2015/3/15-20 南四国春の気配
もう厳しい寒さも終わった頃です。ちょっと暖かいところに出かけてみようかということで、南四国に出かけることにしました。車で四国へ行くには、宝塚の渋滞の名所を通ります。混まないうちに早めに出発です。10時前には四国に渡ることができました。
最初の目的地は、鳴門市大麻。ここには四国八十八カ所巡りの一番札所の霊山寺がありますが、そこではなく大麻比古神社にみたいものがあります。とりあえず、道の駅「第九の里」に寄ります。
道の駅に寄るのは情報収集のためです。ところが、収穫はありませんでした。どちらかというと二つの展示施設の間に設けられた農産物販売所といった感じです。興味を引くのは、道の駅の建物は、第一次大戦時代のドイツ兵捕虜収容所の建物を移築したものだということです。
近くの公園で桜の花が満開でした。蜂須賀桜という品種だそうです。近くには、何カ所か同じ品種と思われる桜をみました。
そこから、大麻比古神社まで歩くことにします。途中たくさんの人が歩いて来るのに出会います。聞くとツーデーマーチだそうです。
大麻比古神社は、阿波一の宮で、香川県内では一番大きな神社だそうです。
右側の狛犬は、ヘルメットをかぶったような頭でした。阿形というほど大きく口を開けていません。前足の付き方も土下座する前の手の着き方のようです。
神社のご神木です。立派な楠木で、樹高22mで、高さ3mほどのところから太い枝数本に分かれています。中心の幹は中が空洞になり、枯れた後いくつかの枝が幹のように太くなって残った感じです。樹齢は千余年だそうです。
大麻比古神社に来た目的を探すことにします。
ドイツ橋という石組でできた橋です。ドイツ兵捕虜が帰国するときに、作ったものだそうです。付近にある砂岩を加工して作っています。かなり硬い岩石で、加工に使われる石ではありません。道具とかをどのように調達したのか不思議です。
めがね橋です。心願の鏡池という池にかかっています。池にかかっているとは思わなかったので、探すのに苦労しました。構造は、半円形でない点で、ドイツ橋とはだいぶ違っています。
石橋は九州にたくさんあります。代表的なものは長崎のめがね橋です。九州に多いのは、加工に適した石があったことがその原因です。それに対して、この地にあるのは、ドイツ兵捕虜が作ろうとしたことが、大きな原因と思われます。
めがね橋を探すのに歩き回ったのと、梅林まで足を運んだり、戻るのに回り道をさせられたりとかで結構時間を使ってしまいました。
鳴門市大麻の次は、鳴門市街地のはずれにある妙見山に向かうことにします。途中雨がぱらついます。あまりひどくならなければいいのですが..。家を出てしばらくしてから傘を忘れたことに気がつきました。予備の折りたたみ傘はあるのですが、持ち歩きにくいので、途中で買うことにします。
妙見山に近づくと、山の頂に城のようなものが見えます。何なんでしょうか。このまま車を山頂近くの駐車場まで走らせます。
駐車場近くの公園では桜が咲いていました。河津桜という品種だそうです。近くに彫刻もおいてありました。一緒のを載せたい載せたいのですが、著作権が絡むかも知れないので、避けて花だけにします。
駐車場から山頂に向かうと、妙見神社がありました。戦国時代に作られた撫養城(別名:岡崎城)の跡地に作られています。神社信仰そのものはもっと古い時代からあったそうです。城跡そのものはわずかに石垣が残る程度です。境内には陶製の狛犬がいます。
横の展望所か休憩所のような建物の天井板に絵や字が描かれていました。消えかかっています。店の広告のようなものが多いのですが、バイオリンの絵が一つあったのが気になりました。何なんでしょうか。
神社の先に、城のような建築物があったのですが、工事のため立ち入り禁止になっていました。どこかに入口がないか探したのですが見当たりません。獣道のようなところ通って(同じように探し回った人がいるのだなと感心)結局立ち入り禁止区内にたどり着いてしまいました。そこでわかったのはこの建物は、廃館になった鳥居記念博物館であることです。よく見ると、窓は奇妙な形をしています。石垣もよく磨いた結晶片岩を使っています。城にしてはきれいすぎます。
ここに来た目的は、山麓にある恵比寿神社にあります。神社には車を止められそうなところがなかったので、山頂近くにとめ、山頂付近をみてから、ここへ来ようと考えていました。
恵比寿神社の境内には神依岩があります。岩の割れ目に放射線が飛び交い、いろいろなことに御利益があるそうです。どうすればいいのか説明はありません。見た感じは大きな岩が二つに割れて、埋まっているようです。花崗岩なら放射線が多いこともあるのですが、砂岩でした。放射線とか御利益とかはよくわかりませんでした。
ここまでの話では、計画を立てて動いているようですが、ここから先は、何も興味を引くものを見つけられなかったので、どちらかというと行き当たりばったりになります。基本的には、道の駅で観光情報を収集してそこからどこうするかという感じです。
とりあえず、雨がひどくなりそうなので、市街地のスーパーで傘を買うことにします。
今晩の宿は室戸岬に取ってあります。鳴門から特にどこかに寄ってみようとか、何を見ようという予定はありません。
最初に通過するのは、徳島市。城と眉山が魅力ですが、城は城跡だけ、眉山も最近いったところだしでスルーすることにします。市中心部を走った分時間をとりました。
南下を続けます。小松島市・阿南市ともなにもなさそうです。阿南市街地をを抜けた先で、目的地が左折・直進と二つ書かれています。どちらに進んでいいかわかりません。後続はトラックなのでもたもたできません。仕方なくそのまま走っていると、左折専用レーンに入ってしまいました。後続の車に囲まれたので仕方なくそのまま左折。ほとんどの車は直進します。もうちょっとわかりやすい標識がほしいです。直進は未完成のバイパスで、こちらの方がわずかに早かったようです。再び合流した様子もなく、今度は、日和佐道路の標識があります。無料と書かれているのでこちらを走ることにします。この道路、結構単調です。眠たくなってきました。この先で休憩を取ることにします。
着いたのが日和佐。道の駅があります。情報も収集ことにします。斜め前に立派なお寺があります、23番札所の薬王寺です。もう一つ山の上にお城のようなものが見えます。こちらの方に行ってみることにします。
日和佐城と書かれた建物に到着。結構新しそうです。前に、城山神社という小さな社があるので、昔の城跡に建てられているのは間違いがなさそうです。城の中は展示室と展望室があります。展望室からの見晴は良さそうなのですが、雨模様のため、視界は今ひとつです。早々に退散します。
この先、変わった岩とか化石漣痕とかありますが、これも最近行ったのでパスしました。その後、何も見るものはなく室戸市に入ります。
途中夫婦岩の案内があります。まだ少し時間がありそうなので寄ってみることにします。いくつかの岩がそびえています。そのうちの二つにしめ縄が渡してあります。これが夫婦岩なのでしょう。岩質は確認できませんが砂岩のようです。近くの岩には貫入岩のようなものもあります。虫食い状の穴(タフォニというそうです)が見られます。これのできやすい岩質とできにくい岩質があるようです。
もう薄暗くなってきたので、宿に向かうことにします。天気は雨、星は見ずにゆっくり休みます。
朝の散歩は、海岸と山のお寺にします。
室戸岬周辺は、世界ジオパークに認定されています。地学的に興味深い現象が見られます。前回来たときよりも遊歩道や、解説も整備されています。
遊歩道沿いの野生化したサボテンです。大きく成長して、中心部は幹の様になっています。暖かいとこんなにも成長するものですね。驚きです。
岩にくっついた白いものは数千年前のヤッコカンザシの殻です。海中に住む生物の遺骸が、海面より高いところにあるのは、ここが隆起しているからです。遊歩道面より少し上の高さと3mくらい上にもあります。少なくとも、大きく2回隆起したことがわかります。
エボシ岩です。烏帽子の形に似ているのでこの名前がつけられたようです。わかりやすい。近くのビシャゴ岩同様、室戸岬にだけあるハンレイ岩でできた岩です。浸食に強く残されたのでしょうか。いくつかの大きな岩が、並んでいます。
御蔵戸です。道路の横に二つの海食洞があります。写っているのは神明窟、左の木の陰に御厨人窟があります。弘法大師が修行をしたのだそうです。
海食洞なので昔はここは海面の高さだったといえます。ここまで隆起しました。海面の高さを示すものでは一番高いところにあります。
弘法大師行水の池です。ずいぶん汚い水です。海食台の窪地に水がたまったものです。これも、ここが海面の高さにあったときにできたものです。もう一段低いところにも、同じような感じの池があります。
室戸岬は、何回も(地震の度に)隆起を繰り返していたことがわかります。現在問題になっている南海地震の様なものではなく、千年単位で起こるもっと大規模な地震があるのかも知れません。
今度は、道を少し引き返したところから、最御崎寺に昇ることにします。登り口にはへんろみちの道標があります。最御崎寺は24番札所、23番札所の薬王寺から70km以上あります。この間はものすごく長くなっています。
登り切ったところにある、最御崎寺です。写真は山門から本堂の方を写していいます。朝早いので、人は少ないのですが、それでもすでに参拝者がいます。23番までは長いですね。気をつけて行ってください。
境内の林の下には、ヤッコソウの群落があるとか。いまはやっと芽を出しているものがあります。たぶんこれでしょう。薄暗く、何度とっても手ぶれを起こしていて、これ以上のものを撮るのは無理でした(ストロボを炊けばいいのにね)。
最御崎寺から南にあるのが室戸岬灯台です。歩いて来た感じでは海岸から離れているように思えます。展望所から一段低いところにあります。設置場所の高さを優先して選んだらこの場所になったのでしょう。ここから照らされる光はものすごく強力なものだそうです。そういえば、夜中に見えた光線は非常に明るいものでした。
室戸岬の宿には、アロエが大きく育っていました。キダチアロエという位本当に木の様になっています。花が咲いた後が残されているのか、さやの様なものが伸びています。
ウグイスのしっかりとした鳴き声も聞こえてきます。大阪では聞かないので、初鳴きかも知れませんが、このあたりではだいぶ前から鳴いていたようです。のんびり眺めていると、ホオジロがやってきてさえずり始めました。見ていると、地面に降りて何かをついばんだりしています。
あまりゆっくりもしていられないので、出発することにします。最初の目的地は、室戸岬先端部にします。中岡慎太郎の像があるのですが、掲載してよいかどうかわかりませんので、やめておきます。その見ている先の海岸線を少し歩いてみました。岬先端部の西側はハンレイ岩という深成岩で、東側は三千万年ほど前の地層でできています。地層にはきれいな縞模様が見えます。灌頂ヶ浜にある岩に曲がりくねった様な模様が見えます。一目見て海底地滑りが起こった跡だとわかるのですが、ジオパークに指定されていることもあって、解説もきちんと書かれています。
この先から、道路に戻る途中はアコウの林になっています。中にひときわ大きな木があります。このアコウは、岩の上で芽吹いて、そこから岩の表面をなぞる様にいっぱい根を垂らしている点で沖縄などで見るものと雰囲気が違います。
遊歩道は、一通り回ったので、次に行きます。早朝に最御崎寺に行ったときに肝心なものを見落としたので、車で上がり探すことにします。
お寺の駐車場からの参道にジョウビタキがいます。カメラに望遠レンズをつけていたおかげで撮影できました。昨日や早朝の経験から、望遠の必要なものは付け替えている間にどこかに行ってしまうことがあるけれども、標準レンズが必要なものはどこにも行かないので、特に何もない限りは、望遠レンズを着けたほうが、撮影のチャンスは広がると考えていました。
見落としたものは、意外と門から本堂に向かう道の横にありました。こんなところにあるものを見落としているなんて..。鐘石です。小石がいっぱい乗せてあり、それでたたくと、よく響いた音がします。細粒の火成岩で、均質なため響きやすいことは考えられますが、それにしても響きすぎです。石を支えている場所が関係しているかもしれません。表面に、へこんでいるところがいっぱいあるのは、同じところばかり、たたかれ続けすり減ったためでしょう。
見たいものを見つけたので、次に進みます。室戸半島の西側を北上します。走っている途中に、道の駅と資料館の様な施設があります。残念なことに休館日だそうです。月曜日はこのようなことがよく起こります。結局、何も情報を入手できませんでした。地図を確認すると少し戻ったところに、石垣集落があるというので、行ってみることにします。
新村の石垣集落です。道路に面して石垣で塀ができています。斜面を補強するためではなく、台風の風よけと思われます。石そのものは、大きな四角形の切石で、比較的新しいものの様に思われます。石垣よりブロック塀の方が多い様に見えます。
新村に入るために車を止めたところから海岸を見るときれいな地層が見え、遊歩道もついています。説明を見ると、ジオパークの見学コースの一つで地層形成時の海底の様子が見られるとか。ついでに見学することにします。遊歩道にはメジロがいました。
地層は、砂岩泥岩の互層で海の方に向かってのびています。傾斜は、駐車場付近をのぞいて、ほぼ直立しています。所々に砂岩の岩脈があります(写真白い筋)。地下深くの砂が、地震の液状化現象で流れるように突き上がってきてできます。
遊歩道の突き当たりからは、地層のすき間に挟まれたような場所に降りていくことができます。そこから南を向いて、地層面(層理面)がでている面を見ると、地層の上面が見え、漣痕ができているのが見えます。形が列になって並んでいるのではなく、舌状なのが特長です。何枚かの面にできています。
後ろ側に振り返り北を向くと、今度は地層の下面が見られます。ここにも不思議な模様が見られます。解説によると二枚貝が這った跡だそうです。このようなものは生痕化石といいます。生痕化石は地層の上面にできることもあります。
解説には触れられていなかったのですが、水流で運ばれる石が海底をひっかいて作った傷や、流れにできた渦が海底を削って作ったへこみが見えます。実際には下から見ていることになるので膨らんでいる様に見えます。このようなものは流痕といいます。
見ていると切りがないので次に進むことにします。
もう少し進むと、吉良川という町に着きます。ここの町並みも、ジオパークの見学コースになっています。寄っていくことにします。
町の建物の特徴は、雨に対する対策として壁が土佐漆喰で塗られていることと、壁を塗らさない様に、壁に瓦の庇の様な「水切り瓦」が設けられていることです。写真の建物は、水切り瓦は少ないのですが、二回の天井が低く屋根裏が高くなる構造で作られているようです。
別の建物には、不思議な模様の鬼瓦があって、その上でイソヒヨドリがきれいな声でさえずっていました。他の方向からも鳴き声が聞こえてきましたので、何羽かいたようです。他の鳥では、ジョウビタキを町中で見ました。
この町並みのもう一つの特徴は高台にある家に見られるそうです。こちら側では、雨より風の方が問題になるようで、新村で見たように家の周りを石垣で囲って風よけにしています。違うのはラグビーボール型の石を2列(内側と外側)に並べて積み上げています。
積み上げられる石にはもう一つのタイプがあります。ラグビーボール型の石を半分に割って割れ口を外側に向くようにしたものです。どちらも、「いしぐろ」というそうですが、通りかかったおばあさんは単に「ぐろ」といっていました。
他にも、まちなみ館とか御田八幡宮とかありますが、記事が長くなっているのでここまでにします。
室戸市の隣は奈半利町です。第三セクターの鉄道がここまでやってきています。駅で情報を得ようとしたのですが、案内地図の載った看板があるだけです。記憶しきれないのでパスすることにしました。家に戻って持って帰った資料を整理すると、出発前にパソコンで調べた町の地図がありました。
奈半利から二つほど町を通り抜け、安芸市に入ります。市街地の手前に、水流が作ったという洞窟があります。伊尾木洞です。国道を走っていたら、右、伊尾木洞と標識があります。曲がろうとすると、車の通れない狭い道です。後ろからトラックが来ていますので、近くのスーパーの駐車場に待避します。旧道が前を通っているようなのでそこを走ってみましたが、道は狭く車は止めることができません。駐車禁止ではないようなので、やむなく国道に路上駐車します。後でわかったことですが、公民館かコンビニの駐車場を利用できたようです。
一目見た感じでは、普通の水路の出口のようです。天然であるのは不思議です。詳しいことは、本家:「ヨッシンと地学の散歩」で解説することにします。この先ずっと奥の方が崩落したのか、工事に入っています。ちょうど昼休み休憩のようで誰もいません。中に入りました。工事のため道が作られていて、水の流れている中を歩かないですみました。洞窟は50mほどの長さで奥ほど高くなっています。
抜けた先は両側が切り立った崖で、そこにシダ植物がいっぱい生えています。薄暗くて湿気ている、そしてたぶん気温変化が少ないため、シダ植物の生育には適していたのでしょう。天然記念物になっています。残念なことに工事車両が通せんぼをしていて先に進むことはできません。車のことが気になるので早々に退散します。貝の化石があるというのは見落としていました。
安芸市には、野良時計というものがあって、ツアーに組み込まれるほどの観光名所になっています。他にも武家屋敷通りや、安芸城趾があります。寄り道をすることにします。
野良時計は、土居というところにあって、農作業の時に時刻を知らせるために作られたそうです。この付近の見学ように作られた駐車場には、「こいのぼり」の歌碑があります。童謡の作曲家広田龍太郎が安芸市出身で市内の何カ所かに歌碑があるようです。歌詞の掲載は大丈夫ですが、歌碑のデザインに著作権が関係しそうなので掲載しないことにします。
野良時計です。周りの建物に埋もれていて、遠くから見通せそうもないのですが、昔は活躍したのでしょう。時計は止まっているようです。
北に進むと、武家屋敷町にでます。「土居郭中(かちゅう)」というそうです。手前の建物は、上流家臣の屋敷で、一般公開されています。槍が備えてあったり、建物に武家屋敷らしい工夫がなされています。
土居郭中のもう一つの特徴は、生け垣にあります。土用竹というそうですが、竹を押さえて広がらないようにしています。建物の周りには、河原を積み上げて作った瓦塀になっているところもあります。
この先で、進路を東に変え進むと安芸城趾の入口につきます。
堀に架かる橋を渡って、門跡(大手門?)の枡形を抜け城域内に入ります。中には、歴史民俗資料館や書道美術館がありますが、あいにく休館日です。他に、土佐藩家老を務めた五藤家の住宅や、毒井戸跡、城主を祀った藤崎神社そして城山があります。
登り口の広場に、シロバナタンポポが咲いていました。関西にしかない種類です。それも限られています。見るのはかなり久しぶりです。
この時点で昼をかなり回っています。予定より時間が遅くなっているようです。次に行くことにします。
安芸市には、岩崎弥太郎生家などもあります。時間も遅くなっているので、今回はスルーします。駅前の「ぢばさん市場」に寄ってから次に行くことにします。
ぢばさん市場に着いたのは昼食時はすでに終わっている時間です。ケーキドーナッツを売っていたので食べながら走ることにします。昼食をしっかり摂ると眠たくなるので、運転時は控えています。これでじゅうぶんです。昨日は、ミカンだけでした。
安芸市から、高知市の方に向かいます。遅くなったので、あと2カ所くらいしか寄ることができません。ひとつは高知城として、有名どころでは龍河洞か桂浜のどちらかになります。とにかく走って行って、行き先案内が先に出た方に行くことにします。結果は、桂浜でした。国道から左折します。空港を過ぎてからしばらく海岸近くを走っているようなの感じです。桂浜に近づいてきたら、山を登り始めます。何かと思ったら、その先に橋がありました。浦戸湾にかかっています。もうすぐ到着です。
駐車場に車を止めてから、浜に行くには、海とは反対方向に歩き、小さな丘を越えないと行くことはできません。途中に坂本龍馬の像があります。その前に海岸に降りる階段があります。
一応しっかりとした浜ですが、それほど大きくもなく、波が強くて、波打ち際にも寄ることはできません。端まで行って戻った後、他に何も見るものはなかったのと、「波にさらわれる危険」といっぱい書いてあるので、離岸流がどこにできているか探してみようとしました。ここかなというところはあるのですが、漂流物がそれほど運ばれている様子はありませんでした。あきらめて戻ります。ここは月の名所として有名なのだそうです。それ以外は....です。ここで見たものに対して駐車料金の400円は割に合いません。
桂浜からは北上して高知市街地に行きます。行き先表示は「はりまや橋」になっています。目的の高知城はその先にあります。赤い欄干のあるはりまや橋を横目に通り抜け、標識に従って高知城に到着です。
高知城の天守にいくために、追手門から鉄門跡を通り、その先にある門に向かおうとしますが、見学者は右に進んでいきます。それもそのはず、これは、ダミーの門だそうで、城に攻め入った敵をこちら側におびき寄せて討ち取ろうという作戦だそうです。まんまと作戦にかかるところでした。この門は、詰門と呼ばれています。
右に進み、二の丸跡から詰門の2階にある橋廊下を通って本丸につきます。ここには天守閣をはじめとしていくつかの建物が残されています。その中で本丸御殿が現存するのは高知城だけだそうです。天守・本丸御殿を見学したあと、裏口のような黒鉄門から戻ります。
途中の塀には矢狭間の他に、横に細長い物見窓も見られます。それと、石垣の上には、排水用の石樋が作られています。物見窓や石樋があるのも高知城だけだそうです。
帰り道は搦め手門の方へ行こうと思っていたのですが、何となく道なりに歩いていると追手門から城外へ出ました。
案内には城山の北側に、化石の含まれる石灰岩が露出しているそうです。ちょっと寄ってみました。化石らしきものは入っているようなのですが、何なのかわかりません。
もうだいぶ遅くなったので、予約している宿に向かうことにします。車のガソリンも少なくなっています。どこかで補給しないといけません。
宿は高知市の西側いの町に取っています。ガソリンスタンドを探しながら、電車道沿いに西へ車を走らせることにします。夕日が正面から射して、非常にまぶしいです。標識を見るのに必死で、ガソリンスタンドを見つける余裕もなくいの町に到着しました。宿は川を渡ってからすぐ左折するのですが、そこは、市場の駐車場のように車がいっぱい止まっています。危うく通り過ぎるところでした。なんとか間違えずに宿に着くことができました。
天気がいいので、今晩は星を見ることにします。暗くならないうちに、見る場所を探しに行きます。駐車場は広くていいのですが、街灯が邪魔になりそうです。横に小高い丘があります。その上はそれほど広くありませんが、見る場所を変えると何とか観測できそうです。駐車場かそこが明るいなら丘の上にします。
夕食を食べてから、星を見ることにします。食事の感想を書くところですが、特にすごいということもなかったのでパスします。
駐車場は街灯が邪魔だったので、結局丘の上へ行きました。まず、西の空を見ます。この時期は、黄道光が見えるはずなのですが見えません。写真に撮ってみてもそれらしいものは写りません。山のようすからするとかなりもやがかかっているようです。写真中央に金星、その下にうお座、左上がくじら座、右側がおひつじ座です。このあたりは暗い星が多く、都会では見ることができませんので、資料と比べないと星座がわかりません。
仕方なく、他の方向の空をみることにします。といっても雲が出始め、オリオン座あたりしか見るところはありません。撮影用の機材をセットしている内にも雲が広がってきています。何とか撮り始めようとしたら、今度はカメラの電池切れです。この前の北海道で換えて以来ですので格好長持ちしています。何枚か試し撮りをして、これからというときに、最後まで晴れていたオリオン座にも雲がやってきました。右下の星の写りが悪く明るくなっているのは雲のせいです。左側の筋は飛行機の軌跡です。
後半の写真の写りが悪いようです。後で調べたら、カメラの絞りが絞り込まれています。電池交換時に絞り値が書き換えられたようです。
この後しばらくの間、雲がどかないかとみていたのですが、どんどん厚くなっていく一方です。あきらめて撤収することにしました。
戻って露天風呂で空を見ると晴れてきているようです。どちらにしてもかなり遅い時刻なので観測は無理です。部屋に戻ったら寝ます。
翌朝は、町まではちょっと遠いので、仁淀川の河原のあたりを散歩することにします。空を見ると月が出ています。もうすぐ新月のようです。近くを飛行機が飛んでいきました。このあたりは定期航空路にあたっているのですね。昨晩もいっぱい写りました。
河原に着いた頃に、山の木々の間から、日が昇ってくるのが見えました。今日もいい天気です。晴天が続いてほしいものです。
その後、日が差し始め、川面や河原の石に反射しきれいでした。川にかかる国道の橋も、スポットライトを浴びたように浮かび上がって見えきれいでした。太陽は見ている間に高く昇り、影もだんだん短くなっていきます。
あとは、ぶらぶらと鳥とか花とか見ながら高台に上がりました。それでもまだ、朝日が横から射す感じになっています。ちょっとしたでこぼこも強調され、河原にできた洪水の流れで堆積した土砂がきれいな模様を作っているのがよくわかります。これから洪水時の流れの様子が推定できます。残念なことに、河原を走った車の轍が、たくさん入っているのは出来損ないの落書きのようで興ざめです。
適当な時刻なったので食事を摂ってしばらく休んでから出発することにします。
今日の予定は、足摺岬方面へ向かいます。清流として四万十川が有名です。寄って見ておきたいところです。伊野の町も和紙で有名です。見ておきたい気持ちもあるのですが、博物館などが開館になるまで時間がありすぎます。次回にします。
どこに行くにしても、ガソリンがなくなりかけています。あと100kmほどしか走らないでしょう。次の大きな町は須崎です。そこまでには何とかしないといけません。と思っていたら、意外とすぐにガソリンスタンドが見つかりました。国道に戻ってすぐの所です。早速入れることにします。値段も驚きです。というのは、四国に入ってから、どこのスタンドでも値段は一緒だったからです。都会田舎、セルフかそうでないかは関係ありません。ここもその値段でした。この感じでは四国全体がそのように思えてきます。
須崎へは、佐川経由で行くことにします。佐川は地学関係では非常に有名なところなのですが、何回か来ていますのでパスします。
佐川をすぎて最初の峠を越えると急に霧が出てきました。地形性のものようです。案の定、次の峠を越えると再び晴れてきました。ものすごく濃い霧でした。
須崎には、カワウソの里とかいうものがありますが、カワウソが見られるわけでもないのでこれもパスします。そのあとは、四万十町窪川まで、どこにも寄るところなくもついてしまいました。
窪川も素通りで、ここで海沿いを行く国道からわかれ、四万十川沿いに走る国道を進みます。四万十川は奇妙な川です。このあたりでは、海まで10kmほどしかないのにこの後、山の方に曲がっていき蛇行しながら、川沿いの道路の長さで測っても100km以上も流れています。
四万十川に沿って下っていくと、河原の低いところに橋が見えます。この付近独特の沈下橋です。川面からそれほど高くないところに橋があるので、流されてしまうため手すりがないのが特徴です。
意外と簡単に見つけられます。川沿いの高いところを道路があるので、木などの障害物が少なく川を見通しやすいのに加えて、道路の左側を川が流れているので川を見やすいためです。
見つけたのは、上宮橋です。橋脚が多いのが特徴です。道路沿いに駐車場がなかったので、行きすぎた先から見ています。河原のこちら側に車を止められそうです。バックして戻り、車を下ろします。
このあたりでは、四万十川は川幅の割には、水量は少なく、ゆっくり流れている感じです。水も透明度が高くきれいです。
次に見つけたのが、向山橋、上岡沈下橋ともいいます。橋脚や橋桁が丸みを帯びています。
沈下橋は、結構よく見えるものです。できるだけ探してみることにします。実際の所は、向弘瀬橋は国道から離れているので無理としても、道路沿いの若井沈下橋を見落としているのですが..。
上宮橋・向山橋ともに橋まで行って、歩いて渡り、四万十川を眺めていたのですが、橋ごとにしていると、時間がかかりすぎます。取り立てて何もなければ道路からの観察にします。
向山橋からは、しばらくの間沈下橋はありません。もうすぐ道の駅「大正」というところで対岸の予土線を列車が走っているのが見えました。有名な、新幹線を模した車両です。こんな所を走っていたのですね。
道の駅「大正」に到着です。石の風車というのが気になります。トイレ休憩をとります。中に、雛飾が飾ってありました。石の風車というのは道路を渡った坂の上の轟公園にあります。風車の形をした石の彫刻でした。大小2基ありますが、どちらも羽根は小さく回りそうにありません。公園の横にはヤイロチョウネイチャーセンターがありますが、鳥を見ようとすると半日はつぶれそうなのでパスします。
道の駅を過ぎてから最初にある沈下橋は里川橋です。旧道沿いにありますので、そちらの方に入っていきます。車1台がやっと通れるくらいの道で狭く、前方に注意を集中しないといけないのと、樹木が生い茂っていて、河原が見えるところはほとんどありません。見つけることはできませんでした。
次が、茅吹手沈下橋です。川が道路から離れていくところにありました。JRのポスターに使われたことのある橋だそうです。絵になるというか、そう言うようなイメージを漂わせています。
第一三島橋です。JRの鉄橋と平行してかかっているのが特徴です。見ているときに、列車が通ったのですが、沈下橋が見えないところにいました。残念。
第一とあるのは、中州をはさんで両側に橋があるからです。向こう側の、第二三島橋が見えるところはありませんでした。
話は変わりますが、四国に入ってから、国道に横向けに数字が書かれています。車を止めたところにもあったので、写真を撮りました。どうも、国道の始点からの距離のようです。
半家沈下橋です。道路が川から離れる手前で撮りました。国道からは離れています。対岸の低いところにあるのがJRの線路、集落は高いところにあります。
中半家沈下橋です。地図では近くに鉄道の橋があるみたいなのですが、向こうに見えるのは街路灯がありますので道路のようです。手前の菜の花を一緒に入れようとしたのですが、花は今ひとつでした。
長間沈下橋です。橋桁が2枚流されたのかなくなっています。修復工事の最中でした。
ここからしばらく走ると、川を渡り、右側に見るようになります。それと、川面からあまり高くないところを走るので、少し探しづらくなります。
岩間沈下橋です。橋脚はH型をしています。このあたりの川は、かなり深くなっています。水量が増えたように見えます。ここまで来る途中で、大きめの支流と合流していました。遊覧できるのでしょうか、川岸に屋形船のような船つながれています。
勝間沈下橋です。最初に見え始めてから、かなりの時間森の中を走ったので、行きすぎたのではと思ったほどです。橋脚に3本の鉄杭が並んでいます。
次にある口屋内沈下橋は見落としたようです。
高瀬沈下橋です。川からは離れていますが、よくわかる看板が目印です。真ん中で行き違いができるよう幅が広くなっているのと、川を渡りきったあたりが一番低くなっています。
この後、三里沈下橋と佐田沈下橋があるのですが、二つとも道路からかなり離れているので、寄らないことにします。
見つけた沈下橋は、全部で10個でした。この先は、河口近くの四万十市中村まで下っていくことになります。
高瀬沈下橋を過ぎてから、国道は四万十川から離れたところを走ります。再び、川と接近するのは四万十市中村の市街地です。ここでは、川はかなり大きな流れとなっています。
次の目的地は、足摺岬にします。中村の町からは左折して、四万十川を左に見ながら走ることになります。川を渡ってから、左足摺岬と書かれている標識がないか注意していると、それらしきものがあります。そこで左折すると、なんと自動車専用道に入ってしまいました。その道はすぐに右に曲がり西へと向かっていきます。変だとは思ったものの、新しい道ができているのかなと考えそのまま走り続けました。その後何も案内はなく、終点へ到着します。明らかに間違いであったことがわかり、再び同じ道を引き返します。
元の国道に戻り、すぐに左折の標識。先ほどの、自動車専用道をくぐって、四万十川の堤防沿いに出ます。四万十川とは河口の手前で分かれ、山の方へと進みます。足摺岬までの距離案内も出ています。順調にいっているようです。
道が、海沿いを走るようになってから、足摺岬の案内が出なくなります。その先にある竜串という地名はでていますので近くなったためだろうと考えそのまま進みます。なかなか、足摺岬には着きません。
竜串まであと数キロほどになった時点で間違っているとわかりました。すぐ先に道の駅があるようなので、トイレ休憩もかねて道を確認し直すことにします。ついでに直産物も買ったのですが、支払いの時にレジにおいた車の鍵を持って帰るのを忘れました。
コースについてわかったのは、足摺岬は、国道のあるところからつきだした半島にあって、それを一周する県道に入らないと行けないことです。そこまでわかったところで、気を取り直して出発します。県道の入口の標識を見落とす可能性があるので、注意して見ないといけません。
ちょっと小さめの標識を見つけ、その方向に進むと、道は3つに分かれています。どれも行き先は足摺岬です。一番大きな字で書かれていた真ん中の道を行くことにします。
曲がりくねった山道でした。道幅もそれほど広くありません。できるだけ急いで走りました。それでも、最高制限速度までまだまだという速度です。
海沿いに抜け、旅館街を過ぎ、観光案内所が見えます。この先駐車場があると思いそのまま走りますが、結局なく、戻ります。案内所の手前、車が路上駐車しているような場所が駐車場でした。
ここまで何回も、道を間違えたのは大きな勘違いがあったためです。別の岬(思い直せば石廊崎)の記憶を足摺岬のものと思い込み、広い道路が通っていてしかもしっかりとした駐車場がある場所を探していたためです。実際の道は、狭く曲がりくねったものでした。
やっとのことで到着。観光案内所は休館日です。付近がどうなっているかわからないまま、道しるべに従がい、遊歩道を歩いて展望所へ行きます。ここからは灯台や海が見えます。他にもコースがありますが、ここまで、相当時間をロスしているので次に進むことにします。
先ほどの道の駅で竜串も名所になっているというので、行くことにします。道の駅からすぐの所でした。なんと、ここの観光案内所も休館日です。この付近は、火曜日休館になっているようです。案内板があるのですが、どこに何かあるか覚えきれないので、とにかく行って見ることにします。見所の名前は、銘板を直接貼り付けてあるのですが、よく見ないと見つけられません。
宮崎の鬼の洗濯岩と同じような砂岩泥岩の互層なのですが、泥岩が薄いせいか、それほど洗濯板みたいにはなっていません。砂岩が削られやすいのか、葉理という砂粒が作る縞模様がよく見えます。縞模様が削られることによって、複雑な幾何学模様を作っているところもあります。
海岸に沿って作られた道を進むと裏側の桜浜に出ます。そこから、森の中の道を通って元の駐車場に戻りました。
竜串の西に叶崎という岬があります。足摺と同じように、切り立った断崖の上に。灯台が建てられています。近くまで行きましたが、木が生い茂っていて、見通しはあまりよくありませんでした。すぐに引き返します。車を止めた所には、人がいないのに、猫がいっぱいいました。車の屋根にまで上っています。みんな物欲しそうな目でこちらを見ています。何もあげないよ。危ないから離れてね。なかなかどいてくれません。
17日の宿は宿毛に取っています。この付近では、だるま太陽と言って水平線に沈む夕日がだるまのような形になることがあるそうです。それが見られるかも知れないという宿を選んでいます。日が沈むまでに宿に着くように時間調整をします。
だるま太陽は、松山や今治近辺で見られることがあるのは知っていました。昨年11月に松江にツアーで行ったときに見られるかと思ったのですが、松山に着くかなり前に日は沈んでしまっていました。だるま太陽は、蜃気楼によって、太陽の形が変形して見えるために起こります。
宿に着いてから聞いてみると、ここで見られるのは2月中旬までだそうです。それ以後は、山かげに太陽が沈むために見られないようです。日の入りまで少しありますので、海岸に降りて山が邪魔にならないところはないか探してみることにします。手前の山はよけられそうだったのですが、さらに奥に別の山が現れ、これでは相当移動しないと無理なようです。それよりも、太陽は山の上にかかる雲に沈んでいきました。残念。だるま太陽はまた次の機会にします。今回は室戸周辺でも見られるというのを知りました。その分チャンスは増えました。
晴れていますので、夕食後に星を見ることにします。ここの名物はキビナゴだそうです。天ぷらになって出てきました。小さくて味がよくわかりません。ちなみに昨日は白魚でこれも小さい魚でした。
星見は海岸の公園ですることにします。夕方に見つけていました。ちょっと距離がありますので車で出かけます。ここから見ると北東方向の空が非常に明るくなっています。これは市街地の明かりです。西南西方向も明るくなっています。宿の人によると大分の明かりというのですが、後で考えると漁り火のようです。
西側の空から雲が広がってきています。黄道光は見えません。冬の大三角が見えていますのでこちらを狙うことにします。何枚か撮りましたが、オリオンの下にある雲はなかなかどいてくれません。それどころか、だんだん大きくなって、リゲルも覆い隠すようになりました。そこで、北極星周辺に目標を換えたのですが、小さな雲が居座っています。
そのうち雲が厚くなって残るは北斗星の周辺だけになりました。ここも撮ってみたのですが、柄杓の先にある二つの星は、雲に隠れたままです。おまけに飛行機も通過します。そのうち北斗星も見えなくなって観測不能になりました。あきらめて宿に戻ることにします。
翌朝も散歩に出ました。桜公園という所に行きましたが、花はまだまだでした。海岸におり、海岸に沿って歩きました。沖合を行く船がいけすのようなものを引いています。修理していたのでしょうか。それにしては数が多すぎます。沖合のいけすでは、何かの作業をしている所もありました。
海岸の草むらの中には、たくさんのカタツムリの殻が落ちています。ちょっと探しただけで、これだけ見つけることができました。
藪の中には、アオジがいます。写真を撮ろうとしたのですが、ピントが手前の枝にあうだけで、なかなかきれいに写りません。やむなく、手動にしてなんとか撮ることができました。
ぶらぶらしている内に結構時間を使ってしまいました。朝食の予定時間を10分過ぎています。食堂の係の人に寝過ごしているのではとかいろいろな心配をかけてしまいました。景色を見ながら食事をしていると、向かいの山の山桜が咲き始めていると教えてくれました。
宿から見える沖合に、咸陽島という島があります。この島との間は、干潮時には砂嘴でつながるそうです。早朝と比べると何となく砂浜がのびてきて、海の波も大きくなっています。何となくつながり始めているようなのですが、まだ1時間以上はかかりそうなので、見ずに出発することにします。
宿毛に泊まったのですが、町中の史跡は跡地が多く碑だけを見てもおもしろくありません。宿毛は戦時中軍港だったから大きな被害を受けていたのかも知れません。何も見ずに北上します。途中、宇和島まではこれといった案内はありません。津島から自動車専用道に入り宇和島で降ります。
宇和島にはお城があります。その天守は現存する12天守(高知城も入っている)のうちの一つになります。見に行くことにします。三の丸御殿跡地近くの駐車場に車を止め、そこからお城に登ります。
登り口には、家老であった桑折(こおり)家の長屋門が復元され設置されています。なかなかりっぱな門です。
門を抜けると、正面に石垣があり、左側から坂道になっています。道に沿って、生えている植物に名札がつけられています。シダ植物が多いのですが、詳しくないので参考になります。写真はムサシアブミという植物、マムシグサそっくりの花苞が出てきています。
井戸丸跡から、三の門跡、二の門跡を通り二の丸跡へでます。ここまで上がってくると、宇和島の町がよく見えます。
一の門(櫛形門)跡を抜けると本丸に出、正面に天守が見えます。本丸のソメイヨシノはまだつぼみでしたが、品種はわかりませんが早咲きの桜は満開でした。
天守内部は、障子板で囲まれた部屋が作られています。これも宇和島城の特徴だそうです。天守から町を見ると南東側にお寺が集まっています。地図では城主伊達家の墓所があります。
天守を降り、三の門跡まで戻り、そこから籐兵衛丸跡にいきます。ここには、山里倉庫(武器庫)が移築され郷土館として利用されています。正面は地元の名士家の長屋門が移築されたものです。
籐兵衛丸跡の下にあるのが、長門丸跡。ここは公園のようになっています。その入口の長門丸門跡の石垣です。野面積みで、しっかり積まれています。ここから帰り道はわかりづらかったのですが、何とか見つけて戻りました。残念なことに、搦め手門側に行くのを失念していました。こちら側には上り立ち門が現存するようです。
宇和島城を後にして、次に向かおうとしましたが、すぐに「和霊神社は左」の標識が見えます。宇和島市のウェブサイトに何か書いてあったような気がしましたの寄り道します。
入口の鳥居を過ぎて、太鼓橋を渡り立派な山門をくぐります。何もかも立派です。
ここから階段を上り、本殿のある広場に着きます。正面には、干支の書かれた大きな絵馬があります。本殿を一回りしてみたのですが、牛鬼以外は、これと言って変わったものは見つけられませんでした。後で調べ直してみると、ここには3つの日本一があるとか。一つは入口の石の鳥居です。大麻比古神社の鳥居も大きかったようですが、向こうは木製です。木でできているものではもっと大きなものがありそうな気がします。残りの二つは、於多福面と鼻高面というお面だそうです。
この頃になると雨がぽつぽつとし始めました。今日の天気予報は、雨。ひどくならなければいいのですが。
ガソリンが少なくなってきています。足摺岬で、道に迷ったり、山道を飛ばしたこともあるのかも知れません。思ったより減っています。家までは持ちそうなのですが、念のために入れておくことにします。前に書きましたが、伊野までは、ガソリンの価格がどこも一緒でした。ところが、須崎に入ってからはじわじわと上がっていました。このあたりでは、元と一緒かちょっと安いくらいの値段になっています。
ガソリンを入れてから先の行き先ですが、そのまま国道をまっすぐ行かず、八幡浜を回っていくことにします。八幡浜で特に何かあるという情報はないので、どこかで仕入れないといけません。標識にはみなとオアシス「八幡浜みなっと」というものがでています。そこに寄って見ることにします。
みなっとに着く頃には雨は本降りになってきました。道の駅を大きくしたような施設で、海産物を直売する施設や普通の道の駅のような施設、交流館もあります。昼食時刻なので、軽く食べられるものはないか探していると、揚げたてのじゃこカツがありました。やけど寸前の熱さでしたが、じゃこがからっとしていて、臭みもなく美味でした。サヨリのおすしも買いました。寿司飯の代わりにおからを使っていましたが、特有のぱさぱさ感もなく、これならいくらでも食べられそうでした。
八幡浜は、明治から大正期に宇和海を航行する船の中継基地として発達した町で、当時の商家が残されているそうです。そこを見に行くことにします。
町中の駐車場に車を動かし、そこから歩きます。すぐ横にも、明治初期の建物があります。改修中のようです。
舟つなぎ石です。昔船をつないでいたんだそうです。家の壁沿いに何本か立っています。ということはこの道より右側は海だったということなのかな?
神応邸です。明治初期の建物だそうです。上半分は2方向に屋根がある(切妻作り)のに、下半分は4方向に屋根がある(寄棟造り)ですが、傾斜が緩くなっています。4隅に鬼瓦が乗せられています。
この付近の古い商家に目立つのは、屋根を支える構造物がものすごく立派なことです。「持ち送り」というのだそうですが、大きな一枚板に細かい彫刻が彫られています。写真は毛利邸のものです。
ちょっと時代は新しくなりますが、それでも昭和初期のもので下司医院です。特殊な左官技でできている、洋風建築だそうです。使われていないのか柵で囲われています。
町の外れにある大法寺の石垣です。青石(緑色片岩)がきれいに積み上げられています。細長い石を、すき間ができないように、しかも斜めに互い違いになるようになっています。青石はこの付近では三波川変成帯で穫れる結晶片岩で、細長い柱形には加工しやすい石です。
須崎八幡です。八幡浜には、八幡神社もありますが、小さくてもこちらの方が本家だそうです。養老年間に地元の漁師が、八幡様のご神像を見つけ祀ったのが始まりとか。地番も八幡浜市1番で、町の中心です。
他にも残されている商家や古い建物はいくつかありました。回った範囲はそれほど広くなかったのですが、雨が降っていて、鳴門で買った傘を差していても、結構ぬれました。
八幡浜の次に向かったのが大洲です。お城で有名です。道を走っていると、市街地に入る前にいきなり大洲城の標識が見えてきました。案内に従って駐車場にたどり着きました。駐車場で、町の案内図をもらってから、お城に行くことにします。
大洲城天守は明治時代に取り壊されたものの、平成16年に、残っていた資料を基に復元されました。手前の台所櫓、奥の高欄櫓は取り壊しを免れ、建設時のままです。
天守が木造で復元されたのはここだけです。建築許可が下りるまで大変だったそうです。建物内部の木材は他の2つの櫓に比べ、さすがに、まっさらな感じがします。復元のようすなども展示されています。
大洲城を出て、市街を歩くことにします。南に向かいてあったのが、三の丸南隅櫓櫓です。この櫓も、建設当時のままです。石落としが2カ所に見えます。ここから南に、城塀風の塀が続いています。何なんでしょうか。
櫓のとなりには、大正時代に、旧大洲藩主加藤家が作った住宅の母屋も残されています。雛飾が飾られていました。この建物は、映画のロケにも使われたそうです。
2つの建物は、お殿様公園の一部になっています。お殿様公園から、大洲高校の向こう側に行った所にあるのが至徳堂です。門が閉まっているので入っていいのかわからなかったので、外から見るだけです。あとで別の資料を見ていたら要予約とありました。資料には、中江藤樹邸と書かれたものと、屋敷跡に建てられた100石取り武家屋敷を模して建てられた書院というのと2通りあります。どちらが正しいのでしょうか。
道を引き返し東に向かいます。町の駅に観光案内所があります。パンフが雨で濡れてぐしょぐしょになったので新しいものをもらいました。
さらに東に向かいます。おはなはん通りです。テレビの有名番組の舞台になったところです。武家屋敷と商家群の間の広めの通りです。水路も見られます。
「明治の家並み」です。明治大正期の、なまこ壁の土蔵があります。このあたりも戦災に会わなかったため古い建物が残されています。突き当たりに不思議な塔が立っています。昭和燈と書かれていました。大洲神社の入口になります。
臥龍山荘です。藩主の別邸だった場所にあります。明治時代に作られた数寄屋造りの名建築とされています。中には入りませんでした。
町外れまで来ましたので、川に沿って戻ります。あったのが、おおず赤煉瓦館です。明治34年に銀行として作られた3棟の建物を利用しています。中には当時の金庫室跡もあります。
古い建物が並ぶ本町通りを抜けるとお城は近くなっています。肱川沿いにあるのが苧綿櫓です。堤防の水門をくぐって河原にでるとよく見えます。この櫓も、取り壊されず建築当時のまま残されています。ここから川沿いの堤防上に城にあるような塀が作られています。
町を一回りしたので、駐車場に戻ります。雨は小降りになってきました。
今晩は東予からフェリーに乗って帰る予定です。まだ時間的には30分ほど余裕があります。簡単にもう一カ所寄れそうです。大洲から松山に行く途中にある内子町では、町並みが保存されているとか、ここにします。
松山に向かう標識に従って車を走らせます。途中で右折、いいのかなと思いながらも標識に従います。しばらくすると、前方は宇和島方面の標識が出てきました。行き先が逆です。Uターンはできそうもないのでしばらくそのまま走らせてみることにします。そろそろ何とかしようかなと思った頃に、無料高速の入口の標識が出てきました。右折の標識は間違いではなかったようです。大洲ICから先は有料なのでここから国道に下ります。それほど走らないうちに内子町に到着します。情報がないので、道の駅に先に行きます。
道の駅は、閉店間際でした。何とかパンフレットをゲットし、町中のビジターセンターの駐車場に車を止めることにします。駐車場は見つけられず、近くにあった内子座の駐車場に止めます。雨はほぼやんでいます。傘なしで歩けそうです。
内子座です。大正時代に作られた劇場です。なかなか立派な建物です。東京や大阪にある建物と比べても遜色はありません。今でも使われているそうです。中を見ることができるのですが、時刻が遅く閉館していました。
内子児童館です。明治12年にフランス風建築として建てられた小学校の外観を踏襲した建てられたものです。奥にあるのが、内子町ビジターセンターです。駐車場がすぐに見つけられれば中には入れたのですが..。
商いと暮らしの博物館です。明治時代の薬局の建物を使っているそうです。大正時代の商いや生活のようすが展示されているそうです。ここも閉まっていました。
八幡神社です。山門が立派です。鳥居がその内側にあります。提灯が飾られているのは、祭りでもあるからなのでしょうか。本殿は1804年のものだそうです。後で知ったのですが、1847年に奉納された算額がかかっているそうです。
旭館です。大正14年に作られた活動写真館です。以後、映画鑑賞や芝居の拠点になっていたそうです。内子の町人は、内子座といい、立派な建物を作っていることから、大衆芸能に興味を持っていたようすがうかがえます。
内子の、商家の特徴は、縁台と跳ね上げ式の戸(蔀戸:しとみど)だそうです。蔀戸を下ろし、縁台を跳ね上げれば、窓がふさがるようになっています。穂のようなものが何なのか気になります。
本芳我家住宅です。明治期の豪商の住宅です。蜂の巣型のなまこ壁が変わっています。屋根飾りとか何かにつけて立派です。どこからどこまで屋敷なのかよくわかりません。
木蝋資料館上芳我邸です。内子の町は明治期には木蝋生産の中心地でした。上芳我家は、本芳我家の分家で、本家同様木蝋生産を営んでいました。内部の作業場とかが展示されています。
特に後半の八日市と呼ばれている地区には、薄い黄色の漆喰を塗ってている建物がたくさんあります。そのような建物群を見ながら、町並み保存センターまでを往復しました。
内子では予定より長居をしてしまいました。フェリーの乗船には、順調に走れば何とか間に合う時刻ですが、伊予市松山市内で渋滞に巻き込まれれば間に合わないかも知れません。ちょっと早く着くのですが、高速道路を利用することにします。フェリー乗り場のある東予には店がない可能性がありますので、こちらで夕食などの買い物ができればしておくことにします。スーパーはすぐに見つかりました。
買い物を済ませて、内子五十崎インターから松山自動車道に入ります。松山を過ぎたあたりから、最高速度が50km/hに制限されています。何かと思っていたら、霧がかかってきました。たぶんこのせいでしょう。峠付近ではかなり濃かったのですが、運転に支障がでるほどではありません。それにしても、普段と変わらない速度で走っている車がたくさんあります。
いよ小松ジャンクションから今治小松自動車道に入り、東予丹原インターで高速を下ります。経路を確認していなかったので、道端に車を寄せ確認すると、左折後ほぼまっすぐの道のりです。この道沿いには家電量販店やスーパー、ファミレスなどたくさんあります。こんなことならこちらで買えばというのは、後の祭りです。
道路が突き当たってしまいどちらに曲がっていいのかわかりません。ここまでは、フェリー乗り場までの案内がしっかり出ていたのにここには見当たりません。何となく右っぽいので右折します。みんな、こちらに曲がってくるので、これでよかったようです。もうついてもいいのではと思うのですが、なかなか着きません。だいぶ走ってから、フェリー乗り場に到着です。
フェリーの乗船券を取るために窓口に行くと、予定時刻に着かないかも知れないと言われます。帰ってからは特にすることはないので、遅延を承知で船に乗り込みます。理由を正確に知ったのは後のことですが、海上濃霧警報が出ていて、視程が悪い場合船を停止させられることが予想されたのが遅延するかも知れない原因です。
出航にはまだ1時間近くありますが、乗船できるので船に乗り込み、途中で買った弁当を船内ロビーで食べ、風呂に入ります。
そうこうしている間に出港です。船内は意外とすいています。定員というか規定数の半分弱でしょうか。決められたスペースは隅っこです。結構すいているのに、なぜか隣はふさがっていました。離してくれればいいのに....。
10時に出航しました。船内ですることはないし、夜も遅いので寝ることにします。周りの人たちもみんな早くに寝ます。隣の部屋はいつまでもうるさい人がいました。この部屋でなかってよかったです。朝起きれば、もう大阪近くまで帰ってきています。霧の影響はなかったようです。定刻に大阪南港に到着しました。
フェリーに乗って困ることは、船を下りた後、右も左もわからないうちにトラックに挟まれて走ることです。船員さんに確認してみると、トラックのほとんどが高速道路を走って行ったとか。そういえば、その分船客も少なかったし、船の中のトラックはどちらかと言えば空っぽでした。
船が着いたのが早い時間なので道路は空いているだろうと思い、長居公園通りから中央環状線に入り茨木まで戻ることにします。ところが、結構信号にかかります。中央環状線では1回の信号では、渡れない交差点がほとんどです。雨が降っていて、動かないからサイドミラーに雨滴がつきます。おかげで後方確認ができず、車線変更もままなりません。30kmほどの距離を2時間半もかかってしまいました。運転でいちばん疲れたのはこの区間でした。
今回、車で回りました。途中、結構道を間違えています。足摺岬で3回も間違えたのは書いたとおりですが、それ以外にも間違えたところはたくさんあります。一番多いパターンは、標識の出ている所で、入るべき道を見落としてしまうものです。狭かったり、何かがいっぱいあったりとかすると、これかなと考えている内に行きすぎてしまうことが多いようです。
道間違いはロスが多いので何とかしたいとは思います。カーナビを入れるのがいちばんなのかも知れません。でも、入る道を見つけられないのは同じです。それに、年にそんなに乗らないので、出番もあまりないようです。持ち運びできるものなら車を使わない旅行でも使えるかな、でも内蔵バッテリーは2時間くらいしか持たないし、地図も5年もたてば古くなるし、あの機能はあった方がいいかなとか、色々考えている内に決心がつかなくなっています。
宿の予約の時に、携帯電話の番号を聞かれます。持っていないのでないと答えます。今回は宿の到着が遅れることはなかったので、特に問題にはなりませんでした。連絡を入れないといけないときに、公衆電話を探しているとそれだけでも時間のロスになります。旅行用に、1台必要かなと思うときがあります。最近のスマホなどにはカーナビのアプリがついているものがあります。カーナビの代わりにこれの方が便利かなと思ったりするとますますどうすればいいのかわからなくなります。
今回も、星の写真撮影用の機材を持って行きました。どういう機械なのかというと、カメラや小型望遠鏡を星の動きに合わせて動かすためのもので、ポータブル赤道儀といいます。
前回も含めて、今までに旅行先では、本格的な出番はなかったのですが、今回も曇っているか、晴れていても使おうとすると雲が広がってくるというパターンで、最悪に近い状態でした。晴れ男とか雨男とか言いますが、曇り機械というのがあれば、それに当てはめていいような感じです。こんなことを書いたら本当にそのようになっても困りますので、そんなことはないんだよと言っておくことにします。交通機関が止まると大変ですから。
内子の町並みを歩いていると、ちょうど中学校の下校時刻にあたりました。それがきっかけで、そこの先生と話し込んでいると、逆に「町並みっていいですか」と聞かれました。何となく「なかにいるときは何も思わないかも知れないが、遠くで暮らしてみるとよくわかりますよ」と答えました。
実際に好きなのは、その場所の気候や風習、地形といったものに、工夫を重ねながら築いてきたものを見て、理解することです。見落としてしまうことの方が多いのですが、新しい発見をすることが好きです。
逆に嫌いなのが、こうすればいいのだという考え丸出しの画一化した町や、高価そうな市販品を並べている建物などです。もうけ優先、成金趣味なものは好きではありません。
町並み保全と言って、不便なボロ屋に住めというわけではありません。建物が古いという以外に、デザインや機能性などに、それ以上の価値があるのなら、残ってもいいかなと思います。
普通の旅行記ならあるはずの食事についてのレポートがありせん。取り立ててこれがおいしかったというものはなかったからです。何がおいしいか、その人の好みによって違います。これがおいしいと言っても、他の人には口に合わないこともあります。今回の旅行でいちばん気に入ったのは新居浜で食べたサヨリの寿司ですが、これだって、酸っぱいものが嫌いな人にとってはまずい料理に分類されてしまいます。
口に合わないものはたくさんありますが、格別においしいとこれは好きだといえるものもありません。たいがいは普通の味なのでしょう。でも、なんといっても普通に食べられるものがおいしいものだと思います。色気より食い気で申し訳ありません。何せ、初日の夕食にご飯の入っていたおひつを、ちょっと残すのもということで空にしてしまい、足りなかったのではと心配をかけてしまったくらいですから。少しだけ残すのがマナーだそうですね。
グルメについて書き出したら長くなります。別の機会に譲ります。格段というわけでもないけれども、そこそこ満足のいく味だったということで閉めさせてもらいます(何がでたのかというのが気になるかな)。