2019/11/04 日帰り 備中山城
旅行に行くのにだいたいは星を見るという目的がついてきます。必然的に、1泊以上になってきて、日程的には新月の前後という条件が入ってきます。パッケージツアーなどもだいたい泊まりがけというところを探しています。ところが何となくB社の日帰り旅行のウェブページを見ていると、岡山県中部の城巡りというのが眼に入ってきました。鬼ノ城と備中松山城です。
岡山近辺は旅行先としては、ネックになっています。どちらかというと日帰り圏内になります。車だと時間がかかるので、新幹線で行ってその後は在来線やバスになってしまいます。時間が縛られますから、それほど回れないでしょう。1泊くらいしてもいいのですが、瀬戸内海沿いは空が明るそうです。といったような理由で、岡山市内を含めて全然回れていません。この機会に行っても良いような気がします。
備中松山城は高梁市にあります。高梁には行ったことがあるのですが、備中松山城は見ていません。この時は、石仲間と一緒だったのでお城は眼中にのぼってきせんでした。現存天守があるお城の一つでいってみたいところに入っています。備中高松城と勘違いしていました。どちらも四国の県庁所在地の地名が入っています。こちらもおもしろそうです。また別の機会にということにしておきます。
鬼ノ城という名前は初耳でした。岡山といえば桃太郎の鬼退治で有名ですが、それとの関係で何かあるのかなというくらいに考えていました。
もう一ヵ所、吹屋にも行くようです。調べておきます。
江戸時代に、ベンガラ製造で栄えた町のようです。町の家並みは、ベンガラで塗られていて独特の色をしているようです。基本的にはこの町並みの見学がメインになるのでしょう。明治時代にかけての豪商だった邸宅が残されていて見学できるます。ベンガラを作っていた所が展示施設になっています。近くに銅山があってここも見学ができます。更に離れたところに、もう一軒の豪商の邸宅があり、映画「八墓村」の撮影にも使われたところだそうです。
いろいろと見どころはありそうですが、どれだけ時間を取ってくれるかが問題になります。石ちゃんとしては銅山は見ておきたいものです。ちょっと離れているのでそこまで時間がもらえるのかどうか。ツアーではあまり時間をとってもらえないことが多く、八墓村は無理そうです。レンタサイクルでもあればいけそうですが、なさそうです。
他の旅行社でもあるか調べてみました。A社は、鬼ノ城と備中松山城の組み合わせはあるのですが吹屋が入ってきていません。代わりの場所も入っていません。C社は備中松山城そのものがありません。欲張っているかも知れませんが、吹屋の入っているB社を第一希望とします。
日程を選びます。11月の土日曜祝日に設定されています。月明かりは影響しません。月明かりがなければ泊まりがけの旅行を設定する事になりそうです。次の泊まりがけを考えるかも知れませんから、月明かりのあるときの方がいいでしょう。12日が満月ですからこの頃ということになりそうです。会津に行く前に空席状況を見たときはほとんどが満席になっていました。帰ってきてから見ると4日と17日が空いていました。17日は別の用事が入っています。4日の方が空き席は少ないのですが、もうこれからの申し込みはあまりなさそうな4日で確定です。
ツアーのタイトルは、『往復新幹線利用「備中松山城」「鬼ノ城」とベンガラ色に染まる「吹屋」の赤い町並み散歩』です。
B社は、ネットで申し込むと全ての手続きがネット経由になります。申し込んだ翌々日には、最終案内をネットで確認してくださいとの通知が来ました。呼び出して印刷しておきます。7時39分発のこだまで、集合は7時10分新大阪駅の1階です。
持ち物を考えます。基本的には泊まりがけツアーでバス車内に持ち込む荷物と同じでいいでしょう。カメラ関係のものは、いつものショルダーバッグに入っています。カメラ類を入れ直して、電池の充電はしておいた方がいいでしょう。
別にリュックに入れるものとしては、水筒とペットボトル飲料、非常用食料、汗ふきタオルといったところでしょう。昼食はついていますから用意の必要はありません。非常用食料を前日に買っておくことにします。天気次第によってはカッパが必要となります。入れるか入れないかは、前日に天気予報を見て決めればいいでしょう。結局入れておく必要はありませんでした。
会津から帰ってきてしばらくしてから、突然咳き込むようになりました。のどがむずむずしてから、しばらくすると咳が止まらなくなります。出始めてもだいたい2−3分で収まります。咳をされるのは周囲の人にとっては不快なものでしょう。できるだけしないようにしたいものです。でそうになったときに飴をなめれば押さえることがきます。これも前日に買っておくことにします。
旅行日になりました。集合が7時10分としても新大阪は近いので30分見ておけば何とかなります。ちょっとはやめに出発します。
集合場所に到着です。ツアーの行き先の書かれた案内を持っている人にあいさつすると。もう一人の人が担当だったようです。バスは2台で1号車の方に乗車します。前にチェックした案内にも1号車と書かれていました。だいたいはバスが1台なので、気にとめていませんでした。満席になっていたのに、申しこもうとしたときに余裕がでていたのはバスの台数を増やしたためだったのでしょうか。それなら、2号車になっていそうです。
B社の参加確認証はシールになっています。受け取ったらカバンに貼りつけて、裏紙を添乗員さんに処分してもらおうとしました。あっさり自分で捨てろといわれました。ゴミ箱が近くにないので困ります。これくらいは考えていて欲しいなと思います。
出発の再集合までのあいだに、飴を買っておくのを忘れているのに気がつきました。目の前にあるコンビニで購入します。レジでゴミを捨ててと頼んだのですが、コーヒーの売り場にあるといわれました。行ってみたのですがどれのことかわかりません。それらしいものの入っている所に入れておきました。
再集合の時間になり、集合場所に行きます。人数は意外と少ないようです。2グループ一緒に並んで新幹線の乗り場に移動します。でも、みんなはエスカレータを使うのにいつも通り階段で上がっていきます。
新幹線はこだまです。停車駅の数はそれほど変わらないので、たいした時間差はないだろうと思っていました。西明石(姫路だったかな)で通過待ちのため、20分ほど停車します。1時間かからないところでの20分はかなりロスタイムです。
岡山に到着してバス乗り場に移動します。今回のバスはマイクロバスです。総参加者数は少ないわけです。最後部一番奥の席です。男性が4人並ぶとかなり窮屈です。荷物の置き場もなく、膝の上に抱えていたらほとんど身動きが取れません。
最初にいくところは鬼ノ城です。隣に座っていた人は「きのじょう」と読んでいました。「おにのじょう」とばっかり思っていました。それなりの本を持っています。並んでいる少なくとも2人はお城マニアのようです。
山陽道に入って、総社ICで降りてしばらく走っていると山の上に不思議な形をした建物が見えてきました。鬼ノ城のようです。写真に写して拡大して見ると門のようなものが見えます。
山間の狭い道に入って進んで行きます。これだと普通の観光バスでは走れなさそうです。しばらく入って行くと駐車場に到着しました。添乗員さんから弁当の手配をしてくるので、戻ってくるまで車内で待っているように指示が出ます。待っている間に、2号車も到着し、こちらの人達はバスから降りています。こちらはいわれたとおり待っています。
パンフレットとかを持って戻ってきました。これから見学に出発です。バスを降りたところに湿地があります。観察できるようになっていますが、今はお城優先です。戻ってから見ることにします。
反対側にビジターセンターがあります。見学は戻ってからにします。トイレを先に済ませておきます。
西門までは添乗員さんが先に行っています。そこまでいってしまえば、その先は平坦なようです。20mほどの高さを急いで登ります。その先はほぼ平坦です。だいたい登り切ったところで、添乗員さんに追いつきました。かなり息が切れています。こちらは切れていないフリをしましたが、ちょっと無理っぽかったようです。
追いついた所では、花こう岩の岩がむき出しになっています。風化して残された芯の部分です。
学習広場の方に行く道がありましたので、こちらからいくことにします。ここからは鬼ノ城の西門がよく見えます。
斜面に大きな岩が残されているのが見えます。これも風化されなかった花こう岩です。中国から近畿地方の花こう岩地帯では、このような岩はよく見かけます。
南側の水島方向です。四国まで見えているようです。
遠くから見た感じでは鬼ノ城の西門は、東北地方で見た払田の柵や志波城の門に近いような気がします。もらったパンフレットでは、九州の大野城とだいたい同じ、7世紀頃のものではないかと書かれています。
この頃の朝鮮半島では、百済が唐・高句麗の連合軍に滅ぼされ、倭国からの応援軍も白村江で大敗しています。連合軍が国内にも攻めてきたら大変ということで防衛のための施設がたくさん作られた時期です。九州太宰府の入口には巨大な水城(土手と堀)が作られ、九州の大野城・基肄城・鞠智城を始め大和までの間にいくつかの城が作られました。鬼ノ城はそのうちの一つではないかとされています。問題は、このあたりに作られたという文献上の記録が残っていないことです。
城に向かって登っていくと最初に見えてくるのが角楼です。攻めてきた敵を最初に迎え撃つ施設です。
そのまま進んで行くと西門が見えてきます。
西門の土台部にある土壁の表面です。地層のような模様が見えています。土を敷き詰めては押しかためてということを繰り返して作られたようです。版築といいます。
西門を下から見上げたところです。模様を描いた板のようなものが並べられています。盾だそうです。柵の中で持って防御に使ったのですが、そのままだと見えないということで、外に飾ってあるそうです。吉野ヶ里でも似たものを見たような。
門の前から見える景色です。添乗員さんが、讃岐富士が見えるといっていました。かすかですが見えています。飯野山という名前を確認したかったのですが、そこまでは知らなかったようです。
門の中です。かなりの奥行きがあります。
内側に入って、振り返って見たものです。上にあがることはできません。建築基準法上の問題があるようです。
角楼までいって見た学習広場方向です。真ん中に展望施設があります。そこにたくさんの人がいるのが見えます。
鬼ノ城をどのようにまわるかが問題です。1時間ちょっと時間をもらっています。西門周辺をぶらっとまわると30分です。時間が余りすぎます。真ん中くらいまで行って戻ってくると50分でこれでも少し余ります。ビジターセンターと湿地を見学してちょうどいいくらいです。一周してまわると1時間30分くらい。急いでまわってもぎりぎりです。前日までのツアー参加者でまわった人がいるということなので、このコースを急いで回ることにします。
鬼ノ城の特徴は、鬼城山をはちまきするような形で石垣が張り巡らされていることです。まずはその中心となる鬼城山の山頂から行ってみます。
すぐに到着です。山頂はなだらかで、展望所が設けられています。
足元の草むらに、キノコが散らばっています。誰かが食べようとしたのでしょうか。イグチ類ということまではわかりますが、その先まではどうも。
城域の中心部に礎石建物群があります。いったん城域を周回する道路に入り右回りにまわっていきます。途中で中心に向かう道があり、この道から少し入ったところにあります。付近にいくつかの建物が集中してあったようです。説明板のようなものが見えます。
入って行きました。ここは管理棟跡だそうです。柱の礎石が並んでいます。2×6間の大きさだそうです。同じ大きさのものは、道路の反対側にもあります。
道路の東側にも礎石が並んでいる所がいくつかあります。こちらは道路脇から見ることができます。武器や食料などを収めた倉庫と推定されています。
林の中に入った所にある別の倉庫跡です。礎石は3×4列並んでいます。さらに奧にもう一つあったと説明に書かれています。林の中になります。
道を引き返し、城の外周をまわる道路に出ます。ここでは、石垣のようなものが見えます。城を取り巻いていた石垣なのでしょうか。
これから城の外周を時計回りにまわっていく予定です。ところが、道がいくつかあり、案内図のものと一致しません。分岐した道はだいぶ先で合流しそうです。どれを選んで行ってもいけそうなので、強引にいくことにしました。思った通り、広い道から枝分かれしたり合流したりで続いています。
パンフレットの地図の広い道のように書かれているところは、城の周囲にある石垣のある所を示しているようです。道のように見えるので少し混乱しました。等高線もよく見ると、4本ごとに太くなっています。地理院地図では、10mごとの主曲線と50mごとの計曲線ですから、5本ごとに太くなるはずです。5mと20mだったようです。
道を歩いて行って次に到着したのは北門です。門の一部が復元されています。ここにあがって来る道は向こう側から続いています。何となくこの先は狭く険しそうです。
内側から見た北門です。入った所は広場のようになっています。門の両側は石垣で挟まれています。
内側から見た門の右側の石垣です。崩れかかっています。
外側にまわってみました。門のようすです。大きな石が敷き詰められています。入ってすぐに右にカーブするようになっています。
道は内側に入ったところにつけられています。そのまま石垣に沿って先に進んで行きます。途中で石垣を横切って、道に合流できるところがありました。
その時計回りに進んで行きます。大きな岩がしかれているようなところにでました。固い岩盤がむき出しなのか、石垣の一部なのか見ただけではわかりません、
道の横か高くなっています。土塁と書かれています。土を盛って作られたもののようです。
先に祠があります。何を祀ったものか。よくわかりません。
鬼城山一帯は温羅遺跡と呼ばれていたことがあったようです。温羅(うら/おんら)はこの付近に住んでいた人物で、製鉄技術を伝えたとされています。付近で悪さをしたために退治されることになります(技術伝承をする人が悪さをするかな?)。これが後に、鬼伝説となっていったようです。
更に変化して、桃太郎の鬼退治となったとされているようです。退治のされ方は温羅と桃太郎ではだいぶ違っています。
鬼城山を鉢巻きする道を進んでいきます。再び石垣のようなものが増えてきました。
石碑があります。表側にまわってみると温羅遺跡と書かれています。まだこの時点では鬼伝説のことはわかっていません。温羅遺跡って何?状態です。
その前は広場のようになっています。石垣が岬のように張りだしています。屏風折れの石垣というようです。
石垣を乗り出してみてみました。あまり前に出るのは怖いので、写せるのはこれが限界です。かなり高い石垣です。
別の場所のものです。これは石垣の上面です。大きな石が積み上げられています。
こちら側もせり出してみてみました。といってもこれが限界です。石垣が左にカーブしているので、何とか積み上がっているようすがわかります。下に生えている木の根元あたりまではありそうです。
石垣が高い分、景色がよく見えます。児島湾の方向になります。
ここまでたくさんの石垣を見てきました。北部九州から近畿地方にかけての地域では、山の中に、いつどのような目的で作られたのかがわからない石垣がたくさん見つかっています。このような石垣を神籠石(こうごいし)というようです。
神籠石で囲まれた城のようなものを神籠石式山城というようです。日本書紀などに記載がある朝鮮式山城と呼ばれるものと似ています。鬼ノ城は、発掘によりかなりのことがわかってきました。これだけはっきりしてくるとどちらの名前で呼べばいいのでしょう。現地では朝鮮式山城といっていました。
先に進んで行きます。道は石垣から離れ林の中に入っていきます。第五水門と書かれている場所に出ました。説明板があります。内容と目の前に見える景色と重なりません。土手のようになっているこの部分が水門跡でしょうか。
土手に向かって水路があると書かれています。この林の中に見える窪地がそうでしょうか。木が多くてよくわかりません。
こちらにも別の土手があります。横切って水路のようなものも見えます。
結論です。遊歩道になっている所が一段と高くなってまっすぐ続いています。これが水門を作っていた土手でしょう。奧にある貯水池の土手はやっぱりわかっていません。
更に進んで行きます。花こう岩の切り立った岩が見えてきました。人工的に削ったようにも見えます。石垣の石はここから切り出されたのでしょうか。それにしては削られた部分が小さすぎます。
岩の下を見ると。石英の脈がありました。このようなところで、水晶が見つかることがよくあります。
更に進んで、鍛冶工房跡というところにつきました。鍛冶に使った炉の跡がいくつか見つかっているようです。炉6というのだけが看板で場所が示されています。他のはどこにあったのだろう。
ふと時計を見ると大変なことに気がつきました。バスの出発時刻まで15分ほどしかないようです。まだ全行程の半分をやっとすぎたところです。相当急いで戻っても出発時刻に間に合わないかも知れません。歩いてまわるのは予定通り速めだったのですが、各場所でゆっくり見すぎたようです。屏風折れの石垣からここまでの2ヵ所でもだいぶ時間を使っています。次にどこにいるかはっきりわかる場所で添乗員さんに連絡を入れることにします。
次についたのは東門です。壁のようなものと柱が並んでいるのが見えてきました。
斜め上から見たところです。ちょっと小さめの門です。
ここからも景色がよく見えます。門から見て正面方向、児島湾のある方角です。手前側の谷の出口あたり、池のあるところに水城があるようなのですが、どれなのでしょう。太宰府の水城のようなものは見あたりません。
門の横側です。柵列と書かれています。払田の柵のように柵を並べて埋め込んでいたのでしょうか。これだと板塀の柱のようにも見えます。
門の間にはいっていきます。岩を削った柱穴のようなものがあります。柱は右上に根元が写っています。案内板には軸摺穴と書かれているものに似ています。
門を内側高いところから見たようすです。門の間に石が敷かれています。敷石の上に、真ん中の柱を結ぶ線上に段が見えます。扉をこれ以上外に開かないようにしていたのでしょうか。
すぐ先に第四水門跡があります。相変わらず水門というものがわかりません。水路のようなものは水門から出てきた流れでしょう。
東門についたときに、添乗員さんに電話を入れて出発時刻を確認しました。思っていた時間より10分遅かったようです。この分を考えると急げば何とか時間内にたどり着けそうな気がしてきました。どちらにしても、各場所でゆっくり見ている時間はありません。ざっと見ながら進んで行くことにします。今どこにいるのかということと急いで行くと伝えましたが、急がなくてよいといわれました。ゆっくりでは遅刻になります。けがをしないように気を使ってくれていたのでしょう。
再び石垣の上の見晴らしのいいところに到着です。景色を見ている余裕はありません。写真だけです。
山側の岩の表面に仏様が彫られています。手がたくさんありますから、千手観音でしょうか。これもちらっと見ただけでパスです。
通り過ぎて振り返って見たところです。石垣の向こうに東門が見えています。
遊歩道の山側にも石垣があります。内側列石と書かれています。
ここから坂を登っていきます。道の上にははたくさんの石が並んでいます。通路がはっきりしません。これは敷石なので、その上を歩いていいということなのでしょうか。
南門に到着です。道は高いところを迂回しています。行き過ぎてから振り返って見ています。
いったん戻って内側から見たところです。前はほとんど崖で門の横には石垣が続いています。
時間が押し迫っていることに気がついてからだいぶ歩いてきましたが、それでも駐車場はまだまだ先です。この先にいろいろな史跡とか何かがあっても、あまりゆっくり見ている時間はありません。先を急ぎます。
再び石垣の上の見晴らしのいい場所に到着です。石垣と景色の写真を写したら、先に行きます。
道の山側に石垣が積み上げられているところにつきました。説明板には第二水門と書かれています。どこに水門があるのか確認できませんが先に進みます。
正面にも石垣が積みあがっているところがあります。こちらは第一水門になります。
こちらもどこが水門か確認している余裕がありません。この足元で水が出ているところかなというくらいにしておきます。パンフレットには石垣の上の方に四角い穴が開いている写真が載っています。
更に進んで行くと、やっと西門が見えてきました。手前に石畳の道が見えます。先に進みます。この時点で、出発までの時間は10分を切っています。
西門に続く版築で作られた土塁です。階段があり下からもいけるようです。下から回ることにします。
下から見た土塁です。石垣の上に作られています。一部石垣になっているところもあります。
そのまま急いで、駐車場に戻ります。何とか出発時刻には間に合いました。トイレにだけは行かせてもらいます。バスに戻って乗ろうとすると、添乗員さんから弁当を受け取ったかと聞かれました。今ついたところなのでもらっている余裕はありません。ないと答えると、添乗員さんの手元の弁当が手渡されました。
そのまま席に座ろうとしたのですが、一番奥です。先に座っている人がいったん出ないと席に着けません。そのまま詰めてもらって一番座りやすいところでいいといったのですが、正規の席でとなりました。マイクロバスのなので通路でもすれ違えません。別の列の座席も利用して入れ替えとなります。
何とか座れて出発かと待っていると、弁当が余っているようです。もらっていない人はいなかと聞きにまわります。だれもいません。たぶん添乗員さんの分でしょう。添乗員さんが自分用に確保した分をもらったようですから。
鬼ノ城の次の目的地は備中松山城です、総社市から高梁川を遡って、高梁市の市街地に向かいます。バスに座っていると腰が痛くなってきました。腰が横にひねられているような感じです。座席に座布団を敷いてますが、ちょっと小さく、うまく上に乗れていないのが原因のようです。座布団は背中側に立てて背もたれ代わりにすると腰の痛いのは楽になりました。
高梁の市街地を通り過ぎる手前で東側の山の中に入っていきます。バスは城見橋公園駐車場にいったん入ります。一応トイレ休憩ですが、添乗員さんは何かの手続きあるといっていました。この先の通行許可だったような。マイクロバスのなので、ここから先中腹まであがっていくことができます。普通の大型観光バスでは道が狭くてあがることができません。
バスを降りて、駐車場入口の方をみると紅葉しかかった木がたくさんあります。近くで確認している時間はなかったのはっきりしませんが、アメリカフウではないかとみています。
自家用車とか路線バスで来た人は、中腹までシャトルバスであがっていくことになります。バスが待機していてもうすでにたくさんの人が乗っています。
その後、バスは中腹まで運んでくれました。ふいご峠という場所になります。ここからは登城道を20分ほど歩いて登って備中松山城に到着になります。
ここは狭くてマイクロバスでも2−3台しか駐車できません。次々とバスがやってきます。占拠するわけには活きませんから、城見橋駐車場までおりて待機するようです。帰りは迎えにきてくれますが、その時も長時間の待機は無理できません。出発時刻の前までには戻ってきているようにとの指示がありました。
駐車場奧にある登城道の入口です。横の看板にはシャトルバスの最終時刻の案内が書かれています。
入ってすぐに、道は登りと下りに分かれます。というより、これが登城道でその途中に合流したようです。たぶんこのままあがっていくのでしょう。みんな登っていっています。
添乗員さんが先にいって、入場券を手配して天守の入口で配ってくれるそうです。そのまま急いで行って、添乗員さんよりも先についても意味がありません。まわりをゆっくり見ながら登っていくことにします。
登城に入ってすぐ脇で見たオニフスベです。たくさん並んでいます。
立派な石垣の組まれたところに到着しました。中太鼓の丸と書かれていました。
石垣の上からは高梁市街を見わたすことができます。
備中松山城の登城道は人でいっぱいでした。いくつかのツアーか何かと一緒になったみたいです。ふいご峠の駐車場にも我々のもの以外にマイクロバスが何台かはいっていました。降りてくる人はあまりいませんでした。
中太鼓丸から登城道を進んで行くと更に大きな石垣のある所に出ました。説明板には大手門跡と書かれています。かなり高いところまで何段も続いています。
大手門に入って、枡形を曲がったところから山の方角のようすです。石段の上は櫓でもあったのでしょうか。この構造なら、敵が大手門を越えてきても、上から狙い撃ちされそうです。
人が多いので、写り込まないようにするのに苦労します。帰りにゆっくり見ることにします。
大手門を上がった所が三の丸です。周囲に土塀があります。この付近のものの中には、建築当時から残っているものがあるようです。どれなのかはパッと見ただけではわかりません。
三の丸から厩曲輪にあがってもまださきに、高い石垣が見えます。これを登り切ると二の丸になります。
石垣の斜面を斜めに登っていくように登城道が作られています。厩曲輪からまわったところにあるのが黒門跡です。坂道の傾斜具合がよくわかります。ここまでもこれくらいの坂道でした。
二の丸下の石垣です。残っている石垣の中ではもっとも古いものだそうです。野面積みと書かれていました。きれいに積まれています。
石垣を過ぎたところにある鉄門跡を通り過ぎると二の丸になります。二の丸より先に天守が見えてきました。手前の建物は五の平櫓(復元)です。
二の丸までかなりの坂を登ってきました。高い山の上にあります。臥牛山というようです。高い山の上にあるお城は山城といいます。戦国時代になって、だんだん城は山から下りてくるようになりました。こんなところに毎日通うのは大変だなぁというと、平時は蔵ぐらいにしか使っていなかったと教えてくれました。朝鮮式山城は、そうではなく、生活の場であり、そこから打って出るタイプのお城だったそうです。
二の丸から先は、あまり坂はなさそうです。二の丸に入ったところで、ツアーメンバーの一人に追いつきました。参加者の中でお城ファンの一人です。100名城のスタンプを集めているらしく、本丸入口で押印するといっていました。そこでは、添乗員さんがチケットを持って待っています。
チケットをもらうときにさすがに息が切れてませんねといわれましたが、一緒にいた人の方をむいていたのでそちらの人に話しかけたのでしょう。その人が返事をしていました。
本丸を入って見えた天守です。2層3階になるのでしょうか。唐破風のある張り出しが見えます。
天守側はまだ人が多いようなので、右側の門の脇にある階段を上がって天守の裏側にまわってみます。見えてきたのは二重櫓です。これも創建以来現存しているものだそうです。
再び天守の横を通って戻ります。天守の下の石垣です。下にある大きな岩は岩盤のように見えます。
上を見上げてみます。天守の壁につけられた石落としが見えます。石を落とした穴までは見えません。
石段の上から本丸です。正面の建物が六の平櫓その左側が本丸南御門があります。本丸に入ってきた場所です。手前がわの屋根が本丸東御門です。
人が少なくなったと思われます。天守の下をまわって天守に入ることにします。左側へまわっていきます。
現存している天守は12あって、備中松山城はそのうちの一つです。山城で残っているものは他にないそうです。お城ファンなら残りの11城は答えられるのでしょう。うろ覚えなので答える自信はありません。ほとんどの所は行っているような気がします。あと2−3城くらいかな。東北はほとんど行っていません。
天守に入ることにします。入口を入ってすぐの部屋は1段低くなっています。ここを1階とみれば2層3階の天守になります。あまり広くないので1階に入れていないかな。とりあえずそういうことにしておきます。目の前に石垣につけられた階段がありここから1階に上がっていきます。
1階の壁側です。廊下のようになっていて、せりだしたところがあります。天井には太い梁が使われています。この上は外から見ると入母屋風の屋根になっています。
一段高くなった小部屋があります。装束の間と書かれています。説明には落城時に城主一家がこもる部屋と書かれています。
二階にあがります。室内は至って簡素です。ここでも天井に太い梁が使われているのがわかります。
二階に上がってくる階段です。途中で直角に曲がっているのが特徴だそうです。どこの城とも同じで、階段は急です。梁に頭をぶつける心配がないだけましなのかも。
奥まった飾り棚があります。説明には御社壇と書かれています。ここには祭壇が置かれていたそうです。
窓から本丸を見たところです。左側の五の平櫓の向こうに見えている広場は二の丸でその先に高梁市街が見えています。
天井です。切妻屋根を下からのぞいている形になります。至って単純な構造です。ここの梁も太い曲がった木が使われているのがわかります。
備中松山城については疑問点が一つありました。城の名前は備中松山城であるのに町の名前は高梁市です。これに対する解答は、天守の中に置かれていた城の歴史の説明にありました。元々は町の名前は松山でした。備中にあるので伊予にある松山に対して備中松山という名前が使われることもあったようです。
明治維新にあたって、伊予松山藩は新政府軍についたのに対して、備中松山藩は幕府軍につきました。そのためその後の廃藩置県で伊予松山は優遇され松山県と名乗れたのに対して、備中松山はその下と見なされたため松山と名乗れずやむなく高梁県と名前をつけたそうです。城の名前はそのまま使われ、町の名前だけが変わったようです。
さて、天守を出てからの行動です。まだ時間がありますから、お城の裏手に行ってみることにします。天守を出ると左側に東御門が見えます。その左の石段を登っていくと2階櫓に着きます。
本丸を通り抜けて、南御門から二の丸に出ます。門を通りぬけて振り返って見た天守です。
本丸の石垣に沿って裏手に回っていきます。下からあがってくる道と合流するところにでます。門があったような石垣の組み方がされています。搦め手門跡と書かれています。
裏手に回ると石垣に囲まれ一段高くなったところがあります。説明では水の手門脇曲輪と後曲輪と書かれています。
後ろを見ると二重櫓が下から見上げる形で見えます。岩盤の上に直接石垣が組まれ、一体化しているようです。すごいと思ったのですが、その部分の写真を撮るのを忘れていました。
その横に本丸に入って行く門が見えます。腕木御門です。本丸にいたときは、スルーしていました。写真には何枚か一部だけが写っています。
さらに奥の方です。石垣を回るように道がついています。ここにも水の手門と呼ぶ門があったようです。ここから見る限りでは道があるというより、行き止まりっぽく見えます。
備中松山城は臥牛山の上にあると書きました。臥牛山は前山・小松山・天神の丸・大松山の4つの峰からできています。中世以降になるとこの山には城が築かれました。近世になってからは、小松山と前山が主として使われていたようです。現存する天守があるのが小松山で前山には下太鼓丸が築かれています。この先、大松山までは中世の城郭の遺構が残っているそうです。
集合時間まではまだ15分ほど余裕がありそうです。どこまで行けるかわかりませんが、この奧のいけるところまでいってみることにします。大松山までは無理でしょう。天神の丸まで行ければ良いのですが。
水の手門からは道は下っています。下りきった所にあるのが土橋です。といっても木造の橋です。ここも堀切になっているのかな。
土橋の上から正面を見ると丘の上が平らになっていて、何となく曲輪のように見えます。案内図ではこのあたりに相畑城戸(あいはたけのきと)があったと書かれています。
道は平らになっている横まであがっていっています。真横から見た相畑城戸です。奥まで行って詳しく見たいのですが、時間はありません。天神の丸の行くのが優先です。さっと見るだけで次に行きます。
更に進んで行きます。横からあがってくる道と合流します。その先の林の中の高まりも何となく曲輪っぽく見えます。天神の丸の出丸かな。
横に谷のようなものが見えます。堀切と説明が書かれていました。山の尾根を横切るように掘られた、水の張っていない掘のようなものです。
天神の丸に到着しました。このあたりが本丸のあったところになります。かなり広い面積の地面が平らになっています。
本丸から一段高くなったところに、石垣で囲まれて天神社跡があります。江戸時代には社殿があったそうです。明治時代に廃れて下のお寺に移転しています。
本丸の裏側にまわると格段に人が少なくなりました。水の手門からは全くといっていいほど人はいませんでした。天守を見ればそれでじゅうぶんという人が大半のようです。ツアーの時間的な設定もここまで来ることを想定していないのでしょう。
天神の丸に着いた時は、時間的にぎりぎりです。戻らないといけません。大松山城までの道もこの先どういけば良いのかわかりません。急いで戻ることにします。といっても、登ってくるときは天守につくのを優先しています。見落としたところはちゃんと見ていくことにします。
土橋までは、下りで楽でした。水の手門までは坂がきついかなと心配していました。思ったほど苦にはなりませんでした。ふいご峠からの道が登ってこれるのなら大丈夫なようです。距離もそれほどありません。
水の手門も過ぎました。後曲輪を見ていなかったので見ていきます。上に九の平櫓があったようです。
ここから北東方向の山の中に展望台が見えます。雲海に浮かぶお城の写真があります。ここから写したもののように思われます。
振り返って見えるのが二重櫓です。下に見える石垣のようなところの大半は岩盤です。石垣は上の方だけです。
二重櫓と天守が一緒に見えるところがありましたので、写してみました。ちょっと木の枝が多いようです。
搦め手門跡付近から見た、本丸東御門から五の平櫓にかけての間にある石垣と塀です。このあたりは復元されたものになります。
二の丸に抜けたところで振り返って見た、五の平櫓と天守です。二の丸から降りると、もう見えなくなります。
二の丸を出たところの鉄門跡からみた下側です。三の丸とそれを囲むように土塀が見えます。塀には狭間が設けられています。ここからどこをねらったのでしょうか。
四の平櫓跡です。黒門の上にあります。黒門に攻めてきた敵を迎え撃つための施設でしょう。
四の平櫓跡の内側は御膳棚となっています。そこのモミジは色づき始めていました。
備中松山城は二の丸からふいご峠にむかって下りているところです。時間を調節しながら歩いています。
登ってくるときに比べると人の数はだいぶ少なくなっているようです。ツアーで一緒だった人達はもうすでに降りているのでしょうか。見あたりません。今から登ってこようとする人はほとんどみかけません。
三の丸に着きました。上を見上げてみました。厩曲輪から二の丸の方向になります。土塀は、厩曲輪のものです。三の丸広場の石柱には上番所と書かれています。
三の丸から大手門跡を見下ろしてみます。三の丸から下りて行くには右側からになります。門を通りぬけると再び右側に降りていきます。
大手門入って右側方向です。門の横側の石垣に囲まれたところが細長い長方形になっています。石段からあがっていくようです。
下に降りて、石段をあがってみました。門のある方向です。石垣で高くなっているところは門の左右で同じ幅高さです。門と石垣の上には渡り櫓が乗っていたようです。お城の主要な門にはこの形式の門が使われることが多いようです。前回の旅行で見た、鶴ヶ城の黒鉄門もこの形でした。
大手門から下は、舗装道路からも下りて行くことができます。こちらを通って降りていきました。山がきれいです。城見橋駐車場が見えていました。
ふいご峠には出発10分前くらいに到着しました。5分ほどでバスがきましたので乗ります。全員そろっていたようで、すぐに出発です。
ここからいったん城見橋駐車場に戻って、トイレ休憩をするといっていました。山道を下りきった所で、バスは町の方に向かいました。添乗員さんがすぐに気がつきました。ターンして駐車場に戻ります。
休憩が終わって、町の方に向かいます。伯備線を渡るあたりに御根小屋跡というのがあります。藩主が居住んでいたところになります。平城では本丸内に御殿を作っています。佐賀城や熊本城で見たことがあります。備中松山城は山城なので山麓に作られています。
高校が建っているあたりになります。いろいろな障害物があってうまく写せませんでした。白壁の土塀は御殿があった事を表しているのでしょう。
伯備線の踏切を渡ります。線路というので写したのですが、奧の線路がカーブしたところにもう一つ踏切が写っています。この踏切を右に渡った先が、御根小屋の玄関だったようです。
白壁土塀は国道沿いの川の堤防にもつけられています。
備中松山城の次に向かうところは吹屋です。江戸時代中期に始まったベンガラ造りで栄えた町です。古い町並みが残されています。ベンガラを作っていた場所とか鉱山とかが見られるようです。どれくらい時間がもらえるかわからないのですが、できれば鉱山まではいきたいと思っています。
高梁市街から高梁川を少し遡ったところから西側の山の中に入っていきます。この付近の山はところどころで紅葉が始まっています。
だいぶ吹屋に近づいてきました。道脇の壁がベンガラ色に染まっている民家が増えてきました。まもなく到着するでしょう。
町並み保存地区の入口前を通過します。右側奧に続く道沿いが保存地区です。バスはここにある駐車場には入らず、ぐると迂回していくようです。
バスの窓から町並みが見えるかと思ったのですが、あまりよく見えません。天開道大神宮の裏側から一瞬見えた町並みです。
千枚駐車場に到着です。ここから保存地区まで歩いて行きます。中心部まで添乗員さんが先導してくれるようです。見落としていましたが、駐車場の横に見える塀はベンガラで豪商となった旧片山家の住宅の塀です。
保存地区の通りに入って見えてきた町並みです。ここからだとベンガラ色というのはあまり目立っていません。
歩いてきた反対側です。奧の方にに見える左側からの道からやってきました。
ベンガラ色の建物です。木の枠とか壁板といったところが赤っぽい色をしています。
この建物の前にある石柱には庄屋仲田と書かれていました。格子窓にかかっている説明板では。叶屋仲田家と書かれています。江戸時代に二代にわたって庄屋を務めたそうです。江戸末期の建築だそうです。
吹屋の道筋から離れたところに旧吹屋小学校の建物があります。県の重要文化財になっています。添乗員さんの話では、修復工事中とのことでした。外観だけでも見られないかといってみました。切り通しを越えたところに工場のようなものが見えてきました。案内図に書かれている位置にあります。小学校の建物全体が覆われているように見えます。
横に小学校の写真に似た建物があります。近くにいた人はこれが小学校だといっていましたが、案内図と場所が一致しません。町の宿泊施設がここにある事になっています。その建物なのでしょう。
いきたいところがありますからいそいでいます。これ以上奥に行かずに戻ります。途中の道沿いでススキが逆光の中で光っていました。だいぶ穂が開いています。
今いるところから見下ろした町並みです。ここから見ると独特の色をした土壁の家が何軒か見えます。あまり赤みが強くないのですが、これがベンガラ色なのでしょう。
町並み保存地区に戻るところにあった民家と紅葉です。
町並みを進んで行くと吹屋観光協会の建物がありました。中に入ってみます。古い町並みの写真などが展示されています。天井部です。ここは吹き抜けになっています。
パンフレットを押さえている瓶の中に赤い色をした粉が入っています、色的にはベンガラのようです。果たしてそうなのでしょうか。
この先少しいったところで町並みは終わりです。ここをすぎるとバスで走ってきた道が見えてきます。
町並みの店で成羽の化石がありました。この付近は合併する前は成羽町でした。三畳紀の貝化石や植物化石で有名でした。成羽町には何度か化石をとりに訪れたことがあります。
吹屋での見学時間は1時間半ほどです。少し離れたところにあるベンガラ工場と鉱山は何とかいけそうです。吹屋ふるさと周遊券というのがあります。ベンガラ工場といった有料施設の入場券がセットになっています。3施設以上入ると割安になりますが、2施設なら個々に払った方が安くなります。郷土館で回れそうかどうか確認しようとしたのですが要領を得ませんでした。ここは後回しにして、ベンガラ工場ついてから考えることにします。
2号車の添乗員さんとツアーメンバーが先を歩いていました。ベンガラ工場に行くようです。一緒にいきたいところですが、見たいところは他もあります。急ぎ足で先にいかせてもらいました。
吹屋ベンガラ工場に到着です。正式にはベンガラ館といいます。入り口でチケットを買おうとしたのですが誰もいません。帰りに支払うということで、中に入ったら、奧の方からやっと出てきました。周遊券を買って中に入りました。
入口建物の裏側に磁硫鉄鉱の大きなかたまりが置かれていました。
建物はいくつかあります。順番に見ていきます。最初は釜場室です。
中に釜というより大きな炉のようなものがあって、上に鍋のようなものがたくさんあります。ここで、磁硫鉄鉱を焼いたのでしょう。緑礬(ローハ)というものが原料と書かれていますが、緑礬というものがよくわかりません。
2つ目の建物が水洗碾き臼室です。大きな歯車があります。水車の回転をこの歯車で碾き臼伝えて、焼いた緑礬を粉にしたのでしょう。
大きな水槽もあります。これで不純物を取り除いたと書かれています。
3番目の建物が脱酸水槽室です。ベンガラはこの状態では強い酸性になっています。中に含まれている硫酸分を取り除くことでやっと製品になるようです。
脱酸水槽室の内部です。ここにも大きな水槽が並んでいます。100回近くも水洗いしたようです。かなり手間がかかるようです。そのため他のところではあまり作らなかったような気がしてきました。
ベンガラ館の建物群です。右側の建物から時計回りに見てきました。
一通り見終わって外に出ようとしたときに、途中で追い越したグループがやってきました。これから見学のようです。添乗員さんはそのまま戻るようです。
出たところに水のたまっていない池のよう丸い窪地がありました。何に使ったのでしょうか。汚水処理場のようにも見えます。
次は鉱山を見に行くことにします。正式な名前は吹屋銅山笹畝坑道です。ベンガラ館からは、広い道に戻って吹屋の町並みと反対側に進んだ所にあります。ベンガラに使われるのは磁硫鉄鉱で、ここは銅山なので主要な鉱石は黄銅鉱でしょう。一緒に産出することが多いので、銅製錬に使わない磁硫鉄鉱は捨てられていたのでしょう。再利用でベンガラになったようです。
向かっている途中で、ツアー仲間の一人とすれ違いました。けっこう早く見学をすませています。もう少し説明が欲しかったといっていました。
笹畝坑道に到着し、受付で周遊券を見せて中に入ります。ここが坑道の入口です。きれいに支保工が組まれています。
坑道の壁です。吹き出した地下水からの染みが不思議な色になっています。
床面の排水路です。蛍光色のような水色になっています。銅山に見られる緑青の色とは少し違います。これも銅の色なのかな。
こちらも地下水の浸みだし口です。白みが強いのですが、わずかに青みがかかっています。排水路の色と基本的に同じ色です。
天井に磁硫鉄鉱があると書かれている場所がありました。さびのようなものが表面にこびり付いていて磁硫鉄鉱なのかどうかよくわかりません。
こちらは黄銅鉱です。これもはっきりわかりません。さびが青いから銅なのかな。
地質の説明には、上盤が石英?岩、下盤が輝石岩と書かれています。樋石(鉱脈のことか)輝石角閃岩柘榴石と書かれてます。接触鉱床と書かれていますが、一般的な説明とは違っていたので理解できていませんでした。下盤に柘榴石と輝石があるのなら接触交代鉱床(スカルン)です。石灰岩にマグマ(石英ひん岩)が入ってきたときにマグマの金属成分が石灰岩と置き換わってできます。
壁に奇妙な模様がありました。似たようなものは北大東島で見ています。ダイナマイトによる発破の跡です。
天井が高くなっているところに出ました。鉱石を掘り出した跡です。シュリンケージ法を使ったようです。空洞は少し斜めになっています。
坑道に入る前に、受付でヘルメットを貸し出していました。必要かどうか聞いたところ帽子をかぶっているのならいらないのではということでした。中に入ってみると、天井の低いところが多く頭をぶつけまくっています。今日はここまでだいぶ歩いているので、だいぶ足にき始めています。中腰になるのはちょっとつらいので、うまくかがめないというのもあって、頭をぶつけまくっているようです。
ここでも他の鉱山と同じように酒熟成庫がありました。
こちらは、丸いトンネル型の坑道です。タヌキ掘りよりちょっと大きめです。
一通り見終わって戻ることにします。出口は、鉱石を掘ってできた割れ目のようなすき間を登っていったところにあります。登って上から見下ろしてみた坑道のようすです。
上にあがったところで天井に鉱石が出ていないか、懐中電灯で照らして見ました。光量が足りず、どうなっているのかよくわかりませんでした。
樋石が露出しているところがあって見てくださいと書かれています。でもその先は通行止めになっています。10mと書かれていますから距離からするとその手前かも。でもそれらしい岩石は見当たりません。「此の上」というのはまっすぐ上なのか?草ばかりで何も見えませんでした。
保存地区に戻ってきました。入口です。
町並みを通って駐車場に戻ります。町の中は人通りがなくひっそりとしています。みんなどこにいったのでしょう。
小学校への分岐点まで戻ってきました。山裾の紅葉に傾いた日が当たってきれいです。
駐車場近くまで戻ってきているのですが、まだ出発時刻までには10分ちょっとあります。駐車場の近くにある旧片山家住宅をのぞいていくことにします。といっても見られるのは5分程しかないでしょう。
入った所で周遊券を見せようとしたのですが、人がいません。しばらくすると向かいの郷土館の人がやってきて、パンフレットなどを渡してくれました。一緒の管理になっているのでしょうか。
玄関を入った所です。食器類が並んでいます。急な階段もあります。時間があまりないので詳しい解説は見ていません。どういうところなのかは不明です。店先のようにも見えます。
店奧と書かれている部屋があります。
いくつかの部屋が並んでいます。手前の部屋は主婦居間、その向こうは奥座敷と書かれています。
建物を通りぬけたところにも、蔵などが並んでいます。米蔵とベンガラ蔵と書かれている建物です。中はベンガラ製品などが展示されています。
右側奥です。仕事場および部屋と書かれている建物があります。
更に建物の間を通りぬけて、裏側に出ます。道具蔵、ベンガラ蔵、玄米蔵と書かれた建物が並んでいます。旧片山家住宅の内部は思ったより広大でした。10分弱では全部見るのは無理な感じがしてきました。バス出発時刻が迫っています。だいぶあせっています。
ベンガラ蔵と書かれた建物内部です。一続きの部屋になっています。片山家の歴史などいろいろな資料が並べられていますが、ゆっくり見ている時間はありません。
更に裏側にでることができます。もうタイムアウトのようです。塀からは敷地の外側のようですので、引き返して旧片山家を出ることにします。
旧片山家住宅からでました。肝心の建物の外観の写真を写していないことに気がつきました。写しておきます。まず、向かい側にある郷土館です。明治12年に片山家の総支配人であった人が建てたそうです。赤い石州瓦が使われていると書かれています。暗い赤色をしています。隣の建物は明るめの赤色です。
手前に、バス停があります。ボンネットバスが走っているみたいですが、ここにいる時間内にはやってきていません。
こちらが旧片山家住宅です。2階の壁がなまこ壁になっているのが特徴だそうです。
急いで駐車場に行きます。みんなバスに乗っていて、2台のバスの前で添乗員さんが待っています。広兼邸(八墓村ロケ地)にいったかと聞かれました。時間的には無理です。
トイレをすませてバスに乗ります。最後の乗りこみとなります。鬼ノ城の出発では席に着くのが大変だったのですが、一人が前の空いている席に移動していたため少し楽に変われました。
バスの中で添乗員さんが地区の人から聞いた話をしていました。この日の午前中は、吹屋地区は かなりの人で混雑していたそうです。昼食が終わった頃から人が引き始め我々が到着した頃にはかなり空いてきていたそうです。連休の最終日ということの影響でしょうか。
バスは来た道を引き返していきます。太陽はだいぶ傾いています。山の斜面や木々が長い影を作っています。
高梁川沿いに出た頃には月が見えるようになってきました。半月です。
高梁川に出て川に沿って走ります、しばらく走ったところで川を渡ります。橋の上からの高梁川です。下流側を見ています。
そのまま川沿いに下って行くのかと思っていたらいきなり山の中に入っていきました。道は曲がりくねっているので、どちらに向かって走っているのかわかりません。月が右に見えたり左に見えたりしますから、かなりくねくね走っているようです。
GPSロガーの表示モードを変えて、走行方向を調べたら北を表示しました。岡山市街とは反対の方向です。隣に座っていた人が、中国地方は高いところに広い道が多いといっていました。中国山地は中国準平原とも呼ばれ、山頂は平坦です。まっすぐな道をつけやすいので高速道路のような立派な道路ができるのでしょう。低い所は川の流れと同じでどうしても曲がりくねってしまいます。
賀陽ICから岡山自動車道に入り、岡山に向けて走っていきます。日は沈んでいます。夕焼け空も終わりかけています。
隣の人が、岡山では車のマナーの悪いところがあって、道路に何かの注意書きがあったと書かれています。見ていると、右折時の合図と書かれているのを見つけました。確かに半分くらいの車がウインカーをつけていません。
あまりひどい渋滞にかからずに岡山駅に到着です。バスを降りて駅舎に向かいます。途中で見えた駅舎です。
帰りの新幹線は19時49分発のこだまです。1時間半ほどあります。再集合の場所と時間が指定されたらいったん解散となります。時間的には夕食タイムです。構内近くの飲食街に食事のできそうなところを探しに行きます。
探しながら歩いている岡山に住んでいたことがあるという人と一緒になりました。近くにあるシュークリームがおいしいのでお土産に買って帰るとのことでした。そうならということで、その店にいって自分用に1つ買うことにしました。
店を出てその人と別れて飲食店を探します。どこも長い列ができています。ヘタをすると待っている間に時間が過ぎてしまいそうです。結局、近くの大型スーパーでお弁当を買って、車内で食べることにしました。
その他いろいろと構内や周辺を歩き回りました。外に桃太郎像があったので写しておきました。
再集合の時間が近づいたので、集合場所に行きます。時間になる前に全員そろっているか確認できたら、そのまま新幹線のホームに移動し列車の到着を待ちます。ちょっとの待ち時間で列車が到着です。そのまま乗ってま新大阪まで帰ってきます。
西明石(姫路だったかな)での停車時間が長時間でした(15分くらいあったかな)。このあたりはうろ覚えです。これだけあると、神戸市内の在来線沿線だと新神戸にいくよりここで在来線に乗り換えた方が早く着くかも知れません。新神戸からの乗り換えもあります。こだまに乗る場合はこのあたりの待ち時間を考えた方がいいような気がします。
新大阪からはいつもどおり在来線に乗り換えて帰宅です。無事に到着することができました。
今回の旅行は日帰りとなりました。星を見ようということを考えなくていいので、日程に制約がつかないし、荷物も軽くなります。といっても、最近では赤道儀は持ち歩かなくてよくなったのでだいぶ軽くなっています。三脚の分だけは重たいままです。
パッケージツアーの案内を見ていたらおもしろそうというので飛びつきました。見学先は、お城2ヵ所と伝統的建築物群保存地区1ヵ所です。ふだんの旅行でも、お城とか町並み(伝統的建築物群保存地区)などはよく寄っています。
備中松山城は近世の山城で、鬼ノ城は古代の朝鮮式(神籠石式)山城です。こちらがメインかな。ツアー参加者の中にはお城巡りファンがたくさんいました。ということで、今回の旅行記のタイトルは備中に山城を見にいったということで「備中山城」で決定です。備中松山城と紛らわしいのですが気にしていません。
見学地は、3ヵ所ともそれぞれに見どころがあって満足しています。坂道はしんどいという声もあります。これくらいなら、ちょっと裏山までというのとそう変わりませんから、全く気になりません。ここにこんなものがあるのかと感心しながら歩くのがよかったと思っています。
吹屋は建物群を見るというのがツアーの目的だったかも知れません。だいたいのところはお土産物屋街化していて、そういうところは好きではありません。白々しいのも好きではないかな。それでも建物の雰囲気だけいただきます。ここの場合は赤みがかった土壁の色が特徴なんでしょうか。
豪商がいて、立派なお屋敷を建て、それが今に残っているというのが吹屋の特徴なのでしょうか。吹屋ではこういう建物だけではなくその他の施設を見られたこともよかったと思っています。町が発展してきた背景が何となく理解できるようになってきたというのがその理由です。
見学地ではあれもこれも見ようと欲が強いのか、どこでもバスに戻るのが最後の方でした。吹屋では、みんなバスの中でだいぶ待っていたようです。隣の人は時間内だからOKとはいってくれました。他の人達はこんなに時間いっぱいまでいろいろとみてまわらなかったようです。備中松山城にしても、だいたいは天守を見たらおしまいのようです。そこまでたどりつけない人もいたかも。
今回の3ヵ所では、見学時間として思ったより長い時間割り当ててくれていました。ところがいざ回り始めて、出発は何時だっけというのが各地でありました。鬼ノ城では10分早めに勘違いしていて慌てて添乗員さんに連絡を入れることになってしまいました。備中松山城では途中で確認しました。吹屋では2号車の添乗員さんに集合は30分ですかとカマをかけて確認しました。
見学時間が何分あるか計算して、どことどこをまわってと考えている内に、見学時間と集合時刻がごっちゃになってわからなくなっていたようです、このあたりの対策を何とか考えないといけないようです。メモをとるのが一番なのですが。紙をだして書くというのは面倒です。書きにくい上に、筆記用具か紙のどちらかをなくしそうです。でも、これがあるとブログ記事を作るときには参考になります。
旅行前に止まらなくなった咳の方は、飴で何とか押さえることができました。それほど咳き込むことはありませんでした。途中で痛くなった腰の方は座布団を使わないようにしてからは問題なく過ごせました。歩きすぎた事による、足の負担は何とか限度内に収まりました。翌日以降に持ち越すということもありませんでした。岡山駅構内も結構歩き回りました。ちなみにこの日の歩数は34118歩でした。体の不調も無事クリアです。
京都方向から帰ってくるときは、添乗員さんに頼んでJR京都線内の駅で下車できる証明書を発行してもらっています。団体旅客中一部途中下車証明書というのが正式名称のようです。今回は西側からの帰阪だったのでその必要はありませんでした。
気になったのは添乗員さんが、「特急停車駅でしか下車証は発行できません。1年前からJRの規則か変わってできなくなっています」といっていたことです。5月の高嶺高原からの帰りに発行してもらっていますから、説明通りならこの下車証はもらえなかったことになります。
出発前に見た旅行案内書では、帰りの途中下車は特急停車駅にのみになりますと書かれていました。JRの規則というより旅行会社の規則でそうしている印象を受けます。それならはっきりと当社では特急停車駅以外では下車証を発行しませんといった方がいいように思います。変に参加者から詰め寄られると添乗員さんも困ります。発行できるという写真を持ち歩いている人もいます。
西からの帰りでややこしいのは、新神戸で乗り換えができないことでしょう。ルールに従わない方法だとJRから旅行会社にクレームが入ることがあるそうです。
今回もGPSロガーで行程の記録をとっていました。それが帰りの山間部に入ってからの記録が残っていません。いきなり岡山駅で電源を落としたところまで飛んでいます。今まで記録が途絶えた理由がはっきりしているのは、電池切れで電源が落ちたときです。トンネルの中など電波が入ってこないところの記録がないのは当然です。今回はそのどちらでもありませんでした。今までもたびたびありました。
今回記録をとらなくなり始めた場所は、バスの進行方向を確認しようと、ロガーの表示モードを切り替えたときです。この時に記録停止の操作をしたのか、表示モードが違うときは記録をとらないかのどちらかのようです。表示モードを切り替えたときは、記録を取れていないものとして対応した方がいいのかも知れません。
経費です。ツアー代金(約1万5千円)以外に使ったのは2千5百円ほどでした。主に吹屋での入場券と岡山駅での飲食費です。お土産は買っていません。