2014/03/02-04 三原・今治
2013年度は、有給休暇がたくさん残ってしまいました。使わないことには、全て無効ということになります。3月の間に何とか使おうと旅行の計画を立てました。それでも使える休暇はわずかです。残る方がたくさんあります。
とりあえず行き先としては、瀬戸内海芸予瀬戸を挟んで大久野島・瀬戸内東予と休暇村が2つあります。ここを拠点としてルートを考えました。北側の忠海から大久野島に渡り、大三島からしまなみ海道に入って今治に抜けるコースです。
交通手段ですが、大久野島では車が使えません。取り扱いが問題となりそうなので、公共交通機関の利用となるでしょう。JRは、青春18切符が使えそうですが、使ったのかどうかははっきりしていません。大久野島から大三島に抜けるとして、フェリーの着く盛港には定期バス路線がありません。何とかなるだろうと楽観的に見ています。最悪、一番近くのバス停まで4km歩くことになります。いずれにしても、今治まで行くためのバス時刻は調べておく必要があります。帰りのJRも、最終でいつになるかは調べていないといけないでしょう。
どこによっていくか考えてみます。大久野島に渡る忠海の近くで有名な観光地としては、竹原の街並みがあります。近くの三原で少し見学をして竹原に行くのがよさそうです。そこから少し戻った忠海から大久野島に渡ります。
大久野島から大三島に渡ってからです。島には大山祇神社があります。よっているとロス時間が多くなりそうです。いけるかどうか。その先ではしまなみ海道に入ってしまうと、途中での立ち寄りは難しくなりそうです。今治では今治城に行くとして、それ以外は観光案内所で情報を入手できそうです。できれば瀬戸内東予にいく間にあるといいですね。
瀬戸内東予から先で見ておきたいものは新居浜の別子銅山です。新居浜駅からバスで往復になります。本数が少ないので発着時刻はしっかり調べておいた方がいいでしょう。新居浜までは伊予西条で途中下車してみることにします。これで、たぶん時間切れになるかな。時間が余ればさらに先にいくというのもありそうです。その後は大阪に向けて帰ってくるだけです。
旅行初日です。いきなり三原の写真から始まっています。途中で、これといったものがなければ写していないでしょう。タイムスタンプは9時20分です。青春18切符を使うとしたら、大阪から5時間かかります。この時間には間に合っていないでしょう。格安チケットで三原までというのがあったので買ったような記憶があります。この切符で行っているのなら、福山とか尾道で降りなかった理由がはっきりします。
時間からすると、観光協会が開くまで、駅構内にあるものを見ていたようです。開いてすぐにパンフレット類を入手して、三原市内の見学場所を考えたようです。
とりあえず北口から出ました。新幹線のホームにくっつくように三原城天守台の石垣が見えます。三原駅は三原城の中にできているようです。
天守台に上がって北側に見えた堀です。突き出しているところは橋の跡かな、でもこちら側に対応するものがないような。右側の石垣が貧弱なのも気になります。
天守台にあった、石碑のような石です。なにか説明があったのですが、覚えていません。
駅の反対側にでて南東方向に進んでいきます。舟入櫓というのがあります。三原城は海に面していて、堀に海からの船が入ってくることができるようになっています。その入口に作られた櫓が舟入櫓です。その櫓が置かれた場所に入っていく門です。
いったん上にあがって降りてきて反時計回りに半周します。石垣の下に公園があって、その外れから見た石垣です。ちょっとゆるゆるなのが気になります。
右側に続く水路です。先ほどより少し進んだ所から写しています。石垣が前に飛び出しているところが舟入櫓が乗っていたところかな。この先にも三原駅に向かってお堀が続いています。
駅で入手した散策マップを見ながら歩いて行きます。町の東側、山の麓にはお寺が集まっているところがあります。そこをめざしていきます。船入櫓の東となりにあるショッピングセンターにはトスコのレンガ遺跡というのがあると書かれています。探したけれども見つけられなかったようです。
そのまま東に進み、旭町の漁港にでます。たこつぼがいっぱいあると書かれています。たこつぼはたくさんあったのですが、イメージしていたものと違っていたようです。写真には写していません。この近くでは見どころがいくつか書かれていますが、どれも写真には残っていません。
ここから北上して線路を越えたところから路地の奥から右の山側に向かって、石段が続いているのが見えます。さらに奧には籠恕神社があると書かれています。
石段を上がった鳥居の横に狛犬が並んでいました。たてがみが立派です。
神社前から北側の景色です。松寿寺の三重の塔が見えています。ここまで来たわりには、社殿を移していないのはどうしてでしょうか。
鳥居まで降りて、北に向かって進みます。ほとんど隣り合って極楽寺があります。その本堂です。
極楽寺の山門です。元々は高山城の搦手門だったものが、三原奉行所に移築されるなどの変遷を経た後、最終的にここの山門になったそうです。
さらにその北隣に松寿寺があります。その山門です。
山門を入って正面にある本堂です。
裏に回ったところに三重の塔があります。本堂横から見たものです。
松寿寺の北側にもいくつかお寺があります。どこもかもと寄っていると時間が無くなってきます。この付近はこれくらいでという事で、途中にあるものを見ながら、西の方にある駅の方に向かうことにします。
松寿寺から石段を降りた横にあるのが専福寺です。こちら側が正面ではありませんから、表に回ります。そこから見えた山門です。
広い通りにでたところから駅の方に向かって進みます。旧街道になります。進んで行くと左側に黒塗りの建物が見えてきます。「酔心山根本店」と書かれています。酒屋となっています。横山大観お気に入りだったそうです。
次に見えてきた立派な建物が真田家宅です。マップには名前だけが書かれているだけなので、どういう建物かは不明です。
こちらが母屋かな。なにか商店のようにも見えます。
善教寺に行く路地の入口近くにある石碑です。観測地と書かれています。伊能忠敬関連ということは、ここで天体観測をして経緯度を求めたのでしょう。
奧にある善教寺です。山門とその奥に本堂が見えています。
道を少し進んだところにあるのが、富田商店です。このあたりに、本陣があったようです。
和久原川にかかる神明大橋を渡ります。マップには川沿い南側に水刎ねがあると書かれています。水流の勢いを押さえるためのものだそうです。石垣が川の方にせり出すように組まれているのが特徴です。妻面の見えている家の下のところがせりだしているように見えます。
三原駅の北側まで戻ってきました。ここからみて北西から西側の山沿いにもお寺がたくさん集まっているところがあります。広い範囲に散らばっています、主だったものをまわってもかなり時間がかかりそうです。山際まで行かずに、町の中を通っている西国街道に沿って西側に向かうことにします。
天守台の北側を通りぬけます。堀の向こうに石垣が見えます。
金尾医院の前を前を通ります。古そうな建物です。この通りの説明が何かあったように思うのですが残っていません。
もう一つ黒塗りの建物があります。入口で案内をしているようです。山脇邸と書かれています。
ひな祭りということで、特別に中を見せてもらえるようです。建物は、改修予定(改修中だったかな)だそうです。
床の間の飾り雛です。
室内から窓の並びが気にいったので1枚写しています。
欄間の飾りです。いろいろなものがあります。これは山と松の木かな。
さらにその先です。真田医院になります。入口上に飾られている標札が旧字体で書かれています。
街道から脇に入る道には、なんとか小路と名前がつけられています。ここは大善寺小路です。
だいぶ町の西外れまでやってきています。街道沿いに、順勝寺というお寺があります。ここの山門も移築されたもので、元々は三原城作事奉行所の門だったそうです。奧にもう一つ小さな門があります。奧の方が立派なので、これが奉行所にあったものなのかも。入口の門から奧を写しています。
隣にある小路が順勝寺小路です。かなり狭い路地です。
町の端まで来ました。街道に山が迫ってきています。そこに鳥居が見えます。三原八幡宮と書かれた石碑があります。
石段を上がっていったところに山門があります。その前にいる狛犬です。体の毛がこもこもになっています。
山門です。神社でも山門と呼ぶのでしょうか。八脚門で随身門になっています。
右側(たぶん)の随身です。若いから左大臣なのかな。矢を持っているようにも見えます。手前に獅子のようなものがいてこれに乗っているようにも見えます。
三原八幡宮の本殿とその前にある茅の輪です。3回手前から向こう側にくぐって厄落としをするそうです。
城下町の外れまできたようなので、引き返すことにします。同じ道を通るというのも芸がないので、下町通りを通り、途中から線路をくぐって南側に抜け、西浜むかし町に行ってから駅に戻ることにします。
パンフレットにはむかし町での見どころが書かれているのですが、その場所が見つけられていません。原田眼科というのだけ何枚か写真に撮っています。パンフにはレトロな洋館と書かれています。
そのまま駅に戻りました。新幹線駅下を横断する通路の横に石垣があります。その石垣の端っこです。算木積みという技法だそうです。ここもゆるゆるなのが気になります。
最初の予定では、次に竹原に行くことになっていました。パンフをみると途中にある安芸幸崎(さいざき)の案内も書かれています。ついでに寄っていくことにします。
三原から呉線に乗って2つ目の駅が安芸幸崎です。駅をでて、駅に連絡する道から通りに出ます。ここから見た感じでは、町の中心部にいるではなさそうです。パンフを見直して、左に進んで行くことを確認します。
川を渡って、山を時計回りに迂回すると呉線の線路を横切ります。その右側はトンネルになっています。
線路を越えたところに、幸崎神社と書かれた看板があります。その横には大きな玉に足をかけた狛犬がいます。
この前にかなり急な石段があります。幸崎神社に行くにはここを登らないといけないようです。
階段を登り切ったところです。鳥居の先に本殿が見えます。
本殿前から、南側の景色です。街並みの向こうに漁港のようなものが見えています。
幸崎神社の石段を降りたところから本通りがあり、これに沿って幸崎の町並みが続いています。歩いていると、民家の前に置物がありました。丸い石に直接絵を描いたように見ます。うさぎなのでしょうか猫なのでしょうか。使わなくなった石臼の上に鎮座しています。
本通りは大きく曲がっているところがあります。枡形のようにも見えます。脇道もあるので道に迷いかけましたが、進む方向はしっかりと確認しておきます。
脇道の方には赤い鳥居が見えています。パンフでは老婆(うばく)神社となっています。
本殿前にいる狛犬です。いや、しっぽが太いので狛キツネなのかな。赤い鳥居は稲荷神社でよく見ます。吽形のようですが、牙と前歯をむき出しにしています。
枡形のようなところから、本通りを進んで行きます。道沿いに見える町並みです。家船で(えぶね)で栄えた漁師町とパンフには書かれています。で、家船って何?
※移動しながら海上生活をしていた漁民集団をいうようです。近世以降陸地に定着せざるをえなくなったようです。瀬戸内海地域の人たちは家船とは呼ばないという解説もあります。
南山資料館と書かれている建物です。幸崎出身の彫金家清水南山の作品が展示されているとか。
町外れにある常磐神社の鳥居です。しめ縄は手前の石柱門につけられています。道路改修で、奥の鳥居と接近するようななったとか。
ここをすぎると海岸にでます。正面右よりにある高圧線鉄塔の建っている島がこの後行く予定の大久野島です。
この先は何もなさそうなので引き返します。町の入口近くまで戻ったところにあったしょうゆの看板です。忠海と書かれていますからこの隣町で作っていたのかな。
安芸幸崎から竹原に向かいます。大久野島に渡る船が出る忠海はいったん通り過ごします。竹原の駅に着いたら、観光案内所で町並み保存地区についての資料を入手します。弥生の節句間近ということもあって、いくつかの建物で雛飾をだして、雛巡りができるようになっています。いくつかの有料施設を巡る周遊パックもあります。雛飾ばかりたくさん見てもどうなのかなということでこれはパスです。
町並み保存地区までは、少し離れているようなので道を確認して歩いて行きます。まずは入口近くの旧笠井邸をめざします。見えてきた笠井邸です。自販機から手前2軒ともそれだったのかな。
旧笠井邸2階からの景色です。手前側の建物から見ているようです。真ん中の建物の火除け板が写っています。
2階の天井の方を写しています。太い梁が2本とおっています。
展示されていた雛飾です。
ちょっとシンプルなものです。御殿雛と書かれています。昭和3年製です。
町並みは、旧笠井邸から真っ直ぐ伸びる本町通りを奥まで行ってから、川側の道を戻ってくる事にします。
歩き始めて、すぐ右手そば処かんのの店先に出されていた雛飾です。
旧松阪邸です。気がついていませんでしたが(といっても当時はそれほど詳しくなかっただけ)、唐破風になっていてそれに合わせて屋根も湾曲しています。
向かいの民家です。弊の上部に窓のようなものが開けられています。
竹原の町並みを歩いているときは、なぜか、山側にあるお寺を全く意識していませんでした。中心街から少し山に登ったところに立派なお寺が3ヵ所ほどあったようです。時間がなかったというわけでもなさそうです。どちらかというと、町並みばかりに集中していたようです。
西方寺への登り口に大きな建物があります。通り側の入口横には初代郵便局跡と書かれています。跡というのはここにあったという意味で使うことがい多いのですがそういう意味ではなさそうです。建物の名称は上吉井邸となっています。
中で、雛飾が飾られていました。
上吉井邸の向かいが吉井邸(非公開)です。雨樋の水はそのまま流さずに、いったんためて防火用水として使えるようにしています。
町並み保存センターがあります。その前にある大きな木には実がいっぱい付いていて、赤く染まっています。モチノキでしょうか。それにしては実が多すぎるようです。
保存センターでは吉井家に伝わるひな人形が飾られていました。これもひな人形なのかな。かなりの年代物のように見えます。
歴史民族資料館です。洋風の建物です。昭和初期に図書館として立てられたものだそうです。
ョ惟清(らいただすが)旧宅です。ョ山陽の祖父にあたる人だそうです。ここで紺屋を営んでいたようです。
旧宅に入って入口側を見たところです。ここが紺屋の店先になるのかなす。
中に置かれていた雛飾です。昭和41年製と書かれています。
雛飾をいくつか載せましたが、どことも1組だけというわけではなく、何組か飾られています。
本町通りの端まで来ました。ここの道の真ん中に胡堂が立てられています。この付近では塩田業で栄えたようで、その守り神として立てられたようです。恥ずかしい話ですが、この字が読めませんでした。「えびすどう」でした。商売繁盛なら意味がわかります。
ここから右に行くと、照蓮寺があります。曲がったところに酒造用井戸がありました。
右に進まず、左に行きます。その突き当たりを左右に通っているのが中の小路です。水路に沿って道が続いています。その水路は竹で覆われています。
藤井酒造です。通りに面したところは酒蔵交流館になっています。中でなにかのイベントをしていたような。よく覚えていません。
中の小路は、直角に左に曲がって大小路になります。その左側に、復古館・春風館(どちらも非公開)と並んでいます。なまこ壁の向こうの建物が復古館です。製塩業と酒造業を営んでいたそうです。明治16年建築と書かれています。
このまま進むと本町通りに戻りますから、右に伸びる阿波屋小路に入っていきます。再び板屋小路に突き当たりますから右左と曲がって進みます。
曲がったところにあるのが亀田邸(非公開)です。
町並み保存地区の入口まで戻ってきました。このまま、駅に向かうことにします。駅前の商店街で目にしたのが、ももねこ様の石像です。その近くにも、似たものがいました。アニメにでてくる竹原の守り神だそうです。
大久野島に行ってもいいのではという時間になっています。竹原からJR呉線を引き返し忠海まで戻ります。駅を降りて三原の方に歩き、線路を渡って少し引き返すように進むと船着き場に着きます。乗船券を買って船を待ちます。あまり人は待っていなかったような。フェリーはすぐにきて乗船します。大久野島はすぐ先に見えていますから、乗船時間はわずかです。
大久野島に着いたところで、宿の車が迎えにきていました。満員に近い状態です。どこからの乗ってきたのだろう。専用の道路を進んでいきます。道脇にはうさぎがたくさんいます。よけながら慎重に運転しています。これだと一般車は走れませんね。すぐに到着です。
夕食までまだしばらく時間がありますので島の探検に行くことにします。宿の建物から南側を中心に見に行くことにしました。北側は明日の朝にします。
山の西側から入る山道を進んでいくと海が見渡せる場所にでました。西の空には日が傾いてきています。
分岐路から高台へ上がると南部照明所跡というのがありました。第2次大戦の時に探照灯(サーチライト)が設置されていた場所です。
南側には灯台が見えます。ここまでは行くことにします。
夕陽の丘というところからの瀬戸内海と夕陽です。
一番近づける場所から見た灯台です。
山を降りて浜に出ます。ここからだと崖の上に灯台が見えます。
浜を進んで行くと、ビジターセンターと多目的広場に出ます。ここから山の斜面を登っていくと南部照明所跡にでます。先ほど行ったところを下から見ています。正面下側は探照灯の格納場所です。ここから上に通り抜けはできなくなっています。
引き返して、広場に戻ったところの正面です。毒ガス貯蔵庫跡というのがあります。この大久野島は戦時中に毒ガスを製造していたところだそうです。いつの戦争だろう?
大久野島はうさぎが多く、「うさぎ島」で通じる事もあります。2014年に行ったときは単に知らなかっただけのか、行ってはじめでうさぎの多さにびっくりしました。うさぎの島として有名になったのは、行った2〜3年後だったような気がします。
ということで、うさぎを出さずには済まされないでしょう。暗くなってから写したものもあり、ぶれていたりとかであまり良いものはありませんが、一気にアップします。
宿に入る前に、宿の前から写した瀬戸内海です。日は沈んでいます。
休暇村では夜にアトラクションがある所があります。この時は、夜光虫を見ようという内容で開かれました。昼間の間にトラップをしかけて集めたものを見ませんかという内容です。
集めた夜光虫がワイングラスに入れられています。
電気を消して、グラスを軽く揺するとこんな感じになります。
夜は星を見ないでそのまま寝たようです。今回の旅行では、あまり星のことは意識していなかったようです。
大久野島の朝です。天気がいいので、予定どおり島の北部を回ることにします。北端に行くには西海岸、真ん中の山頂部、東海岸を通る3コースがあります。往復するには2つしかいけませんから、どれか通らないコースを選ばないといけません。西海岸は運動施設が並んでいますからここをパスにします。空が明るくなりはじめてから歩き出しています。
山頂からの景色です。西側の瀬戸内海になります。ビーナスラインが見えていますから日の出前には到着したようです。
しばらくしてからの東の景色です。もう少しで日の出のようです。
山から顔を出した瞬間です。
本州側の景色です。工場のようなものが見えるところが安芸幸崎のようです。昨日行ったところです。
北側に進んでいくと、中部砲台跡と書かれているところにでました。日露戦争の時に、ここの砲台が置かれていたようです。
進んで行くとレンガ造りの倉庫のようなものが並んでいるところにでました。
肝心の砲台跡は写していないようです。どこかわからなかったのでしょうか。台になっているところを上がって進んで行くと高圧線の鉄塔の下に出ます。そこからは下りの山道になります。
途中でホオジロがさえずっているのが聞こえてきました。高いところにいるのでそのような場所を探してみるといました。
坂道を降りていって景色が開けたところから北側の岬が見えてきました。
北側の岬に向かって山道を降りています。だいぶ降りきってもう少しで海岸というところの林の中が開けています。周囲は石組みでかこまれています。この付近は、北部砲台跡となっています。山頂付近にあった中部砲台とセットでこの付近を通る敵艦隊の迎撃のために作られたものです。
一段高くなったところに、砲台が置かれた跡があります。
この裏側には倉庫のようなものがあります。弾薬を入れていたのでしょうか。
海岸沿いの道に抜けて島の西側にまわります。ここには永浦毒ガス貯蔵庫跡があります。第二次世界大戦の時にこの島で作られた毒ガスを貯蔵していた場所です。
中を見ていると、近くにうさぎがやってきておねだりをしていました。残念ながらエサになるものは持っていません。
島の東側に戻って南下していきます、途中、ちょっと奥まったところに火薬庫跡というのがありました。明治時代に火薬を保管していたそうです。屋根が朽ち落ちています。簡単な作りだったのかな。
中を覗いてみました。完全に天井がおちてしまってありません。
近くの林で見た鳥です。ヤマガラです。
火薬庫跡から島の西海岸沿いの道に戻って南下していきます。海岸沿いといっても、林の中に道が続いています。坂を降りきるとやっと海岸にでました。そこから、やはり奥まったところに発電所跡というのがありました。こちらは第二次世界大戦の時に使われていたものです。
崩れやすいのか近くまで寄ることができません。
ここから、海岸沿いではなく山の中の南部砲台跡の方に向かったように思うのですが、写真の記録がありません。記憶間違いなのか、そのまま海岸沿いに戻ったのかははっきりしません。
いきなりうさぎが写っています。5分後なので山に入っていたとしたら早すぎるような気がします。
島南部の灯台も写しています。写している場所は、山を降りてからだいぶ反対側に行ったところになります。
うさぎが走っていました。到着したばかりの船から下りた人が、キャベツの青黒くなった葉っぱをたくさん持ってきていました。これが目当てだったようです。
手に(口に?)入れたキャベツを持ってとられないところに移動しているものもいます。
宿に戻って朝食をすませた後、部屋の窓から見た宿舎前のようすです。うさぎがたくさんいるようすがわかります。
荷物をまとめたら出発します。チェックアウトの時に、うさぎのエサが売られていたのでついでに買いました。港まで歩いて行くつもりですが、その時にあげようかなという考えです。
エサを持っていると、めざとく見つけたうさぎがよってきます。足の置き場がなくなって、バランスが崩れうさぎの方に倒れそうになりました。何とか踏みつぶすのだけは避けることはできました。
えさは、あっという間になくなります。エサの入っていた入れ物にお土産当たり券が入っていました。だいぶ離れたところまできていましたが、宿まで戻ってお土産に交換しました。
船着き場まで歩いて行って、船を待っている間にうさぎの写真を何枚か撮りました。
フェリーで大三島の盛港に渡りました。降りたところからの公共交通機関がないというのはわかっていましたが、何とかなるだろうと高をくくっていました。ついてみるとほとんど何もありません。ほとんどの人は車で迎えに来てもらっていました。タクシーを呼んでいた人もいなかったようです。
しかたがないので、歩いて行くことにします。一番近いバス停まで1時間くらいはかかりそうです。歩き始めてしばらくして見えた多々羅大橋です。
途中の景色は代わり映えがなくただ歩いているだけでした。途中から近道しようと入った道は、水路と土手に阻まれて行き止まりになっていました。ほとんど元に戻らないといけないしその間にバスが来るかも知れないので、強引に渡れるところを見つけて、土手を登り上の道路にでました。
ここから近くのたたらの里バス停まで行きバスを待ちました。少し待つとバスがきて乗ることができました。今治まで一度大三島BSで乗り換えたような記憶もありますが直通だったかも知れません。現在(2022年)は直通のみになっています。
今治はどこで降りたのかもはっきりしません。降りられる所は今治駅、今治桟橋、営業所前と3ヵ所あります。今治城に行くつもりでいましたから、営業所前かも知れませんが、その後の今治城への接近経路が逆方向からになっています。ついた所は特にこれといった施設がないところだったと覚えています。
今治城には西から近づいています。見えてきた山里櫓と天守です。
山里櫓から左側です。遠くに見えているのが武具櫓です。手前に掘があります。今治城の特徴は、堀が広いということだそうです。
山里櫓に入る橋の手前から見た櫓です。石垣は全体に野面積みですが、櫓門の前だけが新しい積み方をしています。この部分は最近になって付け加えられたものでしょうか。
櫓門前に上がる坂の途中から櫓を見上げています。
櫓門を入って、山里櫓入り口への階段をあがったところから武具櫓の方をみています。
階段をおりて、二の丸を天守の方に向かいます。本丸御門から本丸に入り振り返ってみた本丸御門です。枡形になっています。立っているあたりにもう一つ小さな門が欲しいところです。
解説を読むと、藤堂高虎はここに5層の天守を作ったものの伊賀に転封となり、同時に解体移築されたようです。その後はこの地には天守が作られなかったと書かれています。現在の天守閣は、本丸北隅櫓のあったところに作られた模擬天守です。
観覧券を購入して中に入ります。観覧券は、山里櫓・御金櫓・鉄御門殿共通券になっています。山里櫓はさっき通ってきています。
天守からの山里櫓です。
四国山地の方角です。
天守をでて御金櫓に行きました。その前からみた鉄御門の方角です。
鉄御門の内側です。門を破ってきた敵をこの上から狙い撃ちにするしくみです。
鉄御門を出て橋の途中からみた、御門前の枡形です。正面の石垣の真ん中下の方に茶色い大きな石が使われています。勘兵衛石というそうです。名前は築城奉行だった渡辺勘兵衛に由来しています。橋を渡ったところにもう一つ高麗門があったようです。
橋の上から南側を見たところです。見えている櫓は御金櫓です。石垣の下に犬走りが儲けられています。石垣を登ろうとする敵兵の足がかりになりそうですが、大丈夫だったのでしょうか。
堀に沿って西側に進んで山里櫓前まで戻ります。ここから見た天守閣です。
城をでから、いったん駅に向かっています。観光情報を入手するのと、バスはここからの方が連絡がよさそうだったからです。宿の予定の休暇村は西条・新居浜方面のバスに乗ることになります。
まだ時間は早いので、途中なにか観光できそうなところがないか調べてみると、綱敷天満宮で梅が咲いているとのことです。ここに行くのは決定です。でも、バスの発車時刻まではだいぶあります。駅近くでなにないかと探してみると、四国巡礼の55番札所の南光坊があります。観光案内所で道順を確認してよってみました。
教えてもらったとおり進んで南光坊に到着です。ちょっと大きなクスノキがありその向こうに本堂が見えています。
南光坊の本堂です。
反対側に山門があります。八脚楼門です。
山門の左側に見えているのは大師堂です。
山門にいるのは仁王さんではなく四天王です。これは左内側の広目天です。方角は西です。
山門から外に出ました。山門とその向こうに本堂が見えています。
道路沿いに右側を見ると梅の花が咲いているのが見えます。神社のようなものも見えています。いってみました。観光案内所でもらった地図には、大山祇神社と書かれています。
神社の拝殿です。
軽くお参りだけして駅に戻ります。バスの発車時刻が迫っています。
今治駅からバスで、綱敷天満宮に向かいます。駅にあった観光案内図からは、西条・新居浜方面に行くバスに乗り、今治東高校前で下車、ここから南東方向に歩いて行けばよいと読み取りました。
今治東高校前から、適当に道をジグザグに取り歩いて行くと、梅の花がたくさん咲いているところが見えてきました。目的の場所に到着と思いそちらに歩いて行きました。
到着した梅林で咲いていた梅です。
白梅です。神社の拝殿を背景にしています。
神社の拝殿と神殿です。
拝殿前に回りました。鳥居から続く参道です。両脇にも梅の花が咲いています。
参道脇のしだれうめです。
神社の狛犬です。屋根をつけてもらっています。
再び梅林を見てからここを後にする事にします。
この時点では、ここがてっきり綱敷天満宮だと思っています。そのわりには牛を見かけていないのに気がついていません。
梅が咲いていた神社を出てから、海を見ようとそれらしい方向に歩いて行きました。海岸の松林のようなところに到着すると、そこに綱敷天満宮への矢印が書かれていました。やってきたのと別の方向でした。となると、今の神社は何だったのということになりますが、帰ってから調べることにしました。
書かれているとおりに進むと大きな鳥居が見えてきました。
拝殿です。向拝は唐破風の上に二段の千鳥破風が設けられています。
天満宮の梅の花です。梅の木じたいがそれほどありません。
もう一つ別の鳥居です。
境内をどう歩いたかはわかっていません。梅の花は見つけられず、あきらめて海岸に出ています。ここにあったのが衣干岩です。菅原道真が太宰府に行く途中、この沖合で嵐に遭い、やっとの事でこの海岸にたどり着いたそうです。その時に濡れた衣服をこの岩にかけて干したのだそうです。
海岸から見える石鎚山です。
剣山方面です。剣山は見えているのかな。左端の山の向こう側でした。
ここから、バスの通る道にまっすぐ行きます。途中に梅林がありました。ところがバスの時刻が迫っています。ここはパスするしかありません。
網敷天満神社からバス道に出てバス停を探します。反対行きのバス停は見つけたのですが、肝心な方向のバス停が近くには見当たりません。探し回っていると、バスがやってきて通り過ぎてしまいました。その先の信号で止められたので、追いついて聞いたのですが、乗せてくれずにいってしまいました。
次のバスは1時間後です。待っているより歩いた方が早く着きそうなので、歩いて行くことにしました。今日一日無駄にたくさん歩いています。
この文章を書いているとき(2022年)に調べ直していると、もう一つ別経路で、天満宮の近くを通る路線がありました。当時これはなかったのか、見つけられなかったのかどちらなのでしょう。どうして駅の案内所でつかむことができなかったのでしょうか。
何とか宿にたどり着くことができました。ここからは四国山地がよく見えます。東側から、石鎚山です。夕陽が当たっています。
瓶が森から西黒森山です。ここも夕陽に照らされています。
さらに東側、剣山方面です。この感じだともう日は沈んでいるようです。ビーナスラインが見えます。
これだけ天気がよかったのに星を見なかったようです。次の写真は朝焼けになっています。記録では新居浜方面となっています。あっているのかな。
10分後の石鎚山です。陽が当たり始めています。この頃には外に出て歩き始めているようです。
しばらくすると陽が昇ってくるのが見えました。場所は四国中央市の海岸沿いの山地にある豊受山と鋸山の間の尾根あたりになります。
5分後です。だいぶ高く上がってきています。この間に少し移動しています。
山を降りる途中でみたホオジロです。
休暇村の本館のある山の上から降りてきて海岸にでています、このあたりには休暇村のキャンプ場があります。この海岸に沿って北側に歩いて行くことにしました。
海岸から遠くを通る船の形が何か変です。船の元々の形ははっきりしませんが、なんとなく、水平線と船との間に隙間があるように見えます。蜃気楼なのでしょう。
この船は、操舵室あたりが海面のすぐ上で逆さまになって映っているように見えます。
海岸の草をみると霜が降りていました。急激に冷え込んだのでしょう。
石風呂というのがありました。ここではどういうものかわかりませんでした。サウナのようなもののようです。
民家が並んでいるところまででました。ここから引き返しています。ここまで来る間に逆向きに立入禁止と書いた看板を乗り越えてきています。これは、気にせずに通りぬけました。でないと宿にもどれません。
キャンプ場からは海岸にでています。北側には浜から海に向かって岩場がつきだしています。岩の右上が平市島です。
南端のいけるところまでいってみます。先端は大崎鼻です。首を伸ばした亀のような形の岩が斜面に乗っかっています。
裏側には、似たようなカーブの窪みもあります。
大崎鼻から少し引き返したところから山に登っていく道があります。この道を進んでいくと宿舎に戻れるようなので登っていきました。
途中に龍神社と書かれた分岐があります。そこを進んで行くとお社の裏手にでます。正面側にまわって見たお社です。弊が下げられているのでお社と思っただけです。なければ何だと思ったのでしょうか。向拝っぽい庇はありますが。
龍神社は大岩大明神とセットになっています。もう一つあるとみてさらに進んで行きます。正面につきだした岩が見えます。ここにも御幣がありますから、これが大岩大明神なのでしょう。桜井海岸の漁業繁栄を見守っているとか。
大岩大明神の近くまで行ってみました。つきだした岩の下に、岩で守られるように祠があります。ウォーキングマップの説明によると、これが龍神社で、海の安全を守るために祀られているそうです。
この近くでは岩がごろごろしています。花こう岩地帯では、風化で残された大きな岩がむき出しになることが多いようです。
南側に干潟が見えます。棒のようなものがたくさん立っています。立て干し網というのがあるそうです。満潮の時に岸に寄せてきた魚を沖に逃がさないようにして集め手づかみで捕まえるそうです。麓の西条市では市民総出でイベントをやっているようです。
本館前に戻りました。ここには水仙の花が咲いていました。
部屋に戻ってみた瀬戸内海です。大島と伯方島が見えています。
昨日は歩きすぎたこともあり、宿から駅まで送ってもらいました。他のに一緒になった旅行者はいませんでした。送り先は壬生川駅です。宿の人はへんぴなところと言っていましたが、駅まで行けるのならそれでじゅうぶんです。
壬生川駅から伊予西条駅まで移動します。駅に着いて観光案内を見ていると、この地域には「うちぬき」というのがあるということが書かれていました。何事かわからなかったのですが、なにか気になります。パンフレット「わく湧くMAP」にうちぬきを巡るコースが書かれています。これを参考にぐるっと回ってみることにしました。
駅前の道を西に進んでいくと、文化会館がありその川沿いに「うちぬき(水飲み場)」があると書かれています。そこには、水が湧き出しているところがありました。
水飲み場の前から川の上流側を見たところです。
川の中にはたくさんの鯉がいます。水がきれいなので泳いでいる様子がよく見えます。
コイの写真を続けます。
ニシキゴイも普通のコイに混じって泳いでいます。
小さな魚もたくさんいます。黒っぽいのは魚の影で、川底よりちょっと明るいのが魚です。パンフには、ギンブナ、オイカワ、カワムツ、ヌマチチブがいると書かれています。としたらこれはカワムツかな。
西条水めぐりマップをみると、文化会館前から西条高校までの新町川をアクアトピア水系と呼んでいるようです。この川に沿って下っていきます。
文化会館から水舞台(親水公園)を過ぎたところにある橋の上から見た新町川です。水がきれいです、キショウブの花が咲いているのが見えます。左側から奧にある橋を通って川沿いに歩いて行く遊歩道があるようです。これに沿ってくだっていきます。
川の中に生えている水草です。
魚もたくさんいます。水がきれいなので、空を飛んでいるように見えます。
ちょっと小さな魚が並んで泳いでいます。オイカワかギンブナかよくわかりません。
これも小さな魚、スリムなのでカワムツと思っています。
ギンブナかな。手前に影だけが写っている細長い魚もいます。
波がたったときに、川底にできる光の模様もきれいです。
ときめき水都市まで下ってきました。ここの広場にあるうちぬきです。
打ち抜きというのは、被圧地下水が地表から吹きだした自噴泉のことのようです。
西条高校を通り過ぎてから、そのまままっすぐ河口近くまで行きます。幅が広くなった川にせり出すように道がつけられ、その先に小屋のようなものが建てられています。なにかをお祀りしているようで、石灯籠や千羽鶴も見えます。このあたりに弘法水というのがあるというのでのぞいてみました。
ここにも自噴泉がありました。川というか海面というかそういうところよりも高いところに吹きだしています。これが弘法水のようです。
弘法水という名前の由来は、弘法大師が杖をついたら吹き出しとか。横のこのお方が弘法大師なのでしょう。杖を持っています。
弘法水からの帰りがけに見かけた大塚神社です。奥まったところにあるはずなのでどうしてこの前を通ったのでしょう。
西条高校まで戻ってきました。入口にある門は西条陣屋で使われていた大手門だったそうです。
西条高校から脇にある郷土博物館への入口にある門です。三棟門かな。
ここの郷土博物館には、地元の市之川鉱山で産出した輝安鉱が展示されています。大きな輝安鉱が産出するので有名だったのですが、肝心の標本はほとんどが国外に流出してしまって、国内にはあまり残っていません。
ここのものは一見の価値がありそうです。そのわりには素通りしています。
打ち抜き広場のうちぬきです。勢いよく噴き上がっています。
光明寺山門です。コースに入っていましたが、ここにどういう意味があったのかは不明です。
西条の駅まで戻ってきました。駅前には鉄道歴史パークといった鉄津関連の施設があります。新幹線を作った人がここの出身だとかで作られているようです。詳しいことは忘れてしまっています、次に行く予定の新居浜へはもうそろそろ出発しないといけません。見学をせずに、伊予西条を出発しています。
新居浜に向かいました。ここので目的地は別子銅山です。マイントピア別子というところで関連施設が見られるようです。駅からバスで20分のところにあります。
マイントピア別子は選鉱場の跡地にあるレンガ造りの建物です。当時のものそのままなのか復元したものなのかは、不明です。中は土産物屋さんなのでパスです。ここから坑道が見学できるということなのでいってみました。マイントピア別子の建物の横から観光トロッコで行くということですが、途中の景色も見たいので歩いて行きました。端出場坑道の入口です。
この橋の上から見た川のようすです。
坑内の写真を撮っていません。鉱山のようなものがなかったからでしょう。実際の採掘場は、ここから4kmほど山に入ったところにあります。
外に出てからレンガ水路というものを写しています。鉱山からの廃水を流すためのものです。さらに下流にある所で浄化していたそうです。
観光トロッコが通る鉄橋です。打除鉄橋(ピントラス橋)といって珍しい形のものだそうです。
第四通洞の入口です。4kmほど離れたところの鉱脈まで続くトンネルです。
鉱脈は山の高いところから掘り始めて、だんだん地下深くまで掘り下げられています。いったん山の上まであげて、そこから山道を下ろしてくるよりは、まっすぐなトンネルがあった方が便利だったようです。
第四通洞入口の正面に続く鉄橋です。ここを鉱石を積んだトロッコが走っていたようです。とすると先ほどの端出場坑道は何だったのだろう。
泉寿亭です。鉱山会社が接待用に作ったものだそうです。ここに玄関と客室の一部を移築しています。
マイントピアの駐車場まで戻ってきています。ここまで来たわりにはなにか物足りません。思ったほど鉱山関係の施設がみられていません。別子銅山は、もう一つ東平というところにも関連施設があるようです。駐車場から、そこに行くバスがあるようですが、いけていません。時間が合わなかったのか、行った日は休みだったのかはっきりしません。
帰りのバスまではまだ時間があります。道を下っていった山根というところに煙突山というのがあるようです。山根からバスに乗って帰ることもできますから、こちら側の場が出る時刻だけ確認して山を降りることにしました。その時刻くらいにバス停に着いていればいいでしょう。
駐車場の横を流れている国領川です。
対岸にレンガ造りの建物が見えます。水力発電所として使われていた建物だそうです。
高いところに鉱石運搬車のようなものとトロッコ軌道のトンネルのようなものが見えます。
道路に沿って下っていきます。対岸の少し高いところに、軌道敷の跡のようなものが見えます。先にはトンネルがあります。
このあたりの国領川です。三波川変成岩が露出しています。
山の斜面になにかの遺物が見えます。まっすぐ下っていますから、発電用水路の跡なのでしょうか。この場所はどこなのかはっきりしません。わかっているのは松山自動車道をくぐるあたりということくらいです。
別子銅山記念館が見えてきました。鉱山関係の展示がたくさんあるようです。時間があればと言うことにしておきます。
ついたところは、別子銅山でとれた鉱石を製錬する施設があったところです。メインの施設は銅山記念館のある所かな。銅山記念館に入るには、道路から神社の石段を上がっていきます。この神社が大山積神社です。天照大神の兄にあたる大山積の神を祀っています。大三島にあった大山祇神社と同じです。大山積神社は、鉱山の安全祈願で設けられていることが多いようです。
大山積神社の境内に、鉱山鉄道で使われていたと思われる蒸気機関車が置かれていました。
大山積神社の拝殿です。
大山積神社の下にある山根グランドからえんとつ山の煙突が見えます。
精錬所が稼働し始めると、そこから排出される煙が問題となってきました。亜硫酸ガスを大量に含んでいて周辺の植物を枯らしてしまいます。煙を少しでも高いところから逃がして周囲に影響がないようにしようと、煙を山の上まで誘導して、頂上にある煙突から排出しました。これがえんとつ山の煙突です。
マイントピア側に少し戻ったところからえんとつ山に登る道があります。上がっていると煙道跡と書かれた矢印の形をした看板があります。それが示している場所です。溝のようなところに煙を誘導するものが置かれていたのでしょうか。
えんとつに到着です。レンガ造りの煙突です。レンガは風化してもろもろになっています。
ここから眺める新居浜市街です。奥に見える港から製錬された銅が運び出されていました。
山道をさらに登ったところに大山積神社の奥宮がありました。
ここから見えるえんとつ山の煙突です。
山を降りたら、バスがやってきそうな時間になっていたので山根橋のたもとにあるバス停に向かい、そこからバスなどを乗りついて大阪まで帰ることにします。
バス停についたところから見たえんとつ山の煙突です。
新居浜を最後にして、大阪まで帰ってきました。で終わるはずなのですが、この部分はどうしたのかが全くわかっていません。
新居浜の山根公園でえんとつ山を写した時刻ははっきりしています。その後、バスに乗車した時刻もこれからだいたいの見当はつきます。現在(2022年)のバス時刻と同じとおもわれます。新居浜駅に着いた時刻も見当がつきます。
問題となるのはその後です。青春18切符を入手して使っていたのかと思っていたのですが、現在の時刻表を使って列車を調べてみると、明石までしか帰ってくることができません。大阪まで戻れないのです。
新居浜から乗りついで大阪まで帰ってくることのできる列車には、ほとんどタッチの差で乗ることができません。バスが15分ほど早ければ何とかなったでしょう。あるいは列車が遅くてもいいでしょう。最近終電が早くなる傾向があります。そういったいろいろなことが積み重なって本当は帰れていたのだというのでもなさそうです。
忘れているだけなのかも知れませんが、四国島内を列車を乗り継いだという記憶はありません。
どこかの区間で、特急や新幹線を利用すれば余裕で帰ってくることができます。それなら青春18切符が使う意味がなくなります。もっともこの切符を使っていたのかどうかははっきりしていません。少なくとも四国島内の特急に乗った記憶は後にも先にもありません。この選択肢はなかったように思います。
旅行記を書いているときに、バスの時刻を確認していると、今治−大阪間の直通バスがあるのに気がつきました。このバスの主な停車場所をみると、伊予西条駅、新居浜駅、三島川之江インターになっています。
このうち、三島川之江インターはなにか懐かしい感じがしてきました。といって車で旅行していても使うことないでしょう。ここへの交通機関を調べていたような気がしてきました。結論としてみつからはなかったように記憶しています。
はじめの予定では、できるだけ大阪に近いところまでいこうとしていました。まずそういうことはなかったのですが、新居浜もだいたい見終わって、次の伊予三島か川之江まで行ったときのアクセスを考えていたようです。
ということからすると、帰りはこのバスを使ったということが候補になってきました。現在のバス時刻からみると、最終バスには間に合いません。運休と書かれている便がその後にありますし。さらにこれも現在運休になっていますが夜行便もあるようです。これでじゅうぶん帰れたと思われます。乗ったという記憶はありませんが、他の交通手段でも似たようなものです。夜のバスなら、途中寝ているだけなので、その間どうしたのかも覚えていないこともありそうです。ただバスがでるまで新居浜で5時間くらい時間をつぶさないといけないことになりますが、何かをしたという記憶もありません。としたら最終便なのかな。
伊予三島か川之江までいっていたらどうしたのかはわかりません。その先の交通手段がないこと、別子銅山からの帰りのバスの時刻のこともあって新居浜で打ち止めになりそうだと見ていたような感じがしてきました。
一番可能性が大きいのは、新居浜駅から大阪まで今治始発の直通バスで帰ってきたというところでしょう。
この年の11月に再び今治からバスで大阪に帰ることになりました。ふつう考えるコースは尾道経由です。瀬戸大橋や淡路島経由だと途中に高速道路がない区間があるからです。にもかかわらずこの時にこちらのコースが候補として浮かんできたのは、ここで利用したということが念頭にあったのかも知れません。
バスで帰ったとなると別の疑問がでてきます。JRの乗車券はどうしたのでしょうか。三原−竹原間もそうですが、壬生川−新居浜間は途中下車が可能な距離ではありませんし、青春18切符を使うほどの距離でもありません。。
三原−竹原間についていえば、三原到着時刻からみて青春18切符を使っていないようです。この場合は、竹原までの乗車券を購入していれば三原や安芸幸崎での途中下車は可能です。竹原まで行くことははじめから決まっていましたからこの方法を使ったのでしょう。最後に乗った竹原−忠海間は引き返すことになりますから別途乗車券を購入しなければなりません。
新幹線の特急券は金券ショップで買った可能性があります。この特急券に普通乗車券がセットになっていればこの手も使えなくなります。金券ショップでは回数券のばら売りですから、特急券とセットの場合は行き先が同じになります。当時はどうなっていたのでしょう。今は、この回数券もなくなったようです。
少なくともいえるのは、安芸幸崎で途中下車することは三原についてから決まったことです。この時に途中下車が可能だったということも判断の基準に入っていたような気がします。
3日目について考えてみます。壬生川から大阪まで直通の乗車券を購入していれば、伊予西条や新居浜で途中下車は可能です。青春18切符でもそうです。でもバスで帰ってきたとなると、この方法は使えません。新居浜が最終乗車駅の場合、いったん伊予西条で下車するのなら、伊予西条までと伊予西条からそれぞれ乗車券を乗車駅で購入する必要があります。
あまり乗車券を購入したという記憶がありません。この回避手段として、もう一つあります。あまり使ったことはないのですぐにはぴんとこなかったのですが、最近では当たり前になっている方法です。それはICカード乗車券を使うという方法です。一応JR西日本のカードは持っていました。
問題なのは当時それほど普及していなくて、相互に利用できる鉄道は限られていたし、一部の駅では使えないところもありました。この時のJR四国はどうだったのかは不明です。これが使えていれば駅で乗車券を買ったという記憶がないことも説明できそうです。
鉄道の乗り降りにICカード乗車券を使ったということはじゅうぶんにありそうです。
3日目に、山根公園のえんとつ山に行っています。これは、はじめから行動の選択肢として入っていたような気がします。そう思うのは、えんとつ山の近くのバス停がどこにあるのかわかったていたからです。マイントピアからどこをどう歩いていけばいいのかというのもわかっていました。
しかも、向こうで入手した資料の中にはえんとつ山について詳しく書かれたものも残っていません。これでは、現地でいきなりえんとつ山に行こうということにはなりそうもありません。
このあたりはかなり計画的なところがあります。あらかじめバスの時刻や降りるところといったものをしっかりと調べています。似たようなことは、他のところでも見られます。盛港から一番近いバス停までのルートとそこの時刻といったところもそうです。
時刻とかは全て覚えきれないので、どこかにメモをとっていたものと思われます。残念ながらそれは残っていません。あれば、行程の細かいところなどは詳細にわかったでしょう。ちょっと残念です。
綱敷天満宮から休暇村までバスに乗せてもらえず歩いたことは予定外だった(天満宮に行くこと自体予定外だした)にしても、最悪の場合、たくさん歩かないといけないことがありうるということは意識していたのでしょう。だとすると、できるだけ荷物は少なくしようということは考えたのかも知れません。星用のポータブル赤道儀はもちろん三脚も持ち歩かなかった可能性もあります。それなら、星見にでなかった(写真を撮らなかった)ということもありそうです。
全体的にむだに歩きすぎたかなという印象はあります。大三島盛港からはタクシーを呼んで大山祇神社まで行くのが正解だったような気がします。ここからのバスはたたらの里を通っていますし、同じバスにはじゅうぶん乗れたでしょう。タクシーは大久野島で予約してくれることになっています。相乗り可として頼んでいれば、ひょっとして割り勘で乗れた可能性もあります。これで歩かないといけないかも知れない距離が格段に少なくなって、三脚持参ということもできたのかも知れません。
別子銅山端出場ほ期待したものではありませんでした。東平はどうなのかということで再度チャレンジしています。この年の11月25日から、パッケージツアーでの参加になります。その時の記録は投稿済みです。
こちらから参照してください。