2015/09/13-17大陸ルート 対馬壱岐
9月の旅行の行き先は、壱岐と対馬です
対馬は前々から行きたかったところの一つです。その最大の目的は、ヤマネコです。壱岐も、修学旅行で行ってよかったという話を聞くので、一度はよりたいと思っていました。
対馬・壱岐は同じルート上にあるので、別々にではなく同時に行こうと考えていました。まずツアーを探したのですが、ヤマネコに近づこうともしないので、却下しました。となると、コースとか日程とか自分で組まないといけません。まず問題は、日程です。特に理由はありませんが、9月に行くことにします。次はどこにしようか考えているときに思いついただけです。気候も問題ありません。日をどうするかですが、星の関係がありますので限られてきます。新月が13日で日曜日です。12日の宿は取りにくそうです(実際に取れませんでした)。前にするか後にするかですが、前は計画を立て始めるのが遅れたため日が迫っています。後ろにすることにします(一つ失敗したことがありますがそれはあとで)。つぎは日数です。対馬の方が広いので、壱岐よりも長めにしたいものです。壱岐は八丈島の2倍の面積があります。八丈島は2泊でまわったので、おなじ2泊として、対馬を3泊にしたいのですが、全体の日数が長くなります。対馬も2泊とします。
次は、まわる順番です。初めは、壱岐に行ってから対馬と考えていたのですが、対馬発帰りの高速船はいったん壱岐によった後福岡に向かいます。壱岐からは、その後にもう一便あります。その時間差の分だけ長い時間滞在することができます。時間で3時間です。行きは同じ船になりますから、どちらが先でもいいのですが、帰りのことを考えると壱岐が後の方がいいようです。対馬→壱岐の順番にします。
次に、泊まるところを確保します。そこでいちばん問題になるのはヤマネコです。ヤマネコ関連の情報を集めてみます。北部佐護の野生生物保護センターで何匹か飼育していて、そのうちの一匹がみられることです。野生のヤマネコの行動は夜行性だが、明け方夕方も行動することがあること、最近は佐護−佐須奈間の国道での目撃が多いことです。この付近で、うすぐらくなるまでヤマネコを探すとして、近くの宿は、手前の三根か行きすぎた佐須奈になります。三根は遠いので第2候補として佐須奈を考えることにします。対馬の2泊目は、南部を中心に見るということで、宿の取りやすそうな厳原にします。宿をあたってみたのですが12日はどこも満室です。その理由が、韓国の大学が(日本だってそうだが)夏休みで対馬にたくさんやってきているためだそうです。結局、佐須奈が13日、厳原が14日になりました。壱岐は、それほど大きな島ではないので、拠点を決めそこからまわった方がいいだろうと考え、湯ノ本温泉で連泊することにします。周りが星を見やすそうな方の宿は団体に取られていたので、第2候補の宿(周辺にはたくさんあるのだが)で押さえました。
次は、島内をまわる手段です。対馬は広いのでレンタカーしかないようです。ネットで調べて、厳原の町中に営業所がある大手会社のところで予約できました。壱岐は、直径が20kmくらい、茨木−大阪間の距離くらいです。高い山もありません。島チャリといって電動アシスト自転車を借りることができ、港間で乗り捨てができます。天気がよければ、これを使うことにして、雨だとレンタカーにすることにします。平日なので、直前の予約で何とかなりそうです。
あとは、細々したことが残っています。どこをまわるかといったことです。それと博多までの新幹線を考えないといけません。金券ショップの安売りも考えたのですが、ネットの早特割にしました。乗り損ねると全てパーになるというリスクがありますが、その場合は行けなくなるので、そちらの方が問題となるでしょう。
9月13日の朝に出発しました。予定では、6時前の電車で新大阪まで行きそこから6時25分発の新幹線に乗る予定です。予定の時刻に駅に着いたのですが、電車がきません。時刻表を見るとでた後でした。平日の時刻を覚えていたようです。今日は日曜日でダイヤが違っていて3分早くでていました。次の電車まで10分以上あります。一瞬間に合わないのではと焦りました。乗り損ねると事前に購入した切符はパーになります。次の列車は快速なのでちょっとは早く着きますが、新大阪の乗り換え時間はわずかです。ぎりぎり間にあうか合わないかというところでしょう。ちなみに、JRの乗り換え案内ではこの列車は示されていませんでした。階段のありそうな位置で電車に乗り込み、急いで新幹線ホームに向かいました。何とか間に合いました。
列車はさくらです。4列シートなので、5列シートの列車に比べて席はゆったりしています。これで博多まで行きます。途中景色を見たり、本を読んだりして過ごしました。
博多到着が9時7分です。電車を降りてからトイレに行きくなったのですが、改札内にあるものは遠いようです。でてから探すことにしました。コンコースは見たことのある風景です。そういえば五島列島の帰りに寄っていました。トイレが見つけにくいところにあったのを思い出して、そこへ行きました。
その後は、バス乗り場へ。地下道を通って駅前広場の反対側に行き、銀行前のE乗り場です。ついたときは、バスがきていて発車しようとしていました。バス乗り場にはいっぱい人がいて乗り込むことができません。次のバスを待つことに。たくさんいた人たちは、次に来た国際ターミナルへのバス乗り込んでいきました。バスの時刻表を確認するとしばらくないようです。船の時刻が心配になってきたのでメモを確認すると大丈夫なようです。それでもぎりぎりな感じがします。別経路を確認しようかと思っていたら、バスがやってきました。ちょっと遅れていたようです。
乗ったバスは空いていて、乗降客がないためスムーズに進み、乗れなかった前のバスに追いつきました。このバスでは埠頭についた時には乗っていたのは1人だけでした。下りるときに高速船の乗り場を運転手さんに確認すると知らないといいます。ジェットホイルといわないといけなかったのでしょうか。水中翼船という言葉が頭にこびりついていて、他の言葉が出てきませんでした。ついたのは、船のでるちょうど1時間前でした。
バスを降りた右側の建物に、高速船の乗り場がありました。乗船券購入のため、乗船名簿を書いていたら、一人の女性が近づいてきて声をかけてきました。何でも、14人の団体で、あと一人増えれば団体割引になるとか。団体券なら船を下りるまでいっしょに行動しないといけないかも知れませんが、やすくなるという言葉に釣られて、切符購入のメンバーに入れてもらうことにしました。おかげで、切符は1割以上安く手に入れることができました。券は、個券でしたのでしばらく自由に行動できます。
乗船券売り場のあるベイサイドプレイス内には大きな水槽があります。魚とかエイトかが泳いでいます。写真を撮っておこうとカメラを出してスイッチを入れたのですが、電源が入りません。電池切れのようです。電池を取り出してみたらものすごく熱くなっています。カメラが壊れていないか気になります。故障でないといいのですが。電池を予備(本当はこちらが正規)のものに入れ替えると一応撮影できるようになりました。
館内は暗いので、ものすごくぶれやすいです。泳いでいたエイです。
館内の雑貨屋さんみたいなところで、しまとく通貨が売られていました。対馬の分と壱岐の分を両方買えたみたいですが、対馬の分3万円を買いました。ここで、対馬・壱岐の観光地図がもらえました。あと、ペット茶を買ったりと色々しているといつの間にか乗るための順番待ちの列が長く延びていました。
10分ほど前から、乗船開始です。ここから、船までもだいぶ歩きました。波止場の船です。隠岐とか五島とかで見たのと同じ形です。同じメーカーのものかも知れません。
2階左窓側の席は詰まっていたので、右側の席になりました。座ってすぐに出発になりました。
港には、大型客船が来ていました。高速艇は、そのすぐそばを通りました。黄色いジャケットを着た人がデッキに集まっています。救助艇も下ろせるよう準備されています。避難訓練でもしているのでしょうか。それにしては人が少ないように見えます。
港を出てからは、博多湾を塞ぐ海の中道が見えます。その先端にある志賀島です。金印がでた場所の記念碑が見えます(真ん中くらいの木がないところです)。
玄界灘に出でからもずっと島影が見えます。あとで地図で確認したところ小呂島のようです。
小呂島をすぎるとすぐに、壱岐芦辺港に到着しました。
芦辺港で、乗客の乗り換えがあったと、次は対馬厳原港です。壱岐島を過ぎるとすぐに対馬が見えてきました。
厳原港に入って、海上保安庁の巡視艇が見えてきました。たくさんあります。博多港にもありましたが、国境が近いせいで出番が多いのでしょうか。
厳原港ターミナルです。あまり大きな建物ではないのですが、国際と書かれています。韓国から観光客が来るようですが、入国審査とか対応できるのでしょうか。
船は、2階からでてタラップで下ります。帰りは1階からでした。今考えてみると、大潮の干潮のため、1階出口が下がりすぎていたからかも知れません。
タラップを下りたところで、レンタカー会社の人が来ていました。営業所の名前が違っているのですが、確認すると、連絡が通っていました。営業所近くの観光案内所によりたかったので、営業所の方に行っていいかと聞くと、車はこちらにあるとのこと、こちらで手続きをすることにします。博多港で、団体割引に入れてくれた人たちも同じレンタカー会社から車を借りることになっていました。その人達の手続きが終わってからになったので、30分ほど待たされました。
何とか乗れるかと思ったのですが、まずカーナビがついていません。確認すると、電源が入っていなかっただけです。ほっとしていざ、出発しようとすると、何か変です。ハンドブレーキが外れていません。はずそうとハンドルを探したのですが、どこにも見当たりません。車で帰ろうとしている営業所の人を止めてハンドルの位置を確認しました。足元にありました。クラッチと間違えて踏み込んでしまいそうです。
やっと出発できるようになりました。今日の予定は、野生生物保護センターに寄り道をしながら最終入場できる4時までに着くことです。その前に、観光物産センターにいき、観光パンフをもらうことにします。欲しいのは、対馬トレッキングガイドブックと対馬歴史観光ガイドブックです。どちらも立派な冊子になっています。無料で入手できました。
野生生物保護センターに向けて車を走らせます。まず見えてきたのが、万関橋です。
明治時代浅茅湾に海軍の基地があり、そこの艦船が、対馬東水道にでるために掘られた水路にかかっています。この水路のおかげで、日露戦争で、海軍が活躍できたとか。
万関橋から見た、水路(万関瀬戸)です。水が激しく流れています。西側浅茅湾方面を見ています。
もう少し進むと、左あそうベイパークと書かれているところにきました。対州馬やツシマジカかいたような気がします。寄って見ましたが、広場があるだけです。帰ってから確認すると、もう少し奥に行かないとだめだったようです。少なくとも駐車場にわかりやすい地図があったら見損ねなかったと思います。入口付近に自然観察の池というのがあります。海水が混ざるようになっているところもあります。
アメンボとかイトトンボとかここにしかいない昆虫がいるそうです。見かけるトンボは普通にいるシオカラトンボとコオニヤンマのようです。アメンボもいましたが、普通に見かけるものと変わりがないように見えました。たぶんこれではないでしょう。
堤防を隔てて反対側は海です。水はきれいですが、魚の姿は見かけません。代わりにクラゲがいました。
斜面には、ヒガンバナが咲いています。そういえば一週間後は秋の彼岸です。
あそうベイパークを後にして、北上を続けます。今度は、和多都美神社への分岐がありました。時間的によってみることができそうです。車の向きを変えます。
和多都美神社で最初に見えてきたのが、鳥居です。海の方に向かって並んでいます。今は干潮なので、陸の上にあるように見えますが、満潮時は足元を波が洗うようです。いちばん向こうのは海の中です。何か由来でもあるのでしょうか。
入り江の入口の横に、海を背にした女の人の像があります。釣り人がいて近くに寄れなかったので何かわからなかったのですが、周囲のいろいろなことを総合して考えみると、豊玉姫のようです。海幸彦山幸彦の伝説に出てくるようですが詳しいことは忘れてしまっています。海を背にしていることと、先ほどの鳥居の並びと何か関連がありそうです。
和多都美神社参道脇に三本足の鳥居があります。同じようなものは石上神宮で見たことがありますが、ここでは、拝殿脇にももう一つありました。下に磯良恵比寿という表面に亀の甲羅のような模様のある石を祀ってあるようです。もう一つの三本鳥居の下にも石がありましたがこちらは何なのかわかりませんでした。
和多都美神社の拝殿です。祭神は、彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと:たぶん山幸彦)と豊玉姫命(とよたまひめのみこと)だそうです。このあたりは海彦伝説の元になった場所とされています。
メインの観光地なのか、韓国の人がたくさん来ています。この後、この付近と厳原の町中以外で対馬で韓国からの観光客(日本からの観光客も)にあうことはありませんでした。みんなどこに行っているのでしょうか。
ここから少し進んだところに烏帽子岳があります。ついたのは、韓国人を乗せた観光バスのすぐ後ろです。ちょっとの高さ、といっても50mほどですが、団体客と山を登ることになります。山頂には展望台があって周囲の海や山がよく見えるのですが、人が多くて身動きも取れません。早々に退散します。
展望台からの写真を載せます。東側を見ています。浅茅(あそう)湾のいちばん北西の奥(濃部浅茅湾)を見ています。一番奥の細長い島が草島です。奥に対馬海峡東水道もわずかに見えています。
西側です。仁位浅茅湾とその奥に対馬海峡西水道が見えています。
だいぶ時間を使ってしまいました。次に行くのは、最大の目的地である、野生生物センターです。
烏帽子岳を後にして、野生生物保護センターに向かいます。ところが、対馬をなめていたのをつくづく思い知らされます。なんと、センターまで1時間半近くかかったのです。後で地図を確認してみると、厳原から烏帽子岳までほとんど移動していません。残った距離の方がはるかに長かったのです。到着時は、センターはとっくの昔に閉まっていました。ヤマネコの情報を得ようとしたこととか、ヤマネコの福馬君にあうこともできません。
まず、ここの見学をどうするかを考える必要があります。明日は月曜日で休館日です。明後日まで対馬にいますが、1時の船で壱岐に向かいます。30分前までに乗船手続きが必要です。10時開館で30分いるとして、2時間で厳原港まで戻るのは厳しいようです。あきらめるしかないようです。次回出直すことにします
この後は、夕暮れ近くまで、適当な場所でヤマネコが出ないか探してみるしかありません。日没まで、少し時間がありますので、近くの棹崎公園を歩いてみることにします。
センターの前に、鹿の角が落ちていました。持って帰ろうかなと思ったのですが、2本もあったので、センター入口の門の上に置いておきました。2本の内の小さい方の1本です。
センターから遊歩道に入ったところでシカを見ました。対馬のシカは、本州のものとはちょっと違う種類(亜種)とされています。そうとわかっていればしっかり見ておくべきでした。最近は、対馬でもシカの食害がひどいそうです。シャッターチャンスはいくらでもあったのですが、この手ぶれのひどい1枚しか撮っていませんでした。
林を抜けると、展望台に出ます。このあたりから、岬の先端にかけて、第二次大戦中に砲台が置かれていました。その名残を見ることができます。実際には使われることがなかったようです。
展望所です。敵機の監視をしていたのでしょうか。
公園の休憩ベンチのような施設です。砲台の台座を利用しているのでしょうか。丸くなっています。
日本最北西端の碑です。確かに地図に斜め45度の線を引いてみればここが端っこになります。これも、丸い形をしているのは、砲台と関係があるのかな。
海の向こうには、朝鮮半島が見えます。すぐそこにあります。
岬の先端、灯台方向です。
ヤマネコのシールを貼った軽トラが止まっていて、下りて何かを監視している人がいます。ヤマネコの情報を得られるかなと思って聞いてみたのですが、知らないようでした。
足元の敷石を見ると、漣痕の模様が見えます。ほとんどの石に見られます。意図的に置いたような感じがします。写真には写っていませんでした。一つだけ、裏返しで、生痕化石の様なものがついているのがありました。
だいぶ日が傾いてきたので、公園から駐車場まで下りて、ヤマネコ探しの場所を考えることにします。
駐車場から下る道路上でツシマテンが2匹いるのが見えました。撮影の方法で躊躇している内にどこかに行ってしまいました。
ヤマネコに関する情報は、全く手に入りませんでした。わかっていることは、佐護−佐須奈間の国道で目撃情報が多いということぐらいで、後は、輻輳しています。とりあえずその国道に行ってみることにします。往復したのですが、普通の山の中を走る国道といった感じです。通行量も結構あります。あまり野生生物が出てきそうな雰囲気ではありません。脇に入る林道はいくつかあって車もほとんど通っていないようです。このうちの1本に入り、そこで待ってみることにします。
林道に入口から、少し歩いて行きます。道路脇の斜面に、ミツバチの巣箱がありました、蜂は飛んでいないようです。大陸系のスズメバチが最近増えてきて、ミツバチを襲っているそうですが大丈夫なのでしょうか。
あたりが薄暗くなるまで粘ったのですが、ヤマネコにあうことはできませんでした。これからなのかも知れませんが、写真には写りませんのであきらめて次回ということにします。宿に向かいます。
宿に着いて一息ついてから使用としたのは電池の交換です。博多港で、カメラの電池が切れていました。充電済みのものを出して、放電したのをケースから取り出す時に変な力が入って、放電した電池を、受電済みの電池の中に落としました。この時のために電池に印を入れていたのですが、長いこと持ち歩いている内に消えてしまっています。電池は4本組で使うのですが、正しい組み合わせでないと、すぐに電圧低下で使えなくなります。といってそれを調べる方法がありません。使える電池は、今カメラに入っているものしかありません。寿命は縮まりますが、こまめに充電するしかありません。
宿で夕食を済ませてから、星を見に行きました。空は意外と明るいようです。東の方が明るいので、日本海のイカつり漁船の影響かも知れません。天の川は見えません。あるといえばそうかなという状態です。写真には写ります。
あと2枚だけ。沈むさそり座です。山の斜面に沿ってS字が並んでいます。
東の空からは、ペガススが昇ってきています。四辺形が見えます。アンドロメダ銀河も左下に写っています。
10時くらいまで星を見た後は、宿に戻って寝ることにしました。
翌朝は散歩がてら、町周辺を歩きます。場所がはっきりしないのですが、大杉があるみたいなのでそちらの方に行ってみようと思います。
集落の端に金毘羅神社がありました。入口の鳥居です。対馬には、鳥居の並んでいる神社が多いようです。
階段を上がっていったところでは、佐須奈の町が見下ろせます。江戸時代には、朝鮮半島との交易の中心になった港だそうです。
川沿いにセンニンソウが咲いています。対馬・壱岐では至る所に見られました。
日吉の夫婦杉左という標識があります。そちらの方に進んで行きます。大きなイチョウのむこうに、大きな杉の木が何本かあります。右側の2本が夫婦杉です。
ここは嶋大國魂御子神社の境内になっています。神社の社叢には、カヤ、ウラジロガシ、ケヤキなどの巨木があるそうです。そのうちの、ムクロジの大木です。石段の途中にあります。
嶋大國魂御子神社の拝殿です。
早朝もヤマネコに出会えるかも知れないということなので、ここから川沿いに奥に進んでいきましたが、やっぱり無理でした。ここまでは、全ての畑に柵がありヤマネコは活動しにくいので、出ては来ないでしょう。もう戻らないといけない時間のなので引き返します。
川には、魚が群れています。偏光フィルターの威力を見たいので撮ってみました。右上の変色している部分は、フィルターを持つ指の色です。右下に魚がたくさんいます。ファインダーではわからなかったのですが、川底の小石がきれいに写っています。
宿で朝食を摂って、荷物の整理ができたら出発です。宿泊費を払うときに、窓口を見ると、ヤマネコの写真がいっぱい飾ってあります。「見たかった」というとしばらくはヤマネコ談義になりました。写真を撮った人はヤマネコ関係の写真では有名な人のようです。パンフの写真撮影者として名前が載っています。自宅の電話番号を教えてくれたのですが、個人情報のことはこの付近では気にしていないようです。
今日の予定は、御岳と白嶽に登ることです。その前に北部の比田勝周辺を見てから行くことにします。
比田勝港の駐車場に車を止め、向かい側のバス停にあった付近の観光案内図を見に行きます。網代の漣痕、塔の首遺跡、殿崎がおもしろそうです。行き先を決めて、車に戻ろうとすると一人の人が近づいてきて、おもしろいところを案内すると言ってきました。成り行きでそこに行くことになりました。助手席は、カバンやらカメラが散らかっています。片付けないとと思ったら、すんなりと後部座席に乗り込んでいました。
途中、色々と話しかけてきます。競輪をやっていたとか、大阪の競輪はどこがあるかとか、でも、話に要領を得ないところがあります。話の内容を理解するのに苦労しました。
案内された先は、大増近くのオメガ塔設置場所跡です。映画になっていたとか説明してくれたのですが、知りませんでした。オメガ塔の原理を、P波S波を使って説明してくれるのですが、納得できるところがありません。説明板に書かれていることを要約すると次のようになります。オメガ塔からは、10KHzほどの電波(波長は30km)を発信するものです。地球上に何カ所かあるオメガ塔からの電波のずれから船の位置を位置を求めることができます。GPSと原理は同じです。現在はGPSの方が精度が高いために、使われなくなっていったため廃止され取り壊されています。地上取り付け部と、柱の一部が残されています。これが、400m以上の高さに立っていたそうです。東京タワーより高かったことになります。
車に戻った後は、おお(大浦)まで送ってくれと言ってきましたす。比田勝からそんなに遠くないので、送ることにしました。どちらかと言えば、ヒッチハイクが目的だったようです。
大浦まで送った後、網代の漣痕は欠かせませんから、比田勝に戻ります。ちょっと時間をロスしたようです。比田勝に来たのは、しまとく通貨を買おうかなというのもあったのですが、対馬内は持ちそうなので、パスすることにします。
比田勝港にはフェリーが停まっていました。博多からの船です。
もう少し海岸沿いを進んだところが網代漁港です。その防波堤の所に漣痕が露出しています。風化が激しく、模様はわかりにくくなっています。棹崎とか対馬歴史民俗資料館の前の敷石のものの方がはっきりとわかります。
他にも、同じ地層が出ていますが、漣痕らしいものはこの砂岩表面のものだけのようです。底痕もあると書かれているのですが、そうかなという感じです。
今度は、比田勝港の向こう側にある塔の首遺跡です。地元小学生が銅矛を見つけたということがきっかけで発掘された遺跡です。石棺が4つあったそうですが、一つは崩れて3つだけになっています。そのうちの真ん中のものです。
次は、殿崎です。日露戦争時、沈没したロシア船の水兵がここから上陸したといわれています。その関連の記念碑があります。上陸地はこのあたりの海岸だそうです。崖を登ってきたようです。
遊歩道を歩いているとイノシシのぬた場のようなものがありました。対馬にもいるのでしょうか。パンフには1700年頃に根絶されたと書いてあります。
殿崎の遊歩道は、笹藪を切り開いたような道が続き行き止まりになっていました。その近くの海岸に、石を積み上げたようなものがあります。何なのでしょうか。案内板には本山様観音様というのが書かれていましたが、それらしいものは見当たりませんでした。何か関係があるのでしょうか。
殿崎遊歩道ははこれ以上行けないので、引き返すことにします。次は御岳です。殿崎から最初の集落に茂の井戸というのがありました。この井戸の水で、ロシア兵の体を洗ったそうです。車から降りずに写真を撮っています。
比田勝から、国道を南下します。お茶が少なくなってきたので、途中大浦のスーパーで買っていくことにします。先ほどの人がいました。下ろしたところのとなりの建物ですからちかくです。お茶を買って、車に乗ろうとすると、やってきて、泊まりはどこかと聞いてきます。厳原と答えると、下(下県)の方に行くなら東海岸でいいところを知っている案内するから乗せてくれといいます。今回は、目的がはっきりしていますし、これ以上時間を使うと、夜道を歩くことになりかねません。丁寧にお断りしました。御岳公園までなら乗せてもよかったかな。
パンフには、御岳公園でトイレを済ませてから、登山するように書かれています。その通りにします。御岳入口から登山道までの道は狭く曲がりくねっています。何とか行けそうですが、登山口直前の橋を倒木が塞いでいます。ぎりぎり軽自動車が通り抜けられるくらいのすき間が空いています。ここを通り抜けていきます。登山口にはくるまが5台ほど止められるスペースがあります。すでに1台停まっていました。持ち主と途中で出会うのでしょうか。
登山道入口です。鳥居があります。
登山道です。普通の山道とあまり変わりがありません。
登山道脇にキノコが生えていました。他にも何種類かみました。種類まではなかなか判別できません。
スズメバチが1匹飛んでいるのを見かけました。腹部がオレンジ色をしています。大陸系のツマアカスズメバチみたいです。こう簡単に見かけるということは、対馬にはたくさんいるといわれているのがわかります。来る途中の船で北九州でも見つかったと報道されていました。本土に広まるのは時間の問題なのでしょう。
途中一度、道がわからなくなりました。適当に戻っている内に正規の道に戻ることができました。帰りにわかったことですが、2本連続して木が倒れているところがあり、そこの1本目は乗り越えていくのだけれども、2本目は、乗り越えるのではなく、倒木に沿って登っていくのが正しかったようです。倒木を迂回するのだと思い、勢いで2本とも越えてしまいました。
とちゅう、モミの木がありました。林になっているそうですが、それほどいっぱいというようには見えませんでした。
島大国魂神社です。脇にわき水があり水分を補給することができます。
再び鳥居がありました。場所は、平岳方面への分岐点近くです。
御岳山頂には、祠がいっぱいあります。そのうちの一つです。蔵王権現と書かれています。
御岳山頂は木が生い茂っていて、見晴しは今ひとつです。唯一見えた南側の景観です。
山頂に着きました。登って来た道を引き返します。パンフにはヤマネコの糞を見かけることがあると書かれていました。全然ありませんでした。代わりにあったのは、ツシマテンの糞です。植物の種子が含まれています。イヌビワの種が多いようです。イヌビワの実は道にたくさん落ちています。
登山道入口まで戻りました。もう一台の車はまだあります。途中誰にも会いませんでした。どこに行っているのでしょうか。
次は、車で御岳南側の目保呂ダムに向かいます。ダムです。対馬の水源としたら、十分な大きさです。
ちょっと上流側に馬事公園があります。ここで、対州馬が飼育されています。
馬舎です。はじめは、顔を出していなかったのですが、しばらくするとみんな顔を出してきました。頭が胸の高さくらいですから、確かに小さいです。
外に出ている馬もいました。近づいたら遠ざかっていきました。なかなかよってきません。近くで見るのはあきらめて車に戻ります。
次は、白嶽を目指します。
今度は白嶽に向かいます。パンフ通り、登山者用駐車場でトイレを済ませ、登山口に車を走らせます。御岳の道より狭くすれ違いのできないところが続きます。対向車のことを心配しながら走らせましたが、運良くというのか、向こうから来る車はありませんでした。小型バス以下通行可と書かれていますが、小型バスは無理でしょう。
登山口の横に滝がありました。ロープが下がっているのはここを上り下りするためでしょうか。
登山道を進んで行くと、岩が積み重なっているところがありました。行者の岩屋です。岩の下にすき間があります。
ここの山道沿いにもキノコが見られます。
この登山道でも、一度道を間違えてしまいました。沢を2つ連続して横切るところで、2つ目の沢を、横切らないといけないところを、そこから上に登ってしまいました。何か変だと思い地図を確認したら違う方向に進んでいることがわったので元のところまで戻りました。
鳥居が見えてきました。白嶽神社の鳥居です。神社そのものはどれなのかわかりませんでした。
道の脇に祠があります。
このあたりで、完全にばててきています。あしがうまく動きません。道は険しくなっていきます。ロープの張ってあるところがあります。上りには足場が限定されるので不便です。下りるときに使うと体が安定して楽でした。
山頂前広場にある祠です。山頂前といっても山頂はまだ先です。
山頂直前から見た浅茅湾入り口付近です。このあたりの景色はきれいです。
白嶽雌岳です。ここに登るのには技術がいりそうです。
こちらが雄岳です。左側の肩の所までは登れたのですが、その先、下り道が確保できそうでなかったのであと5mほどを残して登るのを断念しました。
足元です。足場は狭く断崖になっています。
南側から白嶽に続く尾根です。険しい山が続いています。
急いで下りることにします。暗くならないうちに下りてしまいたいです。登山口は林が深いせいもあって、ちょっと薄暗くなっています。急いで通り抜けました。登山口から車に乗り、宿を予約した厳原までまっすぐ行くことにします。
厳原についたのは夕方少し前です。とりあえず、宿に向かいました。荷物を置いた後、夕食まで時間があるので、ショッピングセンターティアラに行ってみましたが、国内向けのお土産物はありませんでした。ついでに、ちょっと北側の、八幡神社にも寄りました。鳥居をくぐった境内です。駐車場になっています。
八幡神社以外にも、いくつかの社が同居しているようです。鳥居が並んでいます。
いちばん右側の鳥居の横に、八幡神社に行く石段があります。
右側の鳥居から真っ直ぐ上がっていったところにあるのが宇努刀神社です。もう薄暗くて、写真にはうまく写りません。一枚、変な写り方をしたのですが気にしないでおきます。
宿に戻って夕食です。対馬の郷土料理の石板焼きだそうです。魚貝類や野菜をたれに漬けこんだあと、石板の上で焼いて食べるものです。石板には、焦げがこびりついています。普段あまり調味料を使って食べていないので、つけ込みすぎると辛く感じます。さっとくぐらせるだけでじゅうぶんでした。お茶を飲み過ぎたせいか、おなかがふくれてあまり入りません。それにものすごく眠たくなってきました。1時間かけて食べたのですが、最後の一つが無理でした。
とにかく眠たいので、風呂に入ってなることにしました。晴れていますが、星はなしにします。
翌朝は、町中を歩いてみます。南側にあったのが西山寺です。対馬藩宗家と関係があるお寺で、藩の外交文書を作っていたそうです。宿坊になっています。
厳原の漁港です。漁船が停まっています。
町の中心部に戻りました。いくつもの韓国人のグループが集まっています。もう出発なのでしょうか。
ここから、すこし山側に進むと、金石城の山門が復元されているのが見えます。
その奥にあるのが万松院です。歴代宗家の墓所があります。この石段(百雁木)を登ったところにあります。まだ開いていなかったので、入れませんでした。
近くの金石城の門跡のような所から城内を入っていくと庭園が復元されています。ここも中に入ることはできませんでした。
金石城山門の横から、清水山に登っていく道があります。この山は、秀吉の朝鮮出兵に際して城が作られています。人家が途切れたところで、ツマアカスズメバチを見ました。対馬に来て2回目です。
最初の平坦で開けたところまできました。城跡の三の丸跡です。
そこからさらに登っていくと、二の丸の石垣があります。
ちなみに城内は、こんな感じです。かなり険しい登りの尾根です。
山頂近くになりました。本丸の石垣がみえます。
本丸跡からは、厳原市街と厳原湾が見渡せます。左側水平線上に、壱岐島が見えています。
もうすぐ朝食時間なので、宿に戻ることにします。途中、歴史民俗資料館の前を通りました。ここの敷石のほとんどに漣痕が見られました。意図的に敷かれているのか気になりました。対馬出発までによることがあれば聞いてみることにします。
宿で朝食をとった後、しないといけないことがあります。予報では、今晩からしばらくの間、天気が崩れてくるとのことです。壱岐を自転車でまわるのは無理です。レンタカーを借りることにして、予約を入れておく必要があります。壱岐のレンターカーは港まで持って来てくれる方式になっています。まだ早い時間だったのでつながらないか心配だったのですが、無事予約を取ることができました。
今日の予定です。昨晩、宿のポスターを見ていたら、阿連の洞門というのがのせられていました。実物を見たくなったので、場所を聞いてみたら小茂田の方といいます。厳原から見ると島を横断したところになります。ここなら行って、そのあたりを見てから帰ってきたら時間的にちょっとおつりが来るくらいです。小茂田の方に行くことにします。
厳原から車を走らせていると、硯石の産地と書かれているところがありました。棹崎とか歴史民俗資料館の前の敷石は硯にできそうだとみていたのですが、実際の産地も見てみたくなりました。帰りに寄ってみることにします。
小茂田に着くちょっと手前に、阿連は右への標識がありました。阿連というのは地名だったのかと納得しそちらの方に進んで行きます。道は山の中に入り、小茂田から離れていきます。なんか変だったので地図を確認してみると、阿連というのは小茂田のもう一つ北側の湾にある集落の名前でした。ちょっと離れていますが、このまま進んで行きます。
阿連につきましたが、何も案内がないまま、集落を通り過ぎ、山の中に入っていきます。ポスターを見た限りでは海沿いにあるようでしたから、町外れから、狭い道を進んで海岸の方にいくことにしました。道は防波堤で行き止まりになっていたのですが、そこは漁港のようなところで、魚の選別をしている人がいたので道を聞いてみました。反対側の、波止場から海岸に沿って南側に歩いて行けばあるとのことです。
指示に従って、波止場に車を止め、海岸に沿って歩いて行きます。道も何もありません。本当にこんな所にあるのだろうかと思ったころ、見えてきました。15分かかりました。
海岸は、ゴミだらけです。ほとんどが、ハングルか英語で書かれています。国内のゴミは少ないようです。
トンネル近くの岩石です。砂泥互層になっています。
トンネルを通り抜けたところから振り返ってみました。トンネルは2本あり、底面はコンクリートで固められています。出口から続く道は波に洗われたのかなくなっています。
ここから、小茂田まではまだ倍以上の距離があります。昔の人は、海岸を1時間もかかって歩いていたのでしょうか。
落盤の危険性があります。標識がなかったのも、延々とあるかないといけないというのと、けがをしたらというのがあるので、おおっぴらに紹介できないのでしょう。
阿連の港に引き返し、車で小茂田に戻ります。小茂田で向かったのは小茂田浜神社です。
元寇の戦いで、元軍が小茂田浜から上陸し、日本軍は、ここで迎え撃ったものの全滅したといわれています。神社は、ここで奮戦した人たちを祀っています。
神社の拝殿です。
拝殿前には、なぜか日露戦争時の砲弾が置かれていました。
小茂田浜です。蒙古襲来の頃の海岸線はもっと陸側奥にあったようです。
小茂田の南隣に椎根という集落があります。ここの家の倉庫は、石で葺かれているのが特徴です。防火、暴風対策に効果があります。
石屋根部分です。阿連でも見られましたが、対馬の岩石は、薄く割れやすいため、このような屋根用に簡単に加工できたので利用されたのでしょう。石板焼き用の石もこの石でした。
次の町までは遠いので、厳原に引き返すことにします。山に入りかけた樫根というところで右側に鉱山跡のようなものがありました。パンフには、日本最古の銀山と書かれています。
立ち入りができなかったので、遠くから見るだけにして、厳原に戻ります。途中硯石の場所はいつの間にか行きすぎてしまいました。
車は、厳原に戻ってきました。まだ出航までは時間があります。町の南側にお船江というのがあるので見に行くことにします。途中道路とは対岸に見えた立亀岩です。港のシンボルみたいなのですが、金網に覆われているのは今ひとつです。
思ったより遠くに、お船江がありました。昔の人は金石城からこれだけの距離を歩いていたのでしょうか。走ってきた道路沿いには車の止められる場所が見つかりません。旧道に入って進んで行くと駐車場入口が見つかりました。
お船江とは、藩の御用線を保管しておく場所で、これほどきれいに残っているところは他にないそうです。
お船江に入るための水路です。
まだ、出航までには早いのですが、港に戻り、手続きをして、お土産でも買うことにします。船乗り場の前でガソリンを入れ、港の駐車場に車を止めます。出航1時間前というのに止めるところはほとんど空いていません。早めに来ておいて正解でした。対馬での走行距離は約350kmでした。
乗船手続きが始まっていたので乗船券を買い、いったん歩いて町の方に行きます。ティアラで壱岐の分のしまとく通貨を買いました。壱岐市内の券は発行できないらしく、対馬にいることになってしまいました。
物産館というところで(工場直営の普通の土産物屋さんでした)お土産を買って、町をぶらぶら歩きながら、港に戻ります。川に架かる橋から見た景色です。
厳原の町は、立派な石垣に囲まれた家がたくさんあります。四国にあったように暴風対策かなと思ったのですが、どちらかというと防火対策だそうです。
朝鮮通信使の接待所跡の碑です。それより、隣の郵便ポストが気になります。
このまま、港に戻ったら、車の引き渡しを約束していた時刻です。レンタカー会社の人が周辺にいないので、船乗り場とかを探してから、車に戻ったら、車のところで電話をかけようとしているのを見ました。電話は車の中です。
車の引き渡しも無事終わり、船に乗るだけです。待合所2階の土産物屋さんで土産物と昼食を買っていると、いつの間にか列ができていて、最後尾になってしまいました。
船は来たときと違って、1階から乗り込むようになっていました。来たときに2階だったのは、やはり潮の関係だったのでしょう。船内は、2階右側の席を確保しました。船は時刻通りに出航しました。すぐに対馬から離れていきます。対馬最南端の豆酘崎です。
天気のせいか、それとも向きが悪かったのか壱岐島が見えるまではかなり時間がかかりました。
壱岐島赤瀬の沖合でオオミズナギドリの大群に出くわしました。数え切れないくらいいます。鳥柱かなと期待したのですが、休んでいるのもいます。海面に群れて休んでいるところに船が突っ込んだのでしょう。
壱岐芦辺港はもうすぐそこです。
芦辺港で船を下りると、レンター会社の人が待っていました。返却は郷ノ浦港に決まりました。料金が対馬に比べて高かったので、しまとく通貨を追加で手に入れるためターミナルによります。ついでに、壱岐のパンフをいくつかゲットしました。
この後、北回りで宿を取った湯ノ本まで行くことにします。芦辺周辺も見るところがあったのですが、気がつかずにスルーしてしまいました。明日以降天気が崩れるということなので、景観スポットの猿岩は今日中に行っておきたかったのもあります。
北回りにしたのは、勝本の串山半島あたりになんとか石というのがあります。石と名前がついていれば、見ないわけにはいきません。まず第一の目的地です。
何とかというのは、土台ということでした。壱岐島の土台を作っている石という意味です。地学用語では基盤岩といいますが、この時代のものはそう呼ばないこともあります。岩石的には、対馬阿連などで見たような対州層群に似ています。
中に挟まれた地層が、曲がりくねっています。スランプ構造です。海底地滑りによってできたとされています。四万十層群によく見られるのですが、何か関係があるのでしょうか。
この場所に、もう一枚違う説明の看板がありました。ハイビャクシンという、ここから朝鮮半島にかけての地域にだけある植物が見られるというものです。その遠景です。
ビャクシンという植物は、葉の先が尖っています。それの小さいものかと思ったのですが、ヒノキに近い葉っぱの形をしています。果穂も大きくなり始めています。
串山半島をもう少し進んだところにイルカパークがあります。有料です。イルカが見られるなら入ろうと思ったのですが、受付に誰もいませんでした。外からの写真です。
さらに進むと、勝本園地があります。入り江を公園として整備しています。海水浴のできる施設が整っています。足元は石がたくさんあって、裸足では痛そうです。沖合は、島があって波を防いでいます。海岸西側の岩場から、若宮島です。
地図には、定期観光バスがこの先からまわってくるように書かれているのですが、道は行き止まりです。引き返し、勝本浦まで戻ることにします。
パンフには、勝本の町外れに、聖母宮というのが書かれています。何かわからないのですが、何なのか興味があります。行ってみることにします。勝本の町の真ん中まで戻ったところで、道は2つに分かれています。海側の道は、すぐに寂れていきそうです。町に入ってきた方の道を進みます。一応国道です。国道に入ってすぐ左側に、諏訪大社の御柱が置かれていました。勝本町は河井曽良の終焉の地の関係で、河井曽良が生まれた諏訪市とは友好都市の関係にあります。その縁で諏訪市から、諏訪大社の御柱祭に使われた御柱が勝本町に送られたものです。河井曽良は、奥の細道で、芭蕉といっしょに旅行した人です。
車の中から撮った御柱の写真です。
さらに進んで行きます。芦辺への分岐はもときたところに戻ります。曲がらずに進みますが、だんだん山の中に入っていきます。役場の駐車場がありましたので、そこで車を停め、場所を確認することにします。聖母宮は海岸沿いです。最初の分岐を海側に進まないといけなかったようです。
駐車場の脇に、河井曽良の墓に続く通歩道があります。興味はあるのですが、墓だけ見てもと思いパスすることにしました。お寺の中にあったようです。他にも、勝本城跡が公園として整備されていたようです。
道を引き返し、最初の分岐へ。こちら側から来ると、聖母宮への標識がはっきり見えます。標識に従って進むと、狭い路地に入ります。車を止められなくなると困りますので、そこに入る手前の防波堤近くに置くことにします。このまま防波堤沿いに進むと駐車場があったようです。
路地に入って正面に、赤い屋根をした不思議な建物があります。戸口は空いています。確認のため、表札を見ようとしたのですが、中に人がいるようです。先に気づかれました。集会で集まっていたそうです。
阿弥陀堂といいます。江戸時代の朝鮮通信使がこの場所で宿泊していたそうで、その時の建物の土台石が残っているそうです。
ここを右に曲がったところに、聖母宮の西入口が見えます。道沿いには稲荷神社もあります。
聖母宮は、神功皇后が百済出兵の際にこの地に建てた建物の跡地に、神功皇后を祀るために建てたのがこの神社だそうです。
西門と南門は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時に加藤清正らによって造営寄進されたものだそうです。西門です。
道をさらに進んでいくと、右側に2つの碑がありました。
一つは、元軍がここから上陸したという石碑です。
二つ目は馬蹄石を示す石碑です。石碑を見る限り馬蹄石は、どれを指しているのかよくわかりません。手前の石棺のようなものが関係しているように見えます。もう一つ、石組みの台の上、積み石のように見える最上段の、2つ並んだ石の表面が、少し凹んでいます。どうもこちらの方ではないかと思われます。神功皇后が乗った馬が踏ん張ったときにできたくぼみとされています。
徳島県の山中にも、馬蹄石というのがあります。これには、きれいなU字型のへこみが見えます。壱岐のものは、偶然できたへこみのようにも見えます。
道は、ここまでのようです。引き返すことにします。後で入手した「勝本浦散策」というパンフには、この付近にあるものが詳しく書かれています。
次の目的地は、猿岩のある黒崎半島です。
今度は壱岐西部の、黒崎半島に向かいます。写真などでよく見る猿岩のあるところです。黒崎半島に入ってからも、道は続きます。猿岩に到着する直前に、黒崎砲台跡というのがありました。帰りに寄ることにします。
ちょっと進むと、猿岩の駐車場に着きます。ここから見ると、どう見ても猿の顔です。
遠くから見るだけのようです。猿の正面は、広場のようになっていて、近づいてみることができそうです。道路の方からまわって行って見ることにします。
近づいて正面から見た猿岩です。あまり猿とはいえないような顔になっています。
猿岩だけでなく、海岸の崖や海もきれいです。ゆっくり広場を散策する価値があります。付近の案内図に、太郎礫(つぶて)とか色々書かれていたのが気になります。車でもう少し奥まで進んでみることにします。2−300mほど進んだところに、目的の場所への分岐があります。車は入らないでくださいということなので、入口近くの広くなっているところに車を止め、歩いて行くことにします。
足元にはどこにでもあるようなイネ科の植物が生えていますが、その間から紫色の花が見えます。始めて見るのですが、ナンバンギセルのようです。
ここから、右に進んで行くと太郎礫、真っ直ぐ進むと観音和多です。先に太郎礫に行きます。
太郎礫と思われる場所に着きましたが、どうなっているのかよくわかりません。二つの岩が、転がっています。正確にいうと太郎礫・次郎礫なので、この岩の大きい方が太郎礫で小さい方が次郎礫なのでしょうか。この先は断崖絶壁以外は何もないようです。ここに2つだけ、転がっている理由もよくわかりません。
観音和多です。観音岩とも書かれていますので、真ん中の細い岩がそれなのでしょう。標識も何となくそれを指しているようです。雲の中の夕日のようすとか何となく隠岐のろうそく島を思い出させます。
車に戻り、このまま黒崎半島を左回りにまわることにします。黒崎半島の付け根あたり右側に、砂の島が見えます。何か不思議なので近くに寄ってみることにします。
里浜海水浴場のある湾を塞ぐように、砂がたまっています。砂州のように見えますが、陸地から延びてくるようではないので、砂州ではないでしょう。砂堆といえますが、普通の砂堆とはでき方が違うようです。左側が湾奥、右側が湾入り口になります。
もう宿についてもよい時刻なので、宿の方に向かいます。ここから5分ほどでつきました。でも、黒崎砲台跡を見るのを忘れていました。
宿について、部屋に入ったのですが、ものすごくたばこ臭い部屋でした。田舎ではよくあることです。窓を開けようとしたのですが、開きません。サッシの所を見たら、何かが引っかかっているようです。工具が必要なのでフロントに電話しましたが、つながりません。しばらく待ってから電話がつながって、やっときてもらうことができました。結局、工具を取りに行ったりとかで窓が開くようになるまでは30分ほどかかりました。空気が入れ換えられるようになったので、窓を開けたまま夕食に行きます。
夕食の席に着こうとしたとき、正面に夕日がきれいに見えます。見てからにします。部屋の前で従業員さんにどこか見られる場所がないかと聞いたら、屋上に上がれるといわれました。従業員の作業部屋のような所を通り抜け、踏み台のような階段を上って扉を開けると屋上に出ることができました。星を見るには絶好の場所です。次回使う機会があれば、ここを星見場所として交渉する価値があります。
5分ほどで夕日は雲の中に入ったので終わりにして食事に戻ります。
その後は、温泉に入ります。鉄泉なのかさび色をしています。温度はちょっとぬるめです。
風呂からあがって、パンフ類を確認した後はすることがないので、寝ることにしました。この時点で星は見えていません。
翌朝は周辺の散歩です。写真を撮ろうとしたら、シャッター音はするのですが、モニターには表示されません。記録されているか確認したら、残っていないことがわかりませた。写真はなしで周辺を歩くだけにします。
宿に戻ってから、記録された写真を確認したのですが、昨日とったはずの、夕日が映っていません。対馬に来てから何回かこういうことがあったのですが、帰ってから確認すると写したはずの写真がないのが何枚かあるのがわかりました。宿に戻ってから、色々といじってみたのですが、1枚撮れたきり、直りそうにありません。
写真が撮れないも困ります。対策を考えることにします。前に接点をきれいにしたときに、調子が戻ったことがあります。接点復活剤があれば直る可能性があります(帰ってからつけてみたけれどだめだった)。それでもだめだったときのために、安物でいいのでコンパクトカメラを買うことにしました。問題は、コンパクトカメラの電池がどれだけ持つかということです。店で放電している可能性があります。とりあえず今日しのげれば何とかなります。
今日の予定です。今日は雨なので、建物の中に入れるところにできるだけ行くことにします。一支国博物館は絶対です。とりあえず、カメラを買いたいので、壱岐島中央部で10時頃まで過ごし、大型の電気屋に寄ってから、中央部に戻った後、見なかったところを見て、芦辺方面の龍神崎に行き、そこから南下して、八幡半島へ、その後、原の辻に行って帰ってくるコースを考えました。
大型の電気屋は壱岐南部寄りの柳田という所にあります。開くのが10時だとしてそれまでは写真は撮れません。近くをまわって時間をつぶすことにします。
まず昨日見損ねた、黒崎の砲台に行きます。巨大戦艦(土佐だったかな?)の主砲をここに備え付けたのだそうです。設備がこれだけいるのなら、戦艦が巨大であったのは想像できます。写真を撮ろうとしゃがんだのですが、ひざが曲がりません。対馬の山登りで痛めたようです。おまけに、カメラは動作しません。写真はなしです。
雨なので、できるだけ建物内の見学にしたいです。といってもまだ空いていないかも知れません。黒崎半島から湯ノ本・亀石と戻って、北側に風土記の丘というのがあります。そちらに向かいます。
途中右側に百合畑古墳群があると書かれています。そこからまわります。駐車場について、案内地図があるのですが、方角がなかなか一致しません。やっとわかり、順路の通り進みます。奥まで行って、戻ってきたときに、携帯カメラで撮るという方法があるのに気がつきました。それで撮った百合畑古墳群の、一つの古墳にあった石室入り口です。
古墳群を抜けたところにある生池です。カッパが住んでいたという伝説があります。構えにくいのと暗いのとで、かなりぶれています。
先の山道を進んだところにある生池城跡です。溝のようなところが堀の跡だそうです。
笹塚古墳石室入り口です。亀の形をした飾り物が出てきたそうです。中に入ることができますが、暗くて奥までは行くことができません。
さらに進むと、長崎県でいちばん大きい前方後円墳があります。ちょっと離れていますので、駐車場に戻って車で行った方がいいようです。
その、双六古墳です。全容を見るためには雨に濡れた草原の中を歩いて行く必要があります。靴がびしょびしょになりました。なぜか、カメラが復活しています。
反対側、円墳の脇に石室の入口がありました。中はのぞくだけです。
この時点で、10時をまわっています。いったん電気屋さんに行くことにします。
電気屋さんで、接点復活剤を確認したのですが、ないようです。大阪でも、大型家電ショップでは入手できません。やはり無理だったようです。一番安いコンパクトデジカメを買います。1万円近くしますが買うことにしました。電池が持ってくれるまでしばらくこのカメラの写真が続きます。
いったん、亀石交差点まで戻ります。パンフにはここに、亀の形をした道しるべがありそれが地名の由来だと書かれているのですが、それらしきものは見当たりません。ちょうどパトカーが信号待ちで止まったので、聞いてみたのですが、ここに赴任したてで始めて聞いたといいます。風土記の丘で確認してみることで落ち着きました。帰ってからネットで調べた結果わかったのは、塀のなくなっているところに置かれた平べったい石がそれだったようです。
風土記の丘にあるのが掛木古墳と石室の入口です。中に入ることができます。石棺のようなものがあります。カメラは動作しませんので、デジカメの写真です。
風土記の丘に入ります。受付で亀石のことを確認したのですが、ここでもわかりませんでした。
風土記の丘は、まず入口に古墳館があって、対馬の古墳についての解説や、作っている模型などが展示されています。さらに奥には、明治以後の工具やや道具類を展示してる民族工芸館と、江戸中期の武家住宅を復元展示した古民家園があります。
カメラが復帰しています。民族工芸品を展示している建物です。
こちらは、冨岩家武家住宅です。3つの棟と牛小屋からなっています。生活のようすを復元して展示しています。
見学を終えて、出ようとしたときに、駐車場にパトカーが止まっています。先ほどのおまわりさんが気になってやってきたのでしょうか。
たまたまということにして、次に行くことにします。
亀石の交差点に戻り、芦辺港の方に進みます。亀石探しはあきらめます。
道に沿って進みと、鬼の窟古墳があります。墳墓よりも、石室の入口がものすごく目立っています。いかにも鬼が住んでいそうな感じです。
石で、ふさがれていて中に入ることはできませんが、電灯がついていて明るくしてみることができます。見終わったらスイッチを切ってねというシステムです。
パンフレットには、ここから北西方向に、古墳や古墳群がいっぱいあるように書かれています。探したのですが、どれ一つとして見つけることはできませんでした。鬼の窟古墳から歩いて探さないといけなかったのかも知れません。
あきらめて芦辺港の方に向かいます。次に見えてきたのが、国分寺跡の標識です。このあたりに国分寺があったのでしょうか。
へそ石というのがあります。壱岐の真ん中にあるからだそうです。周りに色々ありすぎてよくわかりません。これでしょうか。
隣に、国片主神社があります。鳥居です。
本殿とその前の置物です。牛が対になって置かれているのと、なで小僧というのと招き猫が置かれています。その代わり狛犬がありません。願掛け鳥居というのがあります。この3つの小さな鳥居をくぐって祈願するようです。
次は、芦辺港の方に向かいます。芦辺港には有名スーパーがあります。期待はしていないのですが、接点復活剤を探してみます。やっぱりありませんでした。壱岐名物かす巻が安かったので買いました。お土産のつもりですが、数が中途半端なので、端数は昼食代わりに食べることにします。
芦辺港を行きすぎたところに、龍神崎があります。元寇に関係したものがたくさんあります。壱岐神社です。元寇で討ち死にした少貮資時を祀っています。
狼煙台です。形の違うそれらしきものがもう一つあります。敵船の来襲があったときの連絡のために作られたようです。ここに、九州までの中継点にあったものも、復元されていると書かれていましたが、どれのことかわかりませんでした。
碇石です。元寇の時に沈められた日本船に乗せられていたものを、海底から引き上げてここに置いているそうです。
少貮資時の墓です。壱岐神社の裏手のひっそりとしたところにあります。
海岸には浪切り不動というのがあります。元寇との関連は不明です。
これで龍神崎の公園を一周しました。次に行きます。目的地は八幡半島です。
芦辺龍神崎から、八幡半島に向かいます。芦辺港を過ぎてから、砂浜が広がっています。清石浜です。海水浴が目的ではないのでパスします。
八幡半島先端の左京鼻です。海中の岩がシンボルのようです。玄武岩の柱状節理が見えます。
左京鼻先端と思われる所に龍神社があります。
雨に濡れた草の上を歩いたので、靴はずぶ濡れです。まだ先があるようですが、引き返します。
次に向かったのが、半島付け根の漁港にあるはらほげ地蔵です。満潮時は、海中に沈むため、供物を入れる穴が、胸に空いているのがその名前の由来とか。干潮なので、台座まで干上がっています。
次に向かうのは、原の辻です。北外れにある安国寺です。
南に下っていくと、原の辻ガイダンスというのがあります。原の辻の発掘調査のようすや壱岐神楽の展示があります。
入口正面の田んぼでは黒米が作られています。
南西側に、船着き場跡というのが地図に書かれているのですが、場所が特定できませんでした。地図によって場所が異なっています。近くにあった池は何か関係があるのでしょうか。道を引き返し一支国王都復元公園の方に行きます。遺跡の建物の代表的なものが復元されています。
物見櫓・番小屋、奥にあるのが使節団の宿舎です。
祭儀場の食材の倉と祭儀・儀器の倉です。違いは土壁と木壁です。柱穴のあとからどうして区別できたのでしょうか。気になります。
他にもたくさん復元されていますが、省略します。たくさんの写真を撮ったので、コンパクトカメラの電池がなくなりました。電源を切ってしばらく放置しておくと、1・2枚は撮れます。その方法で撮っています。後でマニュアルを見ると電池を痛めることになると書かれていました。ズームをすると即電池切れになります。カメラは龍神崎から起動していません。ここから、携帯カメラを併用しています。
ここでも、草の上を歩いたので、乾きかけた靴が再びびしょ濡れになりました。一通りまわったようなので、車に戻ることにします。他にも栽培植物園や、環濠を復元したものがあったようですが、気がつかずスルーしてしまいました。
次は一支国博物館です。壱岐の歴史、特に弥生から古墳時代の展示が充実しています。中の展示で見ものは、一支国の生活を復元した模型です。5センチくらいの小さな人形なのですが、その一つ一つの表情がおもしろく見飽きません。100体以上あります。
修学旅行生が来ていて館内は満員です。班に分かれて、展示解説を受けていました。そのすき間をぬっての見学です。
4階に展望室があります。エレベーターで上がります。着いたら、下りようとする修学旅行生がなだれ込んできて大変です。思わず注意してしまいました。乗り口が狭いのも問題です。
展望室からは周囲の景色が見えます。原の辻遺跡を見下ろすことができます。ズームが使えないので広角のままです。
展望室から下り、屋上展望広場を通って散策路と書かれている側から外に出ました。裏口のような場所です。傘が必要ですが、入口側にあります。建物を半周以上して取りに行くことになりました。散策路は、原の辻遺跡まで続いています。ここは先ほどよっているのと雨なので、行かないことにします。
博物館から、宿に戻りますが、途中に大塚山古墳というのがありました。石室入り口は、草で覆われています。
他に、途中ぶらぶらとよりながら宿に戻ることもできたのですが、雨がひどくなってきました。そのまま帰ります。宿に着いたのは予定よりちょっと早めになりました。
湯ノ本温泉の宿に戻ってすることは、温泉に入るのと、食事をするのと、寝ることぐらいです。星は雨のため見えませんから当然なしです。あと細かいことでは、明日の予定を考えたり、カメラをチェックしたり、電池を充電したり、荷物を整理したりといったところです。食事の合間にこれらのことをして、終わったら温泉に入って寝ます。温泉の温度は昨日より温かめでした。
翌朝になりました。晴れ間が出ています。今朝も付近を歩いてみます。
湯ノ本公園からは、朝焼けが見えます。太陽は水平線上に上がっているはずの時刻です。
カッパの証文石とカッパの像があります。証文石には字が書いていそうな模様があります。岩質は砂岩でしょうか。新しい割れ口がないとわかりません。昨日も見ていたのですが、カメラが動作しなかったので今日撮り直ししました。
すぐ横にある、稲荷神社です。伏見稲荷と書かれています。
稲荷神社に登る坂道です。階段にカッパの足跡とみられる模様がつけられてます。階段は、坂で転んだ人がいたのでつけられたそうです。下手に転ぶとしたまで落ちていきそうです。
階段を下りたところから、海岸に出て、湾の南側に沿って黒崎半島の方に行きます。ステゴドン象化石の産出地があるそうです。だいぶ歩いて、ここまで行ってなかったら引き返そうという場所に説明板がありました。
産出地の六郎瀬鼻の地層です。化石は、下の方の礫質砂岩層から出たようです。上の白い層は火砕流堆積物です。
ここから宿に引き返します。朝食をとった後、少し休んでから出発です。今日の予定です。島南部はまわっていないので行くことにします。半日あればまわれそうです。こちらに出港する港がありますので、午後にまわることにします。午前中は、島北東部男岳周辺を見ていないので、ここに行きます。その前に、この近くに対馬塚古墳があるみたいなので寄ることにします。
宿で精算を済ませます。しまとく通貨が使えない分があります。入湯税と消費税の分でしょうか。入湯税はともかくとして消費税は普通の店で使えています。公共の宿なので、支払い項目はしっかり分けているようです。
対馬塚古墳を探しますが、見つけることができません。地図と道の位置が違っています。走り回っている内にカラカミ遺跡という所につきました。弥生時代の遺跡で、原の辻遺跡と同時代のものです。考古学界では有名な遺跡のようです。看板のあったところのすぐ上にある畑です。このあたりに集落が広がっていたのでしょうか。
ここまで来たら行きすぎなので、少し引き返したところを探しましたが、対馬塚古墳は見つけることはできませんでした。あきらめて次に向かいます。
対馬塚古墳をあきらめて島北東部に向かいます。芦辺港の方に進み、町に着く手前で北上します。途中から山の中に登っていけば、目的地の一つ男岳神社につきます。神社の拝殿です。
階段脇にイヌマキの大木があります。どこかで、イヌマキを使って何かを作ったと説明していたようですが、どこで見て何を作ったのか思い出せません。原の辻あたりだったような気がします。そんなにたくさんあって大きくなるという木ではありません。
他にも、神社周囲にはイスノキを中心に大木がたくさんあるそうです。
ここでは、祈願成就のお礼に石で作った猿の像を奉納するようです。本殿の周りに並べられていました。猿以外にも牛や不思議なものの像があります。
神社の入口の横に展望塔があります。上がれば壱岐を一望できます。天気のせいか対馬はわかりませんでした。写真は南、壱岐島中心方向です。
ここから赤瀬鼻の方に進んで行きます。男岳を右回りにまわるような感じになります。途中風力発電所の風車が見えました。対馬からの船の中からも2基見えていました。
もう少し進んで行くと、赤瀬鼻の灯台が見えてきました。
平らなところに、鉄塔が並んでいます。跳ね返ってきた電波を測定することで海流の様子がわかるそうです。
赤瀬鼻は、ここから少し戻ったところの駐車場から、歩いて見に行くようになっています。道は断崖に行き当たり、これ以上進めません。鳥居や祠のようなものもあり龍神と書かれています。
展望広場というようなものはありませんが、ちょっと見通せるところから、海岸をのぞき込みます。岩礁は赤い色をしています。これが地名の由来なのでしょうか。
車でさらにまわっていくと、山の中に大きな観音様が見えてきました。諸津観音です。遠くから見るだけにしておきます。
ここを過ぎると、男岳を一周したことになります。壱岐1日目に、勝本まで素通りしています。途中にあるものを見てから島南部にいくことにします。
男岳を一周して、元来た道を戻ります。三軒茶屋まで戻ったところに箱崎八幡神社があります。石段下、手口きよめ水と書かれた鉢は桃型をした奇妙な形をしています。
入口脇から、千人供養塚の方向を示す標識があります。こちらの方に進んで行きます。
千人供養塚です。壱岐には、元寇で亡くなったが人があまりにも多く、何人もの人をまとめて弔うために作った、千人塚がたくさんあるそうです。これはその一つですが、文永の役弘安の役のどちらのものかはわかりません。
ここを真っ直ぐ進んでいくと、県道に出ます。県道を、勝本の方に進みます。勝本町に入ってすぐに、先ほどより大きな千人塚がありました。
このあたりは、文永の役古戦場あと(新城古戦場)とされています。この場所で戦闘がおこなわれていたのでしょうか。
さらに進んだところにあるのが、新城神社です。文永の役で戦死した平景隆の居城である樋詰城があった場所に、平景隆を祀るために建てられたものです。
拝殿脇にある平景隆の墓です。
境内入り口には、神社では見ないような橋があります。お城と関係しているのでしょうか。
新城神社から、国道への近道のルートをとって進んで行くことにします。途中姫御前塚というのがありました。
平景隆の姫御前が、元寇襲来を太宰府に知らせるために、城を抜け出たものの、元軍の毒矢にあたり、この地で自害したのを哀れんで、塚を作くって弔ったものだそうです。新しい立派なものができています。これだと思って車を降りなかったのですが、実際にはその脇に頭だけがわずかに写っている石がその塚のようです。
真っ直ぐ進むと、道は国道に出ます。あとは南下して郷ノ浦に向かいます。
姫御前塚をすぎ、真っ直ぐ進むと国道に出ます。国道を南下し郷ノ浦の町に向かいます。郷ノ浦までの中間点あたり真ん中にあるのが住吉神社です。鳥居は国道沿いにあるのですが、神社そのものはそこから下りていった谷底にあります。
駐車場が広くたくさんあります。この神社は、壱岐神楽の中でも最大の「大大神楽」が奉納される場所だそうです。
さらに南です。天手長男神社(あまたのながおじんじゃ)があります。壱岐国の一宮です。祭神は、天鈿女命(あまのうずめのみこと)と天手力男命(あまのたぢからおのみこと)で両神は、天照大神が天岩戸に閉じこもったときに、前で踊った女神と岩をこじ開けた男神です。他にもいくつかの神社が合祀されています。一宮という神社の性格上考えられないことではありません。脇には安産祈願の粟島神社があり、成就のお礼に産着が奉納されています。
山の上にあります。初めは道路沿いに車を置いていたのですが、車で上がってしまいました。
ここから、郷ノ浦の町はすぐです。町の外れにある春一番の塔を探します。地学関係者なら外せないものの一つでしょう。探し回ったあげく見つけた場所は、郷ノ浦港出口の灯台の脇です。供養塚と塔があります、塚は、防波堤改修工事現場の内側になります。立ち入りはご遠慮くださいと書かれていました。工事をしていなかったので、遠慮しながら入っていきました。
供養塚です。遠慮しているのでこれだと思って写真を撮ったらすぐに出てきたので、何が書かれていたかとか確認しなかったのですが、「五十三霊?脱の塔」と書かれているそうです。写真からも、何となくそのようにも読めます。53とは亡くなった人の人数です。
場所は、八幡神社の社の後ろにあります。
ここから、少し戻ったところから、斜面を昇った高台に春一番の塔があります。
春一番は、立春から春分までの間で一番最初に吹く、暖かく強い南風をいいます。いくつかの場所でいわれていたようですが、全国にその言葉が知れ渡るようになったのは、ここでの海難事故がきっかけになっています。
気象庁のサイトなどからいわれを調べてみると次のようになります。安政6年(1859年)旧暦2月13日、元居浦(浦郷港)の漁船団が五島沖で、漁をしている最中に、この風に巻き込まれ船とともに海中に沈んだそうです。この時に、危険を知らせるために「春一」と叫んだことから、春一番と呼ばれる様になったそうです。
春一番の塔の横(写真手前側)にもう少し詳しくいわれの書いた銘板があります。内容は、気象庁を始めネットで収集される文面と同じです。これが、いわれの元となっているようです。この文面を見る限り事実と記述は少し違うようです。文面を載せたいのですが、著作権の関係が複雑なので省略します。ネットで探せば権利に関係なく文面が見られるところがいくつかあります。
まず第一に、「春一」と叫んだのをきっかけにみんなが綱を切って避難しようとした件です。春一いわれたところで、その実態を知っていなければ、綱を切るまでして、避難の準備をしなかったことは想像できます。つまり、元居浦の漁民にとっては、そのかなり以前から春一というものは言い伝えられてきたもので、安政年間に始まったものではないことがいえます。
第二に、問題になるのは、天気の変化のようすです。
銘板には出港時の状況が書かれています。出航当時、天気は「快晴で格好の出漁日和」でした。その後も「順風に恵まれ」で漁場に着いたとなっています。順風ということは、五島は壱岐の南西にありますから、北東の風が吹いていたことになります。多少は向きがずれていてもいいので、東風としておきます。漁場について、すぐに漁を始めた所、「南の水平線に黒雲が湧き昇るのを発見」し回避策をとったが間に合わなかったということです。
気圧配置との関係で見ていくことにします。春一番は、温帯低気圧南方の温暖前線と寒冷前線で囲まれた領域で吹きます。特に寒冷前線に近いほど強くなります。まず、温暖前線通過前は、東風になりますが、次に南風に変わる前には必ず温暖前線が通過します。ここで天気がいったん悪化します。この時の天気変化はゆっくりしていて、黒雲が湧き立っているのが見えるというような状況ではありません。温暖前線通過後、天気は回復しますが、風向きは南寄りに変わります。風は初めは穏やかだったものが、次第に強くなり、気温も上がっていきます。この状況は寒冷前線接近まで強くなっていきます。最後に寒冷前線通過とともに天気は崩れ大雨となりいつの間にか北寄りの強い風に変わります。銘板の記述とだいぶ違います。
記述の通りだとして、気圧配置の変化として考えられることは、台風の接近によるものぐらいしか考えられません。それも南方から北上してきたものが、進路を西側に変えながら進む場合ですが、夏場ならともかく、この時期に台風が発生して西に進むということはまずありません。
銘文に書かれていることは、天気が急激に変化をしたように表すためにかなりの誇張や創作が入っているのでしょう。
もう一つ気になるのは、「この風が吹き通らぬ内は、落ち着いて沖に出られなかった」という記述です。これも春一番が以前から知られていたことを示していますが、問題にしたいのはこのことではありません。実際には春一番が吹いたからといっても、それ1回で終わらず、春二番、春三番というように南風が吹くことがあるし、南岸低気圧通過によって天気が荒れることもあります。つまりこれで終わりではないということです。このあたりも、話をわかりやすくするためにかなりの創作が入っていると考えられます。
まだまだ気になることはいっぱいありますが(順風なのに予定時刻に漁場に着いたとか)、いずれにしても、この時の海難事件がきっかけで春一番という言葉が日本国内に知れ渡るようになったのは間違いがありません。
郷ノ浦町元居から牧崎の方に向かいます。町中のトンネルを抜けて、文化会館の横を通ったら、ステゴドン象と書かれています。何なのか興味があります。駐車場に車を止め、少し下りていくと、ゾウの模型があります。近づこうとしたのですが、大きな文化会館を一周する羽目になりました。見えたところのすぐ後ろに階段があったのを見落としていました。朝、湯ノ本で見た場所で発掘されたゾウの復元模型です。ちょっと大きいような気がします。牙も長めのようです。
他に、郷土美術館などがあり、少貮資時の像とか見られるようです。
現代美術工芸は、旅行中の興味の対象外なのでパスします。
牧に入るところで、渡良のアコウは右と書かれています。太平洋側では普通にあるのですが、日本海側では珍しいので見に行くことにします。途中、イタチがいました。側溝に首を突っ込んでいます。望遠が使えないのでこの大きさが限界です。
渡良のアコウです。気根の絡まりが特徴的です。説明板のすぐ上、太い幹の見えている木です。
牧崎公園に行きます。
海岸沿いの崖の上が、広場のようになっていて自由に歩けます。あとで気がついたのですが、パンフには、ゴリラの顔をした岩がお出迎えと書いてあります。「鬼の足跡」ばかり(あとトイレと)に気をとられ、見ていませんが、写真には写っていました。入ってすぐ右側の場所です。写真中央、くさはらの上に出ている岩です。
近くで撮った写真です。全く気がつきませんでした。これではいわれないとわからないのかも。猿岩と同じで見る位置によって見え方が変わってきます。わかっていれば見る場所を変えたかも。
鬼の足跡です。鬼が踏ん張ったときにできた足跡だそうです。
海面近くは、浸食を受けやすそうな火砕岩の層があり、その上を溶岩が覆っていますそのため、至る所に海食洞ができています。そのうちの一つです。
この海食洞の奥部だけ天井が崩落してできたのが鬼の足跡なのでしょう。とすると地面が陥没することがあります。気をつけないと。
牧にはもう一つ、ツインズビーチというのがあります。二つの同じような砂浜が隣接して並んでいます。足元の砂はふかふかでした。
次は、郷ノ浦町東部に向かいます。
郷ノ浦町西部から今度は東部に行きます。郷ノ浦の町を過ぎそのまま県道を進んで行きます。曲がりくねった道が延々と続きます。今まで壱岐ではこのような道はありませんでした。
途中に大米古墳がありました。石室内に捕鯨のようすを書いた線刻があるみたいですが、暗くてよくわかりませんでした。
次に着いたのがイルカ鼻です。壱岐島の最南端になります。灯台があり、その向こうに玄界灘の島々とさらに九州まで見えています。
さらに進むと、漁港があり、その近くに鏡岳神社と初瀬のマグマ岩脈があります。マグマ岩脈を先に見に行きます。家と堤防の間を通り抜けて、堤防上に上がると岩脈が見えてきました。白い流紋岩に、黒い玄武岩が入りこんでいます。色の対比がきれいです。
解説板には、玄武岩が割り込んできたのだという証拠が書かれています。それ以外にもいくつか(この崖を見ただけでわかるものも)ありますが、いちばんわかりやすいのでその通りということにしておきます。岩脈は近くまで寄って見ることができます。接触部の拡大です。左側の縞模様が見えるのが流紋岩、茶色っぽいところが玄武岩、右下の小石は海岸にある砂利です。玄武岩が急冷によってガラス化しそれが風化を受けて、泥のようになっています。
次は、鏡岳神社に行きます。神社は石段を延々と登った先にあります。
石段の途中に、石碑があります。何かと思えば、石段を何段寄進したかという記録が書かれています。
神社の本殿は、きれいに彩色されていました。
神社の森は、大陸系の植物と、南方系の植物が入り交じっているということで県の天然記念物になっています。ほとんどがシイやマテバジイだそうです。
ここから北上し、岳の辻を目指します。途中若松六人地蔵というのがあったみたいですが、場所が特定できませんでした。交差点で行ったり来たりしてしまいました。
若松から郷ノ浦の方に進むとすぐに、岳の辻に登る道がありました。駐車場に車を停め展望台に歩いて行きます。
展望台です。岳の辻は壱岐島最高峰とあって、テレビ局などの鉄塔がたくさん建っています。
展望台からの見晴です。郷ノ浦方面を見ています。郷ノ浦の町は、駐車場からの方がよく見えました。東側も今ひとつです。
鉄塔の向こうに東側を見渡せる場所があるようです。ちょっと離れていますので、車に戻り、車で移動することにします。
東側広場の手前にあった見上神社です。
東側が見たかったのは、原の辻遺跡を見渡してみたかったためです。遠くのために何となくあるのはわかりますが、正確にどこにどの建物があるかまではわかりません。望遠で唯一撮れた写真です。左半分に復元住居などが写っています。
もうそれほど見学時間は残っていません。車をレンタカー会社営業所に返しに行くことにします。ガソリンを満タンにして、途中いわれた通りに行きますが、交差点の数えかたを間違えちょっと迷いました。走行距離は210kmでした。今日一日の天気は、晴れているものの時々時雨のような雨がぱらついていました。
営業所からは、港まで送ってくれます。町中をぶらっとしようと思ったのですが、船の乗り場は、町からかなり離れています。港で時間をつぶすことにします。
お土産を買ったりして、時間を過ごしました。時刻になって、船に乗る場所に移動します。そこからは、春一番の塔、春一番の供養塔が見えています。あれだけ探し回ったのは何だったのでしょうか。到着した客を出迎えるため、泊まった宿の人が来ていました。写真撮影のため列を離れたついでにちょっとだけ挨拶をしました。
船は、定刻通り出発です。振り返ってみた郷ノ浦の町です。無理な姿勢だったので傾いています。
夕日が見られるかなと思ったのですが、太陽は博多港に着くまでずっとほぼ真後ろでした。博多湾に入ってから夕日らしくなりました。この後すぐに雲の中に隠れました。
すぐに、博多埠頭に到着です。ベイサイドプレイスが見えてきました。
ここからは、船から下りた人が集中してバスが混むかなと思ったので、トイレに行ったりして、ちょっと時間をやり過ごしてからバスで博多駅に移動しました。
駅で軽く夕食をとりました。その時にカバンを見たら穴が空いているのがわかりました。カバンを小さくすると隠れる場所です。荷物はいくつかの袋に分けて入れているので落ちる心配はないのですが、念のため、いくつかの荷物を紙バックに入れ荷物を小さくしました。その後駅構内をぶらぶらとしている内に、すぐに新幹線の乗車時刻になりました。待ち時間が長いかなと思ったのですが、ちょうどよい長さでした。その後は予定通り家まで帰ることができました。
今回の旅行の感想を一言で言えば「頭が疲れた」ということでしょうか。いろいろなものがあったのですが、それがいくつもの時代にわたっていて、2地域以上で関連していたりというようなことを、整理するのにおわれていたためです。それらは、大陸と日本列島のとの位置関係によってこの地域にもたらされていることです。帰ってから、いつのだったかとか、どっちだったかとか思い出すのに苦労しました。
該当する項目を古い時代から順に、対馬・壱岐でそれぞれ何が見られたのか整理してみます。同じ行のものは関連するものです。いったところまたは旅行に関係して調べたりわかったりした範囲のものです。代表的なもののみ書いています。これ以外にもたくさんあると思われます。
項目 | 対馬 | 壱岐
<地質時代>
基盤岩 |対州層群(硯石) |勝本層(土台石)
火成活動 |白嶽 −−関連不明−− 初瀬岩脈:流紋岩
| 鬼の足跡 初瀬岩脈:玄武岩
化石 | |魚・珪藻土
(ここまでは日本列島は大陸の一部)
| |
化石 |ステゴドン象
生物 |ツシマヤマネコ |
植物 | ハイビャクシン
渡鳥 |アカハラダカなど |深江田原のマナヅル(越冬地?)
外来昆虫 |ツマアカスズメバチ |(未発見)
<神話時代>
|天岩戸伝説(天手力男神社)
|山幸彦海幸彦(和多都美神社)
<歴史時代>
弥生時代 | |原の辻遺跡
魏志倭人伝 | 對馬国 | 一支国
|塔の首遺跡 −?−カラカミ遺跡
古墳時代 |根曽古墳群 |古墳多数
飛鳥時代 |遣隋使小野妹子宿泊
白村江の戦い |郷ノ浦腹冷やしの石 |聖母宮
遠征後 |金田城
鎌倉時代(元寇)|小茂田神社 |新城古戦場
|壱岐神社(瀬戸浦古戦場)
倭寇 |拠点地(浅茅湾)
安土桃山時代 |清水山城 |
江戸時代 |金石城 →勝本対馬藩屋敷
|佐須奈港(朝鮮との交易)
朝鮮通信使 |厳原市街に宿泊地 |勝本阿弥陀堂
| |
日露戦争 |万関瀬戸
太平洋戦争 |棹崎砲台 |黒崎砲台
| |
解説をしておきます。
日本列島は今から2500万年ほど前に大陸から切り離されました。その時にできた湖にたまった地層にたまってできたのが珪藻土や魚の化石です。島の表面が、火山岩で覆われていること、化石が見られることは、壱岐は対馬より隠岐の方に似ています。隠岐の場合は、基盤岩が日本列島最古の岩石に相当するものであるという点と火山活動が非常に活発で覆った火山岩が厚いという点が異なっているだけです。
対馬では玄武岩の噴出という火山活動が起こらなかったので、この時代以後、壱岐との間で自然環境には類似性がなくなってきたようです。対馬は浸食をまともに受け、切り立った山ができ、入り江などを拠点とした漁業中心の生活になっっていきます。これに対して、壱岐では、玄武岩で平に上部が覆われたために比較的平坦な地形がが発達し、そこを農業に利用することで人がたくさん移り住むことができるようになりました。このころの人の生活のようすは魏志倭人伝に書かれているとおりです。
その後、日本列島は大陸とつながったり、海で隔たられたりします。現在は、後者の時代です。過去に大陸とつながっていたときに、ゾウやヤマネコ、シカといった生物が、大陸と日本列島との間を行き来していました。それが、島となってから独自の進化を続けていったようです。名残が、ステゴドン象の化石。独自の進化をしたものが、ツシマヤマネコ・ツシマジカです。対馬では、人がいない分自然が残されこれらの生物を見ることができます。それに対して、壱岐では本土と同じように人間の活動に伴ってヤマネコはいなくなったようです。
植物に関しては、陸続きの頃に分布を広げたものが残っています。大陸系のものと日本や南方のものとが混ざっているようです。解説に書かれているのですが、たくさんありすぎて覚えきれないのと、それはどこに生えている植物に対応するのかがわからないため、整理できていない状態、というか何が何なのかよくわかっていない状態です。その中で、壱岐・対馬(朝鮮半島の一部の地域)で独自の進化をしたのがハイビャクシンになります。
空を飛ぶ生物は、壱岐対馬を経由地として、朝鮮半島・日本本土との間を行き来します。自然がたくさん残っている分だけ、対馬の方が休憩場所として選ばれているようです。壱岐は九州に近すぎるため通り過ごしていくのでしょうか。それともあまり観測されていないだけなのでしょうか。
朝鮮半島から渡ってくる生物の経由地になっていることは、朝鮮半島から分布を拡大する生物が最初にやってくる場所にもなります。その代表的なのがツマアカスズメバチです。対馬を歩いた感じでは、普通のスズメバチ(全然見なかった)より多いような感じがしました。順番としては壱岐になるとことろなのですが、先に北九州で見つかったようです。壱岐にはまだやってきていないのか、単に見つかっていないのだけなのかは不明です。ちなみに壱岐で見たスズメバチはキイロスズメバチでした。
人間の生活などについて考えてみます。対馬は漁業中心、壱岐は農業中心という生活形態の違いと朝鮮半島までの位置関係がその後の歴史に影響をもたらしてきます。基本的には、日本本土と朝鮮半島を行き来する人たちのルートになりますが、何かあったときの防衛線という意味で、対馬の役割が大きくなっています。白村江の戦いの後の城郭(金田城)や、明治時代のの海軍基地(浅茅湾)現在の海上保安庁が配備する巡視艇の数といったところに現れています。
壱岐は農業が中心だったために、町が栄えるのが早かったようです。弥生時代には原の辻(一支国王都)のような大規模な集落が作られました。その後、人が増え規模が大きくなるにつれ、九州や畿内の文化に飲み込まれていったように見えます。江戸時代は平戸藩の一部となり、大きな城郭が構えられることなく終わっています。それに対して、対馬は漁業から海運業に手を広げ、鎖国中の江戸時代では壱岐より藩の力が大きくなっていて、壱岐に藩屋敷を構えるまでになっています。
最終的に明治以後は、本土に飲み込まれていったようです。
対馬は自然が残されていて、自然が好きな人には向いています。ヤマネコや渡り鳥だけではなく、他にも色々と動物を見ることができます。そこそこの山もあって、山登りにも向いているでしょう。それに対して壱岐は、歴史的遺産がたくさん残されています。歴史派向きでしょう。日本列島と大陸との関連で見ていくと興味があります。神社も壱岐の方がたくさんあります。
行く前に調べた参考資料や行って思ったことなどについて書いてみます。
<対馬>
インターネットで、観光情報を調べるには(一社)対馬観光物産協会WEBサイト国境の島 対馬へ
http://www.tsushima-net.org/ が便利です。
各種、パンフもダウンロードできます。まるわかりガイドブック、歴史観光ガイドブックやトレッキングガイドブックの3つをダウンロードして調べました。まるわかりガイドブックでだいたいのようすをつかむことができます。ただ対馬は大きいので、印の位置も広い範囲を指していて、行った時に場所をつかむのに苦労しました。対馬を北(上県)と南(下県)の2つに分けてもいいのではとおもいます。原図のサイズはB2版なので、ダウンロード後印刷したものは字が小さすぎて読みにくいです。
後の2つのガイドブックは、詳しく書かれているのはいいのですが、その分、厚くなってダウンロードしたのを持ち歩くのはちょっととなります。
ダウンロードできるガイドブックは他にもエコツーリズム・グルメ食べ放題・砲台歩き放題があります。
現地で入手したものでは巨木と自然が、生物について詳しく書かれていて参考になりました。観光にまわる前に観光物産協会の案内所によってもらっておくといいでしょう。
サイト内で、対馬の情報→便利な地図各種を選ぶと、地図表示サイトに観光地の位置や情報がのるように設定されています。場所を確認するとか何があるのか調べるのに便利です。モバイル端末があれば現地で利用できるかも知れません。
パンフレットにはあまり見所が書かれていませんが、いってみると地域の観光地図があったりして見るところはたくさんありそうです。
対馬は広いので、移動には車が必要です。それでも移動時間はかなりかかります。島内を見て回るというのであれば、宿泊地を移動させながら順番に見ていくのがいいでしょう。島に渡る手段として飛行機を考えることはできます。高くなる分の元はそれそうです。
対馬を車で走っていると、何となく道が狭いように思えました。軽自動車で走ったのですが、左右の余裕が普通車で走っているのとほとんど同じでした。よく見ると、対向車が車線いっぱいに走っています。そのため道幅が狭いように感じたのでしょう。
道路の雰囲気ですが、どちらかというと山の中を走っているみたいに感じます。それでも、時々どちらからともなく、海が迫ってきたりします。長いトンネルもたくさんありますが、対馬の車はライトをつけません。出口から黒い車が飛び出してくるように見えたりして、驚かされます。
<壱岐>
インターネットでの観光情報サイトの一覧です
壱岐観光ナビ http://www.ikikankou.com/
壱岐市立一支国博物館公式サイト http://www.iki-haku.jp/
壱岐の自然と文化遺産研究保存会 http://www.ikishi.sakura.ne.jp/
観光ナビは、情報量が少なめでこの順番に多くなっていきます。一支国博物館は壱岐巡り情報から入ります。いずれのサイトも、地図が小さかったり場所が書かれていなかったりで、どこにあるのかがわかりにくいのが難点です。
観光地図は、基本的に2種類のようです。観光連盟が作ったものと、観光業者が集まって作ったものに各業者がじぶんのところにあうようにアレンジを加えたものです。いずれの地図も場所が不正確です。ずれている範囲を考えると対馬のものとそう変わらない精度でしょう。
数十分で回れる範囲内なら比較的詳しい案内図があります。原の辻周辺、古墳群周辺・勝本町中心部の3種類です。入手できたものでは、原の辻周辺だけで3種類あります。それを考えてみると、他の地域のものがないのちょっと寂しい感じがします。
壱岐は神社がたくさんありますので、神社巡り専用の案内図も作られています。興味のある方はご利用ください。
島内を回る方法ですが、お任せでいいという人は、定期観光バスを利用するのがいいでしょう。主要な観光地はほとんど全て回ってくれます。何人かで行くのなら観光タクシーを使うという方法もあります。
車で回りましたが、2日でほどよい広さでした。天気の都合で、回る順番を変え、同じ所を何回も走っています(芦辺港周辺は3日とも行った)。その結果走行距離は210kmにもなりました。まわる順番を工夫整理できたら、100km前後で済んだでしょう。その分時間が余ったかも知れません。島内は坂がそれほどないこととあわせると、電動チャリでも回ることも視野に入れることが可能な距離です。今回の場合は、2日目の山登りでだいぶ膝に来ました。4日目にしゃがもうとしたら膝が曲がりませんでした。この状態では自転車に乗って走り回るということはできなかったでしょう。雨になってくれたおかげで車に変えたのはよかったようです。天気のことがなかったら、バイクぐらいがいちばんよかったのかも知れません。ただ条件に合うレンタル店はなかったようです。
レンタカーは主要港空港に持ってきてくれてそこで返すシステムになっています。受け取りと返還場所が違っていてもかまいません。船によって出航場所が変わったりということがあるためでしょう。船で行って飛行機で帰るという場合にも便利です。対馬でも厳原港−対馬空港間でも同じシステムのようでした。比田勝港でどうなるかはわかりません。壱岐の自転車も主要港間での乗り捨ては別途費用がかかりますが可能です(空港ではできません)。
壱岐の車の運転も、対馬の場合とよく似ています。平坦でなっすぐな道がほとんどだったので、対馬ほど気にはなりませんでした。
壱岐は端から端までそれほどかからないので、拠点を決めてそこで2泊しても問題はありませんでした。島の中心部に宿泊できるところはありませんが、宿泊地に選んだ湯ノ本は中心地に近くわりと便利でした。
<しまとく通貨>
長崎県の離島で通用するチケットとして、しまとく通貨が発行されています。5000円で6000円分の支払いができるという利点があります。使用する上で、いくつか制約があります。冊子になっていて切り離し無効だということ、1000円券6枚でおつりが出ないということ、1旅行につき6冊までということです。
たいていのところで宿泊費の支払いに使えます。これだけで、通貨の大半を使用することになります。
購入(両替?)する方法も、場所によって違いがあります。申込書に、住所をフルで書かないといけないところと、府県名だけでいいところがあります。申込用紙の内容を細かくチェックするところ(枚数とか使用場所)もあります。使用するときも、支払額全部に使えるところと、税抜き価格に対して支払えるところとがあります。公営の所ほど厳密にやっているようです。
今回の旅行は、対馬の旅行と壱岐の旅行と勝手に2回と解釈して多めに使いました。旅行者にとっては、割引になるのでありがたいのですが、でどころはといえば税金です。支出する分の元は取り返せているのでしょうか。ちょっと疑問な所もあります。
<まとめ>
対馬については、じゅうぶんにまわりきることができませんでした。ツシマヤマネコにも出会えていません。アカハラダカなどの渡り鳥の渡りも見てみたいです。もう一度出直したいところです。渡りを見るのは9月の方がいいのでしょうか。対馬に着いた日には6000羽の鳥が見られたそうです。
壱岐については、所々に見落としているところはあるもののだいたいの所はまわれました。もう一度見てみたいとかいうものは取り立ててありません。次回、訪れる優先順位はだいぶ下がったようです。
隠岐もそうだったのですが、夜の空は明るいようです。日本海でおこなわれているイカつり漁船の影響と考えられます。日本海では星は期待しない方がいいようです。
<経費について>
かかった費用を概算してみました。しまとく通貨を使用した場合は、千円券1枚につき833円として計算しています。最終結果から1円の位を四捨五入しています。
島外交通費 35170
島内交通費 30770
宿泊費 28990
雑費 9700
その他 6500
−−−−−−−−−−−−−−
合 計 111130
雑費はカメラ代、その他は飲食代・お土産代・入館料です。
今回は、いろいろな割引を使ったおかげで、正規に支払うより2万円以上安くついています。逆にカメラを買った分出費が増えています。
<体調管理について>
2日目の白嶽に登っているときに完全にばてた状態になりました。息が上がってしまって動けなくなる症状とは違います。長距離を走ったときによくおこる、呼吸はそれほど乱れていないのに足が動かなくなるあの状態です。体内に蓄えられているエネルギーが消耗したために起こります。日頃あまり体を動かしていないのが原因のようです。ジョギングなどをしているとわかりますが、ばてが始まる距離は運動を続ければ続けるほどながくなっていきます。今回の旅行前にこれといって長距離の散歩をしたとかいうことはしていませんでした。もう少し長い時間歩いてみるといった運動をふだんから心がけておく必要があります。
その日の夕食時、すぐに満腹になって眠たくなったのは、ばてたのと関係がありそうです。それと冷たいものの飲み過ぎたのも影響しているかもしれません。飲み物・食べ物にも気を遣う必要がありそうです。
<カメラについて>
カメラの不調については、別途書いています。今回の旅行で最初に起こった異常は初日の博多港での電池の発熱です。それ以後は発熱していないので原因は不明です。ただ、使った電池の形式が違っているので、異常が発生しなかったのかも知れません。
撮ったはずの写真が写っていないことに気がついたのが、4日目の朝です。調べ直してみると前日の夕方に撮った写真が写っていないことに気がつきました。この時には異常な動作が起こっていたのかどうかは覚えていません。どちらかというと起こっていたような気がします。帰ってから調べてみると、他にもとったはずだけど写っていないものがありました。たぶん気がついていないものもたくさんあるでしょう。
他にも、画面が赤紫色になるとかということも起こっていました。撮影後の表示に出ていましたが、気にとめずにいました。戻ってから確認するとその通りに写っていました。他にも、赤紫色の筋が入っているものもあります。普段は、撮影後の確認は電池消耗の元となるので、おこなっていないのですが、やった方がいいですね。取り直しが必要かとかもわかります。その分予備の電池はたくさん必要です。毎回電池はかなり余裕を持って行ってますので何とかなりそうです。
少なくとも写真で記録を残しておこうとおもっていますから、カメラが動作しないことにはどうしようもありません。今回はコンパクトデジカメを購入しましたが これからは予備の小さなカメラも持って行くことにします。そうなるとこまった問題となってくるのは、充電器の種類が増えていることです。必要なもの全部持って行くとなるといまのところ4種類必要になります。減らそうとすると、あまり使わないものの電池は旅行開始前にフルに充電しておくことくらいでしょうか。
<車の運転について>
車で島内をまわりましたが、何回か道に迷っています。たとえば、初日の宿探しです。旅行前にネットで調べて正確な場所もわかっていたのですが、肝心な場所で見つけることができませんでした。後でわかったのは、その場所は道路を走っていると、建物の影からいきなり真横に見えてくる位置にあったことです。運転中はあまり横ばっかり見ていられませんので、見落としたことが考えられます。脇道からの交通にも注意を払わないといけないことも影響していたかも知れません。ちなみに、カーナビには宿は表示されていませんでした。
道に迷った二つ目のパターンです。最終日の対馬塚古墳です。あとでネットを調べ直してわかったのは、いちおうそれの近くまでは行っていることです。ただ、この先にはないだろうとおもったのと、道が狭くこれ以上進むと戻れなくなるのではないかと不安だったことで、手前で引き返しています。双六古墳でも似たようなことがありましたが、思い切って進んで行って見つけることができました。
どこまで進んで行けるかは、車とバイクでは違います。走行中の左右の視野もバイクの方が広くなります。このあたりの差が、バイクの方が道に迷いにくいということとつながってくるのでしょう。
3つ目のパターンは、思い込みによるものがあります。対馬で国道から白嶽方面に右折するときに、目印となる銀行の名前を覚え間違っていました。たまたま信号に引っかかったので案内図を見直して気がつきましたが、信号が青だったら行きすぎていたことでしょう。地図をチェックするという作業は、広げておく場所がない分バイクには不利です。
八丈島に続いて、今回も一度ペダルを踏み間違えました。その時のパターンは共通しています。アクセルを踏みこまないとゆっくり走られないところ(砂利道や坂道)で、止まろうとしたときに、ブレーキを踏む代わりにアクセルを踏んでしまうというパターンです。ふだんは、このような徐行時にはクラッチペダルに左足を添えています。この状態で止まろうとしたときは、クラッチを踏み込むと同時に右足をブレーキペダルに踏み換えてから踏み込んでいくという操作になります。このあたりの手順(足順?)がオートマ車とは全く違います。頭の中には何か(クラッチ)を踏みこまないといけないというのと、クラッチはないというのが混ざって、踏み込まないという意識が勝ってそのまま右足を踏み込んでいるようです。このあたりは、慣れるしかないのでしょうか。今回の車は壱岐・対馬、どちらのものも、クラッチの位置にハンドブレーキ(?)がありました。間違えて踏み込むことはありませんでした。たぶんペダルの位置が高めで足に引っかからなかったせいでしょう。