰まっています。これが回転して丸く削っていったというのですが、そうなのでしょうか。すぐに洗い流されそうな気がします。それと、いうほど石の角は取れていません。
500mほどの区間に岩が露出していて、その上に甌穴が見られます。下流側から上流側まで一通り見ました。
釜の奥戸の後ろ側は、クラフトパーク石野公園の中心部になります。いろいろなものを作ったりとかのできる施設が並んでいますようです。どんなものなのかはちょっとだけ興味があります。釜の奥戸から振り返って見ると、丘の上に展望塔が見えています。変わった形をしています。ここへは、いったん駐車場に戻らなくても、近道していけるようです。車まで戻りがてら、寄ってみることにします。
丘に登る道です。城郭風の塀がつくられています。何となくわざとっぽいです。
上がったところにあった建物群です。こちらは裏口になります。これも、白壁土蔵か何かをまねて作った感じです。
建物のすき間を通りぬけるようにしていくと、土産物店の入った建物があります。入ろうとしたら、しまっていました。閉店直後だったらしく開けてくれるというのですが、何かを買うという保証はありません。断って展望塔の方に行きます。
展望塔につきましたが、ここも閉まっています。向こう側にお城のような建物が見えています。これは何なのでしょうか。検索サイトの地図ではここには神城公園というのが書かれています。
下の方に古い民家のようなものが見えます。ここまで行くことにします。下りていく途中で、右側の高台の上にこんもりとした丸い丘が見えます。古墳群を見続けてきた後では、古墳ようにも見えます。
蓑毛家住宅だそうです。解説文は所々はげていて読みにくくなっています。建物は寄棟造りなのでしょうかそれとも入母屋造りなのでしょうか。
旧高田家住宅です。木造平屋茅葺きの鉤屋と書かれています。相良氏御仮屋ともなっています。こちらの解説文はさらに読みにくくなっています。
このまままっすぐ進むと最初に車を入れた、東駐車場に行きそうです。そのままもどってこないといけないようなので、ここで引き返すことにします。売店の前まで戻って階段を下りようとしたら、鎖で通れないようになっていました。そのまま乗り越えて駐車場におりていきます。駐車場にはゲートがないようなので車を出す事ができます。
ここから人吉の町までまだしばらくかかりそうです。宿はそこから先です。時間がかかりそうなので、いったん電話を入れ、いる場所を伝えて向かうと連絡を入れておきます。
近道があるかも知れません、カーナビをセットし案内通りに走らせることにします。人吉の町中を通らずにいけたのでだいぶ時間が短縮できたようです。途中で球磨川を渡ります。どんな川か見てみたかったのですが、これではわかりません。向こうに見えるのは九州自動車道の橋です。
カーナビの案内に従って走り、思ったよりも早くに宿に到着することができました。いつも通り星の見えそうな所をチェックします。明かりがつき始めているので、その影響もわかります。全体的にたくさんありすぎて避けるのに苦労します。あまり遠くなくてということを考えると、隣のふるさと館の前が良さそうです。すぐ横に、宿従業員用通路の街灯が2本あります。今は点いていないのですが、点いているとここも使えなくなります。使えたとしても駐車場入り口前道路脇の1本はどうしても避けられません。おまけに飛び抜けて明るい街灯です。これは車でかくすことにします。
食事が終わって、この場所が使えるか確認して車を移動させます。宿横の街灯はつけないようです。望遠鏡を組み立てて、いざ写真を撮ろうとすると、カメラをつなぐ部品が一つ足りないことに気がつきます。入れ忘れたたようですこれでは、写真を撮ることができません。望遠鏡を見るのに使うことにします。あまり高倍率で見るようには準備していません。何とか、木星が入るようになって、これからという時に雲が広がり、星が全く見えなくなってしまいました。晴れ間も出てこないようですので、片付けて戻ることにしました。その後は温泉に入って、寝る以外はすることはありません。
3日目の朝です。日の出前に目が覚めました。朝の食事時間になるまでに散歩に出ることにします。村のパンフを見ても特に何かあるといったことは書かれていません。川辺川を渡る橋にカッパの像があるみたいなのでそこまで行って、役場をぐるっと回るような感じで戻ってくることにします。
宿は、高台にあるのですが、その横の一番高いところに上がってみます。ここからは遠くの山が見えます。左側が江代山(津野岳;1607m)、右側が市房山(1721m)です。意外と高い山が近くにあります。
山の手前にある人吉盆地には雲海ができています。拡大してみたものです。森などの小高いところが雲海の上にでて、幻想的な風景になっています。
宿のある高台から降りる道を歩いていると、正面にみえる市房山の横から太陽が顔を出してきました。
横の丘の斜面です。茶畑が広がっています。このあたりのお茶は相良ブランドとして売り出し中のようです。静岡県の相良地方もお茶が採れるところで、相良茶として売り出しています。名前がかぶっているのはどうするのでしょうか。同じ名前というのは気になります。元々、鎌倉時代に静岡から相良氏がこちらに下向されてやってきたのが由来とか。かぶるはずです。お茶も一緒にやってきたのでしょうか。
町外れにあった深水観音堂です。相良三十三観音霊場第十六番札所と書かれています。全部で33ヵ所も観音堂があるというのは多いです。人吉盆地一帯にあるようです。相良村内は14番から18番までの5ヵ所のようです。
横の草むらからタケノコが伸び放題でした。ここ2−3日の間に急に伸び出したように見えます。誰もとらないのかと思っていたら、隣の空き地のタケノコは掘られたような跡がありました。
町の南側、家のあるところより一段低くなったところを西に進みます。南側にコブコブした山が見えます。霧島山のようです。阿蘇山は思ったより遠くて、見えないようです。
歩いていると正面に白木の妙見さんと書かれた看板だけが見えてきました。近づいてみるとさらに低くなったところにありました。入り口から見ると建物が横向きに並んでいます。
ここの道は行き止まりです。引き返して、町のある高さの所へ上がります。ツバメが飛んでいました。速くて写真に撮るのは大変です。
このあたりで、考えているコースを半周したくらいになります。
歩いていた道を進んで行くと国道に出ます。上の高台には中学校が見えます。この時間でも登校している生徒とすれ違います。ランニングしていた人はここの先生のようです。
そのとなりに池があります。やすらぎ池というようです。水面には波一つ立っていません。木々や空がきれいに写っています。向こう岸には変わった形の吊り橋のようなものが見えます。あちらの方を通って帰る予定ですが、ここから見える限りでは道のようなものはありません。
国道からいったん左に曲がって、川辺川にかかる夫婦橋の方に行きます。別名を河童橋というそうです。関連は不明なのですが、たもとに夫婦のカッパの像があります。苔むしていてだいぶ古そうです。
橋の上から見た川辺川下流方向です。少し深くなっているようです。この先は尾曲淵というようです。
上流側です。川面が波うっています。瀬になっているようです。すぐ上流は穏やかです、流れの強いところは一部のようです。水面に太陽の光が反射して光っています。
国道に戻ります。池の隣は役場があります。その前のカッパの像です。こちら側はだいぶ新しいようです。持っているのはお猪口でしょうか。宿の前にももう一体あります。こちらは風呂桶を持っています。
隣が体育館で、その横から高台に上がる道があります。登ったところには、運動公園があり、そこを一周するウォーキングコースがあります。途中に展望台が設けられています。そこから、すぐ下にやすらぎ池が見えています。
展望台前の木にやってきていた鳥です。すぐに飛び去ってしまったのでよくわからなかったのですが、写真ではカケスみたいに見えます。
宿に戻る道が見えません。結局ウォーキングコースを半周した所にある運動公園の入り口から接続する道路を進みます。道路は、山を降りてからウォーキングコースの外側をまわるようにつけられています。展望台の下あたりで公園に出ます。ここの正面に先ほど見えていた吊り橋のようなものがあります。ロープでつられているのではなく単なる飾りのようです。
道は再び丘を登り宿に戻っていきます。この頃には日が高くなったせいか、霧が立ち上がっていくのが見えます。雲海は消えていっているようです。
宿には、朝食時間に間に合うように戻れました。
朝食を済ませて出発です。昨日行き損ねた人吉市内に行きますが、その前に宿に置かれていたパンフレットで気になった所に先に向かうことにします。
これから球磨川の河川敷でツクシイバラの花が咲き、5月中旬から6月初めにかけていろいろなイベントが催されるようです。今年は、発見100周年にあたるようです。あまり聞かない名前なのでこの地域独特のもののようです。県の天然記念物にも指定されています。
花の時期には早いようですが、イバラの花は所々で見かけました。サクラと違って、ぱらぱらと咲き始めるものなので、気の早いものが咲いているかも知れません。見に行くことにします。
場所は、くま川鉄道の木上駅近くの河川敷です。とりあえず、木上駅を目指していくことにします。カーナビの目的地としてセットします。途中から狭い道に入りましたが、無事木上駅に到着です。
駅前の反対側に着いたようで、こちら側には何もありません。花があるのは、河川敷のようなので、水路沿いの川の方に向かう狭い道に入っていきます。堤防の手前に防水倉庫のような建物があり、そこが広く開いていました。ここに駐車しました。
土手を上がって、河川敷を見ると所々にこんもりとした灌木が見えます。これがツクシイバラのようです。
河川敷に下りていって、花の咲いているものがないか探しますが、花どころかつぼみも見つけられません。何とか見つけたつぼみです。花はこれからのようです。
この付近はあまり咲いていないようなので、場所を変えることにします。水路の反対側に行ってみることにします。
こちら側では、何本か花のついている木があるようです。最初に見つけたものに近づいてみました。
つぼみの方が多く花はまだこれからのようです。花はピンクがかっています。色の濃いものをアップで撮ってみました。色は写真になると、何となくわかる程度です。
咲きかけのつぼみでは、もう少し色がはっきりしているものがありました。
近くを流れる球磨川は日本3代急流の一つといわれています。どのようなものなのか気になるので近寄ってみました。アシの藪のような所を進んで行かないと近寄れません。これ以上は足元が不安定になっていけなくなる限界の所からみたものです。このあたりは穏やかに流れているようです。
足元にはイバラと似たような花が咲いていますが、こちらはキイチゴ類のようです。
ひきかえして再び、イバラのあるところまで戻りました。犬の散歩をし手いる方とで会いました。手入れが大変だといっていました。他の植物がかくさないように刈り入れをするのと、時々剪定もしてやらないといけないのでしょう。
次に進むことにします。最後にみたツクシイバラの花です。
次は、人吉市内に向かいます。国道に出るまでの田んぼにレンゲの花がきれいなところがありました。車通りも少ないので端に寄せて車内から写真を撮っていたら、前の出入り口からダンプが出てきました。急いで車を動かします。
国道に出て人吉市内に向かいます。昨日寄っていた石野公園の前を通過します。そこから、市内まではすぐでした。きのうはだいぶあると思っていました。
最初に人吉城に向かうことにします。お城と市役所の間に駐車場がある事を確認しています。城跡が見えてきてから、右に曲がるとお城と書かれている標識があったので曲がったのですが、道は山の中の方に続いています。どこにも行きそうにないので引き返しました。先ほど曲がったところの右前に、予定の駐車場がありました。車はそこに止めました。駐車場からみた人吉城です。
最初に見えた低い石垣につけられた階段から上がっていったところです。相良護国神社が見えます。ここは元々、御館があったところです。
御館跡を通りぬけた先にあったのが堀合門です。御館の裏門だそうです。通りぬけた先から見ています。
ここから球磨川側には石垣の切れたところが見えます。水の手門跡です。球磨川縁に船着き場があってそこから城内への出入りのために作られた門です。
球磨川側から見た水の手門跡です。正面に石垣が見えます。上段が継ぎ足したようになっています。長櫓があったものの火災で焼失した後、代わりに石垣を継ぎ足したようです。上に、庇のように石を張り出し武者返しとしています。
御下門に続く階段です。ここから三の丸に上がっていきます。
案内図には三の丸跡と書かれているところです。その三の丸は何カ所かあります。奥に御津賀社跡があるものです。左の石垣の上が普通にいう三の丸です。
さらに一段上がったところにある二の丸跡です。こちらは、木がたくさん生えたままになっています。御殿跡とも呼ばれています。ここにお城の主要施設があったようです。
二の丸から本丸に上がっていく石段です。しっかりとした門の跡のようなものはありません。
本丸跡です。普通はここには天守が作られるのですが、人吉城では護摩堂が作られていたようです。堂の礎石の位置に石が並べられています。
上まであがりきりましたので、元来た道を降りていきます。
人吉城の二の丸・本丸に入る時に三の丸を回ってきましたので、まっすぐ上がってくる中の御門跡を通っていません。帰りはこちら側を通った方が近道になりますから、中の御門跡を通って下りていくことにします。
中の御門跡から見た御門下から三の丸です。左上方が御津賀社跡方向になります。
中の御門跡から下りた所から見た球磨川です。このあたりでも流れはゆったりとしています。向こう岸あたりから川下りの船がでているはずです。
御下門をぬけた先から振り返ってきたお城です。高い石垣が組まれています。
お城の北東隅にあるのが谷口船渡し跡です。球磨川をわたって対岸に行くには船を使っていました。そのうちの一つお城側の乗り場の入り口です。梅花の渡しと書かれていましたが、それは対岸の乗り場のことだそうです。
渡し口です。大きな石が並べられています。これが船着き場になっていたのでしょうか。
道は、お城をまわるように続いています。そのお城側に何かの建物があったような跡があります。地蔵院だったそうです。
この先は広場になっています。お城と反対側は公園と書かれています。こちらは行き止まりのようです。広場の前にタクシーが止まっています。今歩いてきた道は車止めがあって、車が通れませんから、この先どこかにぬける事ができるようです。運転手さんが出てきて休んでいますから聞いてみたところ、いけるとのことです。お城は高いところにあります。周囲も高い丘に囲まれています。お城の高さまで登るのは大変です。駐車場まではこちらの方が近いということです。話をしていたときに、市役所の駐車場というのが通じません。この前の地震で、建物が被災したので移転したとのことです。地震というのも熊本地震はとぴんときませんでした。
道は切り通しの間を通ってぬけられるようになっていました。崖の地層も気になります。シラスのように見えるのですが、草などが覆っていて詳しくはわかりません。あとで、もらったお城の地図をみていると左側や正面の山の上にも、中世にはお城が作られていたようです。シラス台地で上が平なので作りやすかったようです。
どこかにぬけるということもわかっていてもどこにぬけるのかがわからないと不安です。
城のまわりを回るように進んできたのは、こちらに大手門跡があると書かれていたからです。狭かった切り通しをぬけると、広くなった所にでました。このあたりは、武家屋敷があったあたりのようです。さらに右手前方に橋が見えてきました。車を止める前に入った道から見えていた橋です。堀のようなものがありますが、このようなものはここだけです。この先にあった案内にはため池と書かれていました。
橋の上から見た向こう側です。鳥居があります。相良護国神社のものでしょう。御館へに入り口に架けられた橋のようです。
ここまで大手門らしきものはありません。本当にあるのか不安になってきます。駐車場も越えてさらにだいぶ先にあるようです。
進んで行くと石垣が見えてきました。大手門櫓台だそうです。向こう側に川があり、そちらから見ると高い石垣になっています。川をわたってきた敵兵を迎え撃つために、石垣の上にすぐに上がれるようにした構造だそうです。
大手門跡前に架かる橋の上からお城の方をみた所です。橋を渡った両側にある石垣の上に櫓門が作られていたようです。
大手門の櫓台と反対側には多門櫓が続きます。城内部からみた多門櫓跡です。
多門櫓のお城側は武家屋敷が並びます。大手門は城の防御に重要な場所のためか、ここにあったのは江戸期家老の渋谷家の屋敷です。建物の礎石の所に石が並べられています。
この横に作られているのが、人吉歴史館です。人吉城関係、特に城主相良氏の歴史についての展示があります。例のごとく詰め込まれすぎで消化不良を起こしています。ここは江戸時代初期に家老であった相良青兵衛の屋敷跡に立てられていて、そこにあった地下室が残されています。館内撮影禁止なので写真はありません。
ここまで来るとお城をほぼ一周したことになります。お城はここまでにして、次の所に向かうことにします、車を止めた駐車場はすぐそこです。
人吉城跡から、次は同じ市内にある青井阿蘇神社に向かいます。神社の位置はわかるのですが、駐車場がわかりません。とりあえず阿蘇神社の方に車を走らせます。国道に出て西に向かって走り、駅への交差点を過ぎるといきなり右側に阿蘇神社の駐車場が現れます。ここに車を止めて、神社境内の方に行きます。このまままっすぐ入るのではなく、いったん鳥居の方に行くように指示されます。こちらに行くと交差点から見えていた赤い橋の方に向かいます。禊橋といいます。石組みのめがね橋のようです。
本殿側に立派な楼門が見えます。入り口両脇に隋身のような像がありますから、随神門でしょうか。大臣のような身なりですが、矢柄は背負わず、弓なのか釣り竿なのかわからないものを持っています。脇に犬のようなものを従えています。
階上部です。彩色がほどこされています。四隅の軒下に鬼の面が2つずつ置かれています。この地方独特の様式だそうです。白い丸いかたまりのように写っています。
楼門前にあるオガタマノキです。1円玉の描かれた植物との説明書きがあります。枝のでかたはそっくりです。招霊木と書くそうです。真っ直ぐ伸びるので神霊を招く木とされていたそうです。
拝殿です。こちらは楼門に比べると質素に作られています。
拝殿から神殿です。間に神楽殿があります。
境内にあるクスノキの大木です。ご神木です。入り口のオガタマノキをみたときにはそちらがご神木だと思ってしまいました。
この後ろ側から駐車場に向かう道があります。駐車場に戻って次に向かうことにします。予定では、このまましばらく球磨川沿いに下っていくことになります。急流というのは道路からはみられず、一気に下っていきます。かなり走ったところで川原に下りられるところがあったのでそこからみた球磨川です。
球磨川が急流だというのは道路からはみられないようです。
球磨川の河原に下りた所から、トンネルをぬけると右手に球泉洞と書かれた建物が見えてきました。道路から山の中に入らないとみられないと思い込んでいたので建物の裏側に回ったのですが、ここも駐車場で行き止まりでした。それなら道路側がいいので車を回します。
建物の横にトロッコ機関車が置かれていました。鍾乳洞とはどういう関係があるのでしょうか。
球泉洞の入り口は、建物の端にありました。前を通ると鍾乳洞につながるトンネルが見えます。このトンネルから冷気が吹き出してきています。ちょっと寒いくらいです。これでは上着が必要です。いったん車まで取りに戻りました。
入道券を買おうとしますが、一般コースと探検コースとがあります。違いを確認したところ、探検コースは一般コースのさらに奥にいけるとのことです。ただし、40mの急な階段を上り下りしないといけないことと、ヘルメット・ヘッドライト・長靴を借りて歩くことになります。探検コースの方にいくことにしました。入る前にトイレに行っておくように指示されます。所要時間が長くなるためです。
探検コースに入る前に、一般コースを先に見て指示された時間に探検コース入り口までいけば案内されます。まずは、一般コースです。
入り口のトンネルをぬけた先です。広い通路が続きます。このあたりはまだまだ歩きやすくなっています。
道が狭くなって天井が高くなっているところもあります。左上には通路が見えています。洞内は曲がりくねっているようです。
壁には所々で鍾乳石がみられます。緑色のライトに照らされた石柱です。
石灰岩とチャートのような岩石との境界です。このようなところのすき間に水が流れ石灰岩がとかされて鍾乳洞ができるとの説明がありました。
ヘリクタイトです。ここのものは鍾乳石(つらら石)の根元からひげ状に伸びているものです。
矢印の先はヘリグマイトと書かれたものです。ふつうは地面から伸び上がる曲がりくねったものか、石筍の根元にできるひげ状のものを指します。いわれればひげのようなものがあるように見えてきます。
球泉洞にはまだまだ変わったものがたくさんあります。
天井にできたベルホールです。ベルの形のようなへこみです。たくさんできています。できた成因はよくわかりません。鍾乳洞が水没した時代に水流が渦を巻いて削っていったという説明が別の鍾乳洞のサイトにあります。石灰岩は傷つきやすい岩石ですが、それほど削られたというようなものはみたことがありません。
穴の中にコウモリが入りこむことがあるようです。足が岩をつかんだために、黒くなっているところもあります。
オニックスと書かれています。一般的には石英質の岩石に対してオニックスという名前がつけられています。この場合はオニックスマーブルまたはケーブオニックスというのが正しい言い方でしょう。一般的な名称はトラバーチンです。これは、床面にできるフローストンの断面のようです。
これは細長いもやしのような石筍です。こんなのもできるのですね。
床面近くのフローストンは何層もできたり削られたりしています。ここでは、コウモリ糞がたまったり、泥が流れ込んできていたりしています。
一時的に流れ込んだ砂利がたまった跡です。流礫棚と書かれています。砂利が流れ込む大きな穴と、流れ込んだ土砂をとどめるようなものが必要です。その当たりは見当もつきません。
よく見られる、壁面のフローストーンです。天井近くは鍾乳石のようになっています。このようなものもたくさんあります。
ホマーテ型石筍と書かれています。ホマーテは臼状火山と訳されます。火山学者があまり使わない用語なのでピンときません。そのまま臼状石筍といってくれた方がわかりやすい気がします。石筍というよりフローストーンのようにも見えます。
探検コース待ち合わせ時間を考えずに歩いています。コースの真ん中に待ち合わせ場所があります。いったんそこを通った時には案内者が来ていました。もう少し見てくるようにいわれたので、いったん端までいって戻ってきました。
探検コースの入り口に戻り、これから探検に出発です。洞内の明かりをつけてゲートを開けてくれます。ヘッドランプも点灯させます。汗をかくので、上着を脱ぐようにいわれますが、少し寒いのでこのままいくと答えます。服を掛けるところも用意されています。いったん階段を少し上った後、40mの高さの階段を下りていきます。3段に分かれています。斜度は70度です。後ろ向きで下りるようにいわれます。
下りきったところから洞は二手に分かれています。右側に滝があるので見てくるようにいわれます。7の滝です。7つ目という意味のようです。滝前は狭いのでこれだけの範囲を写すのがやっとです。
滝を見終わったら今度は反対側の方に進んで行きます。階段を下りたあたりから先のようすです。パイプで手すりがつけられているものの、ほとんど川縁の岩の上を歩いて行くような感じです。
さらに進んで振り返って見たところです。階段もありますが一部分だけです。地下深いということもあって、水量は豊富です。探検気分をじゅうぶんに味わっています。
枝洞にできていた、鍾乳石と石筍のペアです。このようにしてできるという見本みたいな組み合わせです。年間何cm成長しているか測定しているようです。結果をど忘れしています。
足元にあるハート型の石です。踏むとしあわせになれるとかで、しっかり踏んでおきました。
これが、コース終点のシャンデリアと呼ばれる場所です。招乳管がたくさんぶら下がっていて、確かにシャンデリアのようにも見えます。ふだんはあまり照らされていないからなのか、地下深いからなのか、鍾乳石もきれいです。
この下の方は鍾乳石と石筍のたくさんある場所です。あまり大きくはないのですが見事です。
探検コースはここまでです。階段を上って引き返さないといけません。下りるときは先導してくれたのですが、帰りは先に行けといわれます。調子に乗って上っていたら、3分の2くらいのところで息切れをしてしまいました。ここから急にペースが落ちます。息切れしたのはばれたのでしょうか。帰りに後からついてきたのはこのためだったのですね。ちょっと汗ばんでいます。上着を脱ぐほどではなかったようです。
球泉洞を過ぎて少し進んだ所からしばらく行くと、西に山越えをして八代海方面にぬける道があります。このコースをとりたいのですが、そのまままっすぐ進んだところに気になるものがあります。そんなに遠くではないので、見に行くことにします。
みたいのは、神瀬の石灰洞窟です。そのまま車を走らせていると道路標識がでていました。広くなっている鳥居の前に車を止めます。横に小さな川が流れていて、ちょっとした滝になっています。
鳥居をくぐってまっすぐ進むと、大きな洞穴が見えてきました。これが石灰洞窟なのでしょう。この先で、木が倒れて道をふさいでいますが気にせずに通りぬけていきます。
見えてきた石灰洞窟の天井部です。鍾乳石のようなものが見えます。
洞内には神社があります。熊野座神社です。祭神は伊邪那美命だそうです。国産みで有名な神様です。
天井の拡大です。無数の鍾乳石が見えます。石の表面は乾いています。
すぐに立ち入り禁止になります。そこから奥のようです。奥が深いのかどうかはわかりません。
もどって見た山の斜面です。石灰岩地帯特有のガレ場ができています。
石灰洞窟というのは、鍾乳洞の入り口が大きく開いているものか、鍾乳洞のホールが崖崩れによって外から見えるようになったもののようです。このあたりには、ほかにもいくつか鍾乳洞があります。石灰岩地帯となっているようです。
神瀬の石灰洞窟からいったん引き返し、山越えの道に入り、八代海沿いの芦北にぬけます。ここからほぼ海岸に沿って南下し、阿久根市の手前から天草の方にぬける予定です。 芦北から阿久根までの間は何も見るものもなく到着します。といっても出水市のつる飛来地というのがありましたが、ここは前回来ているということでパスしています。ツルがいる季節でもありません。
阿久根市からは橋を渡って長島に入ります。その手前の、黒之瀬戸は日本3大潮流といわれるほど、その流れが速い所だそうです。残りの2つはたぶん鳴門海峡と来島海峡でしょう。
車を走らせていると、黒之瀬戸とそこにかかる黒之瀬戸大橋が見えてきました。
橋を渡ったところにうずしおパークだんだん市場というのがあります。黒之瀬戸を見られそうだし、長島の観光情報も入手できそうです。寄っていきます。
建物の裏手に回る道があってそこを歩いて行くと、広場のような所にでます。そこから黒之瀬戸と橋を見ることができました。そこから見た黒之瀬戸大橋です。
橋より南側の黒之瀬戸です。海面のようすから潮の流れが速いことがわかります。
広場前の道は小さな丘を一周してだんだん市場に戻ってきます。市場前にムツゴロウののモニュメントがあります。ひれは木でできています。雨で痛みそうで、長持ちしないような気がします。
ここの観光案内所で入手したパンフを見る限りは、あまり見るところがないようです。この後の行程のこともありますから、西海岸を北上することにします。途中の長崎鼻灯台公園という所に寄ってみることにします。それと、花フェスタというのをやっています。途中にあるみたいなので、見つかれば寄ることにします。
道はいったん海岸から離れたところを走ります。峠を越えた時、正面にきれいな段々畑が見えてきます。駐車場がありますから車を止めて景色を眺めます。上がり浜・汐見の段々畑というそうです。上がり浜は右側に見えている砂浜のことでしょうか。
段々畑を拡大してみました。
西海岸の国道を北上続けます。長崎鼻付近は海岸から離れています。農道のような道を標識に従って進み到着します。公園には、駐車場、トイレと海を見ながら灯台をまわる遊歩道があります。遊歩道からの海岸です。向こうの海は天草灘から東シナ海に続いています。
灯台です。六角柱型の建物です。
再び国道に戻り、先に進むことにします。
花フェスタというのは、風車公園というところでやっているみたいです。名前からして風車があるようです。ここまで来る間にも島中心部の山の上にたくさんの風力発電用の風車が見えていました。そこまで行かないといけないのなら時間的に無理かも知れません。
車を走らせていると、道の駅の少し手前側から、山の方に会場があるとの表示が出てきます。案内に従って進むと文化ホールの横の駐車場に案内されます。正面には、花で書かれた「花フェスタ」の文字が見えます。
会場の入り口に到着したようです。ここから、道なり歩いて行くことにします。道沿いにはピンク色の花が満開です。フクロナデシコだそうです。
道は、坂を上っていき高台にでます。台地上は色とりどりの花で満開です。海を背景に写してみました。
何段かの段になっています。一つ上の段です。いろいろな花が見られます。ここにあるのはキンギョソウ、マーガレット、ネモフィラ等です。花の密度が高いようです。
さらに上の段です。ここの花壇は、花の色で植え分けられています。ダイナミックな感じがします。
上を見上げると風車が見えます。ここだけ離れて1つだけあります。これが公園の名前の由来のようです。
風車のあるところが公園の中で一番高くなっていて遠くの景色を見ることができます。北側の景色です。先に天草下島が見えています。
灯台の足元に、震災復興のメッセージをヒオウギ貝に書いてつるしてくださいという場所がありました。絵馬みたいですが、ヒオウギ貝の色がきれいです。
ここから階段を下りていくと会場の入り口に戻ります。その間にも色とりどりの花が植えられています。
入り口に戻って売店で売られている花の苗を見ていたら、ふかしたジャガイモとサルビアの種をいただきました。花を買うのは家まで持ちそうもありませんからあきらめます。ジャガイモも買おうかなと思ったのですが、前のお客さんが、いろいろと聞いていて終わりそうもなかったので、こちらもあきらめました。
風車公園を後にして、北上を続けることにします。たぶんこの後、蔵之元までは何もないでしょう。一番気がかりなのは、フェリーの時間です。船がでた直後に着いたら、待っている間に5時をまわってしまいます。
走り始めてすぐに蔵之元港に到着です。乗船場前には車が何台かまっています。
出航時間までは20分ほどです。ちょうど良いくらいの時間です。港のまわりを見ようと、移動したのですが、フェリーが入ってきました。
車列に並んで、乗船券を購入しにいきます。車検証を封筒に入れたまま渡したら、車乗船だとなかなか理解してもらえませんでした。正面に、野菜の無人販売所があったので、ここでタマネギを買いました。
乗船はすぐに始まります。乗り込んで少しの荷物を持ったら、デッキに上がります。船上から見た蔵之元湾出口の方向です。
フェリーが出航して湾の外に出てから、向かいの島に何か白い建物が見えます。教会っぽく見えましたが、灯台でした。
右舷、天草の方向に富士山のような形をした山のある島が見えてきます。産島で、山は天草富士ともいわれるようです。
天草下島の海岸線です。中央に見える島が赤島です。細長い島なのですが軸の方向から見ているので、丸く見えます。左側が戸島の岩礁です。その向こうに島のように見えているのは、早崎という岬で、上の山頂が平らな山が六郎次山です。
長島側です。風車公園の風車も見えています。一番右に出たところが長崎鼻です。
船が進んで行って、牛深の町が見えてきました。まもなく天草下島につくようです。
長島蔵之元港から天草下島牛深港までの所要時間は30分ほどです。乗船時間はわずかです。航路沿いに島がたくさん見え続けてているのでそれほど陸地から離れたところまでいったという感じはしません。
牛深港に入って見えてきたのが養殖魚のいけすです。丸い形をしています。マグロのような高速で泳ぐ魚のものでしょうか。
フェリーがどこに着くのかが気になります。探しまくってやっと見えてきた牛深港の桟橋です。もうかなり近くにまでやってきています。
最後に、長島側を振り返って1枚とりました。
着岸し始めて、急いで車両甲板に下りていったのですが、下船開始直前です。乗り込んで、エンジンをかけたら、車を動かさないといけない状態になっていました。船を下りてから、車をどう進めていいかわかりません。適当に走らせていたのですが、結局脇道に入って広いところに車を止め地図を確認する事になりました
最初に山越えがあってから、深い湾にそって走ります。やっと湾の出口が見えた場所からの写真です。このあたりは羊角湾というようです。天草下島で一番奥深い湾になります。
一つトンネルを越えて崎津に着きます。ここにはカトリック教会があります。漁港のような場所から写したものです。建物の後ろ側を見ていることになります。
教会はこの先大江にもあります。教会だけでも写真を撮ろうと、町の方に曲がったのですが、後続車も曲がってきます。止まれるところがないので適当に車を動かしたのですが、町の中をぐるぐる回るだけです。さらに、必ず電線がかぶってきます。何とか電線のかぶらないところを見つけて写しました。
この先、北上していきますますが、海が見えて車が止められてという場所が見つからないまま下田温泉に到着しました。宿の位置がわかりませんが、観光案内所前の地図に載っていたのでその場所に行きます。旅館を予約したはずなのに民宿と書かれています。電話番号で確認したら間違いないようです。
宿の前をひっきりなしにツバメが飛んでいます。休んでいるところを撮らせてもらいました。
夕日がきれいということで見に行きたいのですが、あいにくの曇り空です。あきらめます。当然今晩の星見もなしです。やることがないと思っていましたが、夕食は魚のオンパレードで、平らげるのに手こずりました。
下田温泉の朝は、ツバメの鳴き声で目が覚めます。明るくなったら一斉にさえずり始めたようです。天気はどんよりとしています。地面も濡れているので夜中に雨が降ったようです。今は雨が降っていないようです。散歩に出かけることにします。一応傘は用意していきます。行き先は、海岸沿いを歩くか、川沿いに遡って轟公園に行くかのどちらかです。パンフレトには、轟公園はすぐそこのように書かれていますが、だいぶありそうです。こちらは出発後に最初に寄ることにします。
宿から海の方に向かって歩いて行きます。観光案内所の前に足湯があります。あまりのんびりもしていられないので、ここはパスします。
町外れにある金毘羅宮の鳥居と石段です。高さにめげて上っていません。海の守り神なのに海の見えないところにあったものを、海の見えるこちらに持ってきたという説明がありました。
ここから川沿いに下りていきます。そのまま河口の方に歩いて行って見えたのが下田漁港と北方の海岸線です。霞んでいます。
反対側、南方です。いくつかの岩場があります。魚釣りをするために、瀬の一つ一つに名前がつけられているそうです。瀬というのは、魚がたくさんいる場所でなのでしょうか。えびす瀬というのがここにあるようですがどこのことか見当がつきません。
いったん海岸沿いの国道に上がり道に沿って南に進みます。真ん中に大きなすき間の空いた岩が見えてきます。この岩の海よりの所も釣りをしていそうですが名前がつけられていないようです。
同じ岩を反対側からみた所です。大きな穴が開いています。明るい色をした筋が見えます。地層はこれと直角方向で海の方に傾いています。明るいところは岩脈のようです。
ここから山側に入ると五足の靴の碑があります。与謝野寛・北原白秋・木下杢太郎・吉井勇・平野萬里の五人が九州を旅行したときにこの地を訪れ作風に影響を与えたということで作られたようです。この時に東京の新聞社に発表した紀行文の題名が五足の靴だったそうです。碑には詩が書かれています。著作権があるかも知れないのでここに写真を載せることはできません。
道路に戻って南下を続けます。みん瀬です
はなぐり瀬です。似たような形の岩場が続きます。ほぼ同じ地層がでていて、同じ角度で、海の方(西側)に傾いているからでしょう。
このあたりには瀬がたくさんあります。岩の形が変わってきました。地層の種類が違うのでしょう。平らなところがたか瀬となが瀬です。奥に恐瀬があります。
恐瀬のある岩というか岬のような所に来ました。ここには遊歩道が設けられているようです。
海岸近くまで下りられそうです。行ってみることにします。
国道から分岐した道路の先に、駐車場と2−3の施設が並んでいます。鬼海が浦展望所というようです。道路は、元々は国道で、新しいトンネルが作られたのでここにあった施設に来るために残されたようです。この先で通行止めになっています。
天草下島の下田から南は夕日がきれいなところがたくさんあって、下須島までの間で特にきれいなところを8ヵ所選んで天草夕陽八景としています。ここはその1ヵ所目です。それを示す碑が作られています。下田の夕陽というみたいですが、もう一ヵ所夕陽丘という所があるらしく、それとあわせての一ヵ所目になります。
ここから北側の海岸です。小さな浜があります。その先のつきだした岬状のさきになが瀬が見えています。
正面に見える岩場です。地理院地図には恐瀬とかかれています。
南側です。左側に鬼海が浦があり、その先に島のように見えるのが長ハエです。
鬼海が浦です。入り込んでいる割には岩礁が多く、浜は正面の谷の出口あたりに少しだけあります。
展望所から下りたところ、岬のくびれ目のようなところの地層です。砂岩泥岩の互層ですが、小さな断層が無数に入っています。岬の先の方は砂岩のかたまりのようです。
上に戻って、遠くを眺めてみます。長崎半島先端の野母崎が見えると書かれていました。うっすらと陸地のようなものが見えます。これでしょうか。コントラストを強調してみると、まだ先にも陸地は続いているようです。
戻らないといけない時間になっています。下田の町に引き返すことにします。
下田温泉まで戻ってきました。まだ少しだけ時間があるようなので、温泉街を一周してから宿に戻ることにします。
足湯のあったところの裏手の川沿いに橋が架かっています。湯の華橋といいます。橋の渡り口にある常夜灯のようなものに使われている石材が気になります。近くで見ると白地に赤っぽい色の縞模様が入っています。砂岩の中に地下水がしみこみ、鉄分が沈着して縞模様ができる事があります。これだと思っていたのですが、赤みが強いのが気になります。同じ石は、宿の風呂場にもあったし、ここでも敷石の一部にも使われています。
この付近で、天草砥石というのが採れます。石の中に縞模様がみられます。模様の強いところは、木目石として利用されています。どうもその石のようです。岩質は無斑晶質の流紋岩でリソイダイトというようです。
橋の上から川を見ると、川沿いに遊歩道のようなものがみられます。完全に水没しています。これではあるく事ができません。潮位の関係かとも思ったのですが。そうでもないようです。
川の左岸を上がっていくと、神社がありました。温泉神社です。祭神は少彦明神と薬師如来だそうです。少し変な組み合わせです。白鷺が傷を癒やしに毎日来ていたのをみて見つけた温泉とか。そこから薬師如来が出てきたのでしょうか。となりに見えるのが温泉センターです。
ここから引き返して、宿に戻ったら朝食時間となっていました。朝の食事をすませます。朝食が終わって、一休みしたら出発します。最初の目的地は轟公園です。ここには、轟の滝があります。それと大水車があると書かれています。
下田の町から川に沿って上っていきます。しばらくいくと轟の森万太郎公園というところにつきました。公園の駐車場というより、レストランの駐車場というような場所です。誰も来ていないようです。車から降りて川の方をみると吊り橋が架かっているのが見えます。
この橋を渡って右に進むと大水車、左の上流側に進むと轟の滝に行くとのことです。まずは、橋を渡ります。橋の上から見た下津深江川の下流側です。どちらかというとゆったりと流れています。
道沿いにはシャガの花が咲いています。淡い色のアヤメのように見えますが、小振りで花びらの縁がぎざぎざになっています。
道の先に奇妙な構造物が見えてきます。何かのモニュメントのようにも見えます。何なのか興味があります。近づいてみます。
川側から見たようです。付近には何も説明がありません。
水車があるというのですが、何も見当たりません。川の上流がわをみるとすぐそこに堰堤が見えます。大水車は堰堤より下流側にあると案内図には書かれていました。
少し進んだ所に、水車小屋跡と書かれた看板が朽ちて転がっています。説明によると、陶石をこの水車で砕いていたということです。
この看板から先は道がなくなっています。大水車はどこにあるのでしょう。いろいろなことを総合して考えると、先ほどのモニュメントのようなものは、大水車の支柱のようです。作ったもののすぐに使えなくなりその柱と基礎部分だけが残っているようです。
次は、吊り橋の上流側にある轟の滝に行きます。
水車跡から引き返し、吊り橋を渡らずまっすぐ進みます。正面に轟の滝が見えてきました。昨年九州南部でみた滝と似ている感じがします。加久藤火砕流の上にできた滝です。ここの滝も柱状節理のようなものが見えますが、岩石にやすりのようなもので削られてできたようなくぼみがみられません。砂岩にみられる方状節理のようです。縦方向の割れ目が多めなだけのようです。
こちら岸からは、これ以上近づけません。上に道路が見えていますから、ここまで行ってみることにします。
道路の上から見た滝です。手前の岩の隙間から落ちています。ここからではわからないようです。
少し上流側にも橋が架かっています。ここからみた滝の下流方向です。縁が続いています。
わたりきった所から少し戻ることができてそこから何となく水が落ちている様子がわかります。
下から見ていたときに、対岸にも下りてきたみられる場所がありそうでした。探してみたら、右岸側に下りていくことができました。そこからみた滝です。先ほどよりはだいぶ近くなりました。
ここから、下田温泉まで引き返し、西海岸の北上を続けることにします。海岸を走らせていると、正面に、海岸沿いの造成地に土を持ったところが見えてきました。白い色の土の山と茶色い色の土の山、白っぽい石ころが積み上がった山があります。
道路の山側に陶石鉱業所と書かれた建物があります。陶石と関係したもののようです。
陶石のような大事なものは、積み上げているとは思えません。採掘したときに出てきた要らない土砂とか小石を置いているのでしょう。陶石とはどのようなものか考えるヒントにはなります。小石は、流紋岩のようです。たぶん、貫入してきたものでしょう。地図とか航空写真を見ていると、ほぼ海岸と平行に、山の中に深く掘り込まれたような地形がみられます。鉱山の堀切と呼ばれるものでしょう。垂直に陶石が入っているようです。おそらく岩脈でしょう。流紋岩中の長石成分が変質すれば、焼き物を作る粘土として使うことができます。ちなみに、完全に陶石化しないものが天草砥石、ちょっとだけ影響を受けたものが木目石なのでしょう。
ここから北側、海岸沿いに火力発電所、その向こう沖合に富岡半島が見えています。
富岡半島目指して進んで行くことにします。
富岡半島に入りましたが、ここに何があるのかよくわかっていません。一番目立っているのは、城跡への案内です。案内に従っていくことにします。お城の駐車場と書かれているところがあったのですが、城への行き方をみると城を半周して向こうの東側から入るように書かれています。入り口の手前にもう一つ駐車場があります。それなら、そちらの駐車場に入れる方が得策です。再び車を移動させます。
駐車場から、車を出したところで真っ直ぐ行くとハマジンチョウ自生地と書かれている標識がありました。気になるのでいきましたが、突き当たりのT字路でどちらに一定以下わかりません。適当にいったのですが行き止まりでした。車をターンさせるスペースがありませんからそのままバックでT字路まで戻ります。T字路の近くに広い場所があったのでそこに車を止めて、歩いて探すことにしました。先ほど車が通れなくなった先から浜にでることができます。
この浜は延々と続いています。見える範囲ではハマジンチョウらしきものはわかりません。ハマジンチョウはあきらめます。
車に戻って、東側駐車場にいきます。車を降りて周りを見るとアダム荒川殉教の碑というのがあります。信仰を貫いて処刑されたとか。
宗教的な話はあまり興味がありませんからパスします。城跡に向かう正面の坂を上がっていくことにします。登っていくとすぐに石垣とお城らしい塀と櫓が見えてきました。石垣は新しそうに見えます。
ここの石垣は3層になっていたとか。古いものの上に新しいものを作ってということの繰り返しだったそうです。3段の石垣が残されていました。どれも新しそうでした。
二の丸への上がり口です。門か何かあって良さそうですがそのような構造はありません。
二の丸に上がって、隅っこに作られていた角櫓です。
角櫓から下には、出丸があります。
反対の本丸側です。天守ではなく不思議な形の建物があります。手前が二の丸になります。
二の丸から本丸の間にある門です。城跡には高麗門を復元していると書かれています。これのことでしょうか。
この門をくぐって本丸まで上がっていきます。
本丸には、富岡ビジターセンターがあります。建物は、ここにあった多門櫓を参考に建てられているそうです。でも、本丸に多門櫓があるという話はあまり知りません。人吉城は大手門の横にありました。二の丸から見えていた変わった形の建物はこれでした。
上がってみても、本丸のほとんどの区画はビジターセンターで占められています。肝心の本丸にあるべき建物はどこにあったのでしょうか。ビジターセンターはあいにくと休館日です。中に入ることはできません。本丸から二の丸に下りた正面に歴史資料館があります。こちらは開いています。人の名前は覚えきれないと思ったので中には入っていません。中では島原の乱についての解説があったようです。
本丸は周囲を多門櫓と塀で囲まれているので、景色を見ることができません。二の丸に下りる途中に小さな曲輪のようなところがあり、ここからは東側の景色を見ることができます。富岡の町の方向です。富岡半島は見た感じでは、天草下島と陸繋砂嘴(トンボロ)でつながっているように見えます。
左側には、見事な砂嘴が見えます。曲崎です。ハマジンチョウはこの砂嘴上で生えているそうです。
さらに左側です。北北東ぐらいの方角になります。うっすらですが、少し高い山が見えています。右側に瘤のような山も見えています。雲仙山と麓にある眉山です。
二の丸に下りたところから、右に三の丸に向かう石段があります。こちらの方に行ってみました。石段に使われている、石の表面には漣痕のような模様が見えるものがたくさんあります。
石段を下りたところからみた本丸です。右側が二の丸でそこにある建物は歴史資料館です。
道は途中で行き止まりになっています。元来た道を引き返して駐車場に戻ります。
駐車場から富岡の町に下りる直前右側に池が見えてきます。袋池です。道のあるところが堤防のようになっています。帰ってから、城跡の看板に書かれていた古い富岡城の地図を見ると、池とその海側との間を隔てる石垣が作られていたように書かれています。だいぶ古くからあったようです。
反対側の海側です。堤防の右手前側が漁港になっています。左向こうに見える細長い陸地は曲崎です。石垣はこの下の道からは見えたようです。
富岡の町を走っていると山陽公園というバス停があり、その前に駐車場もあります。どちらかというと浜をみたかったので、車を止めて浜を見に行くことにします。浜は、全体的に護岸がしっかり作られていますが、北側には海水浴場が作られていて、そこだけ砂浜があります。足元は礫が多いようです。波で石が飛び跳ねているのが見えます。
浜だけをみて、山陽公園という割にはたいして整備されていないと思っていました。実際には、この浜に関係したものではなく反対側の広場のような所のようです。さらに、これも後から気がついたことです。山陽というのは、頼山陽のことで富岡のことを詩に残しているようです。公園の中には、それを記念して石碑が建てられているようです。
富岡半島から戻り、天草下島の北海岸沿いを東に向かって走ります。しばらく走っていると海岸沿いにおっぱい岩と書かれた看板が見えてきました。看板の前でいったん車を止めて、駐車できるところがないか探します。少しだけ戻ったところの山側にちょっと広いスペースがあります。ここに入れようとバックで戻りかけたのですが、すぐに車がやってきます。身動きが取れなくなってきたので、いきすぎて適当なところでUターンして戻ってきました。
広くなったところにもおっぱい岩の看板があるのですが、見学の車は漁港に止めてくださいと書いています。いったん漁港まで行ったのですが、距離がだいぶあったのと、歩道が整備されていないこと、雨が降り出していることとかで、先ほどの場所に駐めることにしました。
海岸の降り口の所の説明では、海岸の海食台上におっぱい型の岩が2つ転がっていると書かれています。だいたいの場所も書かれていますのでそれに従って見にいきます。
まずは大おっぱい岩です。見事なロート形をしています。
裏側から見ると、ただの円盤形の岩に見えます。
説明によると、地下深くから特別な水が噴き出していてそれによって岩石がかためられたとか。確かに周囲を見ると円盤形に岩が硬くなったノジュールのようなものがたくさん地層に刺さっています。
もう一つのおっぱい岩の方に行くことにします。海岸は藻がたくさん生えていて滑りやすくなっています。十分注意して歩いたのですが、一度だけ滑ってしまいました。バランスをとるため傘を手放して落としたら、傘の骨が折れてしまいました。予備はありませんから、この折れた傘で歩くことになります。
小おっぱい岩です。どちらかというと砲弾型をしています。左側におっぱいの片鱗が見えます。こちらを下にして地層中にあったようです。岩の中の模様からもそのように読み取ることができます。
近くの岩にみられた蛋白石(オパール)の脈です。地下からケイ酸分の多い熱水が噴き上げてくるとできますが、おっぱい岩の成因には関係がないでしょう。
これ以上の収穫はなさそうなので次に向かうことにします。海岸から見えた東側の通詞島方向です。
通詞島より、案内図に書かれていた石灰藻球打ち上げ浜というのが気になります。そちらを目指します。それらしい場所を注意しながら車を走らせたのですが、見つけることはできずだいぶ通り過ぎてしまいました。引き返しても見つけられないでしょうからあきらめることにします。
天草下島の北東の角をまわったところで奇妙な形をした陸繋砂嘴が見えてきました。山側が公園のようになっていて、そこからみられそうです。駐車スペースもあります。
高台からみた砂州です。向こうに見えるのが亀島でまっすぐ砂嘴がのびています。「ハ」の字型にきれいな浜が気になります。形がきれいすぎます。人工的な感じがします。
ここには若宮様という神社があります。ちょっと大きめの祠といった感じの建物です。神功皇后がここで産まれた子(応神天皇)を祀っているそうです。
浜まで近寄れそうなところは見当たりません。ここは終わりにして次に急ぐことにします。向かい側の直売所の裏側は海水浴場になっていてそこから海岸に行けたようです。
亀島の見える大島地区からは、天草下島の東側を南下し、天草上島に渡る橋のある本渡を目指すことになります。大島からはみるものもなく本渡の町に近づいてきました。天草上島にわたる前にみておきたいものが1つあります。祇園橋という石橋です。問題は正確な場所がわからないことです。市役所の西側で、今走っている道の西側、山の中から来る道沿いということだけです。山からの道に入って進み、橋をわたるときに、右側に石橋が見えました。橋を越えてから右折し、道幅がわずかに広くなっているところで車を止めます。
そこからみた祇園橋です。
九州にたくさん見られるめがね橋と違って、石を柱形に切り出し、柱と桁を組み合わせる形になっています。西洋からめがね橋の技術が伝わる前に作られたもののようです。解説には天保3年(1832年)発起と書かれています。
橋の上面です。ここに敷かれた石も板型というより柱形をしています。
橋の向こう側に、神社が見えます。橋の名前の由来となった祇園神社のようです。車を止めた場所の関係で、あまり遠くまで行けなかったので、確認はできていません。
車を止めたところの道は狭いので、車が通る度に通れるかどうか心配になります。すぐに移動することにします。
ここからはすぐに、天草上島へわたる天草瀬戸大橋につきます。橋の手前の信号で止まったときにとった橋です。ここからみると橋というより、高架道路といった感じです。
天草上島へはすぐに渡ってしまいました。天草上島も北岸を東に向かって進むことにします。海岸が気になります。路側帯の広いところがあったのでそこから見た海岸です。海食台が見えますが、周囲が岩脈のようなもので縁取られているように見えます。
所々で、エビの養殖場がみえます。天草下島にもあったようですが、こちらの方が目立っています。そのうちの1つ、島子というところのものです。
天草上島は何もよるところがないまま、半分以上進み、道の駅リップルランドに着きました。名前が気にありますので寄ってみることにします。リップルとはさざ波の事です。ここはどちらかというと温泉施設が中心です。施設の中より海岸の方が気になりますから、そちらに向かうことにします。雨も降っていて、風も強くなってきたのが気になります。
海岸の入り口には有明タコ入道のオブジェがあります。タコがたこつぼから這い出している?所の彫像です。それよりも海岸です。ここの海岸もどちらかというと海食台が広がっていて岩場が中心です。
施設より東側は砂浜が広がっています。四郎が浜といいます。海水浴場になっているようです。
今は干潮です。海水の引きが大きいのか、砂の表面から水がしみ出し無数の溝を作っています。
ここにいると、風で吹き飛ばされそうになります。引き返して次に進むことにします。
リップルランドで天草上島は半分くらい通りぬけたことになります。残り半分もほとんど何もなく過ぎていきます。途中で1つだけ気がかりなことがあります。大きな入り江などでは、干潟が大きく広がっているのが見えます。このあたりから見える海は島原湾で有明海の入り口に当たります。潮が引いたときのようすをゆっくり見ておきたいのですが、なかなか車を止められそうな所がみつかりません。米の山の手前で駐車スペースを見つけたのでそこからみた干潟です。対岸との真ん中に堤のようなものがあります。どちらが海に開いているのかよくわかりません。堤の手前側に水の流れる流路のようなものが見えます。
湾奥の方向です。堤のようなものは小さくなっています。その向こう側に川が流れるようになっているようです。干潟の中の流路のような所の両脇は完全に干上がっているのがわかります。
もう少しきれいな干潟がないかみるために車を進めることにします。そのまま車を走らせているといきなり天草5号橋を渡り始めます。橋を渡る前に天草5橋を俯瞰してみたいものです。橋の手前にあると書かれていたので引き返して探したのですが、どこのことかよくわかりませんでした。とりあえずこの先の漁港のような所から見えていたのでそこに行ってみることにします。とりあえずそこからみた5号橋(松島橋)です。
この場所から脇道に入ると千巌山公園に行けると書かれています。展望所もありそうなので、そこに行ってみました。
駐車場に着きました。この先に広場や展望所があるようです。車で行けそうです。いこうとしたのですが、道が狭く入り口であきらめました。軽ならいけたでしょう。展望所のレスハウスは閉鎖されていました。その近くから見た橋が架かっているあたりです。小さな島がたくさんあります。
左端の島の横に見える干潟の形が気になります。土を採掘した跡なのか、何かの構造物なのか海流でできたものなのか全く判断できません。
橋に注目します。4号橋(前島橋)です。ここからは5号橋は見えないようです。
中央右寄りに塔のように見えているのが3号橋(中の橋)、左上の黄色い橋が2号橋(大矢野橋)です。遠くて霞んでいます。
ここから見えない5号橋を含めて4つしか橋は確認できていません。残りの1つが気になります。ここからは見えないことにして先に急ぎます。車を走らせていても、4つ橋を渡った後はしばらくは橋らしきものはありません。だいぶ走ってトンネルをぬけた先に橋が見えてきました。天門橋です。横に新しい橋を建設中です。
これが天草5橋の1号橋になります。今まで走っていたところはまだ九州ではなく、大矢野島という島だったようです。
この橋を渡って、やっと九州宇土半島に入ります。北側の有明海沿いに走るか、南側の不知火海沿いに走るか二通りの経路があります。不知火海の方をみたかったのと、半島をぬけた先のアクセスの良さから不知火海側を走ることにします。
車を走らせていても、海は見えるのですが、車を止めるところがありません。何もないまま、半島付け根にある道の駅不知火まで来てしまいました。ここの海岸です。護岸がしっかりしています。何となく干潟のようなものも見えています。
下りてみました。足元は岩場で表面にカキがびっしりついています。水がたまっているところを避ければ、ぬかるむこともなく歩いて行くことができます。
不知火海の名前の元になった不知火はみられる時間ではありません。何か来ただけという感じになってしまいました。
宇土市から北上するには、熊本市内を通りぬけるのが一般的ですが、あまり渋滞に巻き込まれたくないので、海側か山側にさけることになります。高速道路で一気に通りぬけてしまうという方法もあります。海側の道は宿を予約指定場所から離れてしまいます。高速道路は、予備においておきます。となると山側に避けることになります。このコースをとると熊本地震の被害の大きかった益城町を通りぬけます。物見遊山気分ではいきづらいのですが、地震断層も形がしっかりしている内にみておきたいものです。こちらのコースをとることにします。
地震断層は、御船町から益城町にかけて詳細に調べた報告書がウェブにアップされています。それに従っていくことにします。御船インターから国道445号線を東に1kmほど行ったところで、地震断層が国道を横断しています。まずここがてはじめです。
国道は新しいバイパスができていてここに北から合流する道に断層が見えます。
前方に見える先号がバイパスとの交差点です。電柱の手前で中央の黄線が30cmほどずれています。白線のずれははあまり目立ちません。向こう側(東側)も少し盛り上がっているようです。
横の側溝です。完全に食い違っているのがわかります。
反対側のものです。白く見えるものは溝のすき間をふさいだ充填物です。
この道はバイパスと斜交する方向に通っています。横にバイパスが見えていますのでそちらに行ってみました。歩道や車道上にたくさんのひび割れがあります。あまり大きくずれているというのはわかりません。
南側に並行する道路とバイパス歩道の敷居です。向こう側(西側)が盛り上がっているようです。上がり方は先ほどとは逆になっています。
この道路には何カ所も亀裂ができているのが見えます。一つ一つのずれは小さくても全部足しあわせると大きくなりそうです。
次はもう少し北側をみることにします。このまま東に向かい御船町の中心部で北に向かう国道443号線に入ることにします。
御船町の中心部に恐竜公園というのがあります。恐竜の復元飾られていました。このあたりは恐竜の化石が発見されています。今日来るまで走ってきた道に沿ってこの時代の地層が分布しています。博物館もあるようですが、今日はパスします。
地震断層は、国道の西側を平行するように通っています。道は西に大きくそれるところで断層に近づきます。このあたりのようすを見ることにします。
脇道に入ったのですが、通行止めと書かれています。車を駐めて見にいくと、崖崩れで道路がふさがれていました、まだまだ、修復し切れていないところが多いようです。
この付近の道路には断層による影響は見られないようです。報告書に記録があるのですが、田畑の畔とかもそれらしいものは見当たりません。色の変わっているところが気になりますが、関係なさそうです。報告書と比べてみると、写真の左側寄りを通っているようです。
この先で、東西に通る道路を目指して車を走らせたのですが、断層が横切っていそうなところに道がありませんでした。唯一、高速道路沿いの道が国道と交わる直前付近でそれをみらそうな場所がありました。交通量が多く、車を駐められる場所がなく断念です。何回かいったり来たりをしたのですが、わかりませんでした。後で全国の道路沿いの写真を見られるページには、はっきりと断層が写っているのが見られました。
走り回ったので予定より時間を使ってしまいました。このまま宿に行ってもかなり遅くなりそうです。高速道路で時間短縮をする事にします。
道路がわかりませんので、カーナビをセットします。地道を指示してきますので、高速道路を使用する設定にすると、今度は一つ先のインターで下りることを指示してきます。最短距離を考えると山越えの道にになります。走れるかどうか心配です。途中のSAで、到着時間の報告も兼ねて道の確認をします。結果は渋滞があるかもしれないけれども、カーナビは無視することになりました。近いICで高速道路を降りるとルートを自動的に再設定してくれます。
心配していた渋滞はなかったのものの、町中の信号がたくさん引っかかったために、町をぬけるのに少し時間がかかりました。その後は順調です。途中で石橋が見えてきたので、休憩がてら寄ってみました。八女市上陽町の洗玉めがね橋です。
1893年施工だそうです。阿蘇山の溶結凝灰岩を使っています。橋の欄干部です。束柱にモモのような模様が彫られています。親柱にもしっかりとした擬宝珠があります。
あまり寄り道もしていられません。宿に急ぎます。この奥の星野村というところにあります。
宿には暗くなる前に到着です。食事をすませて外に出ると星が出ていました。準備をして、宿の人に星を見てくるというと、近くの天文台を教えてくれました。いざ出発となると、再び雲が出てきて星は見えなくなっています。天文台もあきらめて、寝ることにします。
星野村の宿は、星のふるさと公園の中にあります。村の名前は、星に関係するのではなく、昔この付近を治めていた城主が星野氏だったことに由来しています。どちらかというと、星つながりで天文関係の施設も作られたようです。
星のふるさと公園の中でも宿のある一画は、真ん中に池があり、そこを中心に池の山と呼ばれます。まずは、池の山の散策から始めることにします。宿を出た正面にツツジの植わっているところがあり、広さや、その色数や本数に圧倒されます。
星野村は、お茶も栽培されていて星野茶として売り出されています。村のある八女市も八女茶が有名です。このあたりでは、八女茶ということばが出てきませんから、完全に別ブランドになっているようです。池の山のにも茶畑があり、ふるさと公園には茶の文化館が作られています。
麻生池です。この池の解説には、成因について断層説と火口説があると書かれていました。どう見ても、この付近一帯は地滑り地形で、池はその先端部のやや山よりにできるのがふつうです。断層説の説明はこれに類似しています。断層面だと、水を通しやすいので、排水されるでしょう。
この池にオグラコウホネが群生していると書かれています。池一面にみられるのがそれなのでしょうか。ヒツジグサに似ています。というよりヒツジグサに見えます。花が咲いていれば簡単に区別ができるのですが..。オグラコウホネは冬になるとかれると書かれています。
ところでオグラというのは京都市南部にあった巨椋池のことなんですね。昔はたくさんあったみたいです。オグラコウホネということにして、対岸のツツジと一緒に写してみました。
池の横に神社があります。麻生神社といいます。池は、旱魃時でも干上がったことがないということで、雨乞いなど水神としての信仰があったようです。これと関連したものでしょうか。
神社には舞台が作られています。ここではんや舞というのが奉納されるようです。はんや舞についての説明は理解できませんでした。
脇にある弁財天社です。建物の割に屋根が大きいのが特徴です。台風対策という説明でした。
この裏で咲いていたのが、ザイフリボクです。花びらが四手(幣)に似ているのでシデザクラともいいます。説明では采配に似ているから采振木ということでした。
池の奥に、シャクナゲの道がありますが、こちらはこれから整備されるようです。
麻生池のまわり残り半周は、池の縁を歩く遊歩道で、すぐに入り口に戻りました。
池を一周したものの、朝食時間にはまだ少しあります。ふるさと公園の一番奥まで行ってみることにします。最初に現れるのが平和の広場です。その手前側の土手です。ここにもツツジが一面に植えられていて、今ちょうど満開のようです。宿入り口のものに比べてこちらの方が広いのですが、色数は少ないようです。
平和の広場から道路を隔てて山側にあるのが星の広場で、さらにその上に星の文化館があります。ここには口径1mの望遠鏡で星を見ることができるようです。簡単な宿泊設備もあります。
星のふるさと公園の一番奥にあるのが星の花公園です。星野村ではちょうどシャクナゲまつりが開かれています。その会場の1つになっています。遠くからでも山一面にシャクナゲが咲いているの見えます。
だいぶ高いところまで上がってきています。遠くの景色もよく見えます。谷向こうに見える棚田です。八女市役所星野支所の北側になります。
道路脇の斜面には、どころどころでマムシグサの花茎が伸びているのがみられます。まむしが鎌首を持ち上げているところのようです。
星の花公園の入り口に到着です。まだ開園時間ではないので中に入ることはできません。入り口からのようです。シャクナゲが所狭しと咲いています。
ここから道を引き返します。途中で見かけたカケスです。すぐに飛び去ってしまいました。
広場に一本だけある木がきれいなので撮ってみました。樹種はトチノキのようです。
ここからは、すぐに宿の所まで戻りました。
朝の食事をすませて、土産物を買ったりしてから、出発になります。今日の宿は久住高原に取ってあります。途中、回り道になりますが、耶馬溪にいろいろなみどころがあるので、そのうちのどこかによっていきたいと考えいます。まずは、シャクナゲまつりが開かれているというもう一つの会場、ミヤシノシャクナゲ園に寄ろうと考えています。そこから日田の方にぬけられるか宿で確認したところ、うきは市の方に行った方がよいといわれたのでそのようにします。
車に乗ろうとしたら、鳥のさえずりが聞こえてきました。ホオジロです。屋根に上がるはしごの上にとまっています。ホオジロの鳴き声がわからなくなっています。
公園入り口脇にあった藤棚です。ちょうど満開です。
ミヤシノシャクナゲ園は、星野村をつらぬく道路を真っ直ぐ進んで行った村はずれにあります。シャクナゲまつりということで、道案内もしっかりしていて無事迷わずにたどり着くことができました。正面に見えてきたシャクナゲの花畑です。
花よりも、さらに奥に見える崖崩れの方が心配になります。これも地震の影響だったのでしょうか。
ミヤシノシャクナゲ園は入園無料ですが、協力金をお願いしますということです。入金箱に入れました。もともとは個人がつくったもので、村(市)に寄贈されたようです。谷を隔てた丘一面にシャクナゲが咲いています。
シャクナゲの花の拡大です。日本のシャクナゲは室生寺や滋賀県日野のように林間に咲くというイメージがあります。品種が違うようです。
ベニカエデとのセットで写してみました。ベニカエデは昨年北海道で始めてみたのですが、いつの間にか全国区になっているようです。
シャクナゲを見終わって、また元来た道を引き返してきます。市役所の支所の所まで戻ってきました。山の斜面にシャクナゲの花と望遠鏡ドームが見えています。星の花公園と星の文化館です。今朝は向こうからこちらを見ていたことになります。
すぐ右下に見えるのが泊まっていた宿と付属施設です。
ここからはうきは市の方に行くことになります。
星野村からうきは市の方に行くためには、市役所支所から北側に峠越えの道を通ることになります。市役所支所から道がぐるっと回ったところに、段々畑が見えてきます。ここは茶畑が中心のようです。お茶の木の列が整然としていてきれいです。横に製茶工場があります。このあたりが星野茶の栽培中心地になるのでしょうか。面積的はここだけでは狭いようです。
茶畑があるのは製茶工場付近から上流側で下流側は田んぼのようです。今はレンゲ畑となっていて花が満開です。
いったん脇道に入ったので、正規の道に戻ります。すぐに左側に棚田が見えてきて、展望所もあります。広畑上原地区の棚田で、星野村では石積の棚田が最もきれいにみられる場所だそうです。標高差は230mあるそうです。
石積のようです。脇に棚田を登っていく道がジグザクにつけられているのが見えます。
道は山の斜面を登っていき別の棚田の横にでます。この付近では、かなり高いところまで棚田があるようです。
ほとんど峠の近くまで来ています。このあたりが一番高いところまで棚田がある場所のようです。
道はすぐに峠を越えます。ここからがうきは市になります。曲がりくねった山道を下りきった所でも田畑は段々になっています。上の方は茶畑のようです。
調音の滝への分岐があります。初めはやり過ごしたのですが、気になるので見に行くことにしました。調音の滝です。
この上流側にも滝が3つほどあるようです。歩いて行くには遠いし、車だと道の広さが心配になります。結局の所パスしました。
滝の横に、納涼床のような食事場所(そうめん流しだったような)があり、その下には遊水をためて作られた池があります。説明によると、ここにはチョウザメがいると書かれています。古そうだったので今もいるとは期待しないでみていると、チョウザメが出てきました。なんでもうきは市では、チョウザメを町おこしの材料にしようと取り組んでいるところだそうです。
この池に多いのはやっぱりコイです。大きなものが悠然と泳いでいます。
調音の滝から下っていくとうきはの市街地につきます。うきは市で他に何かあればよっていきたいものです。情報が全くないので、まずは情報収集しないといけません。耶馬溪の方にぬける通り道に道の駅があります。ここで情報を得られそうです。まずはここを目指していくことにします。
星野村からの道に戻ってしばらく走ると、シャクナゲの群生しているところがあります。規模は小さめです。ここのものも個人が植えているのでしょうか。
うきはの市街をだいぶ通りぬけたところに道の駅はあります。中は直売所と食堂が主です。観光パンフは1枚だけ見つけることができました。これによるとうきは市役所の近くに伝統的建物群保存地区というのがあるそうです。ここに行くことにします。ここの観光会館「土蔵」というところにいけばもっと詳しい情報が手に入りそうです。見つけたパンフにはこの道の駅にも観光案内所があると書かれているのですが、それらしいものを見つけることができませんでした。
「土蔵」の近くまで来ました。駐車場を探したところ文化会館前に、広い駐車場を見つけました。ここに駐めることにします。グランドの隅のような所にも車が駐まっています。少し悩んだのですが、この横に駐めることにしました。
ここから歩いて「土蔵」へいきます。「土蔵」の建物とその前の通りです。
ここでもパンフを探したのですがあまり良いものがありません。建物内をうろうろしていると、係の人が催しは終わったのですがといって「越後吉井おひなさまめぐり」というパンフを出してきてくれました。大きな地図なので非常に見やすく気に入りました。おひな様がみられる場所が書かれていますが、これは無視することにします。
筑後吉井は、おひな様飾りの発祥の地のようです。雛飾が箱に入ったまま飾られる「箱雛」と、羽子板の押し絵によく似た「おきあげ」がそのルーツのようです。
パンフと一緒にだいたいの見学場所を教えてくれました。建物群保存地区は白壁通りと壁しっくい通りにあるとのことです。時間があれば、「居蔵の館」と「鏡田屋敷」もよるといいとのことでした。
とりあえず居蔵の館を目指します。途中で、小川をわたります。両岸の玉石垣がきれいなので撮りました。
道をそのまままっすぐ進み、T字路を左に曲がると、先ほどの川の続きにでました。この川は南新川といいます。17世紀に5人の庄屋が費用を出して、越後川から水を引いてきたとのことです。その時の逸話が語り継がれています。水路ができたために、この付近いったいは発展していきます。その水路がこの南新川です。
南新川に架かる橋の内の1つをわたった先に素盞鳴神社(祇園社)があります。鳥居をくぐって次に随神門をくぐります。立派な楼門です。
拝殿と神殿です。銅板葺きの建物になっています。
隣は、幼稚園と小学校です。そのまえにカッパの像があります。立派なひげを生やしていて座禅を組んでいます。
幼稚園前から見た南新川です。白いこいのぼりは園児が書いたのでしょうか。
通りからみて南新川と反対側に居蔵の館があります。吉井の町は江戸時代末期から明治時代にかけて何度かの大火を経験しているようです。類焼しないないようにと、建物をしっくいでかためて蔵のようになった住居を居蔵というようです。この建物は、明治末期に建てられたもので、この付近の代表的な居蔵家の1つだそうです。
通りからみた居蔵の館です。屋根裏までしっくいで塗り固められています。
立派な神棚があります。ここだけ吹き抜けになっています。
庭園です。
うだつがあります。これも火災の類焼を防ぐためのものです。
階段手すりの飾りです。向こう側の床は大きな一枚板が使われています。
浴室トイレの天井を見てくださいと書かれています。こちらはトイレのものです。屋根から換気ができるようになっています。
こちらは浴室の天井です。木の板がすき間を空けて組まれていて、蒸気が逃げるように工夫されています。
欄間です。梅の絵が描かれています。非常に細かい作りです。
こちらは紋章のようなものが彫られています。横の障子も桟の目の間隔が非常に細かくなってています。
他にも書ききれないところがいっぱいあります。
鏡田屋敷も行ってみることにします。通りと南新川が並んでいるところの西端にあるのが居蔵の館で、鏡田屋敷は東の端にあります。ここは、他の建物が通りに面して建てられているのに対して、土蔵と塀で囲まれあいだに庭園をおく作りになっています。吉井の町でこのような形の建物はここだけだそうです。通りからみても土蔵が見えるだけなので、あまり立派な感じがしません。
正面にまわると、奥に屋敷風の建物が見えてきます。延焼防止のためしっくいで塗り固められています。
元々は郡役所として建てられたものです。明治期に2階部分などが増築されています。西側裏木戸からみた主屋です。右側が玄関になります。
入って見学させてくださいというと、案内もしてくれました。この部屋は、郡役所時代の、役人の応対の間だったそうです。3段になっていて、一番高いところに、役人が座り、一般人は最下段の部屋から、中段の取り次ぎを通じて役人と話をしていたようです。
廊下側、部屋の上段にも明かり取りの障子が貼られています。ここは、塗り固められている事が多いところです。高さも高いような気がします。
欄間です。1枚1枚が違う模様になっていそうです。シンプルですが趣のある模様になっています。
2階の床の間です。元々あった床の間が傷んだので、取り替えようとしたところおおきな1枚板の古い床の間が出てきたので、作り替えずにそれを残したそうです。
唯一ある矢板張りの天井です。どこのもだったかはよく覚えていません
2階から耳納連山よく見渡せると説明がありました。地元ではなじみの深い山なのでしょう。星野村からうきは市にぬけてくる峠は、合瀬耳納峠といいました。
天井板の貼られていないところがあり、そこからみた屋根裏です。割り竹が組まれています
他にもいっぱい説明してくれました。やっぱり消化不良を起こしています。帰ってから写真を見てもどんな説明だったか思い出せないことがいっぱいあります。
次は歴史的建物群保存地区の方に行くことにします。来た道を引き返し、観光案内所からの道と合流した場所あたりから先が白壁通りになります。道は左に曲がり、南側を東西に通る筑後街道の方に向かいます。白しっくいで塗り固められた建物が見えてきます。壁に、鶴亀の絵が描かれている建物がありました。電気メータの上に亀がいます。
白壁通りです。道路の東側に白壁造りの建物が多いようです。景観保護のため通りの電柱は撤去したと、鏡田屋敷で説明されていました。代わりにこいのぼりが並んでいます。
途中で小川を横切ります。災除川です。石垣が南新川のものと比べて造りが雑で手作りぽい感じがします。犬走りのようなものがあるのは、船の通り道として使われていたからでしょうか。
通りをだいぶぬけてから、振り返って見ました。200mくらいの間居蔵造りの建物が並んでいたようです。
突き当たり、越後街道との交差点です。正面にも居蔵造りの建物が見えます。案内図によると、ここを右折してしばらく進むと壁しっくい通りになるようです。
越後街道沿いは、白壁の建物がぱらぱらと続きます。比較的多くかたまっている一画です。この通りも電柱が撤去されています。
越後街道沿いに1軒だけ灰色の壁の建物があります。碓井家住宅と書かれています。説明では大正7年建築で当初は豊後屋と呼ばれていたようです。この建物だけ色が違うのでかなりの存在感があります。といって、浮き上がっていないのもいいところです。
ここから先が壁しっくい通りと書かれている場所になりますが、通りの感じは今までとあまり変わりがありません。少しだけいったら引き返すことにしました。
文化会館の駐車場まで戻って、トイレをすませておこうと探していたら、観光案内所の裏手でカッパの像があるのを見つけました。ここのはぽっちゃりとしています。
うきは市から先は、耶馬溪を見に行く予定です。日田を通って、奥耶馬溪トンネルをぬけて走っていると、左折で猿飛千壺峡と書かれた案内を目にします。興味はあるのですが距離がわからないのでとりあえずパスすることにします。このまままっすぐ2kmほど進むと道の駅があります。そこで情報を入手するのが優先です。
道の駅でわかったのは、猿飛千壺峡は分岐点から2−3kmほど入ったところにあり、付近一帯は奥耶馬溪と呼ばれていることです。「何とか耶馬溪」には寄る予定でした。当然引き返していくことにしました。
最初についたのが魔林峡です。ここの案内図を見ると、上流の猿飛甌穴群まで遊歩道でつながっていると書かれています。帰りは同じ道を戻ってくる事になります。距離は1km以上ありそうです。時間節約のために、上流の猿飛甌穴群まで行き、駐車場に自転車をおいて、魔林峡まで戻ってきて車をとめて、上流に向かって歩いて行きます。帰りは、自転車で車の置いてある駐車場まで下りてくることにします。
歩き始めて見えた魔林峡です。両岸の岸はかなり切り立っています。川底の流れも速いようです。
川底まではのぞき込むようにしないと見えません。急流になったかと思えば、このように淵になっているところもあります。
川にせり出した岩の上から川が見られるところがあります。そこからの川の風景です。両岸がきりたっているようすがよくわかります。右側の段になっているところに、遊歩道があります。
川に流れ込む流れが作る唯一の滝だそうです。名前の記録をとるのを忘れました。上の道路のためにかためたコンクリートの方が目立ちます。
魔林峡の上流の端にあるのが念仏橋です。昭和3年架橋の石造りのめがね橋です。
橋の道路面です。横に車が通るように新しい橋が架けられています。
魔林峡は、大きな甌穴がつながってできたと説明に書かれています。探しても甌穴とはっきりとわかるものはほとんどありません。上段にやっと見つけたこのような窪地のことをいっているのでしょうか。それとも、ここの川の岸は波うつように曲がっています。この膨らみの一つ一つが甌穴というのでしょうか。
念仏橋を過ぎると、先には堰堤があります。その上流側は、運ばれてきた埋め立てられて、平坦になっています。魔林峡はここまでとなります。
この先しばらく何も見るものがありません。代わりに道沿いに句碑が並べられています。全国から公募した短文学コンクールの入選作品が並べられているようです。万葉歌碑ロードといます。
万葉の意味が理解できませんのでここは素通りです。
万葉歌碑ロードにそって句碑がいっぱい並んでいます。一個くらいなら見ても時間がそれほどかからないのでみようかなと思うのですが、これだけあれば切りがありません。結局は素通りです。句碑よりは川がどうなっているかみたいです。といっても堰堤の上流側なので、水がたまっているところか、土砂に埋め立てられたところしか見えないでしょう。やっと見えたところは、土砂で埋まっています。
しばらくはこんな感じなのかなと思っていたのですが、川(山国川)はすぐに淵となります。両岸も切り立ってきました。猿飛千壺峡が始まるようです。そうも先ほどの土砂の埋め立てられ所は、脇から流れ込む川が運んできた土砂によって埋め立てられた場所のようです。
両岸の岸が高くなるにつれ岩がでこぼこしてきます。水流によって岩が削られているようです。
このあたりは、天然記念物猿飛甌穴群のあるところです。「かめあな」は壺のようなへこみにも見えますから千壺峡というのでしょう。下流の魔林峡も甌穴群と書かれていましたが、こちらの方ままだ甌穴っぽい形をしています。
きれいな向きで撮れないのです、甌穴が連続しているといわれれば納得する形です。
川底はすぐに浅くなり、ちょっと歩くと渓谷というより普通の流れに変わってしまいます。
甌穴群を作るのは、説明では変朽安山岩となっています。最近ではあまり使われないことばです。安山岩が変質したという意味でしょうか。調べていないので正確なことはわからないのですが、地質図によるとこのあたりはかなり新しい時代の火砕流堆積物が谷底を埋めているように書かれています。岩石を見た感じでは安山岩というより集塊岩のように見えます。
少し引き返し、吊り橋を渡って反対岸にわたります。橋の上から見た千壺峡です。魔林峡ほど谷は深くありません。
対岸を上流側に行ってもすぐに谷底が浅くなります。というより、岩の上面の高さはほとんど同じで、川底が高くなった分だけ谷底が浅くなっているだけです。向こう側に吊り橋が見えています。
遊歩道はここまでです。駐車場においた自転車に乗って、魔林峡の駐車場に戻ることにします。その時にする事かあります。自転車を下ろして下の駐車場に戻るときに後ろのトランクを開けたまま走っていました。大丈夫だとは思うのですが、一応落とし物がないか確認しながら下りていくことにします。
なんとか耶馬溪というのは他にもたくさんあります。情報の入手できそうな場所としては、道を下っていった先にある道の駅耶馬トピアです。次の目的地はここにします。青の洞門の近くにあります。この時点では、ここしか思いつかなかったのですが、他にも、コアやまくにとか耶馬溪サイクリングターミナルとかいくつかあったようです。
山を下っていると、民家に飾られているこいのぼりが目に入ってきました。小さめのものがたくさん泳いでいます。この形のものはここしかみませんでした。このあたりでは普通にあるものなのでしょうか。
青の洞門のある本耶馬渓が近くなってきました。山の岩肌がむき出しになっています。耶馬溪の溶岩(溶結凝灰岩)が崩れやすいのと斜面が垂直の近いので木が生えにくいためでしょう。
耶馬トピアに到着しました。駐車場の前にある建物に入ったのですが、付近の農産物しか売られていません。パンフもあまり置いていませんでした。あとでわかったことですが、入ったのは農産物直売所で、道の駅本体は駐車場から橋を渡った先に資料館と一緒にあったようです。橋の先は林の中に入っていくような感じだったので、何かあると思わずいきませんでした。
ここにあった案内板をみていて興味を引いたのが、石橋がいくつかあることです。途中に見えていた羅漢寺橋とその下流にある耶馬溪橋です。まずは羅漢寺橋です。大正12年架橋です。橋の長さでは全国第4位になる橋だそうです。アーチが非常に緩やかなのが特徴です。技術的にはかなり難易度が高そうです。
橋から下流側です。本耶馬渓の競秀峰が見えています。この川側の崖下に青の洞門が掘られています。
次は、耶馬溪橋です。長さでは日本一だそうです。アーチが8個あるのも日本最大です。工事はしていましたが、川沿いまで下りることができて、したから見上げることもできます。
駐車場は国道沿いにあります。その橋からみた耶馬溪橋です。8連のようすがよくわかります。
振り返ると青の洞門の入り口が見えていました。左側の道の突き当たりです。だいぶ前に来たときに通ったのですが、狭いトンネルの中を車が行き交うので危なくて二度と通る気がしませんでした。今回はいっていません。
青の洞門は、見た感覚では今の国道のある方に道があれば、そんなに危険な思いをして歩かなくても良かった感じがします。洪水によって頻繁に道が寸断されていたからでしょう。
ここから先の行程です。宿のある久住山に行くには深耶馬溪を通ることになります。本耶馬渓からそちらにぬける新しい道ができているみたいですが、情報がないので地図にある耶馬溪ダムの方から行くことにします。途中に馬溪橋という石橋があるのはみおとしていました。
耶馬溪ダムです。治水のために作られたのでしょうか。
ダム湖です。このずっと奥が深耶馬溪になります。
さらに遡っていって、深耶馬溪の駐車場に到着です。ここからでも周囲に切り立った崖が見えています。
深耶馬溪の駐車場の端に観光案内所がありました。ここを見終わったらまっすぐ宿に向かわないといけない時間になっています。新たな情報が入っても意味がありませんが、一応周辺の観光情報を入手するために入ることにします。なんとかこの付近の案内図が手に入りました。詳しく書かれていると思ったのですが、合併前の耶馬溪町の範囲しか書かれていません。やまくにで入手したのは旧山国町の範囲だけでした。少なくとも中津市市内全部をまとめたものがあるといいように思います。
深耶馬溪での見所は一目八景という場所だそうです。そこに行くにはここから遊歩道を通っていくようです。遊歩道の入り口のような所は、広い駐車場の反対側です。駐車場はがらがらです。車を入り口に近いところまで移動させます。歩き始めたのですが、この先遊歩道入り口と書いてあって、肝心の遊歩道入り口まで思ったよりたくさん歩きました。遊歩道は歩きやすく整備されています。休憩できるような所もできています。
所々で見える岩の名前が示されているのですが、どの岩をさしているのかわかりにくいです。棒状のものの先とかといった方法を使った説明もありました。見えていた烏帽子岩です。烏帽子の形なのでこれはわかりやすいです。
仙人が岩です。仙人が何人かいるように見えるそうです。はっきりしているのは2人です。斜面にあるのも含めるのでしょうか。
鳥が上を向いていうような形の岩があります。ここでは説明はなかったのですが、この後展望台では鳶の巣山と書かれていました。鳥のようなものは鳶の雛だそうです。
遊歩道はこの先、落石してできたものか、岩の隙間を通るような所もあります。
駐車場から遊歩道に入るときに川を1度渡ったのですが、再びわたって川岸の道路のある側にでます。そこからは、遊歩道の上にあった山の斜面がよく見えます。群猿山というそうです。
橋の上から川底をみると、六角形をした岩がたくさん転がっているのが見えます。柱状節理に沿って割れて崩れ落ちた岩のようです。この付近でみられる崖も、柱状節理の発達した凝結凝灰岩でできているようです。
橋を渡って道路を少し進むと一目八景展望台に着きます。
このあたりは温泉旅館街です。道路からは景色はよく見えません。この展望台の上から景色が見やすくなっているようです。
一目八景展望台からは、周囲の山や崖がよく見えます。それぞれに名前がつけられいて、一目で八つ見えることから名付けられているようです。山の名前が書かれているのですが、全部あわせても8個はなかったようです。解説のないのもいくつかあるのでしょう。一目で8個ではなくたくさんという意味なのかも知れません。
昔に比べて木が茂ったために、見難くなってきたので、最近伐採したと書かれています。この作業を修景と一定いるようです。昔は、どうしていたのでしょうか。薪を取るために山に入っているというような場所ではありません。自然に崖崩れなどで更新していったのでしょうか。
ここから見える景色です。群猿山といいます。岩場に生えている木が猿のように見えることからつけられています。一部分の拡大です。
夫婦(ふうふ)岩です。この方角にあると書かれています。谷の奥に二つ並んでいる岩がそうでしょうか。説明の書かれた案内図はだいたいこの範囲が示されています。
駐車場側です。説明はありませんが、烏帽子岩や仙人が岩が遠くに見えています。
周囲を見た後、引き返すことにしました。遊歩道が川を渡るところからは、まだ山中に向かって道が続いています。行ってみたのですが、すぐに、山道となり、草が生い茂っていたり大きな岩が落ちていたりで、遊歩道として整備されているのではないようです。夫婦岩の修景のために作られた道でしょうか。案内板もありますが、草に埋もれています。看板にと書かれていた方向です。尾鹿長尾というのは地名のようです。
藪がひどくなってきたので、駐車場の方に引き返しました。途中で、展望所に上がる道がありました。こちら側にも寄ってみました。群猿山の岩場の下にたどり着いたようです。
見上げた群猿山の崖です。柱状節理の作る岩肌がまっすぐ上まで続いています。
対岸の山の斜面が同じ高さくらいに見えます。嘯(しょう)猿山です。猿の鳴き声が跳ね返って聞こえてくる山という意味だそうです。
見下ろした深耶馬溪温泉街です。一目八景展望台は赤い屋根の建物の手前側に半分木にかくれるようにみえています。
高くまで登ってきました。道はここで行き止まりなので引き返します。
深耶馬溪群猿山の展望所から下りて、駐車場に戻ります。この先まだ1時間以上走らないと宿には着きません。トイレをすませてから出発になります。トイレのある場所は、遊歩道入口側ではなく。観光案内所の隣です。再び車を移動させます。案内所はちょうど閉まろうとしていました。
車を下りて歩き始めると鳥の声が聞こえてきます。電線に止まっているのが見えます。キセキレイです。渓流沿いに多い鳥です。
このあと、まだしばらくは山移川ぞいに遡っていくことになります。川の両側に切り立った崖が続きますが、木々が生い茂っていてそのすき間からちらちらっと見えるだけです。道路脇に岩の名前がかかれていますが、見えづらいのとじっくり見るために車を止める場所がないのとで、なかなか何かわかりません。しばらくは道路の広くなったところで脇に寄せて撮った写真になります。
念仏岩と書かれていた場所です。通り過ぎてわかったことです。この奥に念仏(文字)の彫られた岩があります。
近くに帆掛岩と書かれた案内もあります。きれいに見える場所は少ないのですが、対岸の山の上に見えるこの岩がそうなのでしょうか。一番目立っています。
軍艦岩という看板もあります。車を走らせながらだとどれのことかよくわかりませんでした。道路沿いの崖ように見える岩がそれのようです。実際には道路との間に深い溝があるようです。
車を止めてしっかり見る場所がないまま峠を越えてしまいました。玖珠の町に向けて山を下ります。途中鹿倉の景という場所があったのですが、広い駐車場の入り口には柵がしてあり入ることができませんでした。展望台のようなものもあるのですが、そこから見えるのは普通の山のようです。
さらに下っていくと、正面に見えてきた山の形が気になってきます。大岩扇山です(たぶん)。溶結凝灰岩か玄武岩の作る柱状節理が並んでいます。耶馬溪のものか九重山関係のものなのか。どちらなのでしょうか。耶馬溪のものの方が時代は古くなります。
玖珠から九重町をすぎ、再び道は山の中に入っていきます。所々に崖があって、そこに露出している岩石が気になります。車を止めるところがないのと川向こうというのでくわしくはあきらめます。時間がないこともあります。少なくとも2種類の岩石があるようです。下側の古そうな地層の上に傾斜不整合で火砕流堆積物のようなものが乗っています。
車を走らせているとだんだん谷幅が狭くなってきます。両岸の斜面も切り立ってきました。所々に岩肌が見えるようになってきました。九酔渓にやってきたようです。
このあたりも道幅が狭く車を止めるところがありません。だいぶ登ったところで茶屋と書かれたところがありました。そこからみた谷底です。もうだいぶ上がりきってしまったようです。谷底の向こうに走ってきた道が見えています。
茶屋のあたりから道はだんだん平坦になってきます。二つ目の茶屋を過ぎると、普通の平野のようです。火砕流台地のようです。地名でいえば飯田(はんだ)高原というところにぬけたようです。ここには最近になって大吊り橋ができたようです。入り口の前まで来ましたが、入場時間が終わっているのでゲートが閉められています。だいぶ遅くなってきたので、このまえに車を止めて宿に到着時間の連絡を入れることにします。そのついでに、この先の道について確認することにします。持っている地図には、今いる県道をまっすぐ進むコースとやまなみハイウェイに迂回するコーストが書かれています。やまなみハイウェイの方を通るようにとのことでした。分岐点に注意しながら走らせましたが、こちらにくる方がまっすぐだったようです。
正面に九重山が見えてきます。鞍部のような所から噴煙が上がっているの見えます。硫黄山でしょう。見やすそうなところで車を寄せて写真を撮りました。あまり寄ると電線が被ります。
やまなみハイウェイとの合流点が近づいてくると、木々もまばらになり山がよく見えるようになってきました。九重山全景です。
合流点です。長者原(ちょうじゃばる)といいます。大きな駐車場があり、ビジターセンターや観光案内所等がありますが、閉館時間を過ぎています。なんかだだっ広いだけの感じの所です。駐車場横のたで原から向こうの山の斜面には、まだヤマザクラが咲いているのが見えます。
長者原からやまなみハイウェイにはいり、牧ノ戸峠を越えます。ヘアピンカーブが多くなり一気に高度が下がります。再び平坦になったあたりから久住高原になります。有料道路との分岐を過ぎ、国道と交差します。ここを左折して宿の方に向かいます。宿は、高原の中にあると思っていたのですが、林の中を突っ切るようになります。高度もさらに下がってきます。前に来たときは、すぐについたような気がしていました。だんだん道があっているのか不安になってきます。アザミ台というところで宿に再度確認の電話を入れたところ、間違ってはいないとのことです。そのまま走らせていくことにします。正面の切り通しに、きれいなローム層が見えます。こういうのをみると何が出ているのか気になってきます。
あと2kmほど走ったところで宿に着きました。なんとか、日が沈むまでには到着できたようです。アザミ台では雲に隠れながらも夕陽が見えていました。
一段落して食事をすませて、星が見られるか確認にでました。雲が多くだめかなと思っていました。少し多めですが、すき間から星が見えています。とりあえず雲が多いということでもわかる写真を撮っておこうと軽く準備を始めます。大して期待していなかったので、駐車場の宿のまん前で撮り始めました。とりあえず雲のなかった一画です。北斗七星が写っています。
雲がある写真ということで、東の空です。ふたご座とこいぬ座(プロキオン)が写っています。雲が流れているのがわかります。
ここまで撮ったところで空全体を見ると、外に出てきたときより雲が少なくなっているようです。赤道儀だけはセットすることにします。ここまでの写真は、三脚で固定しただけなので、星が流れています。
北西の空です。山の端ぎりぎりに写っているのが、ぎょしゃ座のカペラです。
北の空に彗星が二つ見えているはずです。ジョンソン彗星とタットル・ジャコビニ・クレサーク彗星です。位置は、りゅう座の頭が目印になります。探したのですが、その方向にはもやのようなものがかかっていて星がよく見えません。闇雲に写したら、目印のりゅう座の頭が写っていました。確認できたのは、パソコンの画面で見たからです。カメラのモニタではわかりませんでした。1週間早ければ、この範囲内に2つ彗星が入っていたはずです。
上にずらしたものです。やや左上にずれています。右上にずらしていたら、ジョンソン彗星が入っていました。
この方角の雲のようなものはなかなか晴れませんでした。後でいろいろなことを総合して考えてみたら、露天風呂の湯気だったようです。
周囲が明るいので、他の星も街灯の影響を受けてうまく写りません。場所を移動させるほどの時間は残っていませんから、早めに切り上げることにします。初めから、場所を移動させていればもっとよく星が見えたでしょう。この日は、宿到着後に星を見る場所を探す時間はありませんでした。
九州に入って5日目の朝です。今日は雲1つないいい天気となっています。この旅行中では一番いい天気でしょう。外に出て景色を見ることにします。
朝靄の中に遠くの山が見えます。方角的にみると阿蘇山の中央火口丘になります。2つ並んだ左側のピークが根古岳、右側が中岳と高岳になります。さらに右側緩く低くなっていく中で少し高くなっているところが烏帽子岳と杵島岳です。何となくカルデラの中に雲海ができているように見えます。
北側の山の斜面です。木々に朝日が当たって紅葉しているようにも見えます。
宿前の桜の木です。花は満開のようです。朝日に当たって赤く染まって見えます。
地面をみるとツクシが生えています。胞子嚢は開いてしまっているものの枯れていないところをみると、最近出てきたようです。
宿を囲む林にいたコゲラです。
宿前の道路を東に進みます。すぐに山側に分岐する道があってそのさきには赤川温泉・雄飛の滝があると書かれています。朝食時間までに行って帰ってこれるかどうかわかりませんが。こちらの方に行ってみることにします。
道は多少曲がっているもののほとんどまっすぐ続いています。林の上に九重の山が見えています。星生山南の山です。久住山は右端の方向です。
林の中に、時々鳥が見えます。写真に写りやすい所にはなかなかいてくれません。これは、何とか写ってくれました。カケスです。
赤川温泉に到着です。川に流れ込む流れに硫黄が沈着しています。硫黄分の多い温泉のようです。ここに写っているものは、風呂に引いた温泉水から流れ出してきたものかも知れません。
ずっとその奥に、滝が見えます。これが雄飛の滝でしょうか。これ以上近づくことはできません。温泉の犬がよく吠えるのですが、てなづける事はできませんでした。
戻らないといけない時間になっています。引き返すことにします。このままいってもこの先は登山道です。
宿まで戻ってきました。前に小さな池があります。のぞいて見たらたくさんのオタマジャクシがいました。
横の木にいたシジュウカラです。
池とか鳥とかゆっくり見ていたいのですが、食事時間になっています。食堂の方に急ぐことにします。
宿の精算をしようとしたときに、気がついたことがあります。宿のある竹田市と住んでいる市は姉妹都市になっている関係で、市に申請をすれば宿泊補助が出ます。かなりの額になるので申請すべきでした。手続きは旅行開始一週間前までとになっています。気がつくのが遅すぎました。前回泊まったときはこのような制度がある事自体知りませんでした。
宿がスタンプカードを発行してくれるというので作ってもらいました。前回泊まっているということが確認できたので、2回分のスタンプを押してもらいました。門限が難点ですが、星を見るのには良い場所なので、できればまた利用したいと思います。宿泊補助の方はいいとして、スタンプカードのことを覚えているかが問題です。その前にどこにしまっておくか迷います。
今日の予定です。このまま東に、竹田市街、豊後大野市、臼杵市にぬけます。時間があれば佐伯市を経由することもできます。臼杵市からは海岸沿いに北上して、大分から別府に行きここから19時35分発のフェリーで帰る予定です。
宿から市外の方に走らせるとすぐに松並木が見えてきます。旧小国街道の松並木です。駐車場がありますので車を止めて見ることにしました。
九重山方面です。松並木の続きが見えています。右端の一番高いところが久住山のようです。今回の旅行で、ここが久住山という写真は写っていませんでした。
松並木は遠くからみるだけにして先を急ぎます。
今度は、右側に進むと 白水の滝という標識がありました。みようとその方向に曲がったのですが、なかなかそれらしいものが出てきません。あきらめて元の道を進むことにしました。ちょうど土砂取り場のような所があります。シラスに似たような土砂です。ここで向きを変えます。
帰ってからわかったことですが、白水の滝までの距離が書かれていたのを見落としています。35kmというのはちょっと遠すぎます。
次に出てきたのは黄牛の滝と書かれた案内です。こちらは、曲がったあとも案内があります。それに従って進むと黄牛の滝駐車場に着きました。駐車場に車を止めたのはいいのですが、この先どこに行って良いか案内がありません。前に黄牛の滝小家がありますが、集会所のような建物で中はがらんとしています。少なくとも今来た方向にはなかったのでさらに進んで行くことにします。
川なども見えませんから、あるのかなと思いながら進んで行くと、ここを下りると黄牛の滝と書かれて標識が出てきました。進んで行くと崖を下りる階段があります。下りきった所に川があります。川沿いに遊歩道のようなものがあります。ここを上流側に進んで行きます。遊歩道は所々狭くなっています。振り返って見たものです。川の左側が遊歩道です。
進んで行ったところで、崖を落ちるしずくのような流れがあります。道はこの先木が倒れていたりと進みにくくなっています。
これが黄牛の滝としてはしょぼすぎます。足元が悪くなっていく道を進むのはちょっと不安です。おまけに、靴ではなくスリッパで下りてきました。歩きにくいことこの上ありません。
谷はだんだん狭くなっていきます。何とか道は続いているようなのでそのまま進んで行きます。
ついに両岸が切り立った崖になりました。川幅より崖の方が高い感じです。日も差し込みにくく、薄暗くなっています。
正面に滝が見えてきました。これが黄牛の滝でしょう。
「黄牛」と書いて「あめうし」と読みます。肥後地方にたくさんいた牛だそうです。昔ここに住んでいた龍が悪さをするので旅の僧が子牛の頭を生け贄として投げ込んで龍を鎮めたとかいう話が残されています。
谷の水深も深く滝の正面にまわってみることはできません。横から見るだけです。滝には半分だけ光が当たって写真写りは良くありません。
谷の対岸の岩をみていると、何となく虹のようなものがかかっているように見えます。普通の虹と違って上が青色で下が赤色ように見えます。
滝壺を写した写真です。上の方にほとんどまっすぐに虹のようなものが見えます。
色が逆ということは副虹なのでしょう。滝のような所ではあまりみかけません。そうだとすると、これより下側に主虹ができるているはずです。光の当たっていないところにできるので見えていないのでしょう。位置的には、写真の下の方くらいです。
滝から引き返し、崖を登る階段のところで対岸をみると、木の葉のようなものがたくさん風でで飛ばされ舞っているのが見えます。写真に写してみたところ奇妙な形に写っています。一時話題になったスカイフィッシュというのにそっくりです。昆虫が写っていると思っていたのですが、こういうのもあるようですね。そういえばこの話は決着がついたのでしょうか。最近は耳にすることはありません。
階段を上がったところでウグイスの声が聞こえます。探してみたところ、木の枝に止まるてさえずっているのが見えます。
滝を正面から見ることができなかったので、ちょっと不満です。下から見たときに上に道路が見えていましたから、上からもいけるはずです。まわってみました。
上流側は川岸に草がいっぱい生えていて河原に降りるができません。滝口にはこれ以上近づくことはできませんでした。
六角形の模様が見えています。柱状節理の断面でしょう。滝の下から見たときはそれほどはっきりしてはいませんでした。阿蘇山からの火砕流堆積物のように見えます。九重山より阿蘇山に近いところに来ています。
次の所に向かうことにします。ここに入ってきた道をそのまま進んでいくとどこかにぬけられそうです。戻らずにまっすぐ進みます。向こう側の道路沿いに崖が見えてきました。柱状節理のようなものが見えます。黄牛の滝よりだいぶ低い所に来ています。黄牛の滝でみた火砕流堆積物と同じもののようです。
このまま進んで行くと阿蘇山の方から竹田市にぬける道の方にでました。竹田市街は前回来た時に寄っていますので、今回は素通りして豊後大野市のほうに向かいます。
竹田市街の外れから豊後大野市に向かって車を走らせるていると、川底にふたたび柱状節理のような六角形の模様が見えてきます。車を止めることができたのはだいぶ行きすぎてからですから、模様はわかりにくくなっています。
このあたりは岡城の下になります。川向こうに岡城の標識が見えています。ここの道路は、大野市側から来ると、荒城の月のメロデーが鳴るようになっています。聞いていても車の接近時と通過後で音程が変わるので何か変に聞こえます。
竹田市岡城の下から峠を越えると豊後大野市になります。山を降りるとすぐに原尻の滝と道の駅が並んであります。豊後大野市にはジオパークが設けられています。その情報も入手したいので、道の駅から原尻の滝に行くことにします。
道の駅の近くまできたら右折の標識がみえたので、曲がりました。
しばらく走っていると、道脇から建物がなくなります。何か変です。標識の先の交差点で曲がらないといけないのに、標識の場所で曲がってしまったようです。戻ろうとしたのですが、一緒に曲がってきた車が後ろにいます。しかたがないので、左側に見える広い道にぬけられる道に入ることにします。道の駅を少し過ぎたあたりで道があったので、左折しました。すると後ろの車もついてきます。どうも後もつられて曲がってきたようです。目的地は見えていますので、後続車は気にせずに道の駅に向かいます。
道の駅に入ったのですが、お土産物がたくさん売られているほかはレストランで、特に案内所のようなものは見当たりません。土産物を買うとしたら後にします。とりあえずここは置いておいて、原尻の滝を見に行くことにします。ここからはすぐそばに見えています。近くに行く道もついています。川岸まで行ってみた原尻の滝です。火砕流台地を削ってできた滝のようです。南九州でみたいくつかのものと似ていますが、ここは崖の形がきれいな馬蹄形になっています。
ここに吊り橋が架けられています。
渡ってみます。滝の方をみるのが普通でしょう。逆らって反対側をみることにします。草木に覆われていてわかりづらいのですが、川の所だけ一段掘り込まれたようになっていて、両脇は垂直な崖になっています。
橋を渡りきって対岸を滝の方に近づきます。もっと大きな水流はこちら側から見た方がはっきりします。滝上の河原に鳥居があります。下をくぐってどこかに行けるようにはなっていないようです。
滝に近づくにつれて、虹が見えてきました。
滝とあわさるところが撮れないかと思ったのですが、これが限界でした。
滝の上流側に道が見えます。ここを通って元居た岸に戻ることにします。道から河原に降りてみた滝の上の岩石です。ここでも六角形の割れ口がはっきりと見えています。甌穴のようなものもあります。
滝口です。のぞき込まないでくださいと書かれています。滝をみるために無理をしないで、ここまでにしておきます。岩が滝の方に向かってやすりのようなもので削られたような溝ができています。
川を渡りきって道の駅まで少し進んだ所からみた滝です。滝上は平らになっているのがわかります。
これで原尻の滝を時計回りにちょうど一周したことになります。
原尻の滝を一周する直前の所から、滝下の河原に降りる道があります。降りて下から滝を眺めることにします。降りた河原は背丈くらいの高さの草がまばらに生えています。これを避けて写真を撮ろうとするとどうしても滝に近づくことになります。特等地は、三脚を構えたカメラマンが占拠しています。何とかそれを避けて写した写真です。NDフィルターを使ってプロが好む形にしてみました。近すぎるので全景を入れきることはできません。
どちらかというと、こちらの方が好きです。水が落ちているという感じがします。
滝の横に、古民家風の建物があります。水車や古い郵便ポストが置かれています。何かの店のようですが。閉まっていて何かわかりませんでした。
ここの水路に架かる橋です。1mくらいですが、しっかりとした石組みの造りになっています。
ここから見える対岸です。こいのぼりが見えますが、その横に形の違う幟が見えます。こどもの名前のようなものが書かれていますから、端午の節句関連のものなのでしょう。この地方の風習なのか、他でも何カ所かで見かけました。横の鳥居は滝の上の河原にあった鳥居の続きでしょう。この向こうに二宮八幡社というのがあるようです。
道の駅に戻り再度パンフ類がないか確認します。道路の向かい側にも建物があったのですがそちらは農産物しかおいていませんでした。こちら側の建物のパンフレット置き場のパンフを1枚いちまい確認していると、A3版3つ折りのジオサイトマップを発見しました。中身をチェックします。これから進んで行く方向にあるものとして、轟橋・出合橋・虹澗橋という石橋が気になります。沈堕の滝というのも見所のようです。まずは轟橋・出合橋の方に向かうことにします。この先、道の駅きよかわの手前の川沿いを遡っていけばいいようです、詳しいことはわかりませんので、道の駅きよかわで情報がないか寄ってからにすることにします。
清川に向かって走らせていると、横の川沿いに石橋が見えてきました。ホームセンターが近くにあったのでそこの駐車場を借りて見に行くことにしました。鳴滝橋というようです。大正11年完成です。
橋上から上流側を見ると九重連山が見えます。橋をくぐる川には鳴滝橋以外にも沈水橋がかかっているのも見えます。
道の駅きよかわは農産物直売だけで何の情報もありませんでした。轟橋はどこから行くかが問題です。橋はここから南に流れる奥嶽川にかかっているようです。地図で見る限りは、左岸側の道路は川から離れています。右岸側の道を進むことにします。どちらに通るにしても、いったん西側に進み、そこから南下することになります。
奥嶽川を渡るところで石橋が見えました。天然橋で大正10年架設だそうです。
橋の上からは小さな滝も見えます。
奥嶽川右岸沿いの道路を上流に向かって車を走らせています。所々に、この先稲積沈水鍾乳洞と書かれた案内板が立っています。この先にあれば寄ってみようと思っていました。天然橋を過ぎた所で、鍾乳洞方向は山越えになります。方向違いですので、こちらはあきらめます。水中にある鍾乳洞は、ダイビングでもしないと見えないはずです。もちろん泳げませんので、それどころの話ではありません。
道はだんだん狭くなっていきます。車の幅いっぱいになってきました。おまけにどの道がこれから進む道なのかわかりにくくなってきています。方向転換できるところがあったので引き返して左岸側の道路を行くことにします。
左岸側の道路は順調で、轟橋への分岐もちゃんと標識があり、無事に到着することができました。残念なことに、轟橋は工事のために立ち入り禁止になっています。今はちょうど昼休みの時間なので、工事は中断しています。こっそり入る事はやめておきます。低いところに降りる道があったので、降りてみた轟橋です。2連のアーチ橋になっています。径間の幅は日本一広いそうです。
下流側に見えるのが出合橋です。こちらは人が渡るために作られたもので、轟橋は森林鉄道橋です。この橋の径間も広く、轟橋に続いて第二位だそうです。
出合橋の方は、工事していないようで、渡ることができます。出合橋の上から見た轟橋です。
轟橋の工事は、崖が崩れやすくなっているため橋が壊れる恐れがあり、それを防ぐ補強工事だそうです。それに関連しているのかそうかはわかりませんが、出合橋から轟橋の横にある駐車場に戻るときに、向こう岸でちょっと大きめの落石がありました。木々が揺さぶられているのは見えましたが、写真に撮るときには葉っぱが舞い散っている状態だけになっていました。
轟橋から次は、沈堕の滝に向かいます。道の駅きよかわの先から大野の方に少し行ったところにあります。道が分岐してからすぐに大野川を渡ります。橋の上から沈堕の滝が見えます。橋を渡ったところに沈堕の滝と書かれたスペースがあります。ここからみた沈堕の滝です。
このスペースは、沈堕の滝駐車場ではないようです。道路を進み川を渡る脇道を入ってすぐ左側にあるようです。その通り行ってみました。遊歩道の入り口のようなところに車2台くらい止められるスペースはあります。ここにしてはちょっと小さすぎる感じです。他を探してみたのですが、それらしいものは見当たりません。結局、この場所に止めて見に行くことにしました。歩いて行くとこの先に広場があります。どうもここが駐車場で、遊歩道と思っていたところは車が通って良いところのようです。
ここから滝の方に降りていきます。道沿いにハンミョウがでていました。久しぶりにみました。近づくと先まで行って止まるという行動は相変わらずです。
沈堕の滝は、雄滝と雌滝があります。雄滝は大野川にかかるもので、雌滝は平井川にかかるものです。平井川は駐車場への脇道に入るときに渡った川です。遊歩道から雌滝が見えるのは滝口だけで、ここから落ちているというようすだけです。
東屋のような所をぐるっと回ると先に雄滝が見えてきました。その手前に廃墟のようなものが見えます。何なのでしょうか。
雪舟が陳田瀑図として陳田の滝を描いています。昔からの名所だったのでしょう。明治末期にこの滝の落差を利用して水力発電所が作られました。滝の上にも堰が設けられています。川の水は発電に使われ、一時は滝から落ちる水がなくなったようです。昭和になって元通りの滝がみられるように復元工事が行われ現在に至っています。滝の手前に見えていた建物は発電所の遺構となります。東屋のあったところから滝に行くまでの道順に沿ってみていくことにします。
最初に発電所建物の真上を通ります。用水を落下させていたような構造の所があります。この下で発電機を回していたのでしょう。
沈堕の滝から発電所跡に続く用水路です。今は水が流れていません。道はこれに沿って作られています。
水路の途中までは水が流れてきているようです。流れ落ちる水がみえます。
ここから、振り返って見た発電所遺構です。
発電所建物跡に行く道があります。進んで行ってみた建物内部です。左側に、導水管のあったところをふさいだ跡が丸くついているのが見えます。
水路沿いの遊歩道に戻り沈堕の滝(雄滝)の方に行きます。沈堕の滝は展望台からみるようになっています。そこからみた滝です。いくつかの筋になって落ちています。
沈堕の滝は13条の筋になって落ちているといわれています。川の水を分けている岩です。柱状節理の岩の隙間を滝が流れ落ちているようです。
滝の展望所で道は行き止まりです。広場に戻ります。ここに展示できるスペースが作られていて、発電所で使われていたタービンの軸が残されています。
この後まだ1−2ヵ所はどこかに寄れそうです。このまま北上して大分にぬけるのは早いようです。臼杵の方に回ることにします。元の国道にもどり西に進みます。しばらくは大野川沿いに下っていくことになります。
少し行くと正面に大きな崖が見えてきました。大野川はここで大きく左に曲がっています。崖は右側にも続いていますから、大野川だけが作ったものではないようです。帰ってから地図で確認すると、轟橋のあった奥嶽川がこの崖に沿って流れています。どちらかというと奥嶽川が作った崖でしょう。
岩戸の景観というそうです。崖の岩肌をよく見るとトンネルのようなものが見えます。手前に鉄橋が見えます。鉄道橋でしょう。列車に乗っていると岩壁に突っ込むような形で走っていくのでしょう。トンネルは百枝トンネルといいます。
大野川の対岸です。こちらもきれいな崖があります。岩戸の景観ほど高くありません。代わりに発達した柱状節理が見えます。同じ岩石なのかが気になります。残念がら渡ってみることはできません。
先に進みます。国道は右に曲がり峠を越えて隣の三重川の作る谷に入ります。豊後小野市の中心部を通りぬけた後は、臼杵市の方に入る道を進みます。この先、三重川を渡るところで左側に石橋が見えてきます。
虹澗橋(こうかんきょう)です。谷を渡る虹の橋という意味だそうです。文政4年(1821年)の完成です。
橋の方に行き、橋の手前の広くなった所に車を止め、見に行くことにします。
橋の上面です。車が通れっていたようですが、今は柵があって通れません。真ん中がちょっと盛り上がっています。
反対側に渡ってみた橋のようすです。この川に豊後大野市と臼杵の市境が設定されています。こちらは臼杵市ということになります。臼杵市側にも説明板がありますが、こちらの虹澗橋の「澗」の字は「潤(さんずいに閏)」となっています。
こちら側からは川底に降りる道がついています。スリッパできてしまいました。急斜面且つぬかるみ道は降りにくいのですが、無理して降りました。
下から見た虹澗橋です。
アーチの最上部付近を下から見上げたものです。向こう側の要石は何個か下にずれているようです。初めからこうなのか、後で動いたのかどちらなのでしょうか。
橋脚部です。何となく開いているような感じもします。
虹澗橋から臼杵市街に向けて走る途中、佐伯の方に曲がり7kmほど行くと風連鍾乳洞があります。こちらの方に行くことにします。稲積鍾乳洞へ無理に行かなかったのは、こちらに鍾乳洞がある事を知っていたからです。
佐伯への道路から分かれ山の中に少し入ったところに、風連鍾乳洞はあります。洞前の駐車場は広く、ここから鍾乳洞観光センターまでもちょっとあります。花などを見ながら歩いて行きます。今は藤の花が咲いています。途中2ヵ所に吉四六さんの昔話が書かれた看板があります。この近く以外にも何カ所かにありそうです。
奥に見える観光センターです。ここが入洞券販売場所・改札になっています。
鍾乳洞の入り口まで観光センターをぬけてから遊歩道を歩いて行きます。ちょっと登り坂ですが、歩きやすい道です。アプローチとしては長い感じがします。
鍾乳洞の入り口の横に探検口があります。鍾乳洞の発見後、調査のための出入りはここからおこなわれていたそうです。今は横に大きな入り口が作られています
入ってすぐは普通のトンネルです。壁面の所々に鍾乳石がついていたり、穴が開いていたりします。
鍾乳洞ぽくなってきました。全体的に泥が被っているようです。濁流が流れ込んだのでしょうか。
鍾乳石群です。ここのものも泥っぽい感じです。
亀さんと書かれています。形は亀に似ています。鍾乳石(石筍)なのか泥のかたまりなのかちょっと悩みます。
ちりめん土手です。フローストーンが作った土手です。表面がざらざらした感じなっています。
瑞雲の滝です。石柱状のフローストーンが滝のようになっています。
もうかなり奥まで来たような感じがします。
鍾乳洞の半ばをすぎたくらいのところで奥からやってきた夫婦連れから、奥は素晴らしいですよといわれました。あまり期待はしていませんが、楽しみにしますと答えておきました。もらったパンフには洞内の地図がありません。後どれくらい残っているのか見当はつきません。といっても、見学場所の設定は限界があります。そろそろ終わりかも知れません。
階段があり、その先に無数の鍾乳石が見えてきます。何となく期待が持てそうな感じがしてきました。
階段を上った先はホールになっていて、無数の鍾乳石や石筍が所狭しと並んでします。らせん状に奥に上っていく階段があります。
ホールの中央にあるのが、競秀峰という巨大な石筍群です。天井近くまでのびています。
らせん状の階段に沿って、壁面に石筍やフローストーンができています。いろいろと名前がつけられています。
一番奥にあるのが天上界です。ここがホールの中では一番高くなっています。
天上界から見下ろしたところです。真ん中に競秀峰が低く見えています。
ホールの入り口まで戻ります。天井には、カーテンや鍾乳石が無数に見えます。左側の幕のようなものがカーテン、右側の棒のようにぶら下がっているのがしょう乳管です。
パンフレットには、10cmくらいの大きさのヘリクタイトがあると書かれています。鍾乳石からひげのように伸びているものです。探したのですが、よくわかりません。緑っぽい色をした所は横に延びているようですが、鍾乳石からではありません。スポットライトが当たったように写っているのは、改札口で貸し出してくれた懐中電灯で照らしているからです。
左側の鍾乳石に糸くずのような形で見えます。他の鍾乳石の根元がコブコブしているのは、ヘリクタイトができかかっているのでしょうか。
これなんかもそれらしく見えます。飛び出しているのか壁面にへばりついているのかよくわかりません。
帰ってパンフを見直してみると、全体図にヘリクタイトがあると書かれている場所より上側(手前)にヘリクタイトが写っていました。
あまり時間をかけていられませんので、あきらめて引き返すことにします。洞内からみた、鍾乳洞出口です。
フェリーの時間を考えたら、臼杵市内へはいけそうですが、まわるのにそれほど時間は取れないようです。臼杵城か稲葉家下屋敷かどちらかになりそうです。下屋敷の方にいくことにします。下屋敷の前に駐車場がありますからここに車を入れます。有料でした。事前に入手していた市内地図には、駅前の駐車場は有料駐車場と書かれていてここは普通に駐車場と書かれているのでてっきり無料だと思っていました。
駐車場から、下屋敷の方に行きます。見えてきたのは立派な塀です。
受付で入館料を払います。他との共通券はないのか確認したのですが、ここだって入れるぎりぎりの時刻になっています。他に行く余裕はありません。意味がなかったようです。
稲葉家下屋敷の玄関です。右側に内玄関があります。
下屋敷本体は大書院と御居間、台所の3つの建物からなります。これは大書院と他の建物をを結ぶ畳廊下です。
大書院の床の間です。
事の間を通りぬけると庭園が見えます。下りられようにスリッパがあります。庭園の西側からみたものです。
庭園の奥には旧平井家住宅があります。安政年間に建てられた武家住宅だそうです。
住宅の表玄関(右側)と内玄関です。
縁側から離れです。
再び、稲葉家下屋敷の建物に戻ります。庭園側から見た大書院(右側)と御居間です。
西の間です。昭和初期に増築されたのを別棟として改築したそうです。
庭園に下りた所から再び大書院内部に戻り中の見学を続けます。台所内部です。二階に上がる階段があります。かなりの急角度です。
御居間の床の間です。
説明とかパンフを見ながらとかする余裕もなく大急ぎでまわったために、こんなのがあったということくらいしかみていませんでした。記事の内容もその程度のことになってしまいました。
稲葉家下屋敷の中は何も考えずに歩いたので、後で写真を見直しても、どこをどう撮ったものかわかりません。外からの写真と内部の写真が入り乱れています。だいたい整理がついてわかったのは、大書院を通りぬけて縁側から庭園に下り、そのまま平井家住宅に行った後、西の間を外側からみて大書院に戻り、縁側から建物内部に入っています。内部では畳廊下を通って台所、台所2階へ行き、御居間をみてから表玄関からでて、反時計回りに御居間・台所の東側にまわっています。
台所と塀との間にあった建物です。パンフには、土蔵とか茶房下屋敷とか書かれた場所があります。これもわかりにくくしている原因のようです。元々は土蔵であったものを、食事ができる場所として、茶房下屋敷という名前でオープンしているようです。行った時は時間帯のこともあります。閉まっていましたから余計何かよくわかっていません。おまけに、パンフには井戸も書かれていません。
台所を北東側からみた所です。奥に土蔵が見えています。
稲葉家下屋敷は、その名前から家老あたりの役職を持つの建物と思っていました。実際はそうではなく、廃藩置県によって東京に移住した旧藩主が臼杵で滞在する場所として明治末期に建てられたものです。意外と新しいものです。
横にも古そうな建物が並んでいます。この建物は図書館とかかれていました。元々、大正時代に三菱財閥の番頭から寄付を受けて作られた図書館です。
このあとのことです。そのまま別府まで行っても良いのですが、ここに来る途中で三重の塔が見えていましたのが気になります。ここだけ行っておくことにします。歩いてだとどれくらいかかるかわかりませんから、自転車で行くことにします。
目的の場所まですぐにつきました。このあたりにはお寺が何軒かあり、そのどれかというので少し探しました。龍原寺というお寺にありました。太子塔ともいわれているそうです。
帰り道です。狭い道を車がやってくるので、それを避けながら路地を進んでいるも全く違う方向に行ってしまいました。途中、見えたものをいくつか紹介します。坂道の石垣の上に社が見えていました。下にあった説明板には畳屋町八幡社と書かれています。これのことだったのでしょうか。GPSは車においてきています。詳しい場所が確認できていません。
その先に、立派な楼門のあるお寺があります。月星禅寺です。時間的には詳しく確認している余裕なかったので。前を通り過ぎただけです。
辻にあった石巌當です。臼杵市では「せっかんとう」と読むそうです。建物につけられたものではなく、市場の中に喧嘩口論を鎮めるために作られたものだそうです。この旅行中では始めてみます。
中央通り商店街です。これも古そうな感じがしたので写してみました。パンフには安土桃山時代から続いていると書かれています。眼鏡屋のご主人さん、写真のために道を空けていただいてありがとうございました。
この通りにある脇道をぬけたところに駐車場はあります。来るままでもうすぐです。
臼杵市の駐車場を出発した時点で、フェリーの出発時刻まであと2時間半を切っています。1時間前までに到着するようにと指示がありますから、時間に間に合うように行くには高速道路を使うしかないでしょう。地道ではかなり遠回りになります。カーナビの出した道は大分米良ICまで行ってそこから一般道に入るものです。渋滞とかがなければじゅうぶん間に合うコースでしょう。この通り行くことにします。
大分米良ICから北上する米良道路に入ります。有料道路と道路地図には書かれているのですが、料金所はありませんでした。無料になったのでしょう。高架をぬけて車線が広くなったあたりから車が増えてきます。ほとんどが右車線を走っています。この先大分中心部の方に左折するので左側車線を走らせます。右側車線はかなりの渋滞になってきたのですが、左側車線はスムーズに動いています。大分方面への左折信号で2回待ちました。これくらいは普通でしょう。
と思っていたのですが、左折したとたん車が動きません。このままだとフェリーに間に合わないこともあります。何か方法を考える必要があります。すぐに、大分光吉IC200m先左折の標識が出てきました。信号待ちの間に確認すると、ICまではだいぶあるものの、大分市街をぬけるよりは早くなりそうです。こちらも渋滞していれば間に合わないことになります。
左折するまで、距離の割りには時間がかかりました。左折してからも、車が多めで渋滞に近い状態です。かろうじて動いているという感じです。カーナビはしつこく大分市街地のに戻る道を指示します。これは完全に無視です。設定を変えている余裕はありませんし方法もわかりません。ちょっと時間はかかったものの大分光吉ICにつくことができました。
IC手前では臼杵方面の入り口の指示はありますが、別府方面の指示がありません。高架道路をくぐっているときに、右側に別府方面の料金所が見えました。この場所からは右折して料金所に行くことはできません。対策を考えるために、交差点先のコンビニの駐車場に車を入れます。
コンビニから道路を横断できません。横に自動車道の側道から分岐してくる道があります。この道を側道の方に行ってもIC入り口の交差点は左折しかできません。この道を逆方向に行って、左折専用レーンが分岐する手前ところから側道に入ることにします。全部で40分ほどロスしたようです。
何とか、別府ICに到着です。この時点で出航1時間前を切っています。それでも急げば何とか載せてもらえるでしょう。カーナビの指示は、北回りのコースもあるのですが、いったん南下となっています。別府市街が渋滞しているとアウトになります。北まわりのコースもよくわかっていませんから、指示に従うことにします。ここも車は多めでしたが渋滞というほどではなく、ちょっと時間がかかったものの無事にフェリーターミナルに到着しました。買い物をしている余裕はありませんでした。
ターミナルでは先に乗船券を買おうと車を走らせましたが、一方通行の道が多く暗くて何回も逆走をしそうになりました。おとなしく、車を並ばせて乗船券を買うことにしました。切符売り場では、客室はいっぱいだといわれました。上の等級の船室なら開いているようです。差額が大きいのでこのままにすることにします。前にあった売店で弁当を買って車の所に戻ります。
戻ったらすぐに、船に乗るように指示が出ます。その前に了解を取って2−3枚写真を撮らせてもらいました。これから乗るフェリーです。入り口では係員が入るように合図しています。もうあと何分か遅かったら乗れなかったかもわかりません。
フェリーの車両甲板はがらがらです。船内がいっぱいというのは信じられません。車を指示通り止めて、必要な荷物を持って客室に行きます。確かにいわれたとおり、たくさんの人がいます。ほとんどが徒歩乗船のようです。
いったんデッキに上がります。別府市街背後の山の上に三日月が出ています。
出港までまだほんの少しだけ時間があります。この間の買っておいた弁当を食べます。最近は見かけなくなった、テープ流しもおこなわれたようですが、見損ねました。
船はだんだんと、別府から離れていきます。
帰ってから市街地を撮った写真を見ていると、オリオン座が写っているものがありました。船の黒い煙の筋情報にベテルギウス、そのやや右下にベラトリックス、煙を挟んで反対側に三つ星、その下にサイフ、そこから左上にリゲルが見えます。ゆれる船の上で、ここまで写るとは驚きです。手ぶれ補正恐るべしという所でしょうか。
天気がいいので星を見ることもできます。船内に星空案内のパンフも置かれています。意外とデッキは明るく、船からでる煙も濃いようです。星見はやめにします。その後はする事もないので、風呂に入って、寝ることにしました。周囲にいる人たちも、早くから寝始めています。
寝る前に船内の案内を見ていたときに、来島海峡大橋・瀬戸大橋・明石海峡大橋の通過予定時刻が書かれているのを見つけました。来島海峡大橋・瀬戸大橋の通過は夜中になります。この時間帯に起きてごそごそするのもはばかられます。目が覚めるかどうかも問題です。船の構造上船室からデッキまで大きくぐるっと回らないといけないというのも大変です。無理はしないことにします。
翌朝です。目が覚めて、一番気になるのはどこまでやってきているかということです。右側に陸地が見えています。四国かなと思ったのですが、このあたりでは船の位置からはだいぶ離れているはずです。淡路島のようです。
船の進行右前方をみると太陽が高く昇っています。日の出には間に合わなかったようです。その下に明石海峡大橋が見えています。右側に見えている陸地は淡路島で正解だったようです。
船は、明石海峡大橋に近づいていきます。橋桁や車がすぐそこにあるように見えます。
主塔のてっぺんも細部までよく見えています。
まもなく、真下を通過します。橋桁を下から見たところです。タコフェリーがあった頃は、乗る度に見上げていました。
通過直後の橋です。吊されたケーブルに朝日が反射して光って見えます。
漁船が多数でています。このあたりではタコと鯛が有名です。たこつぼのようなものは積んでいませんから、鯛なのでしょうか。
時々、真上を飛行機が通ります。関西空港に向かうようです。空港の位置を確認しようとするのですが、飛行機の高度が低くなると見失ってしまいます。結局港に着くまでどこにあるのかわかりませんでした。
進行前方に、コスモタワーが見えてきました。目的地の南港はすぐそこです。といってもこの時点でも、どのあたりに着岸するのかはよくわかっていません。
アジア太平洋トレードセンターのすぐ近くまでやってきました。この岸壁に着岸するようです。
後方には同じマークの入った船が、いつの間にか後ろについていました。少なくとも南港の入り口を入ったときにはいたようです。志布志港からやってきたフェリーです。
車両甲板に降りて良いと放送があったので、降りていきました。ところが、車が見当たりません。数が少ないので、チェックは簡単です。もう一つ下の階に降りていったら、こちら側にありました。階段の数を覚え間違っていたようです。 車に乗り込んだら、すぐに出すように指示されます。3回とも乗るなり車を出しています。
前回は、地道で帰ったら渋滞にかかり3時間近くかかっています。今回は高速道路を使うことにします。これでも高速道路を降りてからは、前回渋滞にかかっていた場所を通ります。ここの渋滞は避けられないでしょう。咲洲トンネルを通ってから高速道路に入ります。もたもた走っていると後からせっつかされるし、速度取り締まり装置の前でも車の流れが速くこの道は未だに慣れません。
高速道路を降りてからの道もそれほど混んではなく順調に帰宅することができました。
<阿蘇山>
今回の旅行記のタイトルは、阿蘇山を臭わせるようなものになっています。何かないかと考えている内に、阿蘇山を一周するということで、このタイトルを思いつきました。実際にはそれほど阿蘇山に近づいていないので、「大回り」をつけることにしました。これで、なんとか制限文字数10文字以内に治まりました。ただあとで、これでもタイトルが長いという気持ちになってきたので、「大回り」を取ってしまいました。
実際に阿蘇山がどの程度関連していたかをみていきます。
九州に入って1日目は、完全に阿蘇山の範囲外でした。相良村の北側に阿蘇山の外輪山だけでもが見えないかと期待したのですが、違う山でした。元々阿蘇山の外輪山は外からではわからないのが普通です。そのようすは、久住山からの写真を見るとよくわかります。
2日目はもっと離れて通過し、3日目の御船町でいったん阿蘇山に近づいています。ここでは、阿蘇山関連のものはみられなかったようです。その後八女市上陽町を通過します。アーチ橋の多いところのようです。阿蘇山との関連については後述します。
その後は再び阿蘇山から離れ、久住山で始めて阿蘇山をみることになります。久住山を降りた後は阿蘇の山麓に入ります。いくつかの滝をみましたが、阿蘇山の岩石を削ってできたものです。その後は再び阿蘇山から離れていきました。
この間で気になるのが、阿蘇山の岩石と滝との関係です。阿蘇山は何回か大規模な噴火をしています。その中で最も大きなものは、約9万年前の4回目の噴火です。この時の発生した火砕流は九州全土をほぼ覆い尽くした上に、山口県の一部にまで達しています。周辺には厚い火砕流堆積物がたまり、阿蘇山中心部には現在みられるような形のカルデラが作られたようです。また、この時にできた岩石は阿蘇の灰石とよばれ周辺各地で利用されています。阿蘇山の大規模噴火はこれが最後になります。
阿蘇山周辺各地でみられる地層はほとんどがこの時の堆積物(ASO-4と名付けられている)です。これと滝との関連でみていくことにします。最初に阿蘇山起源の溶結凝灰岩がみられたのはおそらく黄牛の滝でしょう。ここから豊後大野市の岩戸の景観までほとんどこの川沿いにまっすぐ下っていくことになります。黄牛の滝から2.5kmの相原では、道路沿いに溶結凝灰岩がみられました。竹田市岡城南の大野川河床に再び阿蘇山起源の溶結凝灰岩が出てきます。相原から7km離れています。次に出てきたのが原尻の滝です。岡城から4km離れています。その次が沈堕の滝です。原尻の滝から7kmです。ここから3kmで岩戸の景観につきます。
ここで奇妙に感じていたのは、地質調査の原則のようなものがあったからです。特に大きな地殻変動を受けていないところでは、まっすぐで傾斜がほとんど同じ道があったとき、進んで行くのに従って下の地層が見えてきたら、それがずっと続くというものです。阿蘇山噴火頃の地層はこの影響を受けませんから、この原則に従うはずです。最初に黄牛の滝から相原にぬけるときに阿蘇溶結凝灰岩層を上から下へと見ていきました。としたら、次に見えてきた岡城下ではこの地層より下のものになると考えるのが普通です。岡城下と原尻の滝の関係ははっきりしません。とりあえず同じとしておきましょう。原尻の滝でいったん地層の下に入っていますから、沈堕の滝は下の地層ということになります。沈堕の滝からは下の地層に入っていませんから岩戸の景観とは同じ地層と見て良いでしょう。となると最低でも3つの溶結凝灰岩を見たような感じになっています。
何を間違えていたのかわかったのは、岩戸の景観の写真を見ていたときです。岩戸の景観の崖は一枚岩のように見えます。これを見た場所から大野川の対岸を写した写真には明らかに溶結凝灰岩の柱状節理が写っていました。崖の高さは全く違っています。気がついたことは、岩戸の景観の崖は、阿蘇火砕流堆積物の断面が上から下まで見えています。対岸の写真も阿蘇溶結凝灰岩がたぶん上から下まで見えているでしょう。
岩戸の景観では阿蘇溶結凝灰岩がどこに行ったのかが問題となります。初めは断層か何かがあって違う地層が見えていると思っていたのですが、これは間違いだと気がつきました。阿蘇山の9万年前の噴火で、大規模な火砕流が発生します。これが、阿蘇山周辺では厚くたまっています。火砕流によって運ばれてきた火山砕屑物がたまると底の方では、自熱によって堆積物が溶け直し再び固結することで固くなります。このようにしてできたのが溶結凝灰岩です。つまり、火砕流堆積物の底の方に溶結凝灰岩があるということです。岩戸の景観でみるとJRのトンネルがあるところから下が溶結凝灰岩になっていて、それより上は普通に火山灰がたまっている(非溶結部といいます)だけということです。
阿蘇火砕流堆積物(ASO-4)があるかどうかは地形を見るとわかります。火砕流が流れると地形が平坦になります。火砕流台地といいます。この平坦なところを探せばいいだけです。溶結凝灰岩の上面は滝の上面でわかります。原尻の滝のように平坦になっていることがありますから、これを探しても見つけることができます。このようにして地形図から読み取った、火砕流堆積物の上面の標高と、溶結凝灰岩の上面の標高は次のようになります(この順番に並べて書きます)。
黄牛の滝(540m−410m)
相原 (480m−380m)
岡城 (340m−230m)
原尻の滝(280m−180m)
沈堕の滝(220m−130m)
岩戸の景観(200m−100m)
とどこも火砕流台地の上面から下100mあたりより下が溶結凝灰岩になっています。このことから、各地で見られていた溶結凝灰岩は全て同じものということになります。
ここで問題になってくるのは、だいたい同じ地層を見続けているのに、上の方をみていたり下の方をみていたりすることです。阿蘇山噴火による火砕流台地の上面をみているとどこでも同じ傾斜ではなく、傾斜の緩いところときついところがあります。原尻の滝西方の台地の上面でみてみると、4kmの竹田市鞍ヶ田尾(岡城の南400m)では340m、2kmの豊後大野市草深野では330m、原尻の滝付近でははっきりとした平坦面はありませんが、丘陵の一番高いところが270mなのでだいたいこれくらいの高さでしょう。同じ東西2kmなのに竹田市内は10m、豊後大野市内は60mも低くなっています。
傾斜が違う原因ははっきりしています。竹田市と豊後大野市の市境付近に、古い時代の岩石が露出している山が並んでいます。阿蘇山が噴火する前からあった山だとわかります。阿蘇山から流れてきた火砕流はこの山でせき止められます。西側ではダムのようにとめられますから、ほとんど水平にたまります。東側では、山をぬけてきた火砕流が斜面を下っていきますから、傾斜はきつくなります。非溶結部(普通の火山灰の部分)はだいたいどこも同じ厚さでしたから、溶結凝灰岩の上面も同じように傾斜が変わっているといえます。
当然、川の傾斜も一定ではありません。溶結凝灰岩層の傾斜との関係で、地層の上を見たり下を見たりすることになります。滝がある場所に注目が行きがちです。こういう所は地層を上から下に見ていく所になります。そこばかりをみて、全体的に下の地層をみていると勘違いしてしまったことが混乱の原因でした。
原尻の滝から沈堕の滝まで、緒方川に沿って同じ地層が2回出てきた理由について考えてみます。緒方川の流れにそってみていくことにします。原尻の滝では緒方川は南から北に流れています。この区間では地層が東に傾いている影響を受けないので、地層の上の方から下の方へと順番にみていくことになります。そして原尻の滝で溶結凝灰岩を横切ります。ここに滝が作られるわけです。
滝を過ぎてから、川の流れは東に変わります。今度は地層が傾いている影響を大きく受けます。川の傾斜はあまり変わりませんから、今度は上の地層へと見ていくことになります。川岸は初めは深く削られますが、次第に浅くなっていきます。滝の東2kmほどの所にある緒方駅付近ではほとんど田んぼ面と川底との段差がなくなっています。空中写真を見ても、緒方駅南西方で川底に岩が露出しているところが続いています。ここで、溶結凝灰岩を下から上に横切ったことになります。
緒方駅を過ぎたあたりから、火砕流台地の上面の傾斜は緩やかになります。地層の傾斜も緩やかになっています。このあたりから再び、地層を上から下に見ていくことになります。再び溶結凝灰岩を横切る場所が沈堕の滝となります。
大野川に沿った空中写真をみていても同じ事が見えます。岡城の下流で、黄牛の滝から流れてきた稲葉川などいくつかの川が合流したさきに滝があるのが見えます。その後すぐに岩場の多いところが続きます。その後緒方駅の北川付近で川底に再び岩場が見えてきます。さらに下流で緒方川と合流した直後に沈堕の滝となっています。
よく考えてみると、地層を逆の順番で見ていたところもありました。岡城の南側では、初めははっきりとした柱状節理が見えていたのに、車を止められたところではそれがあまりはっきりしていませんでした。火砕流堆積物の非溶結部に入ったことを示しています。明らかに下から上へと見ていったことになります。
岡城付近では、いくつかの川が蛇行しながら合流しています。このようなことが起こるのは、水の流れをせき止めるような場所があったときです。火砕流が山にせき止められ流れにくくなったことと関係しているでしょう。火砕流台地の上面の高さはほとんど同じです。火砕流が流れた後、台地にたまった水の流れが悪くなったでしょう。なかなか出て行かなかったようです。そのため、浸食が他の場所に比べてゆっくりとしていて、下の方の地層までは削られる事がなかったのでしょう。この付近の川底には地層の上の方が露出することになるでしょう。
<溶結凝灰岩>
今回の旅行中にいくつかの溶結凝灰岩にであいました。例を挙げてみます。阿蘇火砕流の溶結凝灰岩もそれなのですが、人吉市の釜の奥戸の加久藤溶結凝灰岩、深耶馬溪の溶結凝灰岩がそうです。おそらく、奥耶馬溪の変朽安山岩とされていたものも溶結凝灰岩なのでしょう。溶結凝灰岩にはなっていませんでしたが宮崎市や西都市のシラス(入戸火砕流堆積物)もその仲間みたいなものです。玖珠町大岩扇山の柱状節理も厚さからみて溶結凝灰岩の可能性が大きいようです。
釜の奥戸で見られた加久藤溶結凝灰岩は、鹿児島県伊佐市で曽木の滝や、宮崎県都城市で関之尾の滝を作っています。(この2つの滝については
「島津氏膝元駆抜る」に書いています)釜の奥戸で滝ができていなかったのは、単に厚さが薄いからにすぎません。2−3mくらいっだったでしょうか。薄い原因は噴出源から遠いためだと思っていました。噴出源の中心を決めるのは難しいのですが、噴火の中心からのだいたいの距離を求めてみると、曽木の滝で22km、関之尾の滝で35kmなのに対して釜の奥戸で16kmと一番近くなっています。鹿児島・熊本県境の山地が火砕流の流れを止めたのでしょうか。そうだとしても、人吉城近辺にシラス(噴出源は鹿児島湾)がせき止められずに流れてきているのが不思議です。
ここにあげた溶結凝灰岩にできた滝は、平野を削り込むようにして作られています。高さの割りに幅が広いのが特徴になっています。その理由については、
本家の方で説明があります。そちらを見てもらうということで、ここでの解説は省略させていただきます。
この溶結凝灰岩でみられるものとして、甌穴があります。釜の奥戸もそうでしたし、奥耶馬溪にもたくさん見られました。奥耶馬溪の説明には、甌穴が連続してつながってこのような奇勝を作り出したと書かれています。これはかなり無理があるようです。甌穴がつながったとたん、甌穴に入った水はぬけていきますから、上の方の甌穴の口のあたりは以後削り去られにくくなります。実際には、両岸は切りたった崖のようになっていますから、上から順番に削られていったとみる方が自然でしょう。
水が流れているところの溶結凝灰岩をみると、スプーンのようなものでこすぎ落とされたようになっているところがたくさんみられます。洪水時に流されてきた土砂が、ガラス細工のサンドブラストのように岩石を削っていったものとみた方がいいでしょう。甌穴がつながったのではなく、川の流れの乱れが岩を曲線的に削っていったのでしょう。
<アーチ橋>
今回の旅行で最初にアーチ橋が見られたのは八女市上陽町の洗玉めがね橋でした。その後豊後大野市ではいくつかのアーチ橋を渡り歩いています。前に、この付近に来た時にたくさんあるということを知ったので、興味があり、いくつか見て回ったという次第です。上陽町・豊後大野市ともアーチ橋の多い町です。今回はまわりませんでしたが、竹田市にもたくさんあるようです。
洗玉めがね橋の解説では、阿蘇山起源の石で作られていると書かれています。石をどこから持ってきたかは不明ですが、たぶん、この付近にたくさんあるのでしょう。阿蘇山起源の石といっても、正確には阿蘇山の溶結凝灰岩(灰石)です。最後の大規模火砕流(Aso-4)によってできたものです。柱状節理で割れたブロックの大きさが加工するのにちょうどいいくらいの大きさだということと、加工しやすさの割りに適度な強度を持っていることがその原因だと思われます。上陽町や豊後大野市では、加工のための技術を持った石工さんも多かったのでしょう。
アーチ橋の技術は、江戸時代末期に外国からもたらされたものです。その時に、この地域で、石を加工する技術を持った人たちがたくさんいたこと、洪水で橋が流されるということが頻繁に起こっていたことなどがあわさってアーチ橋がたくさん作られるようになったのでしょう。
<古墳>
九州に入って初日は、古墳群巡りになりました。この日は、施設の多くがが定休日で閉まっていたため、情報の入手が限られていました。わかったことや考えたことなどを整理します。
周辺の古墳群との関係は、生目古墳群のパンフレットからわかります。前方後円墳でみると、出現はどちらも4世紀ですが、生目古墳群は5世紀になるとほとんど作られなくなります。この頃に西都原古墳群で最大の男狭穂塚・女狭穂塚ができます。古墳、特に前方後円墳は首長の勢力が関係しているとされています。このことから、4世紀に生目周辺に大きな集落があったものが、5世紀になると衰退し中心は西都原に移っていったようです。その後6世紀の古墳が見られるのは西都原の近くの新田原になります。
この地域では、地下式横穴墓という形式の墳墓が見られ、古墳と一緒に見られるのが特徴だそうます。その模型が、宮崎県立博物館に展示されていました。帰ってから記録を整理できるまで、関連が理解できていませんでした。生目古墳群ではいくつかの古墳で、取り囲むように作られているようです。石棺も見ることができました。全景やその位置を示す目印みたいなものがあったらわかりやすかったかも知れません。西都原にも2ヵ所ほど展示しているところがあったようですが、入り口を覆っている建物だけしか見ることができませんでした。中まで見られれば博物館の展示との関連が理解できていたかも知れません。
前方後円墳は大和朝廷と関連しているといわれます。宮崎県には天尊降臨の神話があります。宮崎県でたくさんの古墳がみられるのと何か関連がありそうなので調べてみました。実際に、前方後円墳が作られはじめるのは、奈良盆地南部で3世紀のことです。ここから交流のある地域に広がっていったとみるのが妥当なようです。天尊降臨については、権力の中心になった部族が宮崎県からいったという事なのでしょうか。
宮崎県のいくつかの古墳群をあわせて世界文化遺産に登録しようという動きがあるようです。大阪府の百舌鳥古墳群・古市古墳群も世界文化遺産に登録しようとしています。どこもかしこも同じようなもので登録となるとうまくいくのかどうか心配です。
今回は、見て回りませんでしたが、長島町にもたくさんの古墳があるようです。花フェスタで流れていた町歌のような音楽の歌詞にあった「古墳の町長島」というのが耳について離れませんでした。
<ジオパーク>
今回の旅行中に2つのジオパークを通りました。天草と豊後大野です。どちらの地域にも共通していえるのは、現地に入っても、どこで何が見られるのかわからないことです。室戸とか隠岐とか有名どころのものが念頭にあるせいかもしれません。それなりの施設や解説が至る所にあって、うっかり見落としてしまいそうなものまで見ることができました。これに対して、こちらではジオパークの中にいることさえ意識できませんでした。
天草はネットを調べてみると、わりとしっかりとしたサイトにたどり着けます。でもネットが見られなければどうしようもありません。現地に入って入手できた観光パンフレットジオサイトが取り上げられていないか、あったとしてもだいたいの位置しかわかりません。現地に行っても、案内標識もないため、それがある事自体もわかりません。現地での解説もおっぱい岩以外は詳しいものにであっていません。知らないところもありましたが、天草の意義は何となく理解できます。その割りには何のためのジオパークなのかよく伝わってきませんでした。
豊後大野に至っては、ジオパークが設定された趣旨さえわかりません。パンフレットには見所は書かれているものの、地球との関連でどういう意味があるのかという解説がなされていません。似たようなものは隣の竹田市にもあります。もっとまわりの地域にもあるでしょう。自然現象は1地方自治体内に限定して起こるものではありません。関連したものをまとめてジオパークにできなかったのでしょうか。
<道の駅>
今回も、地元の観光情報を入手しようといくつかの道の駅に立ち寄りました。ほとんどの所が、地元農産物販売所がメインとなっていて、パンフレットもほとんど置かれていない状態でした。道の駅という以上は最低限車を止められてトイレがあって休憩できるスペースがあればいいのでしょう。
よそから来たものにとって、そういう休憩所で、近くにこんなものがあるのだということがわかれば、いってみようかなという気にもなります。こういった情報の発信は大事だと思います。耶馬トピアのように立派な情報発信施設があるのに、それがわからないというのも残念なことでした。
農産物の販売にしても、規格品が多くなったのか、この値段ならわざわざここで買わなくてもというものが多くなってきたように思います。サツマイモのように確かに安いものはありました。でも、ほとんどのものが買うところまでいきませんでした。車だとたくさん持って帰ることができるのですが、残念です。
<自治体の温泉(宿泊)施設>
相良村の宿で温泉に入りに来た地元住民の人たちが、施設について話をしていました。内容は、ここの施設は赤字経営なのでどうやって協力しようかというものでした。というわりには温泉にはたくさんの人たちが来ていたようです。宿泊施設に関してはもう少し利用者がいてもいいのではという感じがしました。
この宿を見つけられたのは、公共の宿がまとめられているページではなく、人吉市周辺の自治体のページを一つ一つ探していると、相良村のページにのっているのをみつけたからです。市町村の関係している宿を優先して探していたから見つけられたのであって、普通に人吉周辺の宿として探していいればなかなか見つけられないでしょう。もう少し知名度をあげるような工夫があってもいいのではとは思いました。
星野村のほうは公共の宿のページに載せられていますからすぐに見つけることができました。周辺にいろいろな施設がいっぱいあってそれに見合った数だけ人が来ているのかなとは思います。こちらの方が全体に人が少なかったようです。地元の八女からもう少し来てもらっていてもいいのではとは思いました。ちょっと遠いのかな。
相良村の宿を探すようになったのは、近くにあった公営の施設が今年の3月末で全ての営業をやめてしまったからです。理由として諸般の事情としか書かれていません。施設がなくなってしまうのか、新たにやり直すのか、別の形で継続されるのかといったところは検討中だそうです。公営の宿泊施設は、高度成長期に年金事業の一画として利用できる制度が作られ全国的にたくさん作られたようです。現在はこの制度は廃止されています。建物自体も古くなったり、部屋の広さなどで現在の需要に合わなくなっているもの多くなってきています。立て替えたり改装しないと使えないものが増えてきています。といって資金源がなくなっているのも実情です。公営の宿舎を探す度に少なくなっているのは寂しい感じがします。
初めの計画で予定していたところは、委託業者選定のやり直しの影響を受けて利用できませんでした。経営努力が足りない、業者に競争させればいいとかいって落札にしようと風潮が政治家にあるようです。業者が変わるのにともなって雰囲気がころころ変わったら客は定着するのでしょうか。
<市町村の合併>
後半にまわったところは、市町村が合併していて、正式な自治体名がわかりにくくなっていました。それ自体はあまり問題がないのですが、場所を説明するのに正しい自治体名でとなれば調べ直さないといけないのちょっと手間です。○○市に行ったはずなのに××町にになっているとか、この辺は合併して○○市になっているからここもと思ったら××町だったというのがいっぱいありました。最終的には○○市××町と長くなってしまいました。
観光では、せっかく合併したのにむかしのままばらばらのままで生かし切れていないような気がします。耶馬溪町・本耶馬渓町・山国町は平成の大合併で中津市に編入されました。それぞれの地域で発行されている観光パンフは、それぞれの地域のものしかかれていません。旧隣町のものも置いていません。パンフを入手するまで、途中にある観光スポットは素通りしないといけない羽目になりました。
<GPS>
今回もGPSを利用しました。写真撮影の位置確認に重宝しています。
新しくわかったことは、電池を入れたままにして車から電源を取ると、車の電源が優先され電池の消耗が抑えられることです。電源の切り替わりに記録が中断することはありませんでした。
逆にまだ操作がよくわかっていないところもあります。九州1日目は生目古墳群をでるときから記録がありません。2日目も全くなく、3日目は九州自動車道玉名PAからの記録だけが残っています。生目から玉名まで記録がない理由もよくわかりません。生目でどうして記録しなくなったのか、2日目3日目の記録が朝から開始しなかった理由、玉名SAで記録し始めたのはどうしてなのかわかりません。単なる入れ忘れなのか、何かの拍子に記録開始ボタンを押したのかといったことです。
最後の日の記録群が地図ソフトに表示される時に使われるマークが他の群の場合と違います。ここでは全て記録終了になります。これも原因がわかっていません。最後の群だけにできるので、後にダミーのデータ群をつければ解消はできるでしょう。今回の場合は、南港から自宅までだったので、ダミーのデータ群みたいなものでした。
だいぶ使い慣れてきました。歩いてまわるときに外して持っていくことをたまに忘れたりします。これは、気をつければ済むことでしょう。
<忘れ物>
今回の旅行の目的の1つは天体望遠鏡を使うことでした。持って行ったものの、部品が1つたりず、写真撮影には使うことができませんでした。眼視用の部品を念のために入れていたので、見ることはできました。どちらかというと写真撮影用の望遠鏡です。そのため組み立てて使おうとまではいきませんでした。結局、主要な目的の一つは達成できなかったことになります。
忘れた部品は、望遠鏡とカメラを固定するためのものです。直接接続できるもの(カメラアダプターといいます)を買っていれば問題がなかったはずです。買ったのは、別のマウント形式用(Aカメラと呼ぶことにします)のカメラアダプターです。Aカメラのマウント形式から今中心として使っているカメラ(Bカメラと呼ぶことにします)のマウント形式に変換するアダプター(マウントアダプターといいます)があります。忘れたのは、このマウントアダプターになります。
こういう複雑な方法にした理由です。Aカメラ用にレフコンバーター(焦点距離を伸ばすもの)を持っています。これを間に入れることで、望遠鏡を2種類の焦点距離のレンズとして使用できるからです。この方法はもう一台の天体望遠鏡にも使うことができます。望遠鏡が変わるとカメラアダプターが変わるので、使う度に組み合わせを変えないといけないことになります。最後に使った後の片付け方で、どういう状態、何にくっついているかとか、が違っています。いつも使う度にどこにあるのか探し回っています。今回の場合は、レフコンバーターについていると思っていたのに、もう一台の望遠鏡のカメラアダプターについていたのが原因でした。
これ用にカメラアダプターを買っていれば問題はなかったはずです。持っていたのですが引っ越しとかのどさくさでいつの間にか行方不明になっています。新しいものを買おうにも、メーカーが生産をやめているので入手できなくなっています。
<カメラのゴミ>
今回もカメラのゴミに悩まされました。気がついたのは帰ってからからなので、ほとんどずっとついたままだったようです。出発前に持っていった2台のカメラとも掃除はしていきました。ゴミが入っていたのは、主として使うようにした方のカメラです。宮崎到着前にすでにゴミが写っています。掃除する前にあったゴミと形が似ているような気がします。吹き飛ばしたつもりでも、中に残っていたようです。掃除はしっかりとしないといけませんね。
<フェリー>
フェリーに3回乗りました。3回とも、車についたときは、すでに数台前の車が動き出していて、船内に持ち込んだ荷物を片付ける余裕もなく車を動かしています。当然、地図を出したり、カーナビのセットをしたりなどの余裕もありません。
たいていの場合、フェリーを降りた後どう進んでいいかわからないうえにトラックに追い立てられて車を動かしています。道を確認したいのにできないといった羽目に陥ってしまいます。
今回の場合は、宮崎港は、2回目なのでよくわかっているため問題はありませんでした。牛深港は、トラックもなく、広い場所があいていて車を止めて確認することができました(それでも道がわからなくなりました)。南港は、すぐによく知った道に出たので事なきを得ました。下船後の問題はたまたまクリアできました。
少なくとも、座席まわりのことを気にしなくて良いように、早めに車に戻るのが理想です。車両甲板まで降りる案内が出るまで景色を見ているというのが良くないのでしょうか(場所を間違えたのもありますが)。
<経費>
今回使った費用の概略です。フェリー代が全体の4割を占めています。降りてから1日動き回ったり、乗るまで1日使えたりしましたので宿泊費みたいなものも一部兼ねていると見るのがいいのでしょう。となると、いつも通り交通費と宿泊費が同じくらいになります。
交通費 68000 内フェリー代 51000
宿泊費 44000
入場料 3000
その他 8000
−−−−−−−−−−
合 計 123000
<おまけ>
ブログに旅行記を投稿するために、あらかじめ投稿するための原稿を作っています。投稿時に最終修正を入れて最終的な文章になります。今回投稿中に、記事の番号が重なっていることに気がつき、そこの回は修正を入れました。次回以降は番号がずれてくるはずです。そのことも確認したように覚えています。時間が遅かったということもあって、元原稿の修正をせずにパソコンをシャットダウンしました。
夜寝てしまうと、きれいにそのことを忘れてしまいました。何回か投稿してから、記事番号を書き換えたのを思い出しましたが、どこのことだったか全くわかりません。いろいろ見直したのですが、ちゃんと内容がつながっているように見えます。記事が飛んでいるところはわかりません。かなり後の方のブログを投稿しているときに、番号の重なりを発見することができました。途中まで、修正したものの最後までやりきれていなかったようです。
今回のタイトルは記事を書き始めたときには「火の山ぐるっと大回り」だったのですが、途中から「大回り」を取ってしまいました。意味が重なっているのが気になったからです。タイトルが長いとブログの記事一覧にも、サブタイトルが一部分しか表示されません。番号のとんだ場所を探すのにもこれで苦労しました。番号のぬけたところを、これでチェックしたり、探しやすくする事もできます。そのために、途中からタイトルを変えるということになりました。
この余談などの元原稿を書くのに3週間以上かかっています。文章が気に入らず何回も書き直したり、気になった事があったら調べ直したりしているからです。旅行記本体の方もだいぶかかりました。おかけで次の旅行の計画がうまく立てられていません。それどころか、この回の次に行った旅行の写真の整理や記録文(ブログ掲載用の元原稿)も手がつけられていません。何があったのかきちんと思い出すことができるのでしょうか。