2019/11/27-28 紅葉の東海三山
会津へ紅葉を見に行きました。時期的にはぴったりだと思っていましたが、今年(2019年)は残暑が厳しかったためか、まだ色づくには至っていませんでした。紅葉は北から進んできますから中国地方や九州へいくのならもう一回くらいチャンスはありそうです。できたらリベンジしたいものです。
会津に行く前に、パッケージツアーでもう一ヵ所目をつけていたところがあります。泊まるところが大きな地方都市の中心部でした。星を見るのには空が明るいのではという懸念があります。会津よりも優先順位が下になっていました。とりあえず、こちらコースは次にいくところの候補としてあげることができます。その前に、他によさそうなところがないかもチェックしてみました。結果は新しいコースはなしでした。チェックしていたコースも検討し直してみることにします。
過去に旭川に泊まったときに、空が意外と暗かったことにびっくりしました。市の人口規模は、住んでいる市とそんなに変わりません。住んでいるところでは、大阪・京都といった大都市の灯りの影響が強いようです。そのせいで星が見えづらいようです。大阪市内の方角は全くといって星は見えません。
この町も同じで、近くに非常に大きな町からの影響がなければ気にしなくていいのかも知れません。大都会は相当離れています。よこに少し大きな町がありますが、そこからもそこそこ離れています。町の中心部での灯りの影響だけを考えればよさそうです。
宿泊場所の近くで、星が見られそうなところをチェックしてみます。建物が少なくなるところまではかなり離れています。町中に公園とか神社とかがありますから、そのあたりを探せば何とかなりそうです。出発前に再確認したところ、駅の反対側に大きな公園があるのがわかりました。ここなども候補になりそうです。とりあえず、近辺の詳細地図を出力して持っていくことにします。
日程も月末近くの月明かりのない頃のものが空いています。このツアーに参加することにしました。もちろんメインは紅葉です。
ツアーの詳細です。タイトルは「美濃三山・遠州三山・犬山寂光院・鳳来寺山 紅葉に包まれた雅なる10の秘寺巡り2日間」です。岐阜県から静岡県のお寺や神社を巡るコースになります。それなりに紅葉で有名なお寺や神社が選ばれているのでしょう。タイトルからは8つになりますが、ほかに2つ加わっていることになります。巡る予定のお寺や神社は、篠尾山円興寺・両界山横蔵寺・谷汲山華厳寺・大矢田神社・犬山寂光院・法多山尊永寺・医王山油山寺・萬松山可睡斎・小国神社・鳳来寺山の10社寺です。
宿は豊川市の豊川駅前にあるホテルクラウンヒルズです。九州に遊覧船に乗りに行ったとき、雲仙温泉の端っこにあったホテルと同じグループです。ビジネスホテルですが、大浴場はついているようです。この点でも問題なしです。
泊まるところは豊川稲荷で有名です。朝の散歩でここによることができれば、全部で11社寺をまわることになります。到着時には閉門されていますが、朝は5時の開門になります。この時間だとまだ暗いかな。
いくと決まって準備を始めます。といってもだいたいはいつも通りです。すぐに終わります。バスで広い範囲をまわります。地図が欲しいところです。道路地図だと何ページかにまたがっています。持ち歩くには不便です。全体が1枚に入っているものとしては、中日本の高速道路地図があります。残念なことに、いくつかのお寺が書かれていません。道路地図と見比べて、手書きで記入して持っていくことにします。
東北三内丸山遺跡で雨傘代わりに使ったビニールの風呂敷が前回の旅行前に行方不明になっていました。今回、カメラを入れているショルダーバッグを整理していたら、小物を入れている牛乳パックの下に紛れ込んでいるのを見つけました。わかりやすところに入れ直しておきます。
直前になって、使っている家電量販店が家の近くに引っ越してきました。見に行った所、明るそうな懐中電灯が特価で売り出されていました。広い範囲を照らすこともできます。どちらがつくかはスイッチは押すごとに切り替えるというのは難点です。いままで旅行に持ち歩いていた懐中電灯は接点が不安定なのか暗かったりつかなかったりします。思いきってというほどの値段ではありませんが、買い換えることにしました。
懐中電灯には壁などに止められるように、強力な磁石がついています。磁力がバッグに入っているものに影響すると困ります。SDカードはちょっと心配です。磁石は必要がないので外しておくことにしました。かなり強引にはずしたので、本体の一部が破損しましたが気にしません。雨が入ってきたら困るかな。
先月末からの咳もまだ時々出てきます。一時はひどかったので、めったに使わない咳止めの薬を買って抑えることにしました。薬が効いたのかだいぶ収まってきていますが、まだ完璧とはいえません。一応エチケットとしてマスクも100均ショップで買っておきました。30枚入りのパックです(これが後々役立つことになるとは)。
前回の旅行では飴をなめることでおさえることができました。その時にかった飴もなくなっているので買い足しておくことにします。それと初日の昼食がありませんから、前日の晩におにぎりを買って冷蔵庫に保管しておくことにしました。買い物は一緒に済ませます。非常用の食料も一緒です。
いつも通り出発1週間ほど前に、旅行会社からの最終案内が届きました。7時50分新大阪発のこだまです。集合時刻は7時20分新大阪駅1階のいつものところです。7時前に家を出たら間に合うでしょう。
前回の旅行で集合時間がわからなくなりました。今回はたくさんのお寺などを回ります。一つで忘れてしまえば大変です。対策も考えておかないといけないでしょう。メモ用紙に書くのは、紙と鉛筆がどこかに行ってしまいそうです。携帯電話のメモ機能をチェックしてみたら使えそうだというのがわかりました。次の集合時間を0955のように時分を4桁の数字で打ち込んでおけばいいでしょう。最後に入力されている数字が次の集合時刻となります。数字の入力は簡単にできます。これで何とか対応できそうな気がしてきました。
準備、旅行の対策などこれでだいたい終了です。
朝はいつもの旅行の時と同じで、出発1時間ほど前に起きて、朝食を済ませ、お茶を沸かしてボトルに入れ、鉢類に水をやったら、だいたいいい時間になります。荷物を持って出発します。もちろん施錠はしっかりしておきます。
駅に近づいたところで、おにぎりを入れてくるのを忘れているのに気がつきました。取りに戻っていては遅刻です。どこかで買うことにします。おにぎりは冷蔵庫に入っていますから、帰ってくるまで持ちそうです。ちょっとぱさぱさになっているかな。
新大阪について、受付をすませ再集合してから新幹線の乗り場に向かいます。駅構内の店によってもよいということだったので、構内のコンビニで弁当を買ってホームにあがりました。
ホームでは電車が待っていました。添乗員さんの話では停まっていると言うことだったので、目の前にあった電車に乗りました。指定された席は空いています。左右の席の人はツアー仲間ではなく、ビジネスマン風です。何か変です。
席に座ろうとして何気なく前を見ると、電光掲示板に停車駅の案内が出ています。降りるのは岐阜羽島です。出ていたかどうかは見えなかったのですが、何か変な予感が増大します。隣に座っている人に列車の種別を確認したら、のぞみだとわかりました。間違えて乗ってしまっています。急いで降りたら、出発しますと放送が入りました。危うく京都まで行ってしまうところでした。
ホーム反対側に停まっている列車を確認するとこだまでした。これに乗ります。階段を反対側から上がったので右左を間違えていたようです。
座席についてしばらくすると、添乗員さんが一人間に合わない人がいると報告くれました。電話で確認した所、集合時間を間違えていてまだ地下鉄にいたそうです。その時点でキャンセルすれば出発前なのでいくらかは返ってくると説明したらキャンセルしたそうです。
隣に座っていた人も、モノレールが止まっていたといっていました。警察まで出動していたそうです。原因は不明です。後日確認しても「安全確認のため」としか書かれていませんでした。
その人は摂津市内から門真経由でくる予定だったそうです。駅でバス乗り場に行ってみたらJR吹田行きのバスがあったのでそれに乗ってきたら間に合ったそうです。そこからなら茨木行きも出ていたような。後で調べたらこの時間帯はありませんでした。
こちらも間違えてのぞみに乗っていたというと、そのままだと大変でしたねとなりました。京都で乗り換えることはできます。でもその間の運賃はどうなっていたのかな。乗り間違いを先に申告すれば、無料になることがあります。でも、正規の乗車券を持っていません。
いろいろ話をしている内にすぐに京都に到着です。ここからも何人か乗ってきます。停車時間は短くすぐに出発です。
このあたりまで来ると山の紅葉のようすや天気が気になってきます。これから見る紅葉と樹種は違いますが、だいぶ色づいているようです。天気は今ひとつかな。
米原で、長い通過待ちがありました。前回ほどではありません。いろいろとしている内に出発してすぐに岐阜羽島に到着です。ここでバスに乗り換えです。バス駐車場から見た岐阜羽島駅です。
駅を出発してからすぐに、名神高速道路に入ります。名神を走るのに京阪神の渋滞を避けることができるので、岐阜羽島乗換えというツアーがよくあります。今回は、もちろんこの近くの寺社に行くための利用です。
養老JCTから東海環状道に入ります。それにしても、ここの乗り継ぎ路がやたらと長いのは気になります。やっと名神を越えるところでの1枚です。トラックの上にJCT500mの案内が出ています。山裾をまわるように道路があるように見えます。遠くの山は養老山地です。
正面に奇妙な形の山が見えてきました。金生山です。石灰岩の採掘で山が削られてほとんど無くなってしまっています。石ちゃん仲間では有名な山です。
ここから山の中に入ってくねくねと進んで行くと、お寺の本堂と紅葉した木が見えてきました。篠尾山円興寺に到着です。
円興寺は美濃三山の中には入っていません。まずは小手調べといったところでしょうか。お手並み拝見です。バスの窓からもそうでしたが、バス駐車場からお寺のある方をみても紅葉しているよう木がたくさんあるようには見えません。隠れていて見えないだけなのでしょうか。自家用車はこの狭い道を進んでいった先に駐車場があります。大型バスは入っていけないので、ここをあるいていくことになります。
参道を歩いて、お寺の方に向かいます。道沿いの灌木が変わったことになっています。ウメノキゴケのようなものがぎっしりとついています。
自家用車の駐車場奥にきれいに紅葉した木が見えました。ピークは過ぎているようです。
駐車場入口横に、赤い実をつけたナンテンの木がたくさんあります。これだけあると見事です。
社務所入口にある石灯籠がちょっと変わった形をしています。灯りを入れるところ以外は自然石を積み上げたようです。これだけ平たい石をよく見つけたものです。これでバランスが取れているのも不思議です。紅葉を背景にして写してみました。
社務所に向かう道です。ここも道両脇のモミジがきれいに色づいています。御朱印をもらいに向かっている人達がいます。
ここから、本堂側を見上げたところです。下にあるイチョウも黄色く色づいています。
本堂です。入母屋造り妻入りで、拝所上は唐破風になっています。
円興寺の本尊は木造聖観音立像で国の重要文化財に指定されているそうです。それらしいものは拝めませんでした。中を覗いている人もいましたが、暗くてよくわからなかったようです。
本堂のある一画はモミジの木は少なめです。社務所や自家用車駐車場のある一画にモミジがかたまってあります。鐘楼を通して見たモミジとイチョウです。
引き返していきます。ナンテンのたくさんあったところです。別角度のものを写してみました。こうしてみると実がたくさんついているのはそれほど目立ちません。
社務所入り口の門の脇に大きなクスノキがあります。大垣市の特別保護樹に指定されていると書かれていました。
自家用車駐車場のモミジです。結局ここのものが一番見事だったようです。
トイレをすませて戻るようにいわれていたので駐車場奥のトイレに寄っていきました。使いづらい人がいたようで、この先少しいったところで、トイレ休憩をいれるとの連絡がありました。
山を抜けたところで道の駅の駐車場に入ります、向かいのお寺の境内に小さなイチョウが色づいているのが見えました。後で調べたところ凉雲時というお寺であることがわかりました。
道の駅は、池田温泉といいます。温泉というだけあって足湯があります。そのたトイレ以外の施設は閉まっていました。まだ早かったためでしょうか。
ここから山の縁に沿って進んで行きます。道脇には茶畑が並んでいます。有名どころなのでしょうか。
川を続けて2つ越えます。2つ目の方が大きいのでこれが揖斐川でしょう。
ここから山の中に入っていきます。相変わらず茶畑が広がっています。山の斜面にみのいび茶と書かれています。このあたりもお茶の名産地だったようです。道の駅でもらったパンフにも美濃いび茶の名前がありました。
バスが向かっているところは両界山横蔵寺です。みのいび茶と書かれていたところから山を越えて北側の谷に入った奧にあります。気がついていなかったのですが、書かれていた看板の下にトンネルがあってそこをくぐり抜けたようです。北側の谷に沿って走る道は西美濃もみじ街道というようです。ちなみにトンネルの道は西美濃お茶街道だそうです。
もみじ街道を進んでいって駐車場に到着です。ここからだいぶ歩くみたいです。出発までの間にまわりの山の紅葉のようすをチェックします。針葉樹が多いようですが、大きく色の変わった一画があります。
みんなの後をついて歩いていきます。途中にあったお社の前のもみじがだいぶ色づいていました。
横蔵寺の前に到着です。ここにも広い駐車場があります。バスはここまでの道が狭いので入ってこられなかったようです。
もみじはというと、なんか枯れ木のようです。
駐車場奥に橋があります。これを渡ってはいっていくのでしょう。両脇のもみじといえば、ここでも終わってしまったように見えます。
駐車場からお寺の入口です。この先に先ほどの橋があります・
橋を渡った先に山門があります。楼門です。人がたくさんいますから、帰りにゆっくり見ることにします。
横にあるのが寺門です。案内図によると客殿への入口になります。
山門の脇です。大きな草鞋がつり下げられています。仁王さん用にしては大きすぎます。これでは身長とそれほど変わらないでしょう。
山門をくぐった先に本堂があります。そこまで行く道の真ん中に香堂があります。香堂越しの本堂です。本堂の周囲の紅葉は終わっているのかまだなのかはっきりしません。緑が濃くないので終わってしまっている可能性の方が大きそうです。もみじもそれほどたくさんはなさそうです。駐車場横といいちょっと残念です。
本堂横のこの一画が、一番色づいているみたいですが、今ひとつはっきりした色ではありません。
香堂の手前右側に3重の塔があります。壁面の飾りが見えるようにしました。逆光気味で光が回り込んでいます。
本堂です。入母屋造り平入り三間幅の建物です。1670年建造だそうです。ちなみに三重の塔は1663年建造です。
横の観音堂です。こちらは妻入りになっています。だいぶ新しそうです。
谷を越えて反対側の斜面を登っていきます。道脇に桜の花が咲いていました。不思議そうな顔をしていると、10月桜といって今頃咲く花だと教えてくれました。
谷を隔てて見える観音堂です。このあたりはちょっと紅葉しているかな。
斜面の上にあるのが舎利堂です。ここには舎利仏(即身仏)が安置されているようです。ちょっと見るのは気が引けましたので入っていません。
ここからみた谷越しの観音堂です。本堂の写真よりこちらの方をたくさん写してます。
舎利堂のある一画には、瑠璃殿、聖天堂がありますが、あまり写真を写していません。建物が新しそうだったのと、紅葉の木が少なかったこともあるようです。きれいな木が1本あったのですが、建物の陰でした。
本堂のある一画に引き返します。谷に降りて再び本堂の方にあがっていく途中に見えた三重の塔と香堂です。画角内にきれいに収まっています。もうすこし紅葉していてくれたらなあ。
三重の塔のあるあたりから、客殿の方角です。紅葉はしているのですがすかすかです。だいぶ葉っぱが落ちてしまっているようです。
山門の2階越しに向こう側の景色です。こちらの紅葉はまだのようです。山門の中には鐘があります。なら、鐘楼門になります。仁王さんがいたので仁王門でもあります。どの呼び方で呼べばいいのでしょう。
山門をくぐって振り返って見たところです。香堂・本堂と続いて見えます。
門前の橋の手前から見た客殿周囲の石垣です。コケが光ってきれいです。落葉したもみじの色もだいぶ茶色くなって積み上がっているようです。
瑠璃橋から振り返ってみた山門です。入ったときにいた人はいなくなっています。
駐車場にでたところから客殿の方向です。どう見ても紅葉は落ちてしまっているようにしか見えません。
境内散策に時間をいっぱい使いました。このあたりでバスに戻ることにします。途中道脇で売られていた柿がおいしそうだったので買いました。かじりながら戻りました。まだ固くてかぶりつくのは大変でした。次郎柿といっていたような。
次にいくのは谷汲山華厳寺です。そこにつくまでのあいだ写真は全く写していませんでした。それほどバスは走ってはいません。すぐに、華厳寺に着いたようです。立派な門があります。この様式は三棟門でしょう。切妻屋根に段差があるのはあまりお寺では見ない形です。中華門とはすこし違うようです。
ここも駐車場からお寺までだいぶ歩いて行くようです。添乗員さんの行く後についていきます。街路のもみじはきれいに紅葉しています。でも。写そうとすると人がいっぱい入りこんできます。
ここもきれいですね。
徳積門前と書かれた場所にある神社の鳥居と紅葉です。八王子神社というものかな。拝殿が舞台のようになっています。ここの木々もきれいに色づいています。
境内から参道側を見たところです。この神社には誰もやってきていません。参道の人混みが嘘のようです。
参道に戻って歩いて行きます。神社に寄った分だけ他の人達と離れました。参道の人混みは少なくなったようです。道脇にあった柿の木です。実がたくさんついています。熟して赤くなったものもあります。
ようやく正面に山門が見えてきました。
華厳寺の山門は、屋根が2層ある二重門という形式です。これだけ大きな門になると、控え柱が8本あります。この形式の門は八脚門になりますが、八脚門といった場合は平屋建て構造の時のみをさすようです。
控え柱8本の内の両脇の4本で囲まれた場所を区切ってその中に金剛力士像が安置されていることがあります。いわゆる仁王さんです。仁王さんのいる門は仁王門とも呼ばれます。華厳寺の山門は仁王門でもあります。門の格子のすき間にカメラを差し込んで仁王さんを写してみました。これは外側から見て右側にある阿形です。
仁王門をくぐってからもまだだいぶあるようです。門を入ってすぐ右側には地蔵堂があります。四角い池の中にあるお堂です。
一条院前のもみじです。赤2本ときいろ1本の2色の混ざり方が見事です。
参道には石灯籠が並んでいます。百八燈と書かれています。後方のもみじと、石塁のコケの色とのバランスもきれいです。
地蔵菩薩かな。後のもみじはまだ色づいていないようです。
進行前の方に見えるもみじです。奥の建物は英霊堂かな。
参道の先です。百度石の標柱とその向こうに焼香場(香堂)が道の真ん中にあります。どちらも参道の真ん中にあることが多いようです。それにしても2つ並んでいるとは。右側の建物は手水屋です。(建物の用語は入口にあった看板に従っています)
焼香場の先は石段になっています。その手前も緩やかな坂になっていました。このあたりから、だいぶ登っていくようです。石段をあがった先に本堂が見えてきました。まだもう一段石段を登っていかないとたどり着けないようです。どういうわけか本堂の全体の写真はこれだけしか写していませんでした。鯉の彫り物があってなでると精進落としになるそうですが、そういうことに気がついていませんでした。
まだ石段を一つ登っただけです。一息ついています。ここから振り返ってみました。焼香場に続く参道がもみじの下に見下ろすように見えています。
観音様が並んでいるところがあります。右は後の幟を見ると勢至菩薩様みたいなので、菩薩様といった方がいいのかな。
ここからもう一段登った先に、鐘堂が見えています。鐘は2階に置かれています。
一段上がって本堂に行きます。本堂の左側には、回廊が続いています。この先には客殿庫裏があります。
本堂前石段の下から額を見上げたところです。
本堂から右側にまわります。本堂の外廊下に沿って、小さなお堂が並んでいます。手前側のお堂の前には大黒様がいます。小さなお堂というより離れのようにみえます
華厳寺にはお堂がたくさんあります。山門前にあった案内板と比べていますが、書かれているものとお堂の数が合わず、どれがどれなのか決めるのに苦労します。といっても、境内をまわっているときには、その図は見ていません。帰ってきてから写真を見比べて決定しています。建物の配置がどうなっていたのかはっきりしないこともあって、かなり大変です。この時間帯はGPSが電池切れで動作していませんでした。
境内巡りを続けます。本堂の右横にまわってみると、石段があって更にその上にお堂が見えます。阿弥陀堂のようですが、案内板ではこの隣の建物ということになっています。壁面が赤く塗られています。ベンガラでしょうか。丹でしょうか。
石段を上がった所から見下ろしてみたところです。右側の建物が本堂になります。
阿弥陀堂(としておきます)からまわった経路が思い出せないので。どうなっているのかよくわからない写真です。
本堂は瓦葺きなので、本堂ではないのはわかります。その向こう側にあった三十三所堂は銅板葺きですが妻面がこちらを向いています。向こう側にある建物のような感じです。
阿弥陀堂の屋根の形ははっきり記録に残っていません。軒瓦が見えていないところを見ると、銅板葺きのような感じです。妻入りか平入りかもわかっていません。
向こうに見える建物の懸魚や鬼瓦の形は鐘堂のものに似ています。1階部分ははっきり写っていませんが、スカートのような壁面があるように見えます。とすると、奧は鐘堂で手前は、阿弥陀堂と考えるのが一番妥当なようです。
更に進んで行くと宝塔が見えました、右側の建物は瓦葺きなので、本堂でしょう。左側の建物は一段高いところにあるので、やっぱり阿弥陀堂だったことになります。
阿弥陀堂をぐるっと回っていったことになります。
進行前方には、別のお堂があります。山門脇の案内板ではこちらが阿弥陀堂ということになります。別の図では奥の院と書かれているものがありますが、奥の院はずっと山奥にあります。前の石灯籠には揚輝と書かれています。
その隣にあるのが満願堂です。前に狸がたくさんいます。そのいわれについては記載がありません。多いですね。大きさも色々あります。
石灯籠に満願と書かれています。それからすると先ほどのお堂は揚輝堂ということになるのでしょうか。
満願堂前のもみじです。ここのものもきれいです。
華厳寺に来てわかったことですですが、ここは西国三十三ヵ所巡りの最後の札所になっています。それで大きなお寺だったのですね。住んでいる所の隣町に札所になっているお寺があります。ここも立派なお寺です。こんなことをいっても、美濃三山は何かとか全くわかっていません。
三十三ヵ所を巡り終わると満願成就ということになります。満願堂はそれに由来する名前だったのかなあ。
満願堂前の石段を降りていくと本堂の横にでます。降りたすぐ左側には子安堂と笈摺(おいずる)堂というのが並んでいます。笈摺とは巡礼に着ていた衣服のことです。満願成就の暁には、その衣服をお寺に納めるそうです。その場所がこの笈摺堂です。
折り鶴は笈摺との語呂合わせでしょうか。
隣のお堂です。仏様が安置されています。お札のようなものが水で貼りつけられています。病気を治すおまじないのようです。写真を撮ろうとしたら、ちょうどおまじないしようとしていたようです。知らずにシャッターを押してしまいました。邪魔をしてごめんなさい。
苔の水地蔵というようです。前の水盤の文字は苔のようにも読めます。もう一つは気かな。
廊下を通っていくと、本堂の裏側にでます。まどがあいていて、そこから観音様が見えます。両脇に四天王を連れています。顔が黒白青赤の四色です。方位と関係があるかなと思ったのですが、法印を持っている多聞天は青色です。関係はなさそうです。
本堂の外廊下を通って正面に抜けます。そこからは、来た道を引き返していくのが普通でしょう。右側に抜ける道があってそちらからも戻っていけそうです。回っていくことにします。
回廊沿いに道があります。回廊の途中にお堂が一つあります。三元大師堂というようです。
回廊は内仏客殿へと続いています。その前は一段低く庭園のようになっています。塀で囲まれていて、門があります。本門です。
内仏客殿の前から石段で庭園に下りていきます。そのまま本門を抜けると明王院があります。白いゾウの置物があります。気にはなりますが、入っていいところなのかどうか、わかりません。ここは遠慮しておきます。お釈迦様が乗るゾウだったようです。
そのまままっすぐ進むと参道に抜けます。参道を引き返していくと山門が見えてきました。
門前の参道を引き返していきます。何か買いたいものがあって、探したけれども見つけられなくであきらめた記憶があります。何だったのか思い出せません。揖斐川茶だったのかなぁ。
バスに戻り、次に進みます。すぐに川を渡ります。根尾川です。確か、濃尾地震の時にできた根尾谷断層はこのあたりから見つかっていたような記憶があります。この先からまっすぐな谷が延びています。
次に向かっているところは大矢田神社です。横蔵寺・華厳寺は同じ揖斐川町内にありますが、大矢田神社はだいぶ離れたところの美濃市にあります。この3つをあわせて美濃三山と呼んでいます。横蔵寺には両界山、華厳寺には谷汲山という山号がありました。美濃三山の山は山号に由来しているように思えます。これに対して大矢田神社は神社なので山号はつきません。山は2つしかないので三山にはならないこと、一つだけ離れているのが気にかかりますが、あまり深入りはしないことにします。泥沼にはまると大変です。
移動途中のようすです。ずっと地道を走っていたようです。道脇のみかんの木です。大きな実がついています。この時期だと何なんだろう。伊予柑かな。
柿の木畑のむこうに、イチョウの木が集まっているところがあります。あまりかたまって植えられる木ではありません。それにあまり大きくありません。何なんでしょうか。
どこをどう走っているかわからないまま。大矢田神社に到着です。駐車場の入る手前から見た、鳥居方面です。道脇の、紅葉が綺麗です。ここもまた、たくさん歩きそうです。
駐車場の脇に白色のサザンカが咲いていました。
添乗員さんに連れられて、大矢田神社に向かいます。先ほど見えていた鳥居です。
鳥居の先に門が見えます。お寺の山門のようです。神社でも、たまにこのような門を見かけることがあります。
門の脇には塀が続いています。楼門の横に塀が続いているのはあまり見かけません。手前に狛犬がいます。
普通、神社の楼門の下に控えているのは、右大臣(矢大臣)と左大臣です。このような門は仁王門に対して随神門といいます。でも、ここのものは仁王さんがいますので、仁王門といっていいのでしょう。でも、神社に仁王さんはなんか変。
楼門をくぐった先は、杉並木が続きます。一番最後の木はしめ縄で飾られていて、根元から2本並んでまっすぐ立っています。このようなものは夫婦杉とか呼ばれることが多いようです。夫婦樹と書かれていました。2本の杉の木と思っていたのですが、よく見ると右側の木の表面はツルツルで、左側は縦に裂け目が入っています。左側が杉で、右側がヒノキです。
楼門を越えてからもまだ道は続きます。社殿まではまだまだありそうです。数は少ないのですが、道脇には夜店もでています。紅葉のこの時期だけでしょうか。周辺のもみじも綺麗ですが、写真に店が写り込んでくるのは興ざめです。
参道から右側に脇道があります。こちらのもみじの方が綺麗そうです。帰りに時間があれば見ていくことにします。
直毘の滝と書かれているところがありました。組まれた石垣に、引いてきたような水の流れが上から落ちています。円興寺にも似たような滝がありました。
道はだんだんと登りになっています。右側が斜面になっています。ここのもみじも綺麗です。
石段を登り切ったさきに社殿がありました。前に狛犬がいなければ、お寺の本堂にようにも見えます。
社殿広場脇の斜面のもみじの木です。赤ばかりではなく黄色に染まっている木もたくさんあるようです。
社務所脇にあった人形です。何なのかは不明ですが、ここのお祭りで「ひんここ祭り」というのがあるそうです。それと関係したものでしょうか。
本殿の脇には、神社の由来や、建物特徴について書かれた解説板が置かれていました。それによると、三間社流造、三間向拝、軒唐破風、千鳥破風つき檜皮葺、寛文12年(1672年)建立と書かれています。本殿の屋根に注目します。棟から切妻屋根の上にでている三角形の屋根が千鳥破風(ちどりはふ)で、お城では2つ以上並んでいるのを見かけます。その手前の円形の屋根が唐破風(からはふ)です。他にも軒飾りの説明とかもありました。
左側から見た本殿です。唐破風の下が拝所になっていて、横に4本柱が並んでいます。柱の間が3つあるので三間向拝になります。
本殿前の鳥居越しに見た向こう側のもみじです。
本殿から奧へは進めないので、引き返すことにします。本殿前の石段を一つ降りたところから左側に下りて行く道があります。こちらに行けば先ほど行こうとしていたところにいけそうです。脇道に入っていきます。
この道沿いにはもみじの木がたくさんあります。この近くには紅葉谷のヤマモミジ林というのがあるとなっています。案内図では、本殿の裏側のようにも書かれていますが、見た感じでは、こちらのような気がします。
谷川を渡るところのもみじです。こちら側に来る人は少ないようです。ゆっくり見ることができます。
公園のようなところがあってそのわきのもみじです。黄色く染まっているもみじが多いようです。ヤマモミジの特徴の一つだそうです。
参道の太鼓橋のところまで戻ってきました。
ここからも参道ではなく、谷の方を進んで行くことができます。
大矢田神社の由来について整理しておきます。3世紀の中頃に、この付近に悪霊が出るというので神のご加護を祈ると同時に、スサノオノミコトを祀ったのが始まりだそうです。
8世紀になって白山開山のためにこの地に天王山禅定寺が作られ、次第に大きなお寺になっていったようです。戦国時代の戦乱で全山焦土となりなった後、江戸時代初期に牛頭天王社として本殿と拝殿が作られて、禅定寺は次第に縮小していったようです。この頃は神仏習合の風習が広まっていったので、お寺が神社の祭事をおこなっていたようです。
明治になると廃仏毀釈によって、禅定寺は廃寺となり天神社は大矢田神社と改名しました。
お寺のあったところに神社ができ、神仏習合や廃仏毀釈によって、神社の中にお寺のような施設が残されたようです。禅定寺は江戸時代にはまだ何とか健在であったので、美濃三山の一つに入っていたのでしょう。大矢田神社が、美濃三山の一つというのはこれで理解できそうです。山門のある神社というのも納得です。もみじを見ながら戻っている内に山門に近づいてきました。
大きなイチョウの木があり色づいています。手前側の屋根は極楽坊の門です。禅定寺の宿坊で現在まで残されている一つです。
まもなく楼門をくぐり抜けます。禅定寺に関係した門であることがわかった以上、山門といっていいのでしょう。ちなみに山門という言い方はお寺を山号で呼ぶことと関係しているようです。禅定寺は天王山が山号にあたります。美濃三山の山も山号をさしているのでしょう。
山門前の広場です。狛犬とか常夜灯、石碑とかいろいろなものが並んでいます。もみじも綺麗です。
鳥居の前のみちを渡ったところにも小さな鳥居があります。その奥には小さなお社が見えています。鳥居には稲荷神社と書かれています。
稲荷神社前の広場です。白いサザンカと真っ赤なもみじが見えます。花と紅葉の対比で写してみましたが、花がもう一つパッとしませんね。
駐車場まで戻ってきました。赤い実をつけた木があります。実の形はハナミズキのようにも見えます。ハナミズキの木はこんな形でだったでしょうか。
バスに乗って待っているとすぐに出発です。広い道に出る手前で、紅葉谷の案内がありました。横の柿の木にはいっぱい実がついています。その下にはいろいろな花が咲いていますが、何かよくわかりません。
大矢田神社の次に向かうのは犬山寂光院です。添乗員さんの言い方を借りると、ここまで3勝1敗になります。最初の円興寺はそれほどもみじがなかったので1勝にしてよいものか。気分的には2勝1敗1分けくらいの感じです。
寂光院は犬山市の木曽川沿いにあります。といってもここからどう進んで行くのかよくわかっていません。広い道路に出てから、すぐに大きな川を渡ります。長良川です。前に渡った揖斐川と寂光院の前の木曽川とあわせて濃尾三川といいます。木曽三川というのが正しいようですが、長良川揖斐川は木曽地域を流れていません。これはどういうことなのでしょうか。
バスは高速道路とかバイパスを通って各務原市鵜沼に抜けてきました。駅の近くで線路を渡ります。高山本線と名鉄が平行して走っています。
木曽川を渡るあたりで犬山城が見えてきました。反対の窓側だったのでこの程度にしか写せません。
木曽川を渡って、犬山遊園駅の前をぐるっと回るように進んで、木曽川沿いの道に出ます。対岸には大きな岩山があります。
川面を見ていると、川下りの船が見えてきました。ネットで調べてみると、かっては日本ライン川下りとして運航されていました。だいぶ前に休航となり、現在は運行されていません。現在は、紅葉観光船として、犬山遊園駅近くからこの少し上流の桃太郎公園付近までの往復で運行されているようです。
木曽川の上流側です。山がだいぶ色づいています。
少し進んだ所で、バス駐車場に到着です。この先の道は狭いので、バスは川沿いから登っていくことはできません。まただいぶ歩いて行くようです。
駐車場から最初に階段を登っていきます。だいぶつかえていたので、その間に川沿いのもみじの木を見ていました。
ここからは川は見えませんでした。すぐに追いつかないといけないので、駐車場から階段に戻ります。バスが方向転換をしようとしていたので、少し邪魔になったようです。
バス駐車場から階段を上がっていくと、参拝車が通る道路に出ます。時々通る車に注意しながら、歩いて行きます。
道はわりと切り立った山の斜面につけられているので、ところどころに崖があり、岩石が露出しています。細かい溝状の筋が平行に入った岩石でできています。特徴から板状チャートでしょう。海嶺近くの海底でプランクトンがたまってできた地層です。
道沿いの紅葉したもみじが見えます。サザンカの花も咲いています。いっしょに写してみました。
石段があって、標識には登っていくと寂光院本堂に行くと書かれています。添乗員さんは、ここを登らずに道沿いに真っ直ぐ進んで行きます。石段脇のもみじは赤く染まっています。
小さな橋を渡ります。谷沿いにもたくさんのもみじがあります。
門があって内側が駐車場になっています。ここの門は柱だけの門です。総門と呼んでいるようです。
駐車場奥にも参道入り口と書かれているところがあります。内側に野仏さんが3体並んでいます。添乗員さんはこちらの方にも入って行きませんでした。
駐車場のもみじです。ところどころに色が変わったもみじが見られます。ここのものは真っ赤です。
駐車場からも広い道を進んでいきます。このあたりは車は通行止になっていて、気にしなくても歩いて行けます。相変わらず道沿いには板状チャートがでています。ここのものは筋の幅が細かくだいぶ曲がりくねっています。
道を進んでいくと広場に到着しました。法輪殿(お茶所)をはじめとしていろいろな建物があります。路線バスもここまであがってくるようです。
正面左手には大きな建物と門が見えます。建物はお寺の事務所のようです。案内図では山門となっています。今までの他のお寺に比べると小さいようです。形式的には薬医門になります。広場側が外側に向けていますから、お寺に入る門というより庫裏とか社務所に入る門のようです。
右の山側です。もみじがいっぱいです。隠れていますが、十三重の塔(?)があります、上の方にあがっていく坂が続いています。七福坂といいます。これからここを登っていくことになります。
だいぶ登ったところで振り返って見たところです。だいぶ登ってきたようです。石段がずっと続いています。
石段の区切りある所からの登り口に福禄寿坂と書かれ、福禄寿が祀られていました。ここの坂には七福神の名前のつけられた坂が順番にあるようです。添乗員さんが7つの福をもらいながら登ってくださいといっていたのはこのことだったようです。この後は寿老人しか残っていませんでした。
坂を登り切った右側が本堂になります。その前に左側にあるものを見ておきます。宝塔がありました。左まわりに3回回ってお参りくださいと書かれています。
弁天堂(右側)と蚕堂(馬鳴堂)です。蚕堂は寂光院の中で一番古いお堂(1823年再建)だそうです。
石段の右側にまわります。回廊をくぐった先に鐘楼が見えてきました。
そのまままわって、本堂の前に出ました。前に大きなもみじの木があります。
本堂までくるには、七福坂を登らないとたどり着けません。石段が登れない人はどうするのかというと、スロープカーというのであがってくる方法もあります。6人乗りの斜行エレベータです。七福坂下の広場に乗り場があって、本堂横随求堂の裏手まであがってくることができます。
問題なのは輸送能力です。片道4分かかるそうです。乗り降りの時間も含めると最大で、10分で1往復といったところでしょうか。広場では20人以上の人が待っていました。4回目に乗れるとして、40分後に乗車、45分で到着ということになります。ツアーで寂光院の見学時間は1時間ちょっと、広場までの往復時間も考えると、本堂まであがることができるのかどうか。バスに乗ってきた人が全員利用すれば時間が全然足りません。
いろいろなお堂を見ながらでもカメラの記録をみると4分であがってきています。ちょっと使いづらいようです。
随求堂の外廊下を歩いていると、ちょうどスロープカーがあがってきたところでした。
外廊下を通りぬけ、正面にまわって見た本堂です。
本尊は千手観音です。遠慮がちですが撮らせてもらいました。日本武尊が作ったといわれているそうです。
正面にあるもみじの木越しに本堂が入るように写してみました。
本堂拝所上の軒飾りの龍です。オレンジ色は火を吹いているのでしょうか。
本堂前にイヌマキの木があります。非常に大きな木です。解説板にはラカンマキと書かれています。実の形が修行僧の形に似ていることからつけられてそうです。五百羅漢の羅漢です。普通のイヌマキも同じ形の実をつけているような。
本堂前から見た、もみじ越しの鐘楼の屋根です。建物がもみじに埋もれています。
寂光院の名前で気になっていたことがあります。寺号は何かということです。大原三千院のように「寺」でよばないものもありますから格式の違いかなということで気にしなくてもいいことかも知れません。でもどう違うのは気になります。
山号は継鹿尾山(つがおさん)です。犬山寂光院ということがありますが、犬山が山号だと思っていました。寺号は「八葉蓮台寺」です。あまりこちらの名前はあまり聞かないようです。本堂正面の額には読めなかったのですが、「継尾山」と山号が書かれていたようです。寺号はありませんでした。
宗祖は弘法大師だそうです。本堂前から弘法大師の像が見えています。
像の後ろ側は展望台になっていて名古屋岐阜方面木曽川が見わたせます。犬山遊園から岐阜方面の景色です。だいぶ霞んでいます。
本堂から見て左手尾根上を通っていくとその先には石仏さんがたくさんありました。四国八十八ヵ所石仏群というそうです。八十八柱あるのでしょうか。
道脇にモチツツジが咲いていました。普通は春先に咲く花です。
ここから引き返していくことにします。本堂の前を通りぬけ七福坂を降りていきます。登りに比べて下りは、もみじがよく見えます。
斜面に石仏さんがたくさん並んでいるところがありました。二人ずつ並んでいます。ここも四国八十八ヵ所石仏群というようです。先ほどのところとの関係はどうなっているのでしょうか。
七福坂を降りきりました。石段斜面のもみじです。スロープカーも降りてきています。まだたくさんの人が乗車待ちをしています。
寂光院の麓側の広場まで戻りました。この先はバス駐車場まで車道を戻っていくことになります。総門前から車道を降りていって、駐車場の裏側で階段を降りていくと到着できます。階段を降りずにまっすぐ進み、木曽川沿いの道に出たところに不老の滝というのがあります。時間的にはまだ少し余裕があります。こちらに行くとしても、ちょっと遠回りになるだけです。行ってみることにします。
広場からの帰り道です。車道を通るのはできるだけ避けたいものです。石段があったのでこちらから降りていきます。道幅が狭い分、頭の真上までもみじが覆い被さってきて、もみじのトンネルの中を歩いているようです。
そのまま進んで行くと、あがってくるときに本堂への案内標識のあった石段登り口に降りてくることができました。ここからは車道を下りて行かないといけないようです。
サザンカと紅葉がいっしょに見られた場所を通ります。サザンカがモミジの色に負けてわかりづらくなっています。
バス駐車場への階段前もそのまま通過していきます。その先に柿の実がなっている所がありました。小さなカキの実です。黄色い葉っぱはマルバアオダモかな。奧のはコナラです。
川沿いの道との合流点に到着です。正面は公園になっています。ここのもみじも綺麗に紅葉しています。
ここは後から見ることにして、まずは不老の滝を探します。少し上流側に行ったところに山側に向かって細い道がついていて、その入口に不老の滝と書かれています。
入って行くと滝が見えてきました。石垣を積んで倍くらいまでかさ上げしているように見えます。2本の滝の高さをそろえたようにも見えます。
まわりの崖とかも気になったのですが、ここは引き上げることにします。広場に戻ってもみじを見ることにします。
大きな広場のまわりのもみじが色づいています。ここもなかなか見応えがあります。
公園の駐車場の入口脇にはサザンカの木がたくさんあり、花もいっぱい咲いています。もみじとの組み合わせて写してみました。
寂光院に来るときに気になっていたことが一つあります。かなり昔の話になりますが、この近くで、二畳紀−三畳紀境界層というのを見たことがあります。普通は、PTバウンダリーと呼んでいます。Pは二畳紀の別名ペルム紀のP、Tは三畳紀の別名トリアス紀のTです。
最近話題になったものとしてはチバニアンというのがあります。これもその境界層の一つです。PTバウンダリーがどういう意味があるかというと、ここで地球の歴史上で大きな絶滅事件があったからです。この境界で、古生代から中生代に変わっていきます。
中生代から新生代への変わり目では、大きな隕石が落下したといわれています。ここでは別の事が起こっています。地球上から酸素がなくなったといわれています。
この時代に海底でたまった鉄分を調べてみると違いがあります。二畳紀のものは、酸素が多い状態でたまるので赤い色をした赤鉄鉱(酸化鉄)として含まれています。この赤い色はベンガラ(前回の旅行記:「備中山城」参照)の色です。三畳紀になると、鉄分は酸化されず、黄鉄鉱(硫化鉄)としてたまっています。黄鉄鉱は条痕色(粉の色)が黒ですから、黒っぽい色になって見えます。つまり、岩石の色が、二畳紀から三畳紀に変わったところで、赤っぽい色から黒っぽい色に変わっていきます。
この地層が、各務原市の鵜沼というところの木曽川の川原で露出しています。一度案内してもらっていったことがあります。それが、ここから見ると、木曽川の対岸にあたりになります。正確な場所は覚えていません。覚えているのは、川原に露出していたことくらいです。
その時の写真です。地層が直立していて、左側が赤っぽい色、右側が黒っぽい色に変わっています。左側の人の立っている足元までが二畳紀で、そこから右側が三畳紀ということになります。
この場所を特定したいのですが、何か手がかりはないでしょうか。
バスが犬山遊園の駅前を通過して木曽川沿いに走っているときに川沿いに露出している岩石を写そうとしていました。何とか写った写真です。赤というより緑黒い色をしていますから、これは三畳紀の地層ということになります。
他の手がかりはないでしょうか。バスが木曽川沿いに入った直後に上流側を写した写真(No.17)に山が写っています。この山の形と、むかし写した写真の正面に写っている山は全く同じ形をしています。左手前斜面に見える崖もだいたい同じ位置に同じ形で写っています。それからすると、バスからの写真で山の手前側、川の対岸にあたるところあたりがその候補といえます。写真にはそのあたりの川原のようすははっきりと写っていません。
昔の写真を見ると、左側に建物が写っています。これは、不老の滝前の広場の少し上流側にある、使われていないレストラン様建物のようです。上流側を見るように写されていますから、少なくとも、レストラン様建物よりは下流になるのでしょう。対岸の方向と写真の撮影方向から見ると、不老の滝前広場からバス駐車場までの間の対岸あたりがぴったりきそうです。
不老の滝前の広場からは、川原が見えませんでした。浄水施設があって立入禁止にもなっています。川原に出ることもできませんでした。
バス駐車場まで戻りましたが、この間も対岸は見えませんでした。少し下流側まで行って見ると対岸が見えるところがありました。そこからやや上流側に向かって写した対岸の川原です。何となくそっくりな岩が露出しているようです。右端手前の岩は、向こう半分が赤っぽい色になっています。三人が乗っていた岩のように見えます。
ここから下流側です。空は夕焼け色になっています。木曽川には波がなく、岩山を水面に映していて、幻想的な風景になっています。
道路に沿ってあるヒイラギモクセイの生け垣の前を戻っていると、小さな綿のようなものが舞っているのが見えました。雪虫のようです。トドノネオオワタムシというのが正式名称です。添乗員さんに報告すると雪が降るのですかねと聞かれました。ご存じだったようです。北海道ではそのようにいわれています。
数が少ないのですが、飛んでいるところを写してみました。自動では生垣にピントが合ってなかなか写せません。手動でピンぼけ覚悟で写してみます。比較的よく写っているものです。ピンぼけより、ぶれている方が大きいようです。
葉っぱに止まっているのを見つけました。だいぶ撮影の難易度は下がりましたが、これでもはっきりとは写せていません。だいぶ薄暗くなってシャッター速度が長くなっています。
寂光院の後は宿に向かうだけと思っていました。どちらにしても、ここからのバス乗車時間はたくさんあります。雪虫観察で時間を使いました。トイレに行くのを忘れていたので、添乗員さんに許可をとって行かせてもらいます。不老の滝前の公園駐車場にあります。時間がないので走って往復します。出発時間までに何とか戻ることができました。
バスはすぐに出発します。そのまま木曽川沿いに下って、犬山に抜けると思っていましたが、途中から山の中に入っていきます。その後の道はよくわかっていません。道沿いに湖のようなダム湖のようなものが見えたのがヒントになります。
実際には、GPSロガーで位置を記録していますから、帰ってからはわかります。今日は、前半が容量不足の電池を使ったため記録がうまくとれていなかったのと、電池を入れなおしてからの下車観光中は持ち歩くのを忘れていたためにほとんど役に立っていません。
そのまま、豊川の宿まで行くと勘違いしていました。岡崎で夕食を食べるようです。事前に届いた案内には、夕食はひつまぶしとは書かれていましたが、どこで食べるかということまでは書かれていませんでした。
岡崎市内の夕食は、名古屋名物のひつまぶしです。食べ方の説明がありました。1杯目はそのまま、2杯目は薬味を入れて、3杯目はお茶漬けで、4杯目は気にいった方法で、ということでした。
1杯目は普通の鰻丼です。ウナギは小さめです。2杯目は薬味の味が強すぎてウナギの味が死んでいました。3杯目はお茶で味が薄められてちょっとぼけたような味に、4杯目は……といってもおひつは空っぽです。普通に食べるのが一番よかったようです。いっかい1回の量も少なすぎます。3回おいしくとはなりませんでした。
夕食がここだったのは、宿がビジネスホテルで夕食が準備されていなかったからのでようです。豊川の周辺には大きな食べ物屋さんはなかったこともあるのかな。それとも名物がなかったから。いなり寿司では、今ひとつというのでしょうか。岡崎のひつまぶしも名物なのかどうか。名古屋というイメージがあります。
食後は出発まで少し時間があります。近くを出歩いて良いということなので、近くのコンビニまで、明日の昼食になるものを買いに行きます。場所は添乗員さんが教えてくれていました。何人かの人が行ったようです。場所も聞かれました。
食後の運動も終わって、次は豊川の宿に向かいます。宿の前はバスが止められる場所がありません。近くの駐車場までいったら、そこから、みんなそろって宿まで歩いて行きます。足元は暗かったのですが、新しい懐中電灯が結構役に立ちました。
宿に着いて部屋に入って、荷物を置いたら、町中の散策にいきます。外に出て、空を見上げたのですが、星は出ていません。次回来ることもあるかということで、星見ができそうな場所の下見も兼ねましょう。
まずは駅の方に行きます。豊川稲荷の玄関口だけあって、駅前広場にはたくさんのキツネ像が並んでいます。
駅の2階に上がります。改札口前で、パンフレットを物色していると、豊川稲荷の境内図がありました。いただいていきます。
そのまま線路の反対側に抜けます。下りたところからみた駅ホームです。電車が止まっています。豊田方面に向かう電車でしょう。
ホームの先に別の電車が止まっています。こちらは、名鉄のホームになります。
この先にある大きな公園に行ったのですが、照明がまぶしいくらいについています。ここでは星は見られないでしょう。比較的ましだったのが、宿の東側にある工事中の公園です。ここも完成してしまえばどうなっているかわかりません。
そのまま進んで行って、豊川稲荷の方まで行って見ました。事前に調べていたように、門は閉まっていました。
だいたいい時間になったので、宿に戻ります。大(中?)浴場がありましたので浸かりにいきます。一つしかないので、男性女性は時間別に使うことになっています。7時からは男性用でそれ以前が女性用になります。朝も男性用です。この切り替え時間には夕食を食べていて到着できていないので、女性は使えないことになります。ツアーの大多数は女性です。ほとんどの人がせっかくある浴場が使えないことになります。このあたりは融通を利かせてもよかったのではないでしょうか。ツアー到着時間とかがわかっていますから、切り替え時間を変えるなり、工夫の余地はありそうです。
朝のことがありますから、早めに寝ようとしたのですが、二つ問題が発生です。1つ目はナイトウェアです。形的には超ミニのワンピースといったところでしょう。これでは足が冷えすぎます。もしもの時のために入れている、トレーナーを履いて寝ることにします。
2つ目は、部屋の暖房が切れないことです。室温はちょっと暑めです。これでかけ布団をかぶって寝ると、暑くて寝られないでしょう。上布団を使わずそのまま上で寝ます。もともとベッドのかけ布団は苦手です。かわりにバスタオルを掛けることにします。ないよりはましでしょう。
せっかく豊川まで来ていますから、朝の出発前までに豊川稲荷に行っておきたいものです。出発時刻は7時40分で、バスの駐車場まで歩いていかないといけません。朝食は7時からとなっていますが、その20分ほど前には食べ始めることができるようです。
豊川稲荷見学が1時間として、そこまでの往復時間も考えると5時半には宿を出ないと間に合わない計算になります。5時には門が開いていますから、この時間でも中には入ることができます。
夜は、昨晩の一工夫のおかげでよく寝ることができました。朝は5時過ぎに目が覚めました。戻ってすぐに出発できるように準備してからとなると、間に合いそうもありません。必要最小限の事だけ済ませて豊川稲荷に行くことにします。
外はまだ真っ暗です。昨晩確認した道を通って豊川稲荷に行きます。門の前に到着しました。開門されています。門の形は四脚門です。唐破風がありますから唐門となります。酒田市の浄福寺と同じ形式で、そこでは四脚向唐門と書かれていました。ここの唐破風は屋根に反りがあるので、軒先だけです。
入って左側に進みます。鳥居が見えます。その前には狛犬ではなく狐が座っています。稲荷神社なのですね。鳥居は石造りで赤くありません。
鳥居の下の石畳からさらに奥を見ます。もう一つ鳥居があって、その先に、お堂が見えています。
左側に大きな建物があります。寺宝館となっています。宝物が納められているのでしょうか。
その右側にあるのが札所です。お札をいただくところなのでしょう。明かりは点いていますが、まだ開いてはいないようです。石畳に沿って進んだ先から見ています。
その向かい側が最祥殿です。書院と続いています。
2つ目の鳥居の下から、正面です。本堂が見えます。屋根などもいっしょに写るようにしたのですが、まだ薄暗くこれが限界です。本堂には大きな提灯が下がっています。
豊川稲荷の中は、昨晩のうちに駅でいただいていた案内図に従って進んでいくことにしています。本堂でお参りしたら右に進んでいってお寺を周回するコースが書かれています。
本堂を右に進んだ所にお堂があります。幟にはおみくじと書かれています。おみくじが買えるようです。ところでここは神社でしたっけ。稲荷となっているから神社なのかな。
進んで行くと、回廊があります。朝のお勤めをしているのでしょうか、時々お坊さんが行き来しています。
回廊の下をくぐり抜けた先です。道沿いにたくさんの幟が並んでいます。千本幟というのはこれのことなのでしょう。豐川ロモ枳尼眞天と書かれているようです(「とよかわだきにしんてん」と読むようです)。このお寺のご本尊様です。
奧に三重の塔が見えています。幟越しに写してみました。
左側にも、たくさんのお堂が並んでいます。入口の脇にある説明板には禅堂(万燈堂)と書かれています。額の文字は何と書かれているのやら、5文字で後3文字は照一心かな。ここにもおみくじの幟があります。
その隣にあるのが、弘法堂かな。拝所横の窓が火灯窓になっていて、右側には仏様が見えます。ここからお堂まで、両脇に幟が並んでいます。
更に隣が大黒堂です。額にも大黒天と書かれていますし、入口両脇にも大黒さんがいます。右側の大黒さんは俵に乗っていますが、左側はどうなっているのでしょう。
豊川稲荷の正式名称は(圓福山)豊川閣妙厳寺というようです。稲荷との関係はが気になるところです。いろいろ調べてやっとわかったのは、ご本尊の豐川ロモ枳尼眞天が狐にまたがっていることから、狐を祀るようになったのが起源だということです。どっかに妖狐が現れたと書かれていたような。気のせいかな。
豊川稲荷の奧の方に、霊孤塚というのがあります。ただこの近辺にそれらしきものはありません。鳥居があって、そこから道が続いていますから、こちらなのでしょう。行ってみることにしました。灯りは少なくて薄暗いのですが、新しい懐中電灯のおかげで気にせずに歩くことができます。
だいぶ進んだ所で、霊孤塚と書かれた2つ目の石碑の前に出ました。
墓所を囲っているようなところで見る石囲いもありますからこの中なのでしょう。入って見ると無数の狐の石像があります。
奧に、鳥居があってその先に祭壇があります。たくさんの狐もここに向かって並んでいますから、ここが霊孤塚なのでしょう。
行き止まりなので引き返します。戻りながら、狐の石像群を写しておきます。照明は懐中電灯です。結構広い範囲を照らしてくれています。色が青っぽく写るような。ここまで緑色をしていたのは蛍光灯の光の下で写されたものです。
大黒堂の前まで戻り、道をUターン気味に進んで行きます。奥の院という建物がありました。現在の本殿が作られた後、古い本殿をこちらに移築して奥の院としたそうです。
横にあるのが納符堂です。八角形のお堂です。使わなくなったお札を納めるところです。
道を進んでいって次にあったのが、景雲門です。旧奥の院の拝殿をここに移築したそうです。確かに、下を通りぬけられるようになっていなければ、お堂といっても差し支えのない形をしています。通りぬけた先から見ています。裏側はのっぺらな板壁でした。
ここまできたときには、空が明るくなりはじめていました。
そのまま進んで行くと再び三重の塔が見えてきました。こちら側が正面になり、先ほどはこの裏側から見ていました。右奥には禅堂(万燈堂)が見えています。だいぶ空が明るくなってきて、灯りなしでも歩けるようになってきています。空が不思議な色に写っています。
再び、本堂から続く回廊の下を通ります。
池があって石橋が架かっています。橋の下越しに、水面に写る向こう側の建物の灯りを入れてみました。
いったん本堂前まででました。空が明るくなっていて、屋根の形がはっきりわかるようになってきています。
正面左側には最祥殿が見えています。
左側にあるのが随祥殿です。ご祈祷受付と書かれてます。まだ、ご祈祷が始まる時間ではありません。先ほどはこの建物の裏手を回ってきていたようです。
最祥殿前から総門側です。山門があります。右側に漱水舎その向こうに寺宝館が見えています。
随祥殿からの帰り方向の正面に山門がありました、この並びは何か変です。どういうことかというと、山門の位置は総門から入って本堂に行く途中になっていません。普通はお寺(本堂)に向かう途中で必ず大きな山門をくぐります。山門はくぐることで三界解脱の効用があります。それから本堂にお参りするというのがルールです。とするとこの山門の位置づけはどういうことになるのでしょうか。
この山門の下を通る石畳の道は、まっすぐ随祥殿に続いています。本来ならその先が本堂ということになります。随祥殿がこのお寺では一番のお堂ということでしょうか。回っていてわかった事は奥の院が元本堂ということでした。随祥殿が新しそうなこととあわせて考えてみると、もともとこの位置(近く)に本堂があって、現在の本堂が建てられた後、旧本堂が移築され、その跡地に随祥殿が建てられたということも考えられます。
正面にまわってみた山門です。くぐって続く石畳の道が奧の随祥殿に続いているのがわかります。
門の形式は、八脚楼門です。仁王様がいる場合は仁王門といいます。ここの山門にいる仁王様です。
山門の正面左手側にもいくつかのお堂があります。これは鎮守堂です。これがあるのは山門の外側ということになります。山門ができてから寺域が広くなったのでしょうか。
山門をよけると本堂が見えます。だいぶはっきり見えるようになってきました。
その右側の山門側です。山門の右側が最祥殿、その手前は鐘楼堂です。大きな石灯籠も見えています。
そのまま、石畳の道を通って外に出ました。朝食の時間が迫っています。宿に戻ることにします。
道路に出て振り返って見た総門です。屋根のようすもはっきりわかるようになっています。
そのまま正面に続く道は豊川いなり表参道というようです。サブタイトルは「なつかし青春商店街」です。鳥居風の看板に書かれています。
宿に戻ったら朝食となります。ちょうど食堂が開いたところです。入口前には長い列ができています。続々と人が下りてきています。並んでいる時間が無駄になります。それほど時間に余裕がありません。列が短くなるまでの間に、できる分でも出発の準備をしようと部屋にいったん戻りました。
食事から戻ったらすぐに出発できるように、荷物を持ち歩く荷物、バス車内で必要な荷物、帰るまでは特に必要のない荷物にまとめておきます。いつもは、持ち歩きようにステンレスボトルにお茶を朝に入れるのですが、ここは部屋には茶葉は置いていなくてロビーの粉末のお茶があるだけです。ふだんの宿で置いてあったお茶のあまりをいつも持ち歩いていますから、これで入れます。
一段落して、外を見てみました。駅ホームは切れ目なく電車が止まっています。これから朝の通勤が始まるのでしょうか。
駅の屋根越しに向こう側です。渥美半島の山並が見えているようです。厚い雲が垂れ込めています。天気は大丈夫なのでしょうか。少し心配です。
荷物がまとまったので、食堂に降りていきます。入口の列の長さは先ほどと変わっていません。相変わらず食事に降りてくる人は多いようです。列の長さが短くなりそうにありませんし、準備もだいたい終わっているのであきらめて並ぶことにしました。
順番が来て、食事をもらっていくことになります。バイキング形式です。ここで問題が発生です。トレイを持って、次にバイキング用のとりわけ皿を上に乗せようとするとこれだけでトレイがいっぱいです。残ったスペースにはコップが2つ乗るだけのすきましか残りません。牛乳とお茶をのせていっぱいです。
茶碗、味噌汁椀はとりわけざらの上に置くしかないようです。ビジネスホテルですから、おかずの種類がすくないのでこれで何とか収めることができました。よく考えたら、とりわけ皿をトレイから半分はみ出させるという方法がありましたね。
豊川いなりの近くということでこの町中ではいろいろ工夫を凝らしたいなり寿司があるようです。ポスターが貼ってありました。ここでも普通のいなり寿司がでていました。2ついただきました。
隣の席で、韓国青年がスマホアプリの音声でツアー仲間に質問していました。「はしはどこですか」と聞こえました。一瞬何のことか理解できませんでした。どうもお箸を見つけられなかったようです。アクセントが何か変です。といっても関東と関西でも違っています。それに箸とはめったにいいません。便利になりましたね。いつもはウェブページの自動翻訳を使っていますが訳を見ても何が書かれているかさっぱり理解できません。でもこれに頼らなくても、漢字が通用するような気がします。
食事が終わったらそれほど時間の余裕はなく、すぐに出発です。バスのある駐車場まで歩いて行きます。駐車場入口には張りぼてのキツネが置かれていました。来た時は暗くてわかりませんでした。
全員集合するとバスは出発です。すぐにでられるかと思ったら運転手さんがバスから降りて駐車料金を支払いに行きました。これで出口のゲートが開いてやっと出発です。最初の目的地は法多山尊永寺です。袋井市にあります。
東名高速に入り東に向かいます。浜名湖を通過します。このあたりから富士山が見えることがあるとか。今日は雲が多くで無理です。
バスは、天竜川も越えていきます。
袋井ICで高速道路を降り、ジグザグに進んで行きます。山の中に入ってくると、お茶畑が広がっていました。お隣の掛川はお茶で有名なところです。このあたりもお茶栽培には適しているのでしょう。
尊永寺の駐車場に到着しました。ここから歩いて行くようです。参道に出るまでが複雑でした。建物の裏側をまわっていくとたどり着くことができました。たぶん近道をしていたのでしょう。案内標識はありました。帰りがわかりにくくなりそうです。
参道を進んで行くと門が見えてきました。冠木門という形式の門です。お寺よりは関所跡などでよく見かけます。
さらに奥に八脚楼門が見えてきました。手前側に石碑のような石が二つ並んで立っています。石柱門という形式の門のようにも見えます。単純な形の石の柱が並んでいるのか普通です。
たぶんこれが一番立派なので山門なのでしょう。額に山号が(法多山と)書かれています。山門というのはお寺の入口の門のことをいいますが、これだけあればどれが入口の門なのかわかりません。
横のもみじが色づいています。見た感じでは、色づいたもみじは少ないようです。
楼門下には仁王さんがいます。こちらは阿形です。目玉が飛び出しているように見えます。ここだけ色彩で塗られたところが残っているためそのようにみえているようです。
山門を越えて進んで行きます。ツアー仲間で道はいっぱいです。色づいたもみじはところどころにパラパラとみられます。
左手に見えるのは研修会館です。こうやって見ると青もみじも結構綺麗です。
研修会館の入口に見えてきたのは黒門です。市の重要文化財だそうです。内外が逆の薬医門のように見えます。控え柱が手前にあります。左奥の松の木は日本庭園に配置されたもののように見えます。
昔は、この付近にたくさんのお寺があってその一つの門だったようです。今はそれが全て一つになって尊永寺といっているようです。
ちょっと気になることができてきました。雨がぱらついています。傘はバスの中に置いてきました。駐車場からだいぶ来ていますから、とりに戻ると尊永寺を参拝する時間はなくなります。雨がひどくならないことに期待するしかないでしょう。このまま強行します。
左手山側に、平行に道が続いています。こちらを通ってもいけそうです。今通っている道はツアー仲間でいっぱいです。山側の道は、人がいない分ゆっくり景色を見られそうです。こちら通っていくことにします。
山側の道に上がった所で、イチョウの木越しに大きな建物が見えます。紫雲閣かな。イチョウは葉っぱを落とし始めています。
上の道です。雨で路面が濡れています。赤いもみじ黄色いもみじ青いもみじが混ざっています。
斜面側にツワブキがいっぱい咲いていました。石碑があります。読めるのは最後の法多山だけです。
大きな建物の手前で上にあがる道と少し下がっていく道があります。下がっていく道を通って元の道に戻ります。道脇に崖があって地層が見えています。レキ層です。インブリケーションが見えています。これで地層ができたときの水流の方向がわかります。
そのまま進んで行くとお堂が並んでいる場所に出ました。弁財天堂と蛸薬師堂があります。間に不動明王の像もあります。背後の火焔は真っ赤に塗られています。
ここからは石段が続きます。途中まで昇ったところで振り返って見たようすです。道脇のもみじはいろいろな色が混ざっています。
石段も残りわずかとなってきました。もうすぐ本堂に到着のようです。写真は本堂横の大師堂です。下の鳥居は二葉神社のものです。石段は、今登っている石段と平行につけられています。
雨はだんだんひどくなってきていて、本降りになっています。傘なしでは歩けない状態です。大丈夫だろうと思ってバスに置いてきたのが悔やまれます。雨を避ける所もなく、だいぶずぶ濡れになっています。
長く続いた石段を登り終わって正面に見えてきた本堂です。その前は大きな広場になっています。
本堂前広場周囲の生垣です。やぶきた茶と書かれた石碑があります。
建物の入口が近いので、本堂前から左側に進んで行きます。正面に見える大師堂です。
大師堂の手前から、本堂の脇に入っていきます。入った正面にあるのが、おみくじお守り売り場です。
脇にあるシャクナゲの花が咲いていました。昨日のモチツツジといい、季節外れの花をよく見かけます。
本堂前の回廊から見る本堂前の広場です。雨が本格化しているので、外に出ている人は少なくなっています。石灯籠の向こうの建物は諸尊堂北谷寺です。
おみくじ売り場の前から下りて行くことにします。雨はやみそうにありません。カメラバッグの中にビニールの風呂敷が入っています。これをかぶることで雨対策とします。下山道は太子堂の前からということになっています。その指示に従います。
少し降りたところで正面に鐘楼堂が見えました。ここのもみじは真っ赤です。
ビニールの風呂敷は雨対策としては完璧ではありません。体全体を覆うほど大きくないし、動く度にひらひらして雨がかかります。両手で持っていないとずり落ちてきます。ないよりはましということでこのまま対応しておきます。帽子で押さえることで手を開放することにしました。
鐘楼から石段を一段降りたところです。七重石塔の右側に仏様がいます。黙想しているのでしょうか。左側のも仏様?。黄色い色が雨にぬれてレインコートを着ているように見えます。
横に、二葉神社に続く鳥居が並んでいます。遊郭にあったものを移築したとか。サービス業や客商売に携わる女性の守り神として信仰されているとか。
ここから下の石段は切石ではなく、自然石を使っているようです。同じ形大きさのものをこれだけよくそろえられたものです。
石段の途中にあるのが、氷室神社です。氷室明神を祀っているそうです。氷を保存していたところでしょうか。
石段を降りきるとお堂の並んでいたところにでました。その中の弁財天堂です。池の中にあります。
ここまで降りてきたところで、カメラバッグの中に入っているはずの、飴を入れた袋がないのに気がつきました。ツアー中ですからいつ飴を入手できるかわかりません。それより飴を入れている袋が気にいっています。できればみつけておきたいものです。
バッグを開けたのはビニールの風呂敷をだした時だけです。その時に落とした可能性が一番大きいようです。そこまで戻って探すにしても、石段を登り直さないといけないこと、雨が降っていること、時間のロスが大きいことを考えると気が引けます。それでも、思い切って引き返すことにしました。
風呂敷をだしたところまで、落ちていないチェックしながらあがったのですが、見つけることはできませんでした。おみくじ売り場にいた人にも確認したのですが、落ちてはなかったそうです。風呂敷をだしたのはここです。あきらめることにします。
再びお堂のある所まで降りてきました。お堂とは反対側にだんご茶屋という大きな建物があります。ここの厄除けだんごは、有名だそうです。雨宿りも兼ねて食べていくことにします。
建物に入ったところで、添乗員さんに笑われてしまいました。風呂敷はピンク色です。
みたらし団子とあん団子があります。あん団子がオーソドックスなようなので、そちらにしました。みたらしは、この1週間だけの期間限定販売だったようです。
団子を食べている間に、雨はちょっとだけ小降りになったようです。駐車場に戻ることにします。歩き始めたところの紅葉です。
少し歩いたところで、トイレに行っておくようにいわれていたのを思い出しました。だんご茶屋に近くにあります。引き返してすませておきます。
再び参道に戻ります。来るときは人が多かったので写真を撮っていませんでした。ここまできたところで、別のツアーグループがやってきました。結局はたくさんの人が写り込んでしまいました。
尊永寺駐車場に入る狭い路地も無事見つけることができて、バスに戻ることができました。席に着こうとしたら、シートの上に飴を入れていた袋が座っていました。ここで何かを出し入れしたときに、落としていたようです。
バスは次の目的地に向けて出発します。行き先は油山寺です。遠州三山の2番目です。ここに来る途中、新幹線の線路に沿って走っているときに、案内板がでているのを見ましたから、すぐ近くなのでしょう。
バスは案内板のでていたところまで戻り、示された通りに進んで行きます。東名高速道路を越えて山の中に入ってしばらく進んだ所で、油山寺に到着しました。
油山寺の参拝場所は2ヵ所あるとの説明が添乗員さんからありました。入って少しいったところの右側の本坊とそのままずっと進んでいった先にある薬師本堂です。薬師本堂は遠く坂もきついので無理にいかなくても良いそうです。
バスも定位置に停車し、参拝に向けて出発です。まだ雨が降っていますから傘はしっかり差していきます。
バスから見えていた石段の先に山門があります。二重門のように見ます。掛川城の大手門が移築されたそうです。櫓門になります。
山門を入った所の紅葉です。ここもまだ青いもみじがあります。
右側に本坊があります。その入口にあるのが礼拝門です。形は家棟門です。気がついていませんでしたが、写真で見ると棟瓦側面の飾りが立派です。龍のように見えます。
本坊入り口横にあったのが、天狗杉の切り株です。大きな杉の木だったようです。
ほとんどの人はまっすぐ行きました、本坊の方は少なめです。本坊から見ていくことにしました。
門を入って道は二手に分かれています。右側の建物は、本堂ぽくありません。方丈でしょう。
左側にみえる建物です。宝生殿と書かれています。拝所もありますからこちらが本堂でしょう。
拝所の上にかかっている額です。「め」と書かれています。意味が理解できていません。とりあえず置いておきます。
右前から見た宝生殿です。火焔窓が並んでいます。つり下げられた提灯をよく見ると「め」の意味がよくわかったはずなのですが。
油山寺に着く前に添乗員さんが、油山寺という名前は油が出たことからつけられたといっていました。この付近から御前崎にかけて分布している地層からは、石油が湧き出すことがあります。いまから40年くらい前までは実際に採掘していました。それを考えると、油が出るというのは別に不思議ではありません。地質が関係しているとは驚きです。
本坊を出て薬師本堂に向かいます。しばらくは樹木がうっそうとした谷を歩いて行きます。天狗谷というようです。
ところどころに地層がでています。薄暗くて写真にはうまく写りません。
途中に瑠璃の滝というのがありました。ここも暗くて綺麗に写っていません。雨の影響もあります。
瑠璃の滝を過ぎてから、登り坂になります。石段を登っていくと薬師本堂が見えてきました。
ここの右手に三重の塔があります。両脇にあるもみじが何とか色づいています。紅葉は少なめです。
もう一階段昇ると、薬師本堂に到着です。本堂の向拝から、本堂内部にかけてのようすです。
横に鐘楼があります。
今いるところは、三重の塔の三階屋根と同じくらいの高さでしょうか。もみじと屋根を一緒になるように写してみました。
ここまできてやっと「め」の意味が理解できました。ここの本尊は薬師如来です。病気の神様(仏様?)といっていいでしょう。一応全ての病気に万能なのでしょうが、ここでは「目」の病気に効能を発揮しているようです。
本堂内部にいらっしゃる薬師如来です。薬入れを持っているのが特徴と思っています。
横の部屋に絵馬がたくさん飾られていました。「め」と書かれた大きな絵馬(字馬?)も飾られています。
薬師本堂から引き返していきます。本堂前から続く石段です。長くだらだらと続きます。
再び、天狗谷の崖に挟まれたところを通過します。雨が小降りになってきたのか、だいぶ明るくなっています。
砂岩と礫岩の互層です。尊永寺と同じです。石油がでるのなら、泥岩層が欲しいところです。地下にあるのでしょうか。
天狗谷を抜けたところの紅葉です。緑が多いようです。2本石柱が立っているのに気がついていませんでした。石柱門という形式の門で、ここのものは驥山門(きざんもん)と名前がつけられています。有名な書道家で、その文字か刻まれていたようです。
山門を抜けて、駐車場入口にあった紅葉です。ここのは真っ赤です。
ここでも桜の花が咲いていました。ジュウガツザクラでしょう。
次の見学地は萬松山可睡斎です。朝から遠州三山を立て続けに見てきました。その最後になります。ここも寺号がはっきりしません。住職が徳川家康と話をしているときに、居眠りをしてしまい、家康から「睡る可し(ねむるべし)」といわれたのが、次第にお寺の名前になったとか。それまではなんと呼ばれていたのか謎です。
油山寺からはそれほど遠くないところにあります。すぐに駐車場に到着です。横にある建物は公的施設のようですが、何かよくわかりません。
ここからお寺まではだいぶありそうです。まだ雨は降っていますから、傘を差していくことにします。
歩き始めてすぐに左側に見えた建物です。地蔵堂と書かれていますから、前にいらっしゃるのは地蔵様でしょうか。螺髪があります。建物の名前は東陽軒とも書かれています。可睡斎の始まりになった建物です。昭和30年に観音堂を移築したそうです。
少し進んだ所に総門があります。まだ工事中で、完成間近といった感じです。新しく作ったのではなく、昨年の台風で古いのが倒壊したものを修復したようです。でも、新築工事と書かれていました。
この門は、お寺には珍しく、高麗門という様式になっています。境内側にある控え柱にも切妻屋根が乗せられています。
総門を入って少しいくと少し広いところにでました。お堂などの建物があります。左側です。この一画は色づいたモミジがたくさんあります。
モミジの向かい側です。横の石柱には白山堂と書かれています。案内図では白山妙理大権現堂となっています。
白山堂の横に石段があります。ここを登っていった先に、山門があります。様式は八脚門ですが、両脇の切妻屋根が一段低くなっています。このことから三棟門という様式としている分類もあります。中華風に見えます。両脇に仁王さんがいますから仁王門といってもいいのでしょう。昭和10年設計、平成22年完成だそうです。
門を入った裏側に、舟形の箱が置いてあり中におみくじが置かれています。七福神の乗る宝船を連想します。
普通お寺では山門を入った内側が境内になります。その前にもお堂がありましたから、この山門は本堂のある区画への入口にあるということにしておきます。そういえば総門の外にも地蔵堂がありました。門の位置関係からすると不思議な配置になっています。
本堂区域の建物を見ていきます。山門を入って右側にあるのが瑞龍閣です。入母屋風の屋根が建物の棟方向と直角になっています。いくつかの棟をつなぎ合わせているのでしょうか。
左側にあるのが輪蔵堂です。八角形をしています。中にある輪蔵を時計回りに1回回すとお経を一つ読んだのと同じ効果があるそうです。中に入っていません。
輪蔵堂の右奥に見えるのが座禅堂です。手前石段の右側黄色く色づいたイチョウの手前に五重塔が、左側モミジに埋もれるように慈母観音があります。
正面にあるのが、本堂です。入母屋屋根から唐破風の向拝が大きくせり出しています。手前の木柱はいろいろな願いを込めて57代当主が建てたもののようです。
本堂の左奥にも、本堂と引けをとらないくらい立派なお堂があります。どちらが本堂なのかわからなくなっています。
本堂をまわったところで、左側には座禅堂が見えます。黄色いイチョウの木は、五重塔の後に見えていたものです。
正面にみえる建物は、位牌堂です。可睡斎に縁のあった方たちの霊が祀られているそうです。入口の対になってある、ゾウの置物は何なのでしょう。華厳寺にもありました。
本殿の裏側にある建物は、秋葉総本殿といいます。三尺坊御真殿ともいうようです。三尺坊は、修行の末火を自由自在に操ることができるようになったお坊さんです。元々は、秋葉山秋葉寺というお寺であったものが、明治期の廃仏毀釈で廃寺になり、御真体・仏具などを可睡斎が全て引き取って、ここに祀ったそうです。
本殿の左横から、秋葉総本殿にいきます。石段にかかる手前右側、本堂の横手にある小さなお堂に、大きな下駄が置かれていました。仁王さんの関係かなとも思いましたが、仁王さんはわらじだったような。
石段登り口、両脇には1対の天狗像があります。秋葉総本殿との関係がもう一つよくわかりません。天狗は下駄だったかな。
石段を見ていると、白い筋が入っているのが気になります。花こう岩の中にある岩脈が切り分けられて見えています。どうつながっていたのか考えてしまいました。
秋葉総本殿です。本堂と同様、唐破風の向拝が大きく前にせり出しています。下にかかっている額も立派です。
本堂内部には、たくさんの天狗が飾られています。
可睡斎で調べてもわからなかったのですが、秋葉山で調べてみると、三尺坊が火術を会得したときに、背中に羽が生えて天狗になったとか。烏天狗と書かれています、写真に載せている像とかここに飾られている鼻高天狗とは違うようです。対になっていた天狗像は烏天狗だったようです。
本殿の戸板の飾りも気になります。何の模様なのでしょうか。
秋葉総本殿前から振り返って見たところです。右側に並んでいるのは手前から位牌堂・座禅堂イチョウの木の左に輪蔵堂、その左向こうに山門、旗の後ろは本堂になります。
可睡斎の名前の由来は徳川家康と関係しています。和尚さんが徳川家康とつながりがあったからです。このお寺の中には、他にも徳川家康に関係した史跡があります。出世六の字穴というものです。三方ヶ原の戦いで武田信玄軍に敗れた徳川家康がここの洞穴に逃れて、命拾いをしたというものです。秋葉総本殿の前から本堂の裏側を進んでいくとそこにたどり着きます。そこを見に行くことにします。
本堂と秋葉総本殿を結ぶ回廊をくぐって、石段を登っていくと、脇にびわの木があって花が咲いていました。
坂を登り切った正面に、出世六の字穴があります。中は立入禁止になっています。この中に、家康が潜んでいたというのでしょうか。
三方原古戦場は、浜松市街地の北側にあります。ここで負けた後、家康が浜松城に戻るまでの間の逸話はいくつか残されています。この穴のことは伝わっていないようです。家康は、ほぼまっすぐ浜松城に戻ったようです。そのルートからは袋井市のここまでは天竜川を渡らないといけなし、だいぶ離れています。そもそも、ここにこのような穴がもともとあっても逃げ込むことができたのかというのも疑問です。
六の字穴の前からは、本堂周辺の建物を見わたすことができます。真ん中の大きな建物が本堂です。その右奥に位牌堂、左側に輪蔵堂、山門が並んで見えています。
この奧に、奥の院があります。見たいのですが、だいぶ遠そうに思えました。見学時間も限られていますから、ここで引き返すことにしました。
本堂まで降りてきました。本堂の横にでたところで本堂前を見たようすです。向こうに見える建物は大書院です。前に大きなソテツの木があります。
そのまま、石段を降り、本堂前の広場に出ます。大きな建物が見えます。左から順に、萬松閣、瑞龍閣、山門と並んでいます。
山門の手前にあった建物には大黒様がいました。おさすり大黒と書かれています。おなかをさすると、福を授かったりできるそうです。てかってますね。
山門前から見た山門下広場です。やっぱり、ここに見えている紅葉が一番綺麗なようです。
この場所から、いくつかの道が延びていて、お堂などに続いているようです。右側を進んで行くと、弁天堂があります。
もう一つ酒塚観音への道もあります。両脇に幟が並んでいます。進んでいったのですが、なかなかだ撮りつけそうにもありませんでした。時間のことも考え引き返すことにしました。そこから見えた、本堂周辺の建物です。
石段を登った先に山門がありますが、見えていません、杉の木の向こうが瑞龍閣、その左側が萬松閣です。
ここから広場に戻り、総門を通って駐車場に戻ることにします。
可睡斎の次に向かうところは、小国神社です。遠江の一宮だそうです。可睡斎のほぼ北側、第2東名高速を越えたあたりにあります。この区間もどういうわけかバスの車窓からの写真を写していませんでした。記録になりそうなものもなかったのかな。
バスの駐車場は神社からだいぶ離れたところの脇にあります。戻ってくるときに間違えそうです。
可睡斎をでるときは雨はやんでいましたが、また降り出しています。傘をさしていきます。広い道に沿って150m程進むと、左への脇道がありその先に鳥居が見えています。
鳥居をくぐった先に見える紅葉です。ここのものは、どうなのでしょう。ちょっと期待できそうです。
左側に池があって、その向こうに八王子社があります。
八王子社の前の池です。事待池といいます。小国神社で願掛けをして願いが叶えばここに鯉を放つのだそうです。水が不思議な色をしています。水面を雨の水滴が叩いています。
池の真ん中に島があって社があります。宗像社といいます。弁天社ともいうようです。
大きな杉の切り株が置かれています。元々はご神木でしたが、昭和47年の台風で倒れたそうです。ご神木だったということなのか、このように残されています。
その先に再び鳥居がありました。順番からすると二の鳥居でしょう。ここには山門がありましたが、明治時代に火災で焼失したそうです。
小国神社の祭神は大国主命です。正式には大己貴命(おおなむちのみこと)というようです。因幡の白兎で有名ですが、最初に降りたったのがこの裏側にある山だったといわれています。添乗員さんが、この神社をどうして大国神社と呼ばないのかを説明してくれていましたが、忘れてしましました。何だっけ。調べてたのですがわかりませんでした。何かの「大国」と紛らわしいからといっていたような。
二の鳥居の正面に拝殿が見えます。屋根が檜皮葺というのには気がついていませんでした。
拝殿の右側にあるのが神徳殿です。前に2つの茶色い石が並んで立っています。珪化木です。木化石と書かれていたような。珪化木があるというくらいであまり気にとめていませんでした。
どういうわけか、拝殿とかここの境内とかよりこの横手にある川沿いのようすが気になって、そちらの方に行ってしまいました。紅葉が綺麗でした。
川は宮川というようです。赤い橋が架かっています。
川原に下りてみたところです。
上流側です。落葉した黄色い葉っぱで川原が染まっています。
ここから、本殿の屋根が見えます。鰹木が見えます。本数は、神様の格を表しているということを聞いたことがありますが、そうでもないようです。
更に上流側に歩いて行きました。堰が見えます。道はまだまだ続いています。だいぶ歩いたということで、このあたりで引き返すことにします。
神社の横にある川沿いを写真を撮りながら下っていきます。この先の川原の真ん中で、カメラクルーの3人組が居座っていて、なかなか退きそうにもありません。シャッターチャンスをねらっているのでもなさそうな感じです。ずっと何かが変わるのを待っているというようなようすはありません。この人たちや置いたままになっているカメラや差している傘が写り込むのは興ざめです。入らないように写真を撮るのに苦労します。
橋の上から下流側です。ここからは川の左岸を歩いて行くことにします。
赤くなったモミジです。下のアオキの葉の上に、モミジの葉っぱが落ちています。
次の橋で右岸に戻ります。このあたりから拝殿前の広場が見えます。左側の建物は舞殿です。正月と4月にはここで舞がまわれるそうです。
濡れた道路に、紅葉が映るかどうかやってみました。うまくいかないようです。
後ろ側です。渡ってきた橋が見えています。
参道に戻らずに、このまま進んで行きます。
自家用車駐車場横の川と紅葉です。
駐車場入口付近です。
このあたりから、参道側に戻りました。一の鳥居の横に小国ことまち横丁があり、土産物屋さんなどが並んでいます。時間調整をして駐車場に戻ることにします。お茶を売っている店が何軒かありました。挽いたお茶が欲しかったので探したのですが、ありませんでした。
ここから駐車場への戻り方は考えてしまいました。思ったより遠かったようです。
小国神社の次は鳳来寺です。ここは少し離れています。新城市にあります。豊川で駐車場から歩いて宿に着く前に、踏切待ちがありました。通過したのは飯田線新城行きの列車です。「しんじょう」と読んでしまいましたが、正しくは「しんしろ」です。
小国神社近くの遠州森町スマートICから新東名高速に入って西に進んでいきます。途中天竜川を渡ります。上流が伊那谷です。飯田線は、新城市の鳳来峡をすぎたあたりから山越えをしてこの川沿いに抜けた後、更に上流にある伊那谷を走ります。
浜松いなさJCTから三遠南信自動車道に入り、鳳来峡ICで降ります。といっても今はここまでしかできていませんでした。一部工事中のようです。
天竜川沿いに下っていって、鳳来寺山パークウェイに入ります。途中で分岐している道に入って進んでいったら駐車場に到着です。ここからは歩きになります、雨はやんでいますが、念のために傘は折りたたんで持っていくことにします。さしたまま歩いて行く人もいます。
駐車場の紅葉です。ここもだいぶ色づいています。
南西側新城方面です。渥美半島渥美湾が見えています。
斜め向かいの山です、赤黄緑のまだら模様に染まっています。
駐車場奧のモミジです。真っ赤です。黒っぽくなっているのでもう終わりかな。これから、この横を通って奥に進んでいきます。
これから行くのは鳳来寺です。本来なら、山の麓から延々と登ってこないとたどり着けないのですが、パークウェイができたおかげで、ほとんど坂がなく参拝できるようになりました。
この道沿いにもたくさんのモミジがあります。
パークウェイを走っているときに添乗員さんは、小豆島寒霞渓の景色に似ているといっていました。地質的には、全く同じ時代の同じ種類の岩石でできています。山の浸食のされかたなど必然的に似てくるのでしょう。どちらもモミジの名所です。これは岩石とは関係なさそうです。このような地形の所に、お寺や神社が作られてモミジが植えられて、という関係はなきにしもあらずというところかな。
ということで、この付近の岩石も気になるところです。表面にいろいろなものがこびり付いているので、たたき割らないと(といっても一部を欠くだけですが)わかりません。凝灰岩なのか流紋岩なのか。ピッチストーンが多いとはいわれていますが。
この道はモミジがたくさんあって、大きく色づいているのがところどころで見られます。
見晴らしのいいところにでました。どこがみられるのかを書いた案内図もありました。下の方に見える谷に沿って続いている家並みは表参道のある門谷でしょう。鳳来寺にお参りするなら、ここから歩いて登ってくるのが正規ルートです。鳳来寺の門前町にあたります。
下の町並みです。山の斜面に隠れて、半分くらいしか見えていないようです。
右の方に切り立った大きな崖が見られます。柱状節理があって、溶結凝灰岩のように見えます。図と比べると鏡岩かな。下のお堂は、壁がないので鐘楼かな。
道を進んでいくと、目の前の切り立った岩の上に塔のようなものが見えます。間は切り立った崖なので近づくのは簡単ではありません。案内図にはこのあたりに、五郎塚があると書かれています。これのことでしょうか。
この先に鳳来山東照宮があります。この付近の山は鳳来寺山といいます。鳳来寺のある山だからでしょう。神社なのであえて寺をつけていないとしても、東照宮は鳳来寺山に詣でることによって授かったという故事にちなみ、徳川家光が造営したものです。神社だからといって寺を敬わないのはちがうような気がします。
ここからしばらくは、崖の斜面が緩いのか道の両側に木々がふえてきます。たくさんのモミジもあります。道にも葉っぱがたくさん落ちています。見ながら進んで行きます。
真っ赤になったモミジです。
道の下に建物が見えてきました。宿坊です。道が二手に分かれています。一つは、宿坊への道、もう一つは東照宮へと書かれた道です。先に、東照宮を見に行くことにします。地図では、東照宮の前から鳳来寺本堂にいくことになっています。
再び道沿いのモミジです。幹の間から東照宮の門柱が見えています。
東照宮の前に到着です。石段を登っていかないとたどり着けないようです。断念する人もいましたが、この程度なら何とかなります。登っていくことにします。右側通行だそうです。
石段を上がった所です。正面に苔むした鳥居があります。鳥居の柱前には御幣をつけた榊が添えられています。その向こうに拝殿が見えています。日光東照宮同様、カラフルな配色がされています。
石段の上から見える景色です。モミジ向こうに宿坊が見えています。
東照宮の前から鳳来寺山本堂へ行くには、東照宮の石垣のうえをぐるっと回ってから、石段を降りてというように少し複雑でした。石段を降りた先で別の方角から来た道に合流しそのまま進んで行くと到着することができました。
本堂です。かなりシンプルな建物です。銅板(金属板)葺き寄棟屋根で、平入り5間幅、上から見ると綺麗な長方形です。かなり新しそうな感じがします。屋根の光具合からそう見えるのでしょうか。
屋根越しに鏡岩が見えています。崩れ落ちてきそうです。
本堂建物の両脇には、絵馬が下げられています。真ん中に丸い鏡のようなものが貼りつけられています。鏡岩がちかくにあるという関係からなのかな。
本堂前には広場があってその向かいに休憩所の建物があります。見晴台となっていますから景色を期待したのですが、ここからはあまり遠くは見えないようです。
本堂前広場を横に突き抜けて反対側に行ってみます。下からあがってくる石段がありました。かなり険しそうです。表参道と書かれています。1316段目とも書かれています。これは一苦労どころか十苦労ぐらいしそうです。あがってこなくてよかったというべきなのか。
石段は上にも続いています。途中に、鐘楼・鏡岩下遺跡にいけると書かれていました。いってみました。崖の下に大きくえぐれているところがあります。溶結凝灰岩の下層が削られているように見えます。
前にはたくさんの石仏さんがいます。岩下遺跡がどんなものなのか説明を見つけられませんでしたので、何かはわかりません。これだと縄文時代の岩陰遺跡のようなものがあってもおかしくありそうですが、このような急斜面では食糧の確保が大変そうです。
ここから見上げてみた鏡岩です。木が多くてはっきりとは見えません。
この先にあると書かれていた鐘楼にもいきたいのですが、距離が全くわかりません。更にその先には胎内くぐりとか、竜の爪痕とか色々あるみたいです。見学時間が限られていますから、この先はあきらめて引き返しました。
再び、石段まで戻ります。この石段を本堂横から眺めてみたようすです。途中で幅が狭くなっています。狭くなった所から左に行くと岩陰遺跡です。更に先にも石段が続いていて先にお堂がみえます。こちらの方に行ってみることにします。
石段を登り切ったところにあるお堂です。何というお堂かはっきりしません。鎮守堂かな。
ここから、本堂越しに見た景色です。
本堂の裏手あたりにもう一つお堂がありました。旧本堂と書かれています。
旧本堂前からの景色です。新城の町の方角かな。横に大きなモミジの木があります。
旧本堂の裏手に続く道があります。その先にあるのが石造利修仙人像です。岩にできた洞穴の中にあります。利修仙人は、百済の国で修行の後仙人となり鳳凰に乗って帰国、この山中に3匹の鬼を従えて住んでいたそうです。文武天皇が病気になった時に駆けつけて、病気を治し、そのお礼としてここに鳳来寺が建てられたという故事があります。
あまり遠くに行っている時間はないので、ここから引き返します。戻り際に見た、旧本堂と黄色いモミジです。
旧本堂から引き返していきます。本堂前から来た道を戻ります。途中二手に分かれています。一つは宿坊、もう一つは東照宮に行きます。宿坊の先で合流します。どちらでも戻れます。迷っていたツアー仲間から、どちらか聞かれました。来たのは左の東照宮からの道で、まっすぐ行っても帰れますと答えました。東照宮の方にあがっていきました。宿坊の方は見ていませんから、右から戻ることにします。
見えてきた宿坊です。この周りにはモミジの木がたくさんあります。
道脇にあったアラカシの木です。ドングリがいっぱいついています。
あっさりと、宿坊は通過します。その先の上側に東照宮から駐車場に続く道が見えています。
上の道に上がった手前のモミジです。
進行方向側です。建物は宿坊の一部です。このあたりは落ちた葉っぱが道路にいっぱい積もって、敷き詰められたようになっています。
写真を撮っていたら、先ほどの人たちがやってきました。時間的にもだいたいいっしょだったようです。
道脇にある岩も何なのか気になりますが、無理に確認しないことにします。
少し進んだ所のモミジです。
駐車場まで戻ってきました。入口のモミジです。後ろ側に大きな崖があります、岩石まではよくわかりません。
ここから後はひたすら大阪に向けて帰っていくだけです。パークウェイは下まで同じ所を戻っていくと思っていました。登るときは谷側が見えていたので、下りは山側になるはずです。ずっと谷側が見えています。別の出口から出たようです。谷側が見られると期待していたのが外れました。
麓に降りて谷沿いを走っていると長篠駅の案内が見えてきました。このあたりは長篠合戦があったところです。武田軍が織田徳川の連合軍に大敗しています。長篠城は何となくわかったのですが、一瞬の間でした。その他の史跡は確認できないまま、新東名高速道路に入りました。設楽が原の古戦場がわからなかったのは、その手前で高速道路に入っていたからでした。
新東名高速はだいぶ山側を走っています。山にさえぎられて景色は見えません。それでも時々遠くが開けるときがあります。遠くの霞んだ山並は渥美半島、手前に三河湾が見えています。
途中のトイレ休憩は、岡崎SAで入りました。お土産購入タイムも兼ねています。運転手さんのお勧めです。難点は東行きと西行きの駐車場が建物を挟んで反対側にあります。建物の出口を間違えるとバスに戻れなくなります。
お土産はういろうにして、名物という焼売も小腹の足しに買いました。
ここからバスは名古屋を目指して走ります。でた直後あたりから日が差してきました。記録として写そうとしたのですが、豊田JCTから伊勢湾岸道にはいってしまいました。この区間は高い防音壁に囲まれて景色が見えるところがありません。
名古屋南ICから名古屋高速に入るときに防音壁が途切れました。その一瞬に写したものです。隣にいた人に写すまでが早いと感心されました。
名古屋高速に入ってからは高い防音壁はなく景色はよく見えるところがたくさんありました。でも、すぐに太陽は沈んでしまいました。
そのまま、名古屋駅に到着です。トランクに預けた荷物を受け取ってからみんなそろって駅舎の方に歩いて行きます。途中で写した名古屋駅です。
帰りのこだま出発の30分前です。添乗員さんが切符を手配するまでの間しばらく待った以外は、すぐにホーム移動です。
ホームに着いたら、きしめんを食べに行ってよいという指示が出ていたのでいきました。3人ほどいっしょです。食べ終わって、途中で合流した人もいっしょに乗り口まで戻ります。添乗員さんにどこにいってたのですかと聞かれました。出発時の前科があります。気にしていたのでしょうか。
列車はすぐに来ました。というかそれに合わせてきしめんを食べていました。乗り込んで席に座ります。持っていた予備のパンを食べます。ステンレスボトルのお茶を飲んでいたら、隣の人にお茶はどうしたのかと聞かれました。ティーパックは旅行では他の宿でのあまりを持ち歩いていると答えました。
こだまですから、米原で列車の通過待ちがあります。それ以外は普通に到着です。いつも通り京都で下車して最寄り駅で出場できる証明書をもらうことができました。その通りの経路で帰ります。いままでの旅行に比べて早めの到着です。
家に着いてから、持って行き忘れたおにぎりをチェックします。特に異常がなさそうだったので、食べてしまいました。ちょっとぱさついていました。
今回の旅行の目的は、紅葉を見ることでした。信州や東北の紅葉と違って、近畿以西での紅葉はモミジが中心となります。色づき始めるのはもっと寒くなってからになります。
それと、モミジは近畿以西の自然林の中では少数派で、どうしても寺社や公園などの人工的に植えられたところに限られてきます。逆にその分色が鮮やかになります。大矢田神社のヤマモミジ林は人工的な気もします。自然林では主流になる木ではありませんから。
今回巡ったのは、そういう寺社になります。横蔵寺のように、もう葉が落ちてしまったという所もありました。尊永寺は少し早かったようです。10社もまわれば一つや二つくらいはそういう所もあるでしょう。まわる数が少なければ、前々回の福島のように、外れた!悲惨ということになりかねません。
たくさん寺社をまわったこともあり、ツアーにはお寺巡りを趣味にしている人も参加していました。御朱印を集めているようで、社務所とかでもらっていたようです。今でいうスタンプラリーなのでしょう。
前回のお城巡りでも100名城を巡ってスタンプを集めているという人が何人かいました。ダムを巡ってカードを集めたりとかいうのもありました。いろいろな人に来てもらうための工夫なのかなと思いました。私なら、写真を撮ってというのがそれにあたるのでしょう。
可睡斎の中におさすり大黒(第14話に登場)というのがありました。前に七番と書かれた札がありました。烏天狗では二十二番、出世六の字穴では二十八番です。番号順に巡って、御利益を順番にもらってというところでしょう。寂光院でも似たようなものがありました。オリエンテーリングかフィールドアスレチックといったものに似ているようです。もっと今風なものでいえばポケモンゴーなのでしょう。
お寺それぞれで、信者に来てもらえるように工夫を凝らしていたようです。こういったものの集大成というのか広域版になったのが、四国八十八ヵ所巡りとか、西国三十三ヵ所巡りと思えてきました。華厳寺は西国三十三ヵ所巡りの最後の札場でした。
実際には、これらをまねてお寺のなかでまわるようにしたものかも知れません。紅葉が多いのも紅葉を見に来てね、似たところで桜を見に来てねというところなのかも。お寺は今でいうと一大テーマパークだったような気がします。
旅行の目玉は添乗員さんだったでしょう。とにかく、よくしゃべっていました。バスの中では完全に独演会状態でした。話の中心は、添乗員をしていったところの話やこんないいことがあったという話です。最後につく落ちは、添乗員をしませんかでした。定年退職をしたような人がほとんどだったようなので、それはないでしょう。こんな事もたまにはありますね。
ツアーの最後にアンケート回答をお願いされます。どんなツアーがあったらいいと思いますかという質問がありました。よっぽど「添乗員○○といく××の旅」と書こうかと思ったのですが、やめました。昔は話題の添乗員がいたこともあり、こんな企画もあったようです。
同じ所を季節を変えて何回もとよくいわれます。それはそれでいいのですが、今のところはいったことのないところにいきたい、見たことのない景色を見たいというのが主眼になっています。
前回は、バスの出発時刻が覚えきれなくて苦労しました。今回は、バスに乗ったり降りたりが多いので、一つでも忘れると大変なことになります。紙に書いて持ち歩くのも大変です。対策を考えました。
携帯電話にメモ機能がありますから、これを利用して出発時刻のみ4桁の数字で入れることにしました。数字なら打ち込むのは簡単です。古いのは消さずに連続して入れます。最後の4つの数字が次の出発時刻になります。
おかげで、出発時刻に遅れることはありませんでした。といっても。メモを確認する事はほとんどありませんでした。携帯電話に数値を打ち込むという一手間をかけたことで、しっかり覚えられたようです。念のための確認は何回かしましたので、メモそのものも必要でしょう。次回以後もこの方法で出発時刻や集合時刻を記録しておこうと思います。
名古屋名物である「ひつまぶし」というものを始めて食べました。いろいろな食べ方ができるようですが、何もせず普通に食べるのが一番おいしかったようです。というより他の食べ方は全然パッとしませんでした。
食べ方に関していえば外れというところでしょう。3回おいしいというのはありえませんでした。下手に手をかけたことによって最初のおいしさを損ねてしまっています。
このところご当地グルメというのを食べる機会がありました。B級グルメという分類に入るものもあるかも知れませんが、個人的には外れと思うものが続いています。佐世保のレモンステーキ、魚沼のマジ丼です。見かけは豪勢だけれども、今ひとつインパクトに欠けています。素材を生かす工夫が足りていないようです。
ウナギそのものについていえば、これだけ漁獲量が減少しているのなら、無理に食べずに漁獲量の回復を待った方がいいと思っています。値段の割りに味が追いつかなくなっています。完全養殖に成功しそこそこの値段に早く落つかないかなと思っています。
出発のだいぶ前から咳が止まらなくなっていました。薬を飲んだりとかしたおかげでそれほどひどくはないうようになっています。まだ時々咳が止まらなくなることがありました。
旅行中に咳き込まないかと心配していたのですが、事前に飲んでいた薬や持っていった飴などのおかげで何とかでないですませることができました。
帰ってきてから後は、ほとんど咳が出ることはありませんでした。病院にも行かなかったので、原因は不明です。粘膜がはがれ、息をすると刺激されることがあり、咳き込んでまた粘膜が剥がれということの繰り返しだったような気がします。時々このようなことがあるので、早めに根本的な治療をした方がいいのかも知れません。
かかった経費です。旅行代金は約3万円で、それ以外に使ったのは3000円ちょっとです。それ以外に事前準備で買ったものがあります。懐中電灯のような今後も使うかも知れないものです。
歩数です。1日目は25500歩、2日目は23184歩です。よく歩いています。記録されている歩行時間は5時間まではいかないもののそれに近い値になっています。
今回の旅行で、ふだん旅行カバンに詰め込んでいるもので必要かなというもののいくつかが、出番がありました。何を持って行っているのかの整理も兼ねて、ざっとあげてみることにします。
入れ物ですが、大型のリュックサックに入れています。両手が空くので、切符をだしたりとか、何かをするのがやりやすいという利点があります。ツアーでもエスカレータはあまり使わずに階段を利用します。これだと上り下りが非常に楽になります。
リュックは2種類がメインです。薄手の横ポケットのあるものと、厚手で横ポケットのないものです。容量は35リットルくらいかな。三脚を横につけることができますので、最近は厚手のもののほうが出番が多いようです。それでも出発前はいっぱいになっています。
この中に入れるものは、いくつかの袋に小分けしたものが入ります。この袋は、宿泊したときに歯ブラシやタオルなどアメニティの入っていた巾着式のビニール袋(アメニティ袋とします)に入れています。だいたいの中身がわかるように色分けをしています。最近はこの袋が宿ででてくることはなくなりました。
リュックにいれると最初に決まるものは、旅行用セットと勝手に名付けている袋です。黄色のアメニティ袋に入っています。いつもは、これを持っていけば最悪の場合でもなんとかなるとおもっています それもあって何も考えずにバッグに放り込んでいます。
その中身です。宿などでアメニティとして置いているようなものはだいたいのものが入っています。宿でご自由にお使いくださいと置かれていたものです。まず、タオルが単独で入っています。それ以外のものはいくつかの小袋にわけて入っています。だいたいは、宿に置かれていたもので使わなかったものです。小袋ごとに書きます。
小袋1です。櫛と歯ブラシとひげそりです。だいたいはこの袋と部屋についているタオルとを持って大浴場に行きます。歯ブラシ・ひげそりは4−5回は使い回ししています。歯ブラシは変と思うかも知れませんが、風呂に浸かりながら歯を磨くことがあるからです。歯磨き粉は刺激が好きではないのであまり使いませんから、口の中が泡だらけになることはありません。浴槽の中でもじゅうぶん磨けます。
小袋2です。シャンプーとリンス、石けんが入っています。石けんは更に小さな小袋に入れています。使ったら捨ててもいいのですが、何回か使おうというせこい魂胆です。濡れたままだと大袋の中がヌルヌルになってしまいます。
小袋3です。メッシュのタオルが入っています。これは意味がなさそう。単にあったから入れているだけのよう。
小袋4です。ソーイングセット、救急絆創膏類数枚、ガーゼ、綿棒などが入っています。
小袋5です。洗濯用洗剤2回分を小わけにして更に小さな二重の小袋に入れています。中の小袋が破けたことが何回かあり、洗剤が中でこびり付いています。
小袋6です。お茶のティーパックとドリップコーヒー、スティック砂糖、お茶パックの袋が入っています。お茶のティーパックは、宿でだされたものがあったときは、古いものから順に使っています。今回はストックを消費しました。
赤のアメニティ袋には、夜具の代わりになる衣類が入っています。夏用はショートパンツとTシャツ、冬用はジャージのパンツと長袖Tシャツが入っています。夏用冬用で体積が違うのでどちらを持っていくか一目で区別できます。濃いめの赤いアメニティ袋には寒いときに着るセーターを入れます。季節や気温によってどれを持っていくか考えます。
着替え類は、緑のアメニティ袋に入れます。色の濃さで、上着と下着をわけます。2泊以上になると、青のアメニティ袋を着た衣類を入れるために別に用意します。
空港で、荷物を開けてくださいといわれても、この袋にわけて入れていると、中身がほとんど見えませんから開けるのは苦になりません。
セット以外で用意する持ち物です。バスで巡っているときに、バスから持って降りる荷物と車内に残しておく荷物を入れる手提げ袋にもなるナップザックを持っていきます。バスの中では、ツアーの種類や内容によって変わりますが、折りたたみ傘、水筒、昼食、雨合羽といったものが入ります。水筒には出発日の朝にお茶を入れます。出発前に大雑把にわけておきます。
大きめの手提げ袋を入れることにしています。大浴場に行くときに持ち物を入れるのに便利です。バスタオルは大きくて、ナップザックだとこれだけを入れるだけでいっぱいになります。またカバンにものが入りきらなくなったときに、荷物の一部を入れるのにも使えます。
カメラ関係の持ち物です。ふだん使うものと、交換が必要になった場合の予備は、まとめてショルダーバッグに入っています。だいたいどんなものが入っているかは、前に説明しています。そこで説明しなかったものとしては、ビニールの風呂敷、予備のSDカード、リモコンスイッチなどがあります。飛行機に乗るときは、取り出しやすいところに置けないので、ウェストバッグを利用することもあります。旅行前には充電池類の充電も必要になってきます。ふだん使うカメラ用以外にも携帯電話、GPSロガー、コンパクトデジカメ用とかたくさん種類があります。
星の写真を撮るためには、それなりの装備が必要です。少なくとも三脚、レリーズがいります。三脚はバッグに入れようとしても長すぎて入りきりません。雲台を外せば何とかなります。バッグの横にくくりつけて運ぶときは分解しません。他に赤道儀も持って行っていましたが、最近はアストロトレーサーで代用になることがわかりましたので、こちらを持って行っています。アストロトレーサを動作させるためにはGPSユニットが必要です。赤道儀の代わりに持っていきます。だいぶ小さく軽くなりました。これらの装置を動かすための電池も別に必要です。電灯もヘッドライトや赤色ライトも使い分けています。バーティノフマスクもあった方がいいようです。このような小物は、布製の巾着袋や、スポーツシューズが入っていた袋に入れています。
泊数が多くなってくると、電池などは何回も交換ということがあります。予備の予備とか、充電器とかそういうものも必要になってきます。撮像素子にゴミがついたときに吹き飛ばすためのブロアーも持っていくことがあります。このあたりのものは、その時のようすで変わってきます。カメラの交換レンズなどもその時に応じて持っていきます。
車でいくときは、地図類、ポータブルカーナビが必要です。地図はだいぶ古くなってきたので、そろそろ買い換え時かな。最近は車用の眼鏡をかけていると、地図がぼやけて全く読めないので、どうしてもカーナビが必要になってきます。地図は、全体のコースを考えたり、途中にある名所旧跡を探すのには便利です。
望遠鏡を運ぶのが目的ですから当然乗っています。関連の機材はいろいろありますが、あげだしたら切りがありません。だいたい決まっているので、ここでは省略します。車までは望遠鏡や持っていく荷物を台車で運んでいます。駐車場から離れたところで星を見る場合など、現地で使うことがあるかも知れないということで、そのまま車に積み込んでいます。
車には折りたたみ自転車が乗っています。旅行時以外は使わないので、タイヤの空気は抜けているのが普通です。出発前に入れることにしています。空気入れやパンク修理キットなども持っていきます。
旅行などでいろいろな建物や門を見た時に、建て方の特徴に注目することがあります。様式についての理解や各部の特徴などがわかってくると、建物の見方も変わってきます。今はまだ勉強中といったところですが、理解できている範囲で今回の旅行で見た建物を使ってまとめてみることにします。といっても、旅行中に詳しく見ていなかったところもあります。例としてあげたものには、造りをしっかり見て判断していないものもあり、間違ったものがあるかも知れません。だいたいこんな感じでというところで見てください。
−−− 屋根の素材 −−−
まず建物の屋根が何で覆われているかによってわけることができます。素材として一番一般的なものは瓦で、このような屋根は「瓦葺き」屋根といいます。他にも鋼板葺き、茅葺き、こけら葺き、檜皮葺きといったものがあります。
鋼板は寺社では銅板を使っているものが普通でした。ところが、銅板がさびてできる緑青は有毒だということなのか、最近は使われなくなってきているようです。見ただけでははっきりしないのですが、最近の家屋に多いガルバリウム鋼板を貼りつけているようです。これも一応銅板葺ということにしておきます。
各素材の屋根を順番に見ていきます。
<瓦葺き>
普通にいう瓦屋根です。例として華厳寺本堂をあげます。屋根に並べられた瓦の種類については勉強中です。鬼瓦とか棟瓦平瓦くらいまでならわかります。
<銅板葺き>
銅板ではなく鋼板で葺かれた屋根は比較的たくさん見ました。変わったところでは、鹿児島仙巌園では錫葺きの屋根がありました。
華厳寺鐘堂と三十三所堂の例を挙げておきます。檜皮葺やこけら葺を模して鋼板を何層にも重ねています。
<檜皮葺屋根>
檜皮というのはヒノキの幹の皮のことです。これを薄く剥いで平たく伸ばしたものを屋根に並べていきます。
大矢田神社参道沿いにあったヒノキです。幹が赤くなっています。樹皮をはぎ取られた後はこのように赤くなります。この木は何年か前に檜皮を採られたのかも知れません。の夫婦樹の写真の右側はヒノキなのですが、幹が赤っぽい色をしています。皮を剥いだ直後は真っ赤な色になります。
檜皮葺屋根の例です。比較的多くのところで見ました。小国神社拝殿を例に挙げます。
茅葺き屋根、こけら葺き屋根は今回は見ませんでした。こけら葺きはふだんでもあまり見かけません。一度説明のあった建物を見たことがあります。それがどこだったのか思い出せません。こけら部分だけを写したような記憶があるのですが過去の写真を見直しても見つけることができませんでした。鶴ヶ城の麟閣か偕楽園の好文亭あたりだったような気がしています。
<切妻造>
屋根の形に注目します。屋根を平にしておくと、降った雨は屋根の上にたまって雨漏りの原因となります。そこで屋根板をななめにします。そうすると雨水は流れ落ちて屋根にたまらなくなります。建物の中心線で左右に振り分けるのが一般的です。建物の中心一段高いところに棟木を渡してここから左右に屋根板をはります。棟木は建物のどちらかの壁と平行に渡ります。このような建物の造りを切妻造といいます。住宅家屋では普通に見られる様式です。
豊川稲荷禅堂を例に挙げておきます。屋根の高いところから左右に振り分けられているようすがわかります。入口の上に庇がついていますので少しわかりにくくなっているかも知れません。
<寄棟造>
このような建物の場合、棟木に直角方向にある壁の面を妻面(または妻)といいます。写真の建物で見えている側が妻面です。
妻面には雨がたくさんかかります。そこで雨の影響を少し減らそうと工夫がなされた屋根の造りがあります。一つは屋根の傾斜を妻側にもつけるというものです。屋根の形は台形2枚と三角形2枚があわさった形になります。このような建物の形を寄棟造りといいます。
鳳来寺本堂を例に挙げます。
<入母屋造>
もう一つは、豊川稲荷禅堂の庇を左右に大きくして屋根とつないでしまうというものです。反対側の妻面も同じようにします。下半分は寄棟造で上半分は切妻造と二つがあわさった形になります。
例として尊永寺諸尊堂北谷寺をあげます。今回まわった寺社の建物の大半はこの形でした。
<宝形造>
寄棟造で建物の四辺の長さが同じだと台形をした屋根はなくなり全て三角形になります。このような場合は宝形造といいます。方形造と書くこともあります。ほうぎょうづくりと読みます。お寺の建物の場合、屋根の一番高いところには宝珠とその土台(露盤)が乗ります。舎利などを納める建物に多いそうです。
写真は池田町の凉雲寺です。
お寺にある宝形造の建物で、2階以上の高さがあり、各階毎に屋根を設けているものを層塔と言います。お城もそうですが、この屋根が何段になっているか、たとえば3段になっていれば3層(構造)といういい方をします。3層の層塔は三重の塔です。他にも五重塔や十三重の塔といったものもあります。
横蔵寺の三重の塔を例に挙げます。
宝形造の変形のもう一つの例です。建物の平面形が六角形や八角形という建物もあります。八角形の例として豊川稲荷納符堂を例にあげます。
諏訪大社下社秋宮の神楽殿のように三方切妻という建て方もあります。基本的には切妻造の建物を組み合わせているだけです。切妻、寄棟、入母屋といった構造は日本建築でも必ず見ることができるようです。
−−− 妻入りと平入り −−−
次に、建物の入口の位置に注目する事にします。主となる入口がある場所は、妻面かそうでない面かのどちらかになります。妻面に入口のある場合は妻入り、そうでない場合は平入りと言います。
<妻入り>
大矢田神社拝殿です。五角形の面に入口があります。切妻造の場合、入口から雨が吹き込みやすいという欠点があります。
<平入り>
華厳寺揚輝堂です。間口は広く取れるのですが、出入りの時に、屋根から落ちてきた雨水がかかるという欠点があります。
建物の飾りに注目することにします。
<千鳥破風>
屋根の斜面上に、妻面上部に見られる「へ」の字形に屋根を載せていることがあります。妻面で一番高くなっているところを破風(はふ)といいます。妻面で風の影響を一番強く受ける場所です。この破風と同じものが屋根に乗っているという感じになります。お城では、2つ以上並んでいることもあります。これを千鳥破風とよんでいます。妻面上部の破風を千鳥破風というのはあまり聞いたことがありません。屋根側面のもに対しては使われているようです。明かり取りに使われていたのが起源という話も聞いたことがあります。
尊永寺本堂の例です。
<唐破風>
三角形ではなく上に緩くカーブして膨らむように盛り上がっている形のものもあります。唐破風といいます。唐と名前がついていますが、日本独自のものだそうです。こちらは屋根の真ん中ではなく先端の軒や庇が作られることが多いようです。屋根全体をこの形にするとしたらかなり大仕事になりそうです。
大矢田神社の蔵(?)です。庇にしては屋根より大きすぎます。屋根なのかな。
<向拝>
平入りの建物で、入口にあがる石段の部分を覆うように軒を伸ばしていることがあります。前に出ている部分を向拝といいます。向拝の先端が唐破風になっていることもあります。
寂光院本堂です。
−−− 飾りについて −−−
<懸魚>
切妻造や入母屋造の建物の妻面の破風のすぐ下に、彫刻の施された板が飾られていることがあります。この板を懸魚(げぎょ)といいます。元々は火除けのお守りで、魚が彫られていたようです。様々なバリエーションがあって名前もあるようです(覚えきれない)。
大矢田神社拝殿のものです。猪目懸魚のようです。横にも2つ下がっています。真ん中ものを拝懸魚または本懸魚(おもげぎょ)、横にあるものを降懸魚(くだりげぎょ)または脇懸魚、桁隠しと言います。
懸魚を固定する棒のようなものが真ん中に突き出ています。これに付随する飾りを含めて六葉といいます。棒の部分が樽の口、飾りは菊座といいます。
<軒飾りなど>
軒先などにもいろいろな彫り物が見られます。日光東照宮の三猿や眠り猫が有名です。竜はよく見かけます。唐獅子とか色々あるみたいですが今は勉強中です。
寂光院本堂向拝の彫り物です。竜に着色されています。
今回覚えたのはかえるまたというものです。確かにかえるの足に似ています。大矢田神社本殿のものです。
門の構造や種類についてみていくことにします。
門の造りを見たり調べたりしている内に、門の形がどう変化してきたのかが何となくわかるようなきがしてきました。どのように変化してきたのかを考えながら見ていくことにします。
そもそも、門は建物敷地への出入り口として設けられています。敷地内に侵入されないように、周囲は塀でかこまれます。生垣といったものになることもあります。
入口がそれだけでは、せっかく出入りできないように周囲を囲ったのが何の意味もなしません。そこで、門には両端を柱で支えられた扉が取り付けられます。これが門の一番単純な形となるようです。
<塀重門>
塀の一部に2本の柱で支えられた扉が取り付けられている門です。自由に出入りできるところでは、扉がなくなって両端の柱だけが残されている形になります。
寂光院の総門です。柱と塀の一部だけが作られています。扉はありません。
こんなものも塀重門といっていいのでしょう。寂光院の参道入り口です。
<石柱門>
塀重門で、出入りを自由にとしていると、塀を作る意味がなくなって、象徴的に柱だけが残されることがあります。これが石柱門です。
油山寺驥山門です。柱が2本並んでいるだけです。地面付近まで写すのを忘れていました。
<鳥居>
吉野ヶ里遺跡では王の屋敷入り口の門に桁をわたして、その上に鳥の模型が並べられていました。鳥には空を飛ぶという特別な力があり、その下をくぐることでその霊力を授かろうということで乗せられていたようです。これが鳥居の原型とされています。鳥が居るから鳥居です。
大矢田神社雄建社の鳥居です。これだと門のように見えます。手前に2つ並んでいる石灯籠は形態的には石柱門ににています。
<冠木門>
塀重門で門が大きくなってくると、門の重みで柱が内側に倒れそうになります。これを防ぐために、柱の間に太い桁を渡します。この桁は冠木とよんでいて、このような形の門を冠木門といいます。関所史跡などで見ることがあります。
尊永寺の門です。寺に入るときに一番最初に見たので総門になるのかな。
<家棟門>
門の上に切妻型の屋根を乗せたものです。棟門ともいいます。乗せ方としてはいくつかあるようですが、代表的なのは次の2通りです。
柱を前後に貫通させるように梁を通します。この梁を腕木といいます。柱の頂部に棟木をのせ、腕木の先に渡した桁との間で屋根を支えます。腕木門とよぶことがあるようです。大矢田神社の拝殿の横にあった門です。左側塀の間にある門です。桁なしで直接屋根を支えているようです。
もう一つは冠木の上に梁を乗せてからその上に本格的に屋根を作るというものです。
大矢田神社拝殿奥の門です。一番左の切妻型の屋根がそれです。神様が通るところでしょうか。
<三棟門>
柱と柱の間を「間」といい、それがいくつあるかで建物の大きさを表すことがあります。古代建物で、三間×四間の堀立柱建物とか、大矢田神社の拝殿は三間向拝であるといった使い方をします。
門を横に広げて大きくしたものがあります。そのまま広げていくのは無理ですから、柱を増やすことになります。左右対称に2本柱を増やすことで、三間の幅を持った門ができます。このような門は三間門といっていいのでしょうが、普通は三棟門といいます。両脇の間の屋根が一段低くなっていることから3つの建物が重なっているように見えることからつけられているのでしょう。
三棟門の例です。華厳寺の総門です。門では柱に挟まれた入口の数を「戸」で表すことがあります。車道で1戸、両脇の歩道にそれぞれ1戸ずつあります。柱の数とまとめて三間三戸の門ということになります。
<四脚門>
門の上に乗せる屋根が大きくなってくると、前後に不安定になってきます。倒れないように柱の前後に2本づつ柱を立てて支えた門が作られます。この門では、真ん中にある柱を本柱、前後の支えのための柱を控え柱といいます。控え柱が4本あるということで四脚門(しきゃくもん)または四足門(よつあしもん)といいます。柱は全部で6本になります。
油山寺礼拝門です。四脚門のように見えます。控え柱が屋根を支えていて、その中に本柱を使って扉が取り付けられているようにみえます。ここの門の特徴は棟瓦側面に菩薩像が彫刻されていることです。
<高麗門>
本柱の前後に控え柱を設けて四脚門ができる前に、もう一段階あるような気がします。控え柱が本柱の内側にのみあるタイプの門です。二脚門とよべそうですが調べてもそのような名前はでてきません。二脚型の門としておきます。
二脚型の門のタイプに2種類の変形版があります。一つは控え柱の上に切妻型の屋根が乗せられたものです。高麗門といいます。名前が高麗となっていますが、日本独自のもののようです。
可睡斎の総門です。内側から写しています。この方が控え柱に屋根が乗っているようすがよくわかります。
<薬医門>
二脚門のもう一つの変形型です。本柱と控え柱の4本で屋根を支えるようにしたものです。本柱と控え柱の間に梁を渡し、その真ん中より本柱側に束を乗せてその上に棟木を渡して屋根をつけます。屋根は、本柱側に寄った形で乗ることになります。このタイプの門を薬医門といいます。
寂光院の山門がこのタイプと説明されていました。本柱と控え柱の真ん中くらいに棟木があるように見えます。
横蔵寺寺門です。控え柱側にも冠木と平行に桁が乗っています。屋根の位置が本柱側に偏っているため、全体に前にせり出しているように見えます。このタイプのものは他にもいくつか見かけました。
<八脚門>
三棟門のタイプからも前後に控え柱のついた変形型ができます。八脚門または八足門といいます。
完全な八脚門は見かけませんでした。かなり変形が加わっていますが、可睡斎の山門がこのタイプのように見えます。控え柱が屋根を支えるようになっていて、両脇の4本の控え柱の間に部屋を設け金剛力士像が置かれています。両脇の屋根が一段低くなっていることから、三棟門としているウェブサイトもあります。
−−− 大きな門 −−−−
<楼門>
八脚門で2階建てになったものを楼門といいます。2階部分の周囲には回廊が巡らされているのが普通です。写真は大矢田神社山門です。
<二重門>
楼門で1階部分にも屋根が設けられたものです。写真は華厳寺山門です。
−−− その他の門 −−−
<櫓門>
お城の櫓の下に設けられた門です。起源が門ではないので、本柱控え柱の構造を持って今ません。櫓の前面に扉が設けられています。
油山寺の総門は、元々は掛川城の大手門で、明治の廃城令でとりこわされたときにここに移築したそうです。
<長屋門>
塀の間ではなく、細長い長屋型の建物の間に設けられた門です。
華厳寺の法輪院の入口です。右側だけを見ると普通の居住用の建物です。その横に門が設けられて更に左にも建物が続いていいます。
−−− 形のはっきりしない門 −−−
横蔵寺に向かう途中にあった祠の入口です。柱が4本横に並んでいて(三間)、両脇の屋根が一段低くなっています。柱の後方には控え柱もありますから、三棟門のように見ます。控え柱は屋根を支えていません。
はじめは三棟門と思っていたのですが、写真をよく見ると何か変です。屋根の棟木が本柱の真上にはなく、控え柱側に後退したところにあります。この屋根はどのように支えられているのでしょうか。遅れないようについていくのが精一杯でじっくりと見ていませんでした。
円興寺の僧坊への入口の門です。出入り口になっている所の屋根の左右に一段低い屋根がありますから、三棟門のように見えます。更によく見ると横にもう一段低い屋根があります。二段に引くなっていて、高麗門のように控え柱にも屋根の乗っているものは七棟門というようですが、控え柱と屋根の関係から高麗門というより薬医門に近いようです。
よくわからない形ですが、一番低い段の屋根が塀の上のあるもので、塀はすぐになくなっていると考えれば、三棟門の変形かなとも思われます。居住区域の様な気がしたので近くで確認していません。
豊川稲荷景雲門です。元々は奥の院の建物を門の形に作り替えたものです。ちょっと目は八脚門に見えます。横は五間幅で前にせり出した柱は三間幅です。五間一戸のようです。これは向拝の名残でしょうか。裏から見ると通りぬけられる母屋のようです。
門の変化のようすを整理してみます。
[塀重門](基本形) −−(簡素化)−→[石柱門]
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↓(桁をかける)↓
[冠木門] [鳥居]
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↓(屋根が乗る)
[家棟門]−−−−−−(幅が広がる)→[三棟門]
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↓(後方に控え柱) |
(二脚型の門)−−→[高麗門・薬医門] |
| (変形) |
| |
↓(前方にも控え柱) ↓(前後に控え柱)
[四脚門] [八脚門]
↓(二層化)
[楼門・二重門]
門の中にはその構造以外の事柄に注目して様々な呼び方でよばれているものがあります。例を挙げながら見ていくことにします。
−−− 付属しているものに注目した呼び方 −−
<唐門>
門の上に乗る屋根の形が千鳥破風ではなく、唐破風になっている門を唐門といいます。これも日本独自のもので、唐とは関係ないようです。
普通、唐破風は屋根の妻面につきます.門の入口から見て側面にあたり見えません。そのため、唐破風を軒先につけたり、妻面が前後にむくように屋根の向きを変えたものもあります。入口側から見て唐破風が横向にあるものを平唐門、正面を向くようにあるものを向唐門といいます。
豊川稲荷総門です。向唐門になります。門の基本的な形は四脚門です。
<仁王門>
八脚門で、両脇の4本の控え柱でかこまれた区画に金剛力士像が置かれているものを仁王門といいます。仁王さんは金剛力士の別の呼び方です。
豊川稲荷の山門です。形式的には楼門です。
置かれている金剛力士像です。口を開けた阿形(あぎょう)と閉じた吽形(うんぎょう)が対になっています。これは阿形の方です。そういえば、狛犬も阿形吽形が対になっています。
金剛力士像の代わりに、四天王像や大臣が置かれているものもあります。四天王の内2人がいれば二天門、4人ともいれば四天門といいます。大臣の場合は右側が左大臣、左側が矢大臣で対になっています。このような門は随神門(随身門)といい、お寺ではなく神社の門で見られます。江戸時代の神仏習合と明治維新の廃仏毀釈が関係しているようです。
<鐘楼門>
門の2階部分に鐘が置かれている門をいいます。楼門に鐘があるのか、鐘楼が門になったのか。後者の方が正しいのような気がします。鐘の音が外に響くように、開放された大きな窓が設けられています。
横蔵寺の山門です。二階の窓になっているところに鐘があります。
ここからだと鐘のようすがわかりません。境内側からははっきり見えました。
−−− 門が設置されてる場所による呼び方 −−−
<総門と山門>
もうすでに総門とか三門とか名前がでてきていますが、どちらも、お寺の入口にある門をいいます。可睡斎や豊川稲荷のように総門と山門の両方のあるお寺もあります。どれを総門とするのかはお寺によって決めているようにみえます。今回まわったところでは、総門の内側に山門がありました。総門の方がより広い寺域の入口をさしているようです。一般的には楼門か二重門で仁王門(四天門)形式の門を三門とよんでいることが多いようです。
山門は、お寺の名前は山号(法多山とか)でよぶことがあります。その山の門という意味で使われています。門には山号の描かれた額が掲げられていることが普通です。
法多山尊永寺の山門です。額が下がっているのはわかりますが、この写真からは山号を読み取ることはできません。手前に石碑のような石が対になって並んでいます。石柱門のように見えます。更に外側に冠木門がありました。どれかが総門のなのでしょうか。
山門ではなく三門という書き方をすることがあります。これは三解脱門の略で、ここをくぐると煩悩を解脱することができるそうです。禅宗のお寺の二重門に使われるのが一般的なようです。
お城では、正面側が大手門または追手門、裏側が搦手門といいます。
<南門とか>
一般的な名称というより、どちらかというと門につけた名前でしょう。単純に南側にあるから南門と呼ぶようにした、ぐらいの意味合いでしょう。門内部の区画が大きくなってくると、南大門とか朱雀門と呼び方が変わってきます。
華厳寺中門です。中にあるから中門なのかな。形式は高麗門です。控え柱に乗る屋根が見えています。
横蔵寺の山門のように、楼門で、仁王門で、かつ鐘楼門といくつもの呼び方で呼べる門があります。どう呼ぶかは何に注目しているかによるのでしょう。お寺からすれば、形式はどうでも良く、どこにあるのかが大事なのでしょう。