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2019/11/04 日帰り 備中山城


01   出発まで

 旅行に行くのにだいたいは星を見るという目的がついてきます。必然的に、1泊以上になってきて、日程的には新月の前後という条件が入ってきます。パッケージツアーなどもだいたい泊まりがけというところを探しています。ところが何となくB社の日帰り旅行のウェブページを見ていると、岡山県中部の城巡りというのが眼に入ってきました。鬼ノ城と備中松山城です。

02 11/4 総社市鬼ノ城到着

 新幹線はこだまです。停車駅の数はそれほど変わらないので、たいした時間差はないだろうと思っていました。西明石(姫路だったかな)で通過待ちのため、20分ほど停車します。1時間かからないところでの20分はかなりロスタイムです。
 岡山に到着してバス乗り場に移動します。今回のバスはマイクロバスです。総参加者数は少ないわけです。最後部一番奥の席です。男性が4人並ぶとかなり窮屈です。荷物の置き場もなく、膝の上に抱えていたらほとんど身動きが取れません。

03 11/4 総社市鬼ノ城西門

 遠くから見た感じでは鬼ノ城の西門は、東北地方で見た払田の柵や志波城の門に近いような気がします。もらったパンフレットでは、九州の大野城とだいたい同じ、7世紀頃のものではないかと書かれています。
 この頃の朝鮮半島では、百済が唐・高句麗の連合軍に滅ぼされ、倭国からの応援軍も白村江で大敗しています。連合軍が国内にも攻めてきたら大変ということで防衛のための施設がたくさん作られた時期です。九州太宰府の入口には巨大な水城(土手と堀)が作られ、九州の大野城・基肄城・鞠智城を始め大和までの間にいくつかの城が作られました。鬼ノ城はそのうちの一つではないかとされています。問題は、このあたりに作られたという文献上の記録が残っていないことです。

04 11/4 総社市鬼ノ城礎石建物跡

 鬼ノ城をどのようにまわるかが問題です。1時間ちょっと時間をもらっています。西門周辺をぶらっとまわると30分です。時間が余りすぎます。真ん中くらいまで行って戻ってくると50分でこれでも少し余ります。ビジターセンターと湿地を見学してちょうどいいくらいです。一周してまわると1時間30分くらい。急いでまわってもぎりぎりです。前日までのツアー参加者でまわった人がいるということなので、このコースを急いで回ることにします。

05 11/4 総社市鬼ノ城北門

 これから城の外周を時計回りにまわっていく予定です。ところが、道がいくつかあり、案内図のものと一致しません。分岐した道はだいぶ先で合流しそうです。どれを選んで行ってもいけそうなので、強引にいくことにしました。思った通り、広い道から枝分かれしたり合流したりで続いています。
 パンフレットの地図の広い道のように書かれているところは、城の周囲にある石垣のある所を示しているようです。道のように見えるので少し混乱しました。等高線もよく見ると、4本ごとに太くなっています。地理院地図では、10mごとの主曲線と50mごとの計曲線ですから、5本ごとに太くなるはずです。5mと20mだったようです。

06 11/4 総社市鬼ノ城 屏風折れの石垣

 鬼城山一帯は温羅遺跡と呼ばれていたことがあったようです。温羅(うら/おんら)はこの付近に住んでいた人物で、製鉄技術を伝えたとされています。付近で悪さをしたために退治されることになります(技術伝承をする人が悪さをするかな?)。これが後に、鬼伝説となっていったようです。
 更に変化して、桃太郎の鬼退治となったとされているようです。退治のされ方は温羅と桃太郎ではだいぶ違っています。

07 11/4 総社市鬼ノ城 第五水門・鍛冶工房跡

 ここまでたくさんの石垣を見てきました。北部九州から近畿地方にかけての地域では、山の中に、いつどのような目的で作られたのかがわからない石垣がたくさん見つかっています。このような石垣を神籠石(こうごいし)というようです。
 神籠石で囲まれた城のようなものを神籠石式山城というようです。日本書紀などに記載がある朝鮮式山城と呼ばれるものと似ています。鬼ノ城は、発掘によりかなりのことがわかってきました。これだけはっきりしてくるとどちらの名前で呼べばいいのでしょう。現地では朝鮮式山城といっていました。

08 11/4 総社市鬼ノ城 東門・高石垣

 ふと時計を見ると大変なことに気がつきました。バスの出発時刻まで15分ほどしかないようです。まだ全行程の半分をやっとすぎたところです。相当急いで戻っても出発時刻に間に合わないかも知れません。歩いてまわるのは予定通り速めだったのですが、各場所でゆっくり見すぎたようです。屏風折れの石垣からここまでの2ヵ所でもだいぶ時間を使っています。次にどこにいるかはっきりわかる場所で添乗員さんに連絡を入れることにします。

09 11/4 総社市鬼ノ城 南側高石垣・南門

 東門についたときに、添乗員さんに電話を入れて出発時刻を確認しました。思っていた時間より10分遅かったようです。この分を考えると急げば何とか時間内にたどり着けそうな気がしてきました。どちらにしても、各場所でゆっくり見ている時間はありません。ざっと見ながら進んで行くことにします。今どこにいるのかということと急いで行くと伝えましたが、急がなくてよいといわれました。ゆっくりでは遅刻になります。けがをしないように気を使ってくれていたのでしょう。

10 11/4 総社市鬼ノ城 西門へ

 時間が押し迫っていることに気がついてからだいぶ歩いてきましたが、それでも駐車場はまだまだ先です。この先にいろいろな史跡とか何かがあっても、あまりゆっくり見ている時間はありません。先を急ぎます。
 再び石垣の上の見晴らしのいい場所に到着です。石垣と景色の写真を写したら、先に行きます。

11 11/4 高梁市備中松山城 中太鼓丸へ

 鬼ノ城の次の目的地は備中松山城です、総社市から高梁川を遡って、高梁市の市街地に向かいます。バスに座っていると腰が痛くなってきました。腰が横にひねられているような感じです。座席に座布団を敷いてますが、ちょっと小さく、うまく上に乗れていないのが原因のようです。座布団は背中側に立てて背もたれ代わりにすると腰の痛いのは楽になりました。

12 11/4 備中松山城 二の丸へ

 備中松山城の登城道は人でいっぱいでした。いくつかのツアーか何かと一緒になったみたいです。ふいご峠の駐車場にも我々のもの以外にマイクロバスが何台かはいっていました。降りてくる人はあまりいませんでした。
 中太鼓丸から登城道を進んで行くと更に大きな石垣のある所に出ました。説明板には大手門跡と書かれています。かなり高いところまで何段も続いています。

13 11/4 備中松山城 本丸

 二の丸までかなりの坂を登ってきました。高い山の上にあります。臥牛山というようです。高い山の上にあるお城は山城といいます。戦国時代になって、だんだん城は山から下りてくるようになりました。こんなところに毎日通うのは大変だなぁというと、平時は蔵ぐらいにしか使っていなかったと教えてくれました。朝鮮式山城は、そうではなく、生活の場であり、そこから打って出るタイプのお城だったそうです。

14 11/4 備中松山城 天守内部

 現存している天守は12あって、備中松山城はそのうちの一つです。山城で残っているものは他にないそうです。お城ファンなら残りの11城は答えられるのでしょう。うろ覚えなので答える自信はありません。ほとんどの所は行っているような気がします。あと2−3城くらいかな。東北はほとんど行っていません。
 天守に入ることにします。入口を入ってすぐの部屋は1段低くなっています。ここを1階とみれば2層3階の天守になります。あまり広くないので1階に入れていないかな。とりあえずそういうことにしておきます。目の前に石垣につけられた階段がありここから1階に上がっていきます。

15 11/4 備中松山城 本丸搦め手

 備中松山城については疑問点が一つありました。城の名前は備中松山城であるのに町の名前は高梁市です。これに対する解答は、天守の中に置かれていた城の歴史の説明にありました。元々は町の名前は松山でした。備中にあるので伊予にある松山に対して備中松山という名前が使われることもあったようです。
 明治維新にあたって、伊予松山藩は新政府軍についたのに対して、備中松山藩は幕府軍につきました。そのためその後の廃藩置県で伊予松山は優遇され松山県と名乗れたのに対して、備中松山はその下と見なされたため松山と名乗れずやむなく高梁県と名前をつけたそうです。城の名前はそのまま使われ、町の名前だけが変わったようです。

16 11/4 備中松山城 天神の丸

 備中松山城は臥牛山の上にあると書きました。臥牛山は前山・小松山・天神の丸・大松山の4つの峰からできています。中世以降になるとこの山には城が築かれました。近世になってからは、小松山と前山が主として使われていたようです。現存する天守があるのが小松山で前山には下太鼓丸が築かれています。この先、大松山までは中世の城郭の遺構が残っているそうです。

17 11/4 備中松山城 再び二の丸

 本丸の裏側にまわると格段に人が少なくなりました。水の手門からは全くといっていいほど人はいませんでした。天守を見ればそれでじゅうぶんという人が大半のようです。ツアーの時間的な設定もここまで来ることを想定していないのでしょう。
 天神の丸に着いた時は、時間的にぎりぎりです。戻らないといけません。大松山城までの道もこの先どういけば良いのかわかりません。急いで戻ることにします。といっても、登ってくるときは天守につくのを優先しています。見落としたところはちゃんと見ていくことにします。

18 11/4 備中松山城 下城

 備中松山城は二の丸からふいご峠にむかって下りているところです。時間を調節しながら歩いています。
 登ってくるときに比べると人の数はだいぶ少なくなっているようです。ツアーで一緒だった人達はもうすでに降りているのでしょうか。見あたりません。今から登ってこようとする人はほとんどみかけません。
 三の丸に着きました。上を見上げてみました。厩曲輪から二の丸の方向になります。土塀は、厩曲輪のものです。三の丸広場の石柱には上番所と書かれています。

19 11/4 高梁市吹屋 町並保存地区へ

 備中松山城の次に向かうところは吹屋です。江戸時代中期に始まったベンガラ造りで栄えた町です。古い町並みが残されています。ベンガラを作っていた場所とか鉱山とかが見られるようです。どれくらい時間がもらえるかわからないのですが、できれば鉱山まではいきたいと思っています。
 高梁市街から高梁川を少し遡ったところから西側の山の中に入っていきます。この付近の山はところどころで紅葉が始まっています。

20 11/4 高梁市吹屋 伝統的建物群保存地区

 吹屋の道筋から離れたところに旧吹屋小学校の建物があります。県の重要文化財になっています。添乗員さんの話では、修復工事中とのことでした。外観だけでも見られないかといってみました。切り通しを越えたところに工場のようなものが見えてきました。案内図に書かれている位置にあります。小学校の建物全体が覆われているように見えます。

21 11/4 高梁市吹屋 ベンガラ館

 吹屋での見学時間は1時間半ほどです。少し離れたところにあるベンガラ工場と鉱山は何とかいけそうです。吹屋ふるさと周遊券というのがあります。ベンガラ工場といった有料施設の入場券がセットになっています。3施設以上入ると割安になりますが、2施設なら個々に払った方が安くなります。郷土館で回れそうかどうか確認しようとしたのですが要領を得ませんでした。ここは後回しにして、ベンガラ工場ついてから考えることにします。

22 11/4 高梁市吹屋 笹畝坑道1/2

 次は鉱山を見に行くことにします。正式な名前は吹屋銅山笹畝坑道です。ベンガラ館からは、広い道に戻って吹屋の町並みと反対側に進んだ所にあります。ベンガラに使われるのは磁硫鉄鉱で、ここは銅山なので主要な鉱石は黄銅鉱でしょう。一緒に産出することが多いので、銅製錬に使わない磁硫鉄鉱は捨てられていたのでしょう。再利用でベンガラになったようです。

23 11/4 高梁市吹屋 笹畝坑道2/2

 坑道に入る前に、受付でヘルメットを貸し出していました。必要かどうか聞いたところ帽子をかぶっているのならいらないのではということでした。中に入ってみると、天井の低いところが多く頭をぶつけまくっています。今日はここまでだいぶ歩いているので、だいぶ足にき始めています。中腰になるのはちょっとつらいので、うまくかがめないというのもあって、頭をぶつけまくっているようです。

24 11/4 高梁市吹屋 旧片山家住宅

 駐車場近くまで戻ってきているのですが、まだ出発時刻までには10分ちょっとあります。駐車場の近くにある旧片山家住宅をのぞいていくことにします。といっても見られるのは5分程しかないでしょう。
 入った所で周遊券を見せようとしたのですが、人がいません。しばらくすると向かいの郷土館の人がやってきて、パンフレットなどを渡してくれました。一緒の管理になっているのでしょうか。

25 11/4 高梁市吹屋から帰阪

 旧片山家住宅からでました。肝心の建物の外観の写真を写していないことに気がつきました。写しておきます。まず、向かい側にある郷土館です。明治12年に片山家の総支配人であった人が建てたそうです。赤い石州瓦が使われていると書かれています。暗い赤色をしています。隣の建物は明るめの赤色です。
 手前に、バス停があります。ボンネットバスが走っているみたいですが、ここにいる時間内にはやってきていません。

26   感想・その他いろいろ

 今回の旅行は日帰りとなりました。星を見ようということを考えなくていいので、日程に制約がつかないし、荷物も軽くなります。といっても、最近では赤道儀は持ち歩かなくてよくなったのでだいぶ軽くなっています。三脚の分だけは重たいままです。
 パッケージツアーの案内を見ていたらおもしろそうというので飛びつきました。見学先は、お城2ヵ所と伝統的建築物群保存地区1ヵ所です。ふだんの旅行でも、お城とか町並み(伝統的建築物群保存地区)などはよく寄っています。



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