2015/08/02-03 三陸 津波跡を追う
いきさつ
昨年の5月に大阪の地学教員が集まる機会がありました。解散した地学教員のグループが、近況報告をしようということで久々に集まった会合です。その2次会の席上で、「地学に携わるものが三陸に行っていないというのは話にならない、来年はみんなでいこう」ということになりました。理路がつながっていないところがあるのですが、一応銘々が自分なりにつなげて賛成した結果です。たぶん理路をつなげた方法は、ん十メートルの津波といってもそれを目で見て自分なりに確認あるいは体感していなければ、それを語っても受け売りにしかならないというのが大方の考えでしょう。単純にどんなのだったか見てみようとか、知識を生かして調べてみようとか考え方は人それぞれだったと思います。
予定日は、現役の教員が参加しやすいように長期休暇中にすること、準備期間が必要なことから今年の夏休みになりました。具体的なことは、世話係を決めそこから連絡することも決まりました。
準備
日程は8月になりそうなので、その期間は旅行の予定を入れずに、連絡が来るのを待つことにしました。8月の新月は13日でお盆期間と重なります。この頃旅行するとなると、帰省ラッシュにかかります。そういうことから旅行計画を立てにくいというのもあってあけてありました。
6月初旬に世話係から連絡が届きました。日程は8月2日からの1泊2日、集合は仙台空港9時20分、解散は仙台空港午後6時頃、宿泊地は釜石市内の予定です。コースは空港から大槌町までレンタカーで往復しながら各地を見てまわるようです。仙台までの移動手段は各自となっています。仙台まで行って、他をまわらずに帰ってくるのももったいないような気がします。といってどこをまわるか、見当が付きませんので前後の予定が立てにくいので、前後にどこかへ行くのはあきらめ、来年あらためて行き直すことにします。もっともこのグループの性格上、津波関連以外のものには脇目も振らずに突き進むの目に見えているのですが。
仙台までの往復の交通手段を確認します。推奨されているのは、関西空港7時25分発のLCC便です。かなり早い時間ですので、到着できるか確認しておく必要があります。関西空港で搭乗手続き、荷物預け、セキュリティーチェックに1時間かかったというトラウマがあります。6時半までにはつきたいです。JRの時刻を検索すると、茨木駅5時6分の西明石行きに乗らないと間に合いません。これは高槻発の始発電車です。高槻から遠くだと交通手段がないことになります。大阪空港発仙台行きは仙台到着が9時20分で間に合いません。これに乗れると朝はかなりゆっくりできるのです残念です。関空からの便で行くことにして、参加すると返事を出しました。
7月初旬に参加者の概要も含めて連絡が来ました。参加者数は9+?名、田老まで行くことになるかも知れない、飛行機で行く場合は席を確保して連絡するようにとのことです。まだ予約しなくていいかなと思っていたのですが、せかされるので予約を入れます。座席をどこにするかで悩みます。せっかくですから景色も見ておきたいので、窓側にするとして右にするか左にするかが問題です。大阪から千歳に行く時は、新潟上空を通過します。航空路は決まっているとすると、新潟上空を通る可能性があります。それからすると左側は海ばかりです。右側がいいようです。開いていて翼が邪魔にならない7Fの席にしました。後で考えるとこちらから日が差し込んできます。どちらがよかったのでしょうか。帰りは夜なので、景色は見えません。どこに座っても同じなので、席を決めないことにします。その分安くなりますから。一応席を取ったと連絡を入れます。その後ちゃんと帰れるか心配になったので、関空からの帰りの電車を調べてみると、関空で40分の待ち合わせで、最終の連絡電車があることがわかりました。LCCの到着ターミナルと駅が離れているのを考えると乗り換えはぎりぎりです。
飛行機が遅れると間に合わないかも知れません。早くでられるように前の方の席を取っておいた方がよかったようです。
5日後、次の連絡が来ます。田老・大槌町の状況をまとめたので読んでおくようにとのことです。人数は11人で確定だそうです。内訳は、府立高校定年退職者(再任用を含む)が7人、私立高校退職後塾経営者1名、現役中学校教員3名です。現役高校教員が参加していないのは残念です。教育委員会が言い訳のためにやっているような研修参加とかで、必要なことについて調べたりする時間がなくなってきていました。かなり忙しくなってきているようです。教員が、もっと自由に考えたり取り組んだりする時間がなければ、大阪の教育はだめになるような気がします。リフレッシュできるだけでもだいぶ違います。
参加者が確定したとの連絡の後、さらに4日後に新たな連絡が来ます。レンタカー3台に誰が乗るかと、運転手2名が決められていました。それと、災害の状況を各自分担して調べて人数分レジメを作ってくるようにとのことです。このグループは、くっついていったらという安易な気持ちでは行かせてくれません。分担は、気仙沼市の状況でした。一応ネットで調べ始めることにします。
翌日、別の経路から連絡が来ます。ETCカードがいること、パソコンとプロジェクターを持って行くとのことです。これは、パソコンを使って発表しなさいということになるのでしょう。
気仙沼市の被害の状況は、ネットで検索するといくつか引っかかってきます。
「復興資料6」というものに市内各地の状況がまとめられています。何の付属資料なのかよくわかりません。本文は無視して、これを中心に資料を作るとうまくまとめられそうです。
「東日本大震災の概要及び被害の状況(平成24年1月11日現在)」にも市内各地の火災の状況が詳しく書かれています。
気仙沼向洋高等学校の「その時,現場はどう動いたか 3.11の震災直後の動向」に津波襲来時の学校の状況や対応が詳しく書かれています。教育経験者なら必読でしょう。市立病院での対応のようすも書かれているものをネットで見つけましたが、学校関係者はあまり興味を持たないだろうということでこれはおいておきます。
埼玉大学大学院理工学研究科の「東北地方太平洋沖地震で発生した津波石」も興味があります。関連して宮古高校生物部地学班の研究もなかなかおもしろいものです。
赤崎海岸の南三陸シーサイドパレスの写真は参考になります。これだけでは何が起こったのかが理解できないという問題はあります。
これらの資料を整理してA4用紙2枚分の資料を作りました(縮小してB4見開きに印刷しました)。
一応簡単に要約しておきます。気仙沼市街地の津波は湾の形が影響して、それほど大きくならなかったものの、港湾施設の石油タンクのほとんどが破壊され流された油に引火して火災がひろがったことがいちばんの特徴です。津波が直接ぶつかった南部では、海岸の砂が大きく運び去られたり、鉄道・道路の橋桁が流されるなど、津波で大きく破壊される被害が出ました。復興状況では(発表では言い忘れた)、海岸を走る鉄道が復旧できず線路跡を使った代行バスで運用していることが注目されます。
パソコン発表用の資料ですが、発表といえばパワ○○○ントを使ってするのが普通ですが、このソフトはあまり好きではありません。これでやらないといけないという雰囲気になっているのと立派なものが作れたと思い込ませているがその原因です。写真を順番に並べて表示させるだけでも普通の人がやっている程度のことはできます。今回はその方法でやることにします。
写真は、基本的には先ほどあげた資料から拝借し、何枚かネットからの写真を借用します。特に南三陸シーサイドパレスについては記載がありませんので別途いいものを探します。赤崎海岸浸食のようすは、震災前後の航空写真を見比べないとわかりません。国土交通省のサイトから閲覧することができます。縮尺が異なっていたので、同じ大きさになるように調節して資料にしました。写真のファイル名に表示させる順番に番号をつけUSBメモリーに保存すれば完成です。
ここで、画像の著作権が問題になりますが、一瞬表示させるだけなので大目にみてもらうことにします。
あと、現地を案内するとなった場合にどこによるかも考えておく必要があります。みたいものは唐桑半島の津波石、気仙沼市街のようす、気仙沼向洋高校、岩井崎、赤崎海岸があります。順位をつけることにします。
津波石は見たいのですが、縦断道路から脇道に入って10km離れた所に車を止めそこから1200m(約20分)歩いたところにあります。ここによることによって1時間半ほど必要です。時間的な余裕がない限りは無理かも知れません。気仙沼市街のようすは通過するだけでもいいので行くことにします。できれば合同庁舎まで行きたいものです。
向洋高校は周りががれき処理場になり、フェンスで覆われているかも知れません。遠くからしか見えないかも知れないので3位にしておきます。岩井崎の松は朽ち果ててなくなっているかも知れないし、力士の銅像も興味を持たないと思われるのでカットします。
赤崎海岸は色々ありますので絶対です。工事会社が展望台を作ったというのですが、どこにできたのかネットからではよくわかりません。現地で確認することにします。シーサイドパレスは6月末から解体工事に入ったようです。難工事になりそうで工期未定となっていますので、残っていることに期待します。JRや国道の落橋のようすは見られるはずです。陸前小泉駅跡も興味があります。
町中の道路がどこにどう通っているかわかりません。気仙沼市の地図も作っておくことにします。
資料はできたし、これ以外に持って行くものとしては、カメラと着替え、筆記用具、ETCカードくらいです。一応東北地方の道路地図を買って持って行くことにします。止まった場所の正確な位置を確認する必要があるかも知れないのでGPSロガーを持って行くことにします。仙台空港で時間があれば、羽田空港で味をしめたラウンジが利用できます。クレジットカードも入れておきます。これだけをそろえれば大丈夫でしょう。あとは、飛行機に間に合うように朝早く起きることです。前日は、目覚まし時計をセットしてねました。
朝は、目覚ましをセットした時刻より5分早く目覚めました。外はまだ薄暗いです。月がでていますが、周りが虹色に光っています。何とか写真に撮ろうとしたのですが、三脚固定とか色々している内に、空が明るくなり見えなくなりました。
そうこうしているうちに、出発しないといけない時刻になりました。駅まで歩いて行きます。途中のマンションの周りに植わっている木からヒグラシの鳴き声がします。前から聞こえていたのはここだったのかも知れません。朝早くなら鳴いているというのが確認できました。
茨木からは、普通列車で大阪まで行き、環状線に乗り換えて天王寺、さらに関空快速に乗り換えて行くことになります。堺市駅あたりまでは順調だったのですが、そこを過ぎたあたりから急におなかが差し込んできました。途中で下りていると飛行機に間に合いません。どうしても我慢ができなくなってきたので、和泉府中駅で、トイレの付いている一つ前の車両に移動しましたが、トイレはタッチの差で使われてしまいました。入った人はなかなかでてくれません。熊取駅を過ぎたあたりで催促をしたのですがそれでもそのままです。結局出てくれたのは関空連絡橋を渡っているときで、その頃にはちょっとましになっていました。もうすぐ関空に着きそうなのですが、一応済ませておくことにしました。なんとか関西空港駅に着くまでに無事終わりました。
関西空港駅から第2ターミナルまでシャトルバスに乗ります。バスの中では、大きな荷物を持った人が奥に行きたがらないので、もっと乗れそうなのに乗ることができません。後から来た人が自主的に次のバスを待ってくれたおかげで、何とか発車できました。
第2ターミナルに到着してからは、搭乗手続きになります。手続きの機械はほとんどが紙切れで使えません。並んで、順番が来て使おうとしたら、今度は、バーコードを読みません。コードを打ち込んでもいいとわかったので、その方法でなんとか完了しました。
預けるほどの大きさの荷物ではないので、次はセキュリティチェックです。3列でいちばん短い列に並んだのですが、そこだけが動きません。どうも、何組かの家族連れが横に広がって並んでいたため、列の長さの割にはそこだけ人数が多かったようです。
次は、搭乗口から飛行機に乗り込みます。搭乗口に着いたときは、搭乗が開始されていました。窓側の席からです。大手航空会社では後ろからが多いので、システムが違います。いったん外に出てタラップから乗り込むのは久しぶりです。荷物預けは有料なので機内持ち込み荷物が多く、席に着くまで時間がかかっているようです。
予約した席は最悪です。席に座っていちばん見やすい場所は壁です。景色を見るには肩越しか、前にかがみ込んでみるしかありません。次回はこの席を予約しないようにします。
関空を北東方向に飛び上がった後、左旋回で1回転します。これは、関空を作ったときの約束通りです。その後の機内アナウンスでは、右に富士山、左に乗鞍岳が見えるといいます。北海道へ行くときは白山が見えますから少し右に振っている感じです。
その後、中禅寺湖・猪苗代湖などが見えましたので、飛行機はほとんど真っ直ぐ仙台に向かって飛んでいることになります。
仙台空港の南側からいったん太平洋上にでて左旋回して、東側から仙台空港に降ります。この時見えた海岸の内側には水がたまっていて、地盤が沈下したように見えます。
仙台空港は、津波で水没しています。滑走路に津波が押し寄せる映像は何度も報道されました。構内には、津波の浸かった高さを示す表示があります。構内ホールのものと、出口を出た正面に見える、駅の階段に付けられたものです。
空港で、前日までに来ていた人たちとかと合流し、レンタカーの借りる場所まで移動し、手続きを済ませた後、出発となります。この時点で10時を過ぎていました。
レンタカー会社仙台空港店から宮古の方に向けて出発します。経路としては、花巻から釜石に出て海岸沿いを北上するか、高速道路を北上して盛岡まで行きそこから宮古に抜けるかです。どちらが早いか微妙なところがあるのですが、盛岡経由で行くことになりました。
途中で、休憩待ち合わせ場所を決めます。盛岡までの真ん中くらいの所に前沢SAがあります。そこで、いったん集合になりました。車は2台目のB号車です。前沢までは運転することになりました。
いざ出発です。が、A号車の加速はものすごいものがあります。スピードも速めです。ついて行くことができません。がんばれるぎりぎりの速度で走りますが、引き離される一方です。C号車は最初からあきらめたのか、すぐに後方の視界から消えました。仙台北部道路の2車線区間では、ゆっくり走る車があって、たくさん車が並んでいます。この中にA号車がいれば追いつくかも知れません。東北道に入ったところで追い越し車線を走っていると前方にA号車が確認できました。後ろについたのですが、そのとたん追い越しを始め再び引き離されていきました。C号車はかなり後ろのようです。あきらめてマイペースで走ることにします。左側に栗駒山などが見えるはずなのですが、かすんでいてだめなようです。
前沢SAの手前3.5kmの所で、A号車は到着したと連絡が入ります。あと、3分足らずで着くはずです。到着してからもC号車はなかなか来ません。かなり離れていたようです。C号車到着後、休憩を取った後、出発です。運転は交代してもらいます。次の休憩場所は、つぎのSAである紫波SAです。盛岡市内で場所を昼食場所を見つけられないだろということで、早めの食事になります。この区間はA号車が少し速度を落としてくれたのと、運転者が食い下がったのとでなんとか付いていきました。
紫波SAで昼食です。あまりたくさん食べると眠たくなるので、おそばだけにしておきます。ほとんどのメンバーがこの程度の食事だったようです。次の休憩場所とコースの確認です。盛岡ICで降りる予定でしたが、地図で確認すると、盛岡南ICで降りると宮古に抜ける国道に出られます。おまけに盛岡市街を通らなくて済むので早くなります。休憩はこの国道沿いの道の駅やまびこ館になりました。
国道は他の車もあったおかげで、間に何台か車が挟まりましたが、A号車について走ることができました。しかし、C号車はやはり見えません。A号車は目的の道の駅に入りましたが、運転者は気づかなかったようです。危うく行きすぎるところでした。ここでもC号車はなかなか来ません。だいぶたってから、C号車からはどこなのかと連絡が入ります。見つけられなかったようです。ついて走っていても、間に車が入られると、左折したかわかりにくいのと、もっと問題だったのは、道の駅の名前でなく地名で確認したため、違う所だと思って通過したようです。
結局、C号車は先に行っていることになりました。追いかけることになります。ここから再び運転します。
C号車は田老駅を過ぎたところで待っていました。周りの様子を見た後、田老漁港の方に向かいます。
田老漁港付近では津波でほとんどの建物が破壊されています。防潮堤も、新しく作ったものはほとんど壊され、水門付近とか構造的に丈夫なところのみが残されています。古いものは、奥まったところにあったおかげか、それとも新しい防潮堤によって津波の力が弱められたためなのか、ほとんど残っています。写真は、壊された新しい防潮堤の水門付近です。
ここから少し陸側に、田老観光ホテルがありました。ここも、津波の力によって、3階以下が壊されています。
田老漁港では、旧防潮堤の方へもいきましたが、その頃には雨が本格的に降り出していました。しばらく、車の中にいましたが、小やみになったときに外に出ました。防潮堤そのものには何も影響がないようです。それでも手前の川につけられたガードレールの杭の倒れ方を見て、どのような流れがあったのかと議論を始めていました。
一通り議論が終わったら、次は大槌町に向けて進みます。まずは大槌駅付近です。道が行き止まりになったところでUターンしようと順番を待っていると、C号車のメンバーは車を降りて周りを見ています。このメンバーはすぐに観察にとりかかろうとします。
遠くの防潮堤は、両端がなくなっているようです。流されたのでしょうか。残ったものも、かなりダメージを受けているようです。防潮堤の内側は、建物はなくなって平地になっています。地盤沈下で排水が悪くなったのか、水がたまっていて池のようになっています。
見ているとまた雨が降ってきました。かなり激しい雨です。車に待避したついでに次への移動となります。ここで、運転手交代となりました。いったん堤防沿いを走りましたが、止めるところがなかったのか、引き返します。大槌駅前の水たまりにカルガモがいるのが見えました。
次は大槌町役場です。建物全体が津波にのみ込まれています。前には慰霊堂のようなものが作られています。とまった時計は何の時刻を指しているのでしょうか。
この頃には、雨はやむ一瞬が時々あるものの、強くなったり弱くなったりを繰り返して降っていました。
このまま釜石まで行って、着くのは6時くらいになりそうです。時間なので宿に向かいます。途中でいったん雨はやみますが、釜石の市街地に入ったらまた降り出しました。宿泊予定のホテルにつきましたが、この頃には豪雨になっていました。ちょっと離れたところにある駐車場に車を入れようとしたら、ホテルでカードをもらわないとは入られないようです。雨の中ホテルまで戻るだけでも大変です。何とか駐車場に入れることができたのですが、雨が強く、誰も外に出ません。雲の動きを見ながら、雨がいつ頃やむか予想しながら車の中で待機します。結局しびれを切らした一人が出たら、みんながそれ続いて出て、ぬれながらも宿にたどり着くことができました。地学をやっていながら傘を持っていなかったのかって。どうもそのようです。自分は持ってはいたのですが、トランクに入っていて出すのに濡れるのと、後片付けが面倒とかで出さなかっただけです。チェックインをすまし、しばらく休憩した後、食事です。
ホテルは、食事がついていません。ホテル付属のレストランも休業日で食べることができません。近くには、居酒屋が2件しかないそうです。どちらも全員が入ることができません。ちょっと離れたところに大型商業施設があったので、その中に食事ができるところがあることを期待して向かいます。最悪、弁当のような、食べるものを入手することはできるでしょう。ついでに、買っておきたいものもあります。
中には、食事できるところが何件かありました。全員が入ることは不可能ですが、そんなに離れていないので、好きな店に別れて入ることになりました。その後、翌日の朝食とかを買おうとするのですが、もうかなり遅い時間なので、おにぎりとかたいがいのものは売り切れていました。
用事が済んで、商業施設から出てホテルに向かおうとするのですが、問題が起こります。買い物をした2階から近くの階段を降り、外の駐車場に出たのですが、駐車場から外に出ることができません。出口の方角は地図でわかるのですが、そちらの方向には大きな壁があって回り込むことができないようです。駐車場をさまよったあげく、2階に戻って入ってきた道を逆にたどりながらやっと外に出てホテルに戻ることができました。出口に関してはわかりにくく、案内が不親切な施設でした。
ホテルでは、各自が調べたことを発表しようということになっていました。商業施設で迷った分遅刻でした。一応順番に発表がありました。内容は難しいところもあるので省略します。ちょっとしゃべりすぎたようです。その後は、宴会気分で近況報告などをする会に変わっていきました。11時近くになったこともあり、お開きとなり、今日一日の動きはおしまいです。
釜石の見学は各自となっていました。時間を節約したいようです。早くに目覚めたのでぶらっとまわることにします。ホテルから見た釜石市街です。コンクリート造りの建物は残っていますが、それ以外は、流されたのか更地になっています。
市街地北東側の市役所方面に向かいます。市役所はいくつかの分庁舎があります。どの建物にも津波到達ここまでという青い標識が付けられています。2ヵ所にありますが、右が20cmほど高いようです。異なっていたのでしょうか。
国道沿いに向かい合って立つ2つの庁舎です。青丸印の所に津波の高さを示す標識があります。同じ高さくらいの所から、市街地の方を撮ってみました。青線くらいの所まで津波に浸かったのでしょうか。
ちなみに、町の低いところでの標識です。予想されるより浅いようです。津波が勢いで斜面を駆け上ったようです。
市役所より高いところに、仮設住宅(右奥)と復興商店街が作られていました。
地震で崩れたのでしょうか。修復中でした。
ここから真っ直ぐ山沿いに西に向かいます。途中の大只越公園(青葉公園)の銅像です。ここにはいろいろな碑がありますがそのうちの一つです。明治の津波の合葬地に置かれていたのをここに持ってきたそうです。対になっています。
青葉公園前の東西道路沿いには、何カ所か津波到達高を示す標識があります。低地のものよりは、浅いのですが、地面が高くなっている分ほど浅くなっていないようです。
町から川を渡り駅の方に向かいます。駅に着いたときにはちょうど三陸鉄道の列車が出発したところです。
駅前には、鉄鉱石をおいた石碑がありました。磁鉄鉱は磁石(鉄だって)に付くことを示すためか磁石がいっぱい張り付いていました。
釜石はこの鉄鉱石の産地が近くにあり、その製鉄所を中心に栄えた町です。製鉄関連の工場が駅の南側にたくさん見られます。その工場から延びるベルトコンベアです。川を横切るところ場所なのですが、津波のせいなのか、曲がっていたり穴が開いていたりしています。
昨晩、商業施設から抜け出せなかったのは、このコンベアと道路が施設の1階部分を横切っていたからです。駐車場は、徒歩や自転車利用者の入口とはそれをまたいて反対側にありました。駐車場から出るには、車の通るスロープを上ってこれを越えるか、施設内の2階をまわって越えないと出られない構造になっていました。
ここから川沿いに河口の方に下っていっても何もなさそうです。釜石市街の散策は終わりにしてホテルに戻ることにします。
ホテルに戻って軽く朝食を取ったら、出発時刻に近づいていました。荷物を整理しロビーに降りていきます。みんながそろったところで出発になります。最初の運転ですが、気仙沼市内は案内があるかも知れないので、地図を見る必要があります。この区間は運転してもらいたいというと、それなら、先に運転するといわれました。よくわかりませんが、そうすることにします。
最初に通るのは、陸前高田市です。奇跡の一本松で有名になりました。どこによるかわかりませんが、カーナビをそれのある「道の駅高田松原」にセットしておきます。昨日と同じ順番で出発です。国道を走っていると過去の津波浸水区間ここまでという標識がたくさんあります。海岸から坂を登っていくと必ず見られます。でも、なぜ「過去の」なのでしょう。もっと大きいのが起こっていたのなら、もっと上まで上がっていたかも知れません。
トンネルをいくつか抜けると、国道はバイパスに入ります。ここから南側はバイパスが断続的に続いています。復興を早くするために作っているのでしょうか。その割にはダンプとかは見かけません。車は陸前高田市街の方に入る分岐に入りますが、その後、狭い道をくねくねと走ります。どこに行くのかと思っていたら正面に奇妙な造成地のようなものが見えてきました。山を削って作ったにしては、何か様子が変です。
止まってよくみてわかったことは、盛り土をして、土地のかさ上げをしているようです。それにしても、ものすごい高さです。崩れないか心配です。
近くの林の竹が枯れています。塩を被ったんでしょう。津波の高さはこの竹の根元くらいまであったことになります。土盛りの高さとだいたい同じくらいになるのでしょうか。
ここから海岸に回ります。遠くに見える堤防が、倒れているのが見えます。
海岸沿いにあった公営住宅の跡です。4階の窓は壊れていますが、4階から5階に上がる階段の踊り場のガラスは壊れていません。4階が半分ほど津波に浸かったようです。下の階の部屋の中身は津波に流されたのかなくなっています。
次は、一本松の方に向かいます。一本松茶屋というところに車を止めて歩いて行くことになります。近くにありそうな名前ですが、かなり離れています。茶屋の東側にあるガソリンスタンドの看板のてっぺんに津波浸水深を示す標識があります。看板そのものも変形したりはがれたりしています。看板は津波後の状態そのままだそうです。かなり高くまで津波が上がったことがわかります。
反対の山側を見ると、山が大きく削られ、そこからベルトコンベアがこちらに向かって延びてきています。この付近をかさ上げした土砂がどこから来たのかという謎はこれで解明しました。この山を削ってできた土砂だったのですね。
茶屋の周辺は、舞い上がる土砂と、ダンプの排気ガスで空気が悪くなっているようです。交差点の近くでは、咳が止まりません。
ここから歩いて一本松に向かいます。松は葉っぱまで精巧にできたレプリカなのですが、その大きさがよくわかります。横にあった道の駅らしい建物や水門、堤防も大きく破壊されていました。
一本松見学を終え茶屋に戻って次に向かいますが、その前に、車のガソリンが半分に減っているので補給することになりました。津波高の標識のあったガソリンスタンドです。車のガソリン補給口の位置がわかりませんが、A号車と同車種のなので、前を走っている車を見て確認します。入ろうとしているブースは補給口が逆側にあるようなので、車をバックで入れないといけないことがわかりました。C号車は、気づかずに入れ、ノズルを反対側まで引っ張ろうとしていましたが届きません。結局車の向きを変えたようです。
色々ありましたが、ガソリン補給も終わりました。いったん町のあったところに入ります。このあたりには建物が一切残されていません。足下を見ると線路が見えます。鉄道踏切の上だったのですね。路線は草ぼうぼうで、レールは撤去されているようです。
後ろ側の遠くの建物を見ると塔屋の上に津波の高さが書かれています。青看板にある赤線の位置です。このあたりの土盛りはそれより低いようです。まだまだかさ上げするのでしょうか。
次に向かいます。次は気仙沼市街なので、先頭を走ることになります。その前に念のために、津波石見学の可否を確認しておきます。結果は、時間ロスが大きいため「否」でした。ここまで意外と時間がかかりました。11時になっていますからね。気仙沼に向けて出発です。高田市内の橋を渡った信号でC号車だけが赤信号にかかります。交通量が多いので、気仙沼中学横の待避所で追いつくのを待ちます。やっと追いついてきたので、道路に復帰するため車が途絶えるのを待っている間に、C号車の人たちは、車を降りて中学校を見ています。こういう動きは速い人たちです。ここの建物も窓などが壊されています。最上階まで水に浸かっています。一本松からは棟屋の窓は残っているのが見えました。
軽く見終わって、再び車に乗り込んだら、気を取り直して出発です。30分ほど走って、バイパスから市街地に入る道に向かいます。このあたりの建物はほとんどなくなっています。土地のかさ上げもしていますが、高田に比べるとわずかなようです。大型漁船の流れ着いたところや、1階の壊れた文化財建物を横目に見ながら進みました。他の車にも解説を入れたいのですが、一度に1台だけなのでやめにします。トランシーバがあればできたのですが、携帯とは一長一短があります。
しばらく進むと、食べ物屋が並ぶ復興商店街の横を通りました。もうすぐ昼の時刻です。この先、建物が壊されていることが考えられ、食べるところがないかも知れません。食事をどうするか、チーフに確認の電話を入れます。「進め」ということだったのですが、しばらくして、食べようという連絡が入りました。商店街まで戻ります。ここには何軒かの、食堂やお土産物屋さんが並んでいます。ちょっと値段は高めです。元々港にあった商店が津波で壊されたのでこちらに移転して仮営業しているようです。ここでも何軒かに別れて食事を済ませます。のぼりにホヤぼーやと書かれています。一度はホヤを食べてみたかったこともあり、店でホヤが食べられるかどうか聞いてみたのですが、入荷がないとのことでした。また、別の機会にします。ここでは食事が終わった後、お土産も買いました。
ここから、南気仙沼に向かいます。ネットで見た限りでは、壊れたままの建物がたくさん残されているようですが、通った道が違っていたのかほとんど撤去されていました。合同庁舎に行きたいのですが、行きすぎてしまいました。10日間くすぶり続けたという超冷気仙沼商港冷蔵工場まで行って戻りました。庁舎はネットの写真とはちょっと色が違うように見えました。2階の窓の上に浸水深を示す標識があります。1階にあった窓は全て壁で覆われています。津波避難ビルに指定されていました。公共施設で、津波が終わった後、再避難を強いられたのは、どうしようもなかったのでしょうか。
ここから、県道を通って松岩に抜けるつもりでしたが、カーナビに従って国道に出てしまい、松岩中心部を通ることはできませんでした。コピーした元資料にも詳しいことが書かれていたのですが、トランクに入れたままでした。確認用に出しておくべきでした。
ここからずっと南下して、本吉小泉地区に向かいます。途中JRの代行バスにすれ違いました。一部JR線路上の専用道路を走っています。
大谷漁港から明神崎方面です。このように、重機が入って、工事現場のようになっている風景は普通のような感覚になってきました。
本吉に到着し、シーサイドパレスの工事現場に入るところで、展望台の位置を警備員さんに確認したのですが、ダンプの向こう側から入るように言われます。ダンプが待ってくれているようなので、急いで車を動かさないとと焦ったら、入口を見落としてしまいました。結局川縁からの観察になります。シーサイドパレスは囲いで覆われているものの、まだ取り壊されていないようです。作業がしやすいように、周囲は埋め立てられています。
川向こうを走るJR高架線は一部落橋しています。川にかかる国道も流され仮設のため、橋脚は鉄杭のみです。
気仙沼市内としては、小泉駅近辺がどのようになっているか気になりますが、前を通ったときに見るだけにします。次は、南三陸町になります。案内は、あまり役に立たなかったようですが、終わりです。ここからはA号車が先頭になります。B号車の運転も交代してハンドルを握ります。じつは、オートマ車の運転は慣れていないので、乗ってから動き出すまでの操作は考えないとできません。これまでもスタートにもたもたし、置いてけぼりを食らわされそうになったことは何度かあります。ここでも、ちょっともたもたしてしまいました。
JR小泉駅は見上げるような場所あったのですが、駅舎は破壊されています。速度を少し落として通過します。
南三陸町伊里前(歌津)です。伊里前川の水門が壊れています。手前側の機械室の倒壊が激しいようです。
場所を確認するため、あとで、地図を見ていて気がついたのですが、写真を撮ったあたりを高架で国道が通過していたはずです。橋脚等は全て撤去されていたのと、うたちゃん橋の被害がそれほどでもなかったようなので気がつきませんでした。左にある小山のような土盛りは、国道の高架部分の残骸のようです。こちらの方向に向かって続いてくるようです。
反対側を撮った写真にも、道路の断面が見えます。被災直後の写真と比べると、残っていた高架橋も撤去されているのがわかります。遠くの景色だったので細かいことはわからなかったのですが、写真にははっきり写っていました。
清水を過ぎたあたりから道は、桜川沿いにのぼって山の中に入ります。1kmほど進んだあたりでも、所々木が枯れています。かなり奥まで津波が遡上した様子がわかります。
至津川で再び海岸に近づきます。防災対策庁舎跡です。ここでは屋上まで冠水したことが知られています。建物の壁とかは一切なくなっています。防災庁舎の文字だけが残されているのはどういう皮肉なのでしょうか。
庁舎の向こう側に大きな土盛りが見られます。この付近も、高くかさ上げするのでしょうか。
南三陸町の次にどこによるのかチーフだけが知っています。JRで帰る人たちのために、松島駅でいったん解散すると言っていたので、カーナビは松島駅にセットしました。一応カーナビ通り順調に進んでいきます。まもなく三陸自動車道に入ります。ETCカードが必要かも知れないというので信号待ちの間にセットします。ICまでに何とか間に合いました。桃生津山ICから自動車道に入りましたが無料区間でした。急ぐ必要はありませんでした。そのまま自動車道を南に進んでいきます。間に何台か車に入られ前後のつながりが見えません。A号車は何とか確認できます。C号車はついてきているものと信じます。
途中石巻に寄ると言っていたのに、出口を通過していきます。一応確認してもらったところ、寄らないとのことでした。そのまま、自動車道を進みます。奥松島ICで自動車道を降り、松島に向かって進んで行きます。松島駅の前を通過したのですが、A号車は真っ直ぐ進んでいきます。確認してもらったところ、カーナビを松島海岸駅にセットしていたようです。松島海岸まで行きます。有料の駐車場があるのですが、手前でC号車の到着を待ちます。なんとC号車は、石巻で降りていたそうです。待っている間にも後ろから車が来ます。通行の邪魔になっています。前方の寿司屋の駐車場のような所にとりあえず車を動かします。店は開いていないのでしばらくはいいでしょう。数分待っていたらC号車が到着しました。再び全員がそろいました。
松島でみんながそろったついでに、見学していくことになりました。
車を有料駐車場に移動させます。通路との間が狭く止めるのに苦労しました。みんなが待っているところには、津波到達高を示す碑がありました。地面から1.5mほどであまり高くないようです。なぜ高くならなかったのかで議論をしていました。
ここで、全員そろって記念写真を撮りました。近くを通りかかった家族連れにお願いしたのですが、終わってからうちも撮って欲しいと頼まれます。持ちつ持たれつです。頼みに行ったメンバーがシャッターを押してあげることになりました。ここで、近くを観光したいという希望がありました。チーフからOKがでましたので、唯一の観光をすることになりました。まずは、松島の風景です。ここがどのようにしてできたのかというような、議論はしていたのでしょうか。
瑞巌寺の五大堂とそこに行くためのすかし橋です。橋は下が見えるようになっているのですが、板がはってあり渡りやすくなっていました。
五大堂は、各面3間の四角い建物です。柱の間の欄間にあたるところに動物の彫刻がありました。十二支のようです。でも何かわからない動物が彫られていました。
足りないものを、探せばいいのですが正面入口の上には額がかかっていて動物は彫られていません。全部で11種になり、一つ足りません。代わりに軒の支えの柱に「竜」がいました。これで12種全てそろいました。
結局足りないのは「寅」になります。そう思ってみると、竹が彫られているのに納得がいきます。竹には色が付けられていたようです。全部に色が付けられていたのでしょうか。
松島の見学は終わり、松島駅に戻り、ここでJRに乗るメンバーとは解散になります。経費の精算をしたらお別れです。我々は、仙台空港に向かいます。
レンタカーを返却し、店の車で仙台空港に向かいます。空港で最後の精算を終えたのは6時をまわっていました。ここから、電車で仙台市内に向かう者、大阪空港に向かう早い飛行機に乗る者を送った後残ったのは4名でした。我々の、飛行機の搭乗手続きはまだまだ時間があります。その間に、食事をします。レストランで、仙台名物ということで、タンシチューを頼んだのですが、パンでなくご飯がついているのを聞いて2名が予定を変更し、のってきました。柔らかくなるまでじっくりと煮込まれていました。
食事が終わったら、搭乗手続き開始直前でした。列ができていましたが、並んで手続きをしました。ここでもバーコードを読んでくれませんでした。座席は20A、窓側ですが後ろの方です。
空港の売店で土産物を買います。ここにホヤがあったので買いました。家に帰って食べてみたのですが、かなり生臭いので食べづらいです。ウニとかが好きな人は気にならないかも知れません。あと、食後しばらくしてから、果物のような甘いものがのどの奥に広がります。これが海のパイナップルという所以かなと思います。只いつまでも尾を引いて残るというのが難点です。
買い終わって、茶豆のジェラートをつまみ食いしたりしていると、すぐにセキュリティーチェックの時間になります。チェックを終わらせ搭乗待合室に移動します。待合室の風景です。
ほどなく窓側から搭乗になり飛行機に乗り込みます。ここも座席から見やすい位置に、壁があります。満席に近い状態ですが、後部は少し余裕があります。飛行機は定刻に飛び立ち、定刻どおり関西空港に到着です。淡路島西岸から南岸に沿って進み関空に降りるのは決まったコースなのでしょうか。最後に関西弁で利用お礼のアナウンスがありましたが、アクセントが違うようです。泉州の訛りなのでしょうか。降りた後見た飛行機です。
後部座席に座ったのは2名、降りるのに時間がかかり前部座席の2人と離されてしまいました。ターミナル間移動のシャトルバスにものらないといけないので一緒になれないようです。関空駅では、予定の電車が待っていました。乗っていないか確認したのですが、いませんでした。その時は、一台前に乗れたのかなと思ったのですが、今考えてみると、同じバスに乗っていたなら、我々は先に降りられた分、早く駅に着いた可能性もあります。いずれにせよ、最後の挨拶はできませんでした。
電車は天王寺乗り換えです。環状線が予定より10分早い電車に乗れた分だけ、帰宅も10分ほど早くなりました。それでも到着したときは、日付が変わっていました。
朝早くにでて、夜遅くに帰ってくるという強行軍のような旅行でした。