南東北再訪 16/9/25-10/1
前月は、望遠鏡を持って出かける計画が頓挫してしまいました。今月こそはなんとかしたいものです。どこにしようかと考えるのも面倒になってきました。先月考えたことの延長でいきます。前回のパッケージツアーと行程が重なるのが問題です。前回は山を中心に回りましたので、今回は低い所中心にします。といっても、星を見るのは高いところが良いので、宿はそういう所を優先にします。
望遠鏡を持っていきたいので、交通手段は必然的に車になります。東北までの行き方です。フェリーは、新潟・秋田・仙台とあります。新潟・仙台は夕方に着くのでちょっと意味がありません。秋田は北東北に行くときに使うことにします。となると高速道路を利用することになります。北陸周りと東京周りがあります。東京経由は遠回りになりそうです。北陸周りに決まりです。
行くだけで1日、帰るのに1日まるまる使いそうです。経費とかも考えて、日数は1週間程度にします。高速道路は土日に3割引になります。できればこれを利用したいものです。土曜の泊まりを探すのは大変です、日曜出発土曜帰りが良いでしょう。日数的にもぴったりです。
泊まるところです。いつも通り、公共の宿を探します。国立公園系の宿が、裏磐梯、羽黒山・気仙沼にあります。気仙沼は小さな島の中なので、車をどうするかが問題になります。もっと北側にもいくつかあります。このあたりは次回回ることにします。裏磐梯・羽黒山を候補にします。羽黒山は9月に訪れていますので、泊まるだけになりそうです。
元官公庁系の宿は一関・郡山・酒田・いわきにあります。郡山・酒田は国立公園系の宿とそれほど離れていません。いわきは離れています。候補として一関が残りました。県町系のものはあまりたくさん見つかりません。道路地図にはいくつかあるのですが、休館になっているところがあります。結局、候補として蔵王温泉が残りました。
宿を裏磐梯〜蔵王温泉〜一関〜羽黒山とします。羽黒山からは到着が夜遅くになりますが、帰ってくることができます。この間は何もなさそうなので、これでじゅうぶんでしょう。左回りのこの順番にします。インターネットからわかる宿泊予約状況もこの方がいいようです。
大阪と裏磐梯の間にある沼沢には寄りたいので、直接行くのは無理なようです。寄らなくても、距離的には無理かも知れません。調べてみると沼沢の近くに、いくつか温泉地があります。大塩というところは、炭酸泉だそうです。ちょっと変わっていますのでここを候補にします。こうすると高速道路は新潟から磐越道に入らなくても、長岡から関越道に入ってすぐの堀之内か小出で降りていくことができます。これでだいぶ距離が短くなりました。
一関−羽黒山の間も離れているような気がします。ここでも1泊どこかに宿を入れたいものです。泊数もこれを入れるとぴたりです。場所的には、横手近辺が良さそうです。湯沢温泉がありますが、大きな温泉町で夜明るそうな感じがします。横手近辺で調べてみると、町外れの山中に南郷温泉というのがあります。星も何とか見られそうです。ここを候補とします。
宿へ予約を入れたところ、どこもすんなりととることができました。泊まるところは確定です。といっても大きな所はネットで調べてあります。
次は、観光地です。この範囲内にある活火山は一通りは見ておきたいと思っています。沼沢に行きたいのもそれが理由です。他に、磐梯山・安達太良山・吾妻山・蔵王山・栗駒山・肘折があります。岩手山・秋田駒ヶ岳以北のものは次回に回します。
沼沢までは、時間に余裕があればひすい探しをしようと思います。後は、小出から途中の様子を見ながら走ることになります。
沼沢から裏磐梯の間では、会津若松・喜多方と有ります。塔のへつりも観光地としては有名です。裏磐梯にまわる間に、猪苗代湖や磐梯山を見ることができます。
裏磐梯からは、安達太良山・吾妻山は目の前です。ちょっと移動したら行くことはできるでしょう。蔵王山に寄ってから蔵王温泉に行くかその逆にするかは微妙なところです。その後一関にぬけることを考えると、蔵王温泉が先の方がいいようです。
蔵王温泉から一関の間では、多賀城は見ておきたいです。仙台城もありますが、駅近くなので電車で来たときでもいけます。後でも良いでしょう。前回、鳴子峡は中に入っていません。川沿いを歩きたいです。
一関の宿の近くには、厳美渓・猊鼻渓という渓谷が有るそうです。平泉も近くにあります。世界遺産の中尊寺や毛越寺は一度行っているので必ずというコースからは外します。柳の御所付近が整備されているようなのでこちらを優先とします。
横手市付近は何も情報がありません。いってから探すことになります。肘折は羽黒山に行く途中にあります。羽黒山の麓の酒田市鶴岡市は商人の町城下町という対比でおもしろそうです。候補に入れます。最終日になるかその前日になるかは様子を見ます。最後に、鶴岡市のクラゲ博物館は必ず見ておくことにします。あとは、帰ってくるだけになるでしょう。
持ち物です。望遠鏡があります。前回は持って行くものも含めていっぺんに運ぼうとして往生しました。今回は少しずつ早めに車に運んでおくことにします。車に乗せている自転車もタイヤの空気を点検したところ、相当減っています。補充しておきます。電灯を取り付けていませんが、持っていって使うときに取りつけようと思います。着替えです。途中で洗濯すると少なくてすみますが、うまくその日に出きれば良いのですが、そうもいかないこともあります。悩んだあげく全日分持っていくことにしました。これは車の強みです。あと、ポータブルカーナビとGPSロガーも持っていきます。ロガー用の電池としてアルカリ電池を購入しました。家の在庫はちょうどなくなっていたところです。そのついでに、眠気覚まし用のするめも買いました。
充電用のアダプターをそろえていると、大変な数になりました。望遠鏡のバッテリ-用、携帯電話用、ポータブルカーナビ用、コンパクトデジカメ用、一眼デジカメ用が2種類の合計6種類です。カーナビ用は車から充電できるのですが、うまくいかなかったこともありましたので一応入れておきます。充電できるものは全て充電しておきます。望遠鏡用バッテリー、デジカメ用電池、コンパクトデジカメ、カーナビ、携帯電話などです。望遠鏡用バッテリーは、半日つないでも充電完了のランプがつきません。そんなに減っているはずはありません。バッテリーチェックをやってみるとランプがつきました。いつの間に完了していたのでしょうか。
最後に残った問題は植木鉢です。ほとんどのものは2-3日は大丈夫ですが、毎日水をやらないと頭がたれてくるものがあります。ポットボトルを使う給水器があったので、使ってみることにしました。それのないものは、受け皿を大きめにしてここにたっぷりと水を入れていおくことにします。一部の植物は、枝を落として、水の吸水が少なくなるようにしました。
準備関係は以上ですが、別の問題が残っています。ブログに投稿する旅行記の記事は、いったん全文章を作ってから、順番に投稿しています。現在の所、前回分が作り終わっていません。この状態だと、記事作りが間に合わず、だんだんたまっていくことになってしまいます。早いこと解消しないと大変なことになりそうです。最近、ブログに追われて何もできていません。本家の方の記事作りもほとんど手がつけられていません。なんとか、次へ次へと追われることがないようにしたいものです。
朝早く起きようとしたのですが、いつもよりちょっとだけ早めの時間になってしまいました。戸じまりなどを済ませ、出発できたのは7時前です。そのまま、高速道路に入り東に向かいます。名神をそのまま進むか、京滋バイパスに入るかを選択できます。いつもは京滋バイパスに入るのですが、朝日に向かって走るような感じになるので、名神にしました。
米原ジャンクションから北陸道に入り日本海沿いに進んでいきます。尼御前SAで休憩を入れることが多いのですが、今回は、一つ先の小矢部川SAにしました。ここで、高速道路地図をもらったのですが、新潟近辺が詳しくありません。道路の管轄が違っているためです。東日本の管轄になります。ここは中日本の管轄になります。
小矢部川からカーナビを起動させます。時間がありそうなので、ひすい探しをしてみようと思います。といっても、1時にはそこを出発しないと、暗くなるまでに宿に着けないでしょう。
ひすい探しは、宮崎海岸にします。朝日ICで降りてから、国道をしばらく走ることになります。もう一つ気になるのは、ガソリンがかなり少なくなっています。満タンにしてから何回か走っていたので、初めの量も少なかったのでしょう。宿近辺では入れられそうにないので、この近くで入れておくことにします。親不知ICの入口近くにガソリンスタンドがあったような気がします。そこで入れるのが良いでしょう。
宮崎海岸で車の止めるところが問題です。駅前にとめられるのが一番良いのですが、地図で確認できるのは西の外れの駐車場です。とりあえず駅前まで行って、とめられなかったら外れの駐車場に駐めることにします。駅前の空き地に何台か車が駐められています。ここに駐めることにします。
元は、JRの駅だったのですが、新幹線ができてから民営化しています。あいの風富山鉄道というそうです。鉄道を、自治体が面倒を見ないといけないというのは大変です。できてよかったのかどうか考え物です。
駐車場から海岸に行ってみます。前回も来ているので良いだろうということで、カメラを持って出ていません。ここでの写真はありません。
海岸出てびっくりしたのは、海岸に釣り人がずらっと並んでいることです。ざっと見ただけでも30人はいるでしょう。海に向かって釣り竿を伸ばしています。いつの間にか釣りのメッカになっているようです。波打ち際を歩いていると、撒き餌に使うオキアミのようなエビが波間に漂っていて、赤く染まっているところがあります。余った撒き餌を捨てていったところのなのかも知れませんが、環境に大きな影響を及ぼしているのは間違いありません。12時を過ぎた頃から、釣り人達は帰り支度をはじめ、だんだん少なくなっていきました。
肝心のひすいですが、なかなか見つけられません。何人か探している人もいたようでしたが、知らずにただきれいな石を探している人もいたようです。親子が見つけたと喜んでいましたが、後の鑑定でひすいではないといわれていたみたいです。長い柄のついたお玉杓子のようなものをもって、波打際の浅いところを歩いている人がいます。時々すくっては、石をポケットに入れています。かなりの収穫のようです。挨拶があったついでに、状況を聞いたのですが、教えてくれませんでした。
予定時間になったので引き上げることにします。収穫は、軟玉が2つとキツネ石が1つです。軟玉も一応ひすいなのですが、ここでは硬玉だけがひすいのようです。これ以外に、妙に重たい石とか、いくつか拾ったもの持って帰ることにしました。
駅横のトイレを借りたついでに、駅前の観光案内所をのぞいて見ました。ひすいが取れたかどうかを聞いてみたのですが、今日はなかったようです。ひすいの鑑定もしているようで、どうもそうでないと言われた石を前に捨てていくようです。軟玉もひすいでないといわれるせいか、たくさん落ちているみたいです。黒っぽい軟玉を一ついただいてきました。
宮崎海岸を出て、国道を親不知の方にむけてはしらせます。ガソリンスタンドにつく前に親不知ICについてしまいました。あると思っていた場所は、まだこの先にある道の駅の入口の所でした。そのまま、高速道路に入ります。ガソリンは、まだしばらく走らせられる余裕があります。SAを一つ飛ばした先の米山SAで入れました。ここでは給油だけで休憩はなしです。
米山SAをでると、意外に早く関越道の分岐につきます。分岐してから、降りるICの名前がわかっていないことに気が付きます。山谷PAによって車を止め、道路地図で調べることにします。越後川口SAの手前と思ってたのですが、その先でした。堀之内ICで降りられたのですが、SAのマークが大きくICがあることに気が付きませんでした。さらに先の小出ICで降りました。
小出ICについたのは思ったより早めでした。距離的に宮崎海岸が真ん中くらいと思っていたのですが、実際には3分の2ほど進んだ所でした。このあたりで、寄れる所がないか調べておきたいです。近くに道の駅があるので探すことにします。その前に、目の前にある、大きな山が何なのか気になります。しばらく走らせていると、絵に山の名前に書かれた看板がありました。これはわかりやすいです。一目で、越後三山だとわかりました。交通量の多い道路上で写真は撮れないので、道の駅で撮ろうとくるまをを走らせていると、肝心の山は、手前の山かげに入ってしまいました。
道の駅には奥会津の観光情報センターがあります。只見川と書かれているのでのぞいて見ました。情報はどちらかというと、南よりの尾瀬からのコースが中心で、これから行こうとしている所の説明はありませんでした。それでも、コースにあたる場所のパンフを何種類か入手することができました。小出近辺の情報はあまりありません。ここから10分の所に鮎の簗場があるようです。どのようなものか興味があります。近くを通れば見ることにします。見るだけですむのかどうかは問題です。
道の駅からしばらく北に向かって車を走らせます。国道に入らず、東側の道を通ったので、簗場がありそうなところからは離れてしまいました。道はだんだん山道に入っていきます。道の駅いりひろせを過ぎたあたりで谷向こうに棚田が見えてきました。ちょうど車が駐められそうな所があったので駐めて見ました。写真家のような人も来て写真を撮っています。刈り入れの準備でしょうか、トラックもやってきています。
道はだんだん険しくなり、曲がりくねってきます。岩肌がむき出しになった山が見えてきました。車が少ないので、道脇に駐めて写真を撮りました。雪崩が作ったアバランチシュートのように見えます。少なくとも、頻発する雪崩で木はなぎ倒されているようです。
この道は、雪割街道というようです。峠を越えたところで、雪割街道展望所というのがありました。ここから振り返って見た道路です、山肌を縫うように走っています。昔はこの道を六十里越といっていたようです。このあたりはもう福島県に入っています。
ここから下流側に、田子倉湖が見えます。ダム湖です。
この湖岸まで降りれば、もうあと一息です。
雪割街道展望所には付近の見所が書かれています。アイヨシの滝もその一つです。道路からは気が付きにくいのですが、標識と駐車スペースがあるのでそこから探すことができます。
ここで、登山をしていた二人連れを拾います。浅草岳に登ってきたそうです。福島県で一番の景色だったと何回も言っていました。途中の駐車場に車を駐めているそうです。そこで、下ろした後は時々車を駐めて景色をみながら降りていきます。岩肌むき出しの斜面が続いています。
峠は越えたと思ったのですが、時々上り坂があります。何とか田子倉ダムに到着です。駐車場は一段高いところにあります。そこから見た田子倉湖です。
宿から近くに着いたら連絡するように言われています。電話を入れたところもうすぐ到着できるとのことでした。景色を見ながら降りていくと伝えておきました。
ダム堤の方に行きます。横から見たダム堤です。右側がダム湖になります。
ダム堤から下流側を見ると、すぐ下に発電所が見えます。
遠くにもう一つダムとダム湖があります。只見ダムです。こちらのダム湖はかなり堆砂が進んでいるようです。
下から田子倉ダムが見えないかと寄って見たのですが、発電所敷地内で入ることはできませんでした。見えたのは、只見ダムに着いてからでした。
これが只見ダムの堰堤です。ロックフィルダムのようです。
少し下ったところに、JR只見線只見駅があります。ここから先は5年前の豪雨のため不通になっています。
田子倉ダムからも見えていましたが、正面の尖った山が気になります。帰ってから調べたら似蕪山(963m)のようです。この先探しながら車を走らせたのですが行方不明になりました。
ここから下っていってもまだ川に水がたまったままです。さらに下流にダムがあるようです。正面の崖では水が滝のように落ちています。
この先ダムを見つけられないまま大塩に到着しました。
大塩についたのですが、それらしい宿が見当たりません。駅の近くとかにも行ってみました。町外れまで来たのにありません。地図で調べるともう少し先の岩崎という集落にあるようです。駅近くと思っていました。たしかに駅近くですが、間に民家の途切れるところがありました。
やっと宿に到着です。前に車が1台止まっていて、前後に車一台分ぎりぎりのスペースしか空いていません。久々の縦列駐車になります。暗くなっているので、障害になるものもはっきりと見えません。もう少しどちらかによってくれていると楽なのにと思いながら苦労していると、宿の人が出てきて道路の向こう側に止めるよう指示がありました。これで駐車が楽になりました。
部屋に入って荷物を整理した後、夕食です。子持ちヒメマスの塩焼きがついていました。卵のプチプチとした食感が新鮮です。ところで、この卵もイクラというのでしょうか。小さいですが、見た目は似ていそうです。卵だからイクラでもいいのですが..。
食後は温泉です。宿の内風呂でもいいのですが、狭そうなので共同浴場に行くことにしました。ここから歩いて5分ほどです。空を見ると、雲の間からベガと思われる星が見えますが、すぐにかくれてしまいました。今晩は雲が多いので星見はなしです。すぐに共同浴場に到着です。
ここの建物も5年前の水害の時に流されたそうです。中は無人です。箱がありますので、協力金を入れて入ります。客もいませんでした。成分表を見たのですが、炭酸塩が多めですが、特にという感じではありません。遊離成分は除くと書かれていますので、こちらの方で多いのでしょうか。浸かっていて体に気泡がつくというレベルではないようです。出る頃にはお客さんが増えていました。
宿に戻って、パンフレットなどを見ながら明日の計画を立てます。いったん只見まで戻ってから再び道を引き返し沼沢に行くことにします。計画が立ったところで、することはないので、寝ることにします。
翌朝です。窓の外を見ると山に雲がかかっています。夜中に雨が降ったようです。
まだ小雨がぱらついていますが、ぶらぶらと出かけることにしました。車から傘を持っていきます。前の国道ではなく、農道に入りここから駅の方に行くことにします。
脇に栗の木があります。実がいっぱいついていて道路にもたくさん落ちています。車に踏まれてつぶれているものもあります。もったいないので道路に落ちているものをいくつかいただきました。この頃には、雨はやんでいました。
畔には、ヒガンバナが咲いています。秋分の日はついこの間でした。東北ではヒガンバナが咲くのはちょっと遅いのでしょうか。
田んぼには、稲がたわわに実っています。刈り入れの終わったところもあるようです。棚に干されています。
鉄道の線路を渡りますが、線路上は雑草が生い茂っています。線路沿いの道を川の方に行ってみました。道路と並行して走っているはずの線路が、橋脚だけになっています。5年前の水害で流されたためです。この時、ここの他、後2ヵ所で橋が流され、それ以来鉄道は不通になっています。
川には濃い霧がかかっています。空気が川の水で冷やされたり、川の水が温かく蒸発した水分が空気で冷やされたりするとできますが、ここのは、山から降りてきた霧がたまったものかも知れません。
今度は駅の方に行ってみます。大塩駅のホームと線路敷きです。廃線になりたて路線のようです。レールはまだ残っています。
駅から国道を通って宿に戻ります。途中の民家前に比翼ヒバが植えられています。天然記念物だそうです。確かにヒバにしては大きな木です。
この近くに炭酸水の湧きだしているところがあります。道路沿いに炭酸水と書かれた広場があるのですが、そこではなく、まだ山の方に入ったところにあります。向こう側の山は、中世の山城跡だそうです。
深い井戸から水が湧き出しています。下から盛んに泡が上がってきています。炭酸分が分離しているのでしょうか。モニタでは確認できなかったので何度も取り直しをしました。
飲んでみると確かに酸っぱい味がします。手をつけてみると気泡がつきますが、コップの縁にはできません。何か違いがあるのでしょうか。横に工場があり、瓶詰めにして販売しているようです。展示室もあるようですが、まだ開いている時間ではありません。
ここから道路沿いの広場まで戻ったところで傘を忘れたことに気がつきます。炭酸場まで取りに戻ります。
国道に戻ったところで、道脇にカラフルな実がついているのが見えます。ノブドウの実です。調べた文献には食べられないと書かれています。商品名は忘れましたが、後に寄った道の駅で売られていました。どうするのでしょうか。
ここを、過ぎればすぐに宿に到着です。
朝食を済ませ、しばらく休んでから出発します。最初の目的地はそんなに遠くない滝沢です。ここの川には甌穴が発達しているそうです。これを見に行きます。
標識に沿って進み、駐車場に車を入れます。ここから少し山道を歩きます。道脇にはキノコがたくさん出ています。
これなどは名前がわかりそうですが、持っている図鑑には似たものが載っていませんでした。
河原に降りるところがあります。そこから河原に出ます。そこには甌穴らしきものは見当たりません。と思っていたのですが、帰ってから見直してみるといくつかあるのがわかりました。
上流の方に歩いて行くと滝が見えてきました。道はここまでです。
引き返します。やっと見つけた甌穴です。きれいな丸い穴になっています。
下流の方に行ってみますが、あまりそれらしきものが見つけられません。いったん駐車場に戻ったところで、分布図があるのを見つけました。それに従ってもう一度探し直してみます。ただ困ったことに足元はぬかるみです。昨晩の雨で草も濡れています。靴の中は水浸しです。
見直してみると確かに甌穴がありました。思ったよりも大きなものです。滝のように水の落ちている左側の水たまりは丸くなっています。壁も薄く本当に甕のようです。滝壺になっているところと奥に合計3こ写っています。
こちらは甌穴がいくつかつながっています。
そのつもりで、最初の写真を見直してみるといくつか写っているのがわかりますね。
ここでは、駐車場の横で水の湧き出しているところがあります。不動清水と書かれてます。林の中を見ると、あちらこちらのポケットの中を探している人がいます。今いる足元を見ると軍手が片方落ちています。これを探しているのかと聞いたのですが、違っていたみたいです。足元に置いて帰ろうとするとそれを取りに戻ってきました。話が通じていなかったようです。
滝沢はもう一ヵ所寄るところがあります。ここでも炭酸水が湧きだしています。その場所です。
水を汲めるようになっているところでは、水はちょっと藻臭くなっています。左奥の湧きだし口の所から汲んで水筒に入れることにしました。だいぶましです。後で、水を飲もうとして水筒の栓を開ける度に空気の抜ける音がします。少しずつ炭酸ガスが分離していたようです。それに伴ってだんだん酸味も減っていったような気がします。
滝沢から只見の方に進もうとすると、工事のためしばらく止められました。その足元にタヌキが車に轢かれていました。何らかの処分をするのかと思ったのですが、帰りに再び通った時にもそのまま横たわったままでした。
引き返したのは、昨日通った時に河井継之助記念館と書かれているのが気になったからです。明治維新の北越戦争の中心人物です。このようなところにどうしてというのが気になります。只見町のその場所に着いたのですが、開館時間までまだだいぶあります。もっと先の叶津番所という所に行ってみることにします。
叶津は会津(若松)から西に進んでくると、2つに分かれます。一つは真っ直ぐ西に進む六十里越で小千谷にぬけます。昨日通ってきた道です。もう一つは北西方向に長岡にぬける八十里越です。こちらはまだ、国道はつながっていません。場所的には、交通の要所になりますから、番所がおかれたようです。その番所にある長谷部家住宅です。
古く格式のありそうな建物です。個人が住宅として利用していますが、一般公開されています。ついた時刻が早く、見せてもらえるのかどうかわからなかったので、外形だけにしました。従って番所との関係はよくわかっていません。
住宅の前に、JR只見線の線路が見えます。奥の高架橋です。ここも不通区間になっていて、高架上の線路に草が生えています。
八十里越国道早期開通をと書かれた看板がありますが、只見線の全線開通の方が先のような気がします。こちらの方が費用的にははるかに安くできるはずです。不通区間の早期開通をという運動らしきものは目にしませんでした。只見線はどうなってもいいと思っているように見えます。
再び宿のあった方に戻って、継之助記念館に行きます。その建物です。
河井継之助と只見町の関係です。継之助は北越戦争で足に流れ弾を受け負傷します。その療養のため、長岡から会津若松まで八十里越えを通って移動します。この只見町で病状が悪化し最後は息を引き取ることになります。その建物のうち、継之助が療養していた部屋の部分がこの中に保存されています。元々は野外展示だったようですが、痛んできたために建物内に移したそうです。
河井継之助の関係したものの他にも、某放送局有名連続ドラマに使われた舞台衣装・道具なども展示されています。
横にあるのが山塩資料館です。もともとはこちらが記念館だったそうです。この付近で作られていた塩の製法についての説明があります。ここの塩を使った食べ物はこの後各地で見かけました。
この前から、河井継之助のことを書いた有名作家が、前のダム湖を見てきれいと言ったとか。ちょっと電線が邪魔です。電線のないところから撮りました。
国道沿いに車を止めています。降りる途中でJR只見線の踏切を渡りますが、ここも不通区間で草が伸び放題です。
このままだと不通区間の修復費用だけも大変な額になりそうです。全線開通はどうにもならいと言おうとしているように見えます。
このまま川に沿って下り続けます。大塩を通りぬけしばらく走ると金山町の中心部に着きます。ここの会津川口からは会津若松まで鉄道が通じています。町はすれの道の駅に寄ります。炭酸水はここで入手できます。施設の中に古い民家が復元されています。五十島家住宅といいます。この建物には板の間がありません。ずっとなかったのでしょうか。このほかにも、この付近で発掘された遺物などの展示もあります。
ここから沼沢に向かいます。標識に従って進んで行きますが、肝心なものを見落としてしまいました。気になって見直したので事なきを得ました。カーナビには道路が表示されていませんでした。沼沢付近を出力した地図には載っていましたが、それがあるのをわすれていました。
どこを進んでいるかわからないまま走り続けるといきなり湖が見えてきました。カルデラ湖です。車を止められる広い場所がなかったのでそのまま進みましたが、車がほとんど来ないので道脇に寄せても大丈夫だったみたいです。やっと見つけた駐車場近くからの沼沢湖です。
湖岸も少し歩いてみたのですが、草が濡れていたためせっかく乾いた靴もまたびしょ濡れになりました。
この横に沼沢第二発電所というのがあります。揚水発電をしているようです。無駄なことをしているようですが、出力調節のきかない原子力発電にとっては必要な施設です。
沼沢からは南会津の方にぬけることにします。
沼沢湖からは元の国道に戻ればすぐに会津若松に着きます。それだと時間的に早いようなので、いったん南下し会津鉄道に沿って会津若松を目指すことにします。パンフから確認できている観光地は塔のへつりです。何かのパッケージツアーで行きそうな気がしますが寄って見ることにします。もう一つパンフに書かれていることで気になっているのは中山風穴です。
沼沢からは途中何も見つけられないまま塔のへつりにつきました。駐車場に車を入れます。管理員さんに、中山風穴の場所を聞いたところ詳しく教えてくれました。これで迷うことなく行くことができます。その前に塔のへつりの見学です。駐車場から少し歩きます。雨が降りそうですが、傘は要らないでしょう。
へつりとは崖のことだそうです。それが塔状になっている事からついたのでしょうか。このあたりの説明は見かけませんでした。一つ一つの塔に名前がついているようですが、覚えきれませんので無視します。一応記録はとっておきます。
下の方に道のようなついています。今は崩落のため通行止めになっています。昔はここを歩いて通りぬけていたのでしょう。今は吊り橋を渡っていくことができます。
橋を渡った先にある岩の上に毘沙門堂があります。いけるのはここまでです。
この前から見た吊り橋です。こわごわ渡っている人がたくさんいます。
へつり側の通路です。地層的に柔らかいところを利用して断崖の中に道が作られているようです。対岸にも同じように高さにくぼみがあります。
凝灰岩のようです。さらに詳しいこととなるとこれだけではわかりません。地質調査所はここに第四紀火山を設定しています。
次は、中山風穴を目指します。
国道を出てから、右側に見える最初のガソリンスタンドの所を左に曲がれという指示です。国道を指示通り走らせますが、町外れになり、山の中の道になっていきます。こんなところに本当にガソリンスタンドがあるのか不安になってきます。といって、反対方向は山が右側になります。左折の指示とは合いません。中ったらその時ということでとにかく走らせ続けます。次の町に入ったところでガソリンスタンドがありその前にちゃんと標識が出ていました。案内は正しかったことになります。問題は、ガソリンスタンドまで5km近くあったことです。
この道も大変な道です。傾斜がきつく曲がりくねっています。おまけに葉っぱがたくさん落ちていて滑りそうです。天然記念物植物群落という標識以外それらしいものはありません。ちょっと広くなった所に人がいたので聞いてみました。ここの監視員をしているそうです。パンフをいただいた上に風穴のことを教えてくれました。目の前のガレ場のようなところにある石のすき間から冷たい風が吹き出している場所のことをいうそうです。大きな洞窟のようなものがあるのではないようです。ちなみに山道に入ってから風穴という標識はありませんでした。
この先に、施設があるというので行ってみました。だいぶクマが出ると脅されましたがその時間帯ではないので大丈夫でしょうと答えておきました。すぐそばだと思ったのでスリッパでいったのは失敗でした。坂がきつく歩きづらい上にだいぶ距離もありました。
施設というのは、窪地に崩れないように周囲に石組みをしたものです。中は吹き出す冷気で涼しく、貯蔵庫として使われていたようです。
こちらは、体験施設ということで屋根付きです。
中には冷気がたまっています。その上にある暖かい湿った外気が冷やされもやのようなものができています。
ここの林は、特別な植物が生えているようで天然記念物に指定されているところがあります。キノコもたくさん生えています。足元で見かけたキクラゲのようなキノコです。
この後は、途中何か見所はないか探しながら会津若松を目指します。
南会津からは見所になるようなものはなく、すぐに会津若松に着きました。会津若松でも見所は鶴ヶ城しか思い当たりません。まずはそこに行きます。市内を北上しているとお城は右前方に見えてきました。駐車場の案内を探したのですが、なかなか出てきません。あったのは、城を通り越してからです。お城の堀が見えるところに来たときに駐車場がありましたのでそこに入れました。お城用の駐車場にしたら何か狭いような感じがします。近くの会館用の駐車場だったようです。有料だったので、ここから歩いてお城に行くことにします。お城の駐車場も有料でしょう。進んで行くと、石垣のあるところで道が折れ曲がっています。北出丸の枡形です。
北出丸から堀を渡る椿坂を通って石垣の間を通りぬけます。太鼓門です。ここでも道が折れ曲がっています。
太鼓門跡を通りぬけると正面に天守が見えてきます。
太鼓門の方を振り返ると、石垣に階段がつけられています。太鼓門に攻めてきた敵を、上から攻められるように、石垣に上がるための段です。武者走りというそうです。
ここから天守を時計回りに周り、半周足らずで、天守の入口につきます。
入場券を買って入ります。券は南東にある麟閣と共通です。三層までは、会津藩の歴史を中心に展示解説されていますが、覚えきれていません。というより、理解できていません。上層からは、周囲の景色がよく見えます。思ったより近くに磐梯山が見えます。右側の尖った山です。
白虎隊で有名な飯森山の位置が気になります。磐梯山の右側手前にある小高い丘のようです。
天守から伸びる、南走長屋と先端の干飯櫓です。ここの中は、天守1層の売店の奥から行くことができます。
天守・南走長屋を見た次は、麟閣に行きます。その入口です。
麟閣は、千利休の子である少庵が会津に匿われていたときに、作ったものだそうです。茶室と関連の建物がここにあります。
茶室玄関です。
こちらが躙り口になります。
庭園もきれいなのですが、何か奇妙なキノコが生えているのが、気になりました。
麟閣を出たら天守の西側をまわって駐車場に戻ることにします。
麟閣を出てちょっと行くと、荒城の月の書かれた記念碑があります。鶴ヶ城が、そのモチーフになっていると解説に書かれています。豊後竹田城に行った時にも同じような説明を見たように記憶しています。気になっていたので帰ってから調べてみると、土井晩翠が鶴ヶ城をイメージして作詞したのに対して、滝廉太郎が豊後竹田城をイメージして作曲したことによります。作詞と作曲で、違う城を見て作ったのに、すんなりとつながるのは不思議です。土井晩翠が、ここを訪れたときは天守は復元されていなかったそうです。
ここから、駐車場に戻るには南走長屋の下をとおります。鉄門と呼ばれる立派な門があります。石垣も大きな石で組まれています。
この近くの出口から出れば、北出丸に行けると思ったのですが、何か来たときと様子が違います。西出丸に出てしまいました。こちら側に大きな駐車場があります。
太鼓門の方に行き直します。北出丸から車を止めたところに戻ります。この駐車場前は一方通行になっているので、西出丸の駐車場前まで行かないと通りぬけられません。途中北出丸にあった武徳殿です。昔の藩校のようです。
西出丸の北側からもときた国道に出ます。米山SAでガソリンを入れてからだいぶ走っています。満タンにしていなかったのでいまは底をつきかけています。ここで補充しておきます。
ここから先ですが、もうほとんど時間がないので、そのまま裏磐梯に向けて走ることになるのでしょう。すぐに猪苗代湖に出ますが、湖岸ではなく磐梯山山麓の道を行くことにします。磐梯山はきれいに見えてきました。途中に道の駅があります。ここで、磐梯山の写真を撮りました。3万年前の岩雪崩のことが書かれた解説があります。
今、磐梯山の南西側にいます。ここから裏磐梯にぬけるには、磐梯山の西側を通る道と東側を通る道があります。東側の道は遠回りになりますが、ほとんど平坦なところを走ります。西側の道は山道で、地図で見る限りはかなりジグザグしています。まわっていった方が早そうなので、東側から行く予定です。そのつもりで走っていたのですが、いったん裏磐梯と書かれている標識を見て入りかけてしまいました。これは西側を通る道だと気づき、地図を見直して正しい道に戻ります。その後は予定通り裏磐梯にぬけたのですが、ここからの道がよくわかっていません。道路地図の方には、泊まる宿が書かれているのですが、カーナビには登録されていません。一本目の道に入ったのですが、カーナビに表示される走行方向が違うようです。2本目の道は、方向はあっているのですが、周りに建物らしきものは全く出てきません。不安に駆られながらも走っていると、やっと建物の入口の案内が見えてきました。この近くは前に来たことがあるはずなのですが、その時の記憶と全く違っています。
宿の駐車場は明かりが少なく薄暗くなっています。星を見るには好都合です。目の前に宿併設の天文台があるためのようです。翌朝撮った天文台です。天気がよければ、星を見せてもらえたのですが、今日は曇っていますので中止でしょう。当然望遠鏡を出して星を見ることもできません。
後で、中の望遠鏡だけをを見せてもらいました。中心になるのは15cmの屈折式望遠鏡です。25cmのシュミットカセグレンと6cmクラスの屈折望遠鏡が2ついっしょにのっています。なんか不思議な組み合わせでした。
夕食を食べて、温泉に入ったらすることはあまりありません。と思ったのですが、ロビーの床の石は、アンモナイトの入っている石です。アンモナイト探しをすることにしました。10個ほど見つけたのですが、新しく見つけたものは一度見たものなのか初めてのものなのかわからなくなってきました。その中の一番きれいなものです。隔壁だけでなく房室まではっきり残っています。
宿の人に聞いたところ、ここにアンモナイトがあるのは知っていたようです。比較的きれいなものがあった3ヵ所も押さえていました。
アンモナイト探しが終わると、いよいよやることがなくなったので、寝ることにしました。
今朝はよく晴れています。部屋の窓から磐梯山がよく見えています。
天気につられて、散歩に出ることにしました。宿の裏手に遊歩道があるみたいなのですが、通行止めになっています。桧原湖の方に中瀬沼探勝路というのがあります。こちらの方に行きます。
探勝路入口の中瀬沼です。ヒルムシロがいっぱい浮かんでいます。
このあたりは、蚊がたくさんいます。カメラのレンズを交換しようとしている間にもたくさん服の上に止まります。上着がぴちぴちのものをきていたのでよけい蚊の餌食になりそうです。
レンゲ沼を回ってから、中瀬沼の方に行きます。途中の道ばたの木に絡みついていたツタウルシです。これが一番紅葉が早いようです。
道は、上り坂になります。ちょっとした小山のようになっていて、一番高いところに中瀬沼展望所があります。
この小山は、磐梯山が噴火したときに、山の斜面が大量に崩れ落ち、山の一部が大きなブロックとしていっしょに運ばれてきたものです。流山といいます。
展望所から見た中瀬沼です。
ここから桧原湖の方に向かいます。途中に水路のような川があります。このあたりの林の中には、沼や水路がたくさんあるようです。
桧原湖に出ました。入り江のような所に島がふたつあります。霧のため霞んで見えています。この島も流山由来のものでしょう。
道は湖岸に沿って続くのですが、これ以上いっても何もなさそうなので引き返すことにします。戻り道で空を見上げると、太陽がボンヤリと見えていました。
宿に戻ったときには、宿主催のお散歩会が始まろうとしていました。外で待っている人たちに、非常に蚊が多かったというと、みんな一斉に虫除けスプレーを借りて体に振りかけていました。
散歩会は、北側の曽原湖という湖に向かうようです。湖面には波がなく向こう側の景色がきれいに写っています。難点は、霧のため遠くの山が見えないことです。
いろいろな話を聞きながら宿に戻ります。途中の芝生の上には、キノコがたくさん顔を出しています。大半がヌメリイグチです。食べられると聞いていたのですが、最近の本によると、消化器官に影響が出ることがあるので要注意だそうです。
宿に戻ったところで、朝食です。お散歩会は、朝食会場に人が集中しないようにしている感じがします。
朝食を済ませて、一息ついたら出発します。今日の予定です。宿は蔵王温泉にとっています。このまま北上して米沢から上山にぬけそこから蔵王山の方に登っていくのが最短コースです。これだと時間的に早すぎます。吾妻山の方へはいきたいと思っています。そこから裏磐梯に戻ってくるのも能がないので、そのまま東にぬけることにします。そのあとは、北上して蔵王山を通って蔵王温泉に行くことができますが明日の行程がなくなります。福島から、米沢にぬけていくことにします。
宿を出るときには磐梯山の麓にかかっていた雲も少なくなり山肌もきれいに見えるようになってきました。
時間はありそうなので、いったん桧原湖を一周することにします。道はすぐに桧原湖湖岸を走るようになります。ここで、写真を撮ったついでに、GPSロガーにログ記録をとらせます。昨日までは、使っていませんでした。
しばらく走っていると路線バスに追いつきました。宿を出ようとしたときに、宿前を出発したバスです。追い越させてくれたので先に行かせてもらいます。これで展望所などがあったときに寄りづらくなりました。
北端とか、何カ所か立ち寄りながら、桧原湖の周りを回ります。磐梯山展望所というのがあります。そこからの磐梯山です。近くの山の横ぎりぎりの所に見えています。
対岸は、宿のあったあたりです。朝行った入り江が見えます。つきだした半島の左側です。この半島も流山のようです。
湖上の島の紅葉がきれいです。この島も流山でしょう。
西側に吾妻山が見えるのですが、ここまでではよくわかりませんでした。手前の山にかくされているようです。道の駅はちょっと高いところにあるので行ってみました。それらしい高い山は雲がかかっています。
ここからは桧原湖の南側を走ることになりますが、しばらくは林の中です。ぬけたところが、磐梯高原駅です。桧原湖を南側から見ることができます。北側と違って磐梯山に近い分流山がたくさん島となって点在しています。
ここは、遊覧船の乗り場になっています。のらないかと誘われましたが、先の予定があると断りました。ここはもうひとつ観光地である五色沼の西側の入口になっています。散策もできるのですが、1時間程度歩いた後ここまで戻ってこないと次にいけません。前にも来ていますのでパスしました。後で考えてみると自転車があったのでそれで東の入口まで行き、自転車をそこに置いて散策して車まで戻り、車で次の所に行く途中で自転車を拾って帰るという方法がありました。
ここを出発したらもう少しで桧原湖とはお別れです。
裏磐梯から吾妻山へは、磐梯吾妻レークラインと磐梯吾妻スカイラインという道を走ります。無料で走れますが、昔は有料道路だったような名前の道です。
レークラインは昨晩間違えてちょっとだけ走った道です。道に入ってすぐに説明看板があります。なにか気になるので見ました。ここから見える吾妻山の名前が書かれていました。近くの山が築部山、遠くの高い山が西大巓です。その右側に最高峰の西吾妻山が見えるはずなのですが、雲の中です。
小野川湖も見えると書いてあったのですが、ここからではなくもう少し先の方の三湖パラダイスというところの方がよく見えました。奥に桧原湖も見えています。
三湖パラダイスというのは、裏磐梯にある3つの大きな湖が見えるということから名付けられています。もう一つの秋元湖は、道路の反対側になります。
秋元湖の見える側からは、磐梯山も見えます。2つの峰を横から見る形になっています。
道は、大きな谷を越えます。谷底は、中津川渓谷です。サイクリングに最適とパンフに書かれていますが、何か険しそうです。
ここから道はいったん山を降り秋元湖の湖岸近くを走ります。正面に真ん中のへこんだ均妙な形の山が見えてきます。安達太良山です。
ここから、小さな峠を越え山の斜面を降りたら、国道に合流します。レークラインはここまでです。国道をほんのちょっと走ったあと今度はスカイラインに入ります。といっても、途中の土湯峠までは元国道のようです。
土湯峠に近づくといろいろな展望所があります。国見台からの磐梯山です。あいにくと山頂付近に雲があります。
双龍の辻からの猪苗代湖です。磐梯山の横に見えてきました。
吾妻山方面はまだ雲の中のようです。
車を走らせていると、正面に木の生えていない山が見えてきました。火山のようです。
兔平駐車場という場所なのですが、この先の浄土平駐車場は有料です。こちらは無料で駐められます。距離は1kmほどしか離れていません。ここに駐めて浄土平まで歩くことも考えたのですが、浄土平に駐車することにしました。途中多くの人が歩いているのとすれ違います。兔平に駐めて浄土平まで歩いて行ったのか、浄土平に駐めてこの園池に来たのかどちらなのでしょうか。
吾妻山近辺では、火山活動が活発になっていて、火口周辺への立ち入りが禁止されています。駐車場の入口で、どこが規制されているのか確認したところ、「いっさいきょうはいけません」という返事でした。何のことか一瞬理解できなかったのですが、「いっさいきょう」というのは山の名前でした。レストハウスの裏手からは入山禁止でした。
レストハウスの裏手には山が見えますが、周辺の案内図には山の名前が書かれていません。噴火口のような穴があって、そこから噴煙のようなものが上がっていて、轟音が聞こえてきます。
山の名前が書かれていないのは、これは一切経山の山腹の一部で、頂上はここからは見えないからのようです。ここから反対側を見るともう一つ木が生えていない山が見えます。吾妻小富士です。
一切経山と吾妻小富士との間には、湿原が広がっています。浄土平湿原といいます。まずはこちらの方から行ってみることにします。その入口にビジターセンターと天文台があるのですが、工事をしているため入ることはできませんでした。
ここから一切経山の撮影のためレンズを交換しようとした時に、レンズを落としてしまいました。動作を確認したところ、レンズが最短になるあたりでズームが引っかかるようになっています。帰ってから修理に出さないといけないようです。
湿原といっても、荒れ地のような感じがするところです。真ん中に川が流れていて、硫黄のにおいの強いところがあります。川底などに硫黄バクテリアによって硫黄がたまっています。
一番湿原らしいところです。池塘のようなものが見えます。
湿原のリンドウはもう終わりかけています。かろうじて残っていたものです。
一番たくさん咲いていたのが、ヤマハハコです。といっても花なのか実をつけているのが、微妙です。
ウメバチソウも1つだけ見つけることができました。
背丈の低い木に黒い実がついています。クロウスゴでしょうか。
白い実があります。シラタマノキのようです。どちらもいまごろ?というような気がします。
向かい側に見える吾妻小富士には、たくさんの人が登っています。こちらも行ってみることにします。登り口は駐車場入口から道路を渡ったところにあります。
見かけはきつそうなのですが、登山道としては、ふつうでしょう。それほど高くないので、息が切れる前につきそうです。だいぶ登ったところから見た浄土平湿原です。紅葉が進んだ木があります。
登り始めて5分ほどでほぼ登り切って、道は平坦になります。向こう側には噴火口の大きな穴が見えます。
駐車場から一切経山にかけての方向です。この高さでも一切経山の山頂は見えないようです。
道は、噴火口を1周するように作られています。噴火口の向こう側が一番高くなっているようです。噴火口をぐるっと左回りに回るように行ってみます。山頂近くでは、溶岩層が見えます。道はここを迂回するようについています。
一番高いところがはっきりわからないので、山頂がどことは決めかねます。山頂らしき所からは噴火口の向こうに一切経山が見えます。一切経山の山頂が見えているかどうかは微妙なところです。
このあたりから山の東側がよく見えるのですが、西側に比べて雲が多いようです。北側の蔵王山付近も雲におおわれているようです。
この後山の東側を降りていく予定ですが、通り道となる道路沿いは木が生えてなく、岩肌を縫うように通っています。このあたりは噴気が流れ込んでいるようです。
ゆっくりとまわったので一周は30分ほどでした。吾妻小富士を降り駐車場に戻って吾妻山の東側を降りていくことにします。吾妻小富士から見えていたところを通過するときは、有毒ガスのため、窓を開けないようにという案内が出ていました。
山を少し降りたところにつばくろ谷というところがあります。つばくろというのはツバメのことだそうです。つばくらめというのは聞いたことがあります。つばくろ谷の底を見ようとしたのですが、霧が昇っていて、よく見えませんでした。
吾妻山から福島市側におりましたが、今晩の宿は蔵王山の西側にあります。ここからのルートで代表的なのは、吾妻山の北麓を通って米沢にぬけるコースと蔵王山を山越えするコースのどちらかでしょう。蔵王山をぬけるコースは明日も通りそうなので、米沢経由で行くことにします。
山を降りてからは、吾妻山の山麓に沿って北上します。途中こんな山の中でという場所でカラフルな列車を見ましたが、山形新幹線(奥羽本線)だったようです。今通っている道は、フルーツラインと名前がつけられています。両側には果樹園が並んでいて、果物の販売所がいっぱい並んでいます。無人販売所があるので、車を駐めてのぞいて見ると、梨が売られていました。ちょっと傷んでいるけれども、たくさん入っているものを選んで購入しました。
フルーツラインから国道13号に入って山越えをします。越えたところで、ぶどうまったけラインに入って北上しようと思っていたのですが、行きすぎてしまいました。後に車がつかれていると、速度も落とせず判断が鈍ります。米沢に入る手前で北上し高畠町の方に向かいます。一応道路案内通り進んだのですが、高畠の町並みに入る直前で道がわからなくなり、間違った方向に進んでしまいました。すぐに、カーナビで確認しましたが、今ひとつ道がよくわかりません。よく考えてみると、吾妻山を下りてからここまで、梨を買った以外はひたすら車を走らせていたようです。ここに車を駐めたついでに、周囲にある山を撮ってみました。方角もわからなくなっているのですが、吾妻山の方向を撮っていると思われます。
こちらは、蔵王山の方角と思ってとったものです。山頂は雲におおわれています。
帰ってから気が付いたのですが、写真の左側に鳥の群れが写っています。このサイズではわかりにくいので拡大してみます。近くに「むくどりの夢館」というのがあります。このあたりはムクドリの多いところで、この鳥もムクドリということなのでしょうか。
この近くに道の駅がありますので、とりあえずそこに行って観光情報を入手することにします。
道の駅でわかったのは、北上するには行き止まりで、東か西に迂回しないといけないということです。東は迂回量は少ないのですが、山道のようです。あとで調べ直したらそれほどでもなかったようです。この時の判断では西の国道13号へ迂回することになりました。近くで興味のあるのは大立洞窟ですが、道がややこしそうです。いけそうだったらいってみることにします。もう一つは瓜割石の採石場跡が公園になっていることです。職業柄気になりますので、こちらに行くことにします。この前をぶどうまったけラインが通っていて、そこを進んで行くと国道に出ることができます。
瓜割石の採石場跡に行く前にもう一つ気になるものが目の前に見えています。銅板(?)葺きの三重の塔です。これだけにも気になるのですが、案内図を見るとそこにあるのはお寺ではなく「安久津八幡神社」という神社です。どういうことなのか気になります。初めは迷っていたのですが、結局、見に行くことにしました。だいぶ近づいた所からの三重の塔です。
三重の塔の手前にはしっかりと鳥居がありますので、ここは神社なのでしょう。鳥居の足元にある細長い石はじじばばの石というそうです。
元々は鎌倉時代に立てられた阿弥陀仏を信仰するお寺だったものが、いつの間にか八幡様をお祀りする神社に変わっていったようです。そういえば、羽黒山も神社なのに五重塔がありました。
この神社から、道の駅の北側にかけては公園になっています。公園の斜面では、ヒガンバナが満開のようです。手前はアヒルのいる池です。
公園は「まほろば古の里歴史公園」といいます。資料館とかがありその横に竪穴式住居が復元されています。
こちら側にはよらずに先を急ぐことにします。
道の駅たかはたから瓜割石庭公園に向かいます。1kmもはなれていないところにあります。道路から大きな石切場の跡が見えてきます。駐車場ははっきりしないのですが、まえの開けたところに車を駐めることにします。ここからは、石切場跡が見にくいので、少し入ったところからのようすです。
高さ2−30mの垂直の崖で取り囲まれています。高い崖に囲まれた区域は野外音楽洞と名付けられていました。音がよく反響しそうな場所です。このような空間は何カ所かにあります。
切り出された石は、高畠石と呼ばれ近隣で使われているそうです。公園の名前が瓜割石となっているのは、ここの石が冷たく瓜を冷やすと割れることから、石の別名が瓜割石となっていることに由来します。石は凝灰岩で、比較的しまっていて加工しやすそうな感じがします。
洞窟のようになっているところで、週末に石工さん達の集まりがあるようで、その準備をしていました。誘われたのですが、参加は無理です。鳥居の種類などの解説が並べられていました。
石庭公園から、まえを通っているぶどうまったけラインを北上します。すぐにちょっとしたダム湖に着きます。蛭沢湖というようです。ダム堤です。
ダム湖の上の崖に、黄色っぽい色をした岩が露出しています。先ほどの高畠石と同じ石のようです。この付近一帯に広く分布しているようです。
ここからしばらく進むと、一の沢洞窟と書かれた標識が見えてきます。大立洞窟は見ていません。道は狭そうなのですが対向車は滅多に来ないでしょう。行ってみることにします。一の沢洞窟あと100mと書かれているあたりが広くなっているのでここに車をとめて歩いて行きました。すく近くでも駐められたようです。
一の沢洞窟は、沢を渡って斜面を少し登ったところにあります。岩を削ったような洞窟が空いています。
縄文時代から古墳時代にかけての遺跡で、土器や石器、人骨などが出土しているそうです。高畠石のくぼみを使っていたものが、削りやすいため次第に広げられていったようにみえます。この近くにある他の2つの洞窟(大立洞窟・日向洞窟)も同じようにしてできたものと思えます。ここのものも何カ所か大きく削られているところがあります。
ぶどうまったけラインにもどり、国道に向かいます。高畠町をぬけるあたりで、ブドウ畑が広がっていました。道路はこの先までなので、マッタケは反対側の始点あたりなのでしょうか。
国道に出たらバイパスを進んで行きます。正面に蔵王山らしきものが見えてきますが、山頂は相変わらず雲の中のようです。信号待ちの間に撮ったものです。
上山温泉を過ぎたあたりからから蔵王山に登る道に入り、途中から蔵王温泉に向かう道に入ります。後続車がいないことを期待したのですが、後ろに続く車がありました。無理はしたくないので気にせずゆっくり走ることにします。
蔵王山にかかる雲は少しずつ薄くなっているようです。山頂らしきものが見えたような気がしたのですが、車を駐めてゆっくり見ることはできませんでした。そのまま、蔵王温泉に到着です。宿は少し探すことになったのですが、カーナビのおかげで何とか見つけることができました。
部屋に入ってから、星を見る場所を探しに行きます。ロープウェイの乗り場あたりが広くなっていて明かりも少なそうです。ここから見る西の空は夕焼けで染まっています。
ロープウェイの山頂あたりも雲が切れて見えてきているようです。でも全天が高い雲におおわれ今日の星見も無理なようです。
蔵王温泉の朝も雲が多めです。温泉街のはずれに鴫の谷地沼というのがあります。朝の散歩がてらに行ってみることにします。車で登ってきた道に戻り少し下ったところに入口があります。鴫の谷地沼です。沼というより池のようです。
ここから見た山頂方面です。ロープウェイの山頂駅(地蔵山?)付近は雲の中です。
沼に沿って半周します。時々水面が波立つのが見えます。鳥のように思えたのですが、姿は見えなかったので、魚がはねたのかも知れません。それ以外は水面は穏やかです。
沼の南側を半周したところで、道は林の中に入ります。道沿いに大きな水たまりようなところがあって、ミズバショウの群生地になっています。ミズバショウの葉っぱも倒れ始めています。
沼に流れ込む?川は沼の近くで、滝となって流れ落ちています。横倉瀧といいます。
この川沿いに、遊歩道が作られています。2つに分かれていますが、蔵王山麓駅に向かう方の道を遡っていくことにします。この道の終わり近くにあるのが紫陽花瀧です。水路の段差のようにも見えます。
この瀧を上がったところで水辺の小径は終わりです。真っ直ぐ進んでロープウェイの乗り場の方に行きます。駅横の木にいたシジュウカラです。
近くのコンビニでパンを買ってから、宿に戻ります。途中の道沿いに分湯枡というのがあります。各宿に温泉を分配するための仕掛けだそうです。
宿の前まで戻ってきました。カエデとナナカマドが色づいてきれいです。
蔵王温泉からは、ロープウェイで山の高いところまで登り、周辺を散策して降りてくるのが一番いいようです。これだけでも半日以上はかかりそうです。次回に挑戦することにします。
今日の宿泊地は一関です。そこに行くためにまずは、蔵王温泉からは蔵王エコーラインをぬけて、蔵王山の東側に降りることにします。蔵王ハイラインの入口までは登りになっています。標高が高くなるにつれ、霧がだんだんと濃くなっていきます。終いにはほんの数m先も見えなくなってきました。フォグランプをつけてセンターラインを頼りにゆっくりと走らせます。
ハイラインの入口まで来ましたが、霧は濃いままです。ふだんならハイラインに入れば、刈田岳方面から有名なお釜を見ることができます。霧のため無理かも知れませんが行くだけは行ってみることにします。
蔵王山頂のレストハウスに着いたのですが、霧は晴れそうにありません。風もけっこう強いようです。さすがに、車はほとんどありません。あるのはレストハウスの従業員の車でしょう。
いったんレストハウスに入り、お釜の方角を確認してから、行こうとしたのですが、雨も降り出し始めていました。雨・風・霧と3つ重なってはどうしようもありません。ここはあきらめて山を降りることにします。
峠を越えて山を下りだしてからは、霧が急に晴れてきました。今日は西側から雲が上がってきているようです。下っていく途中の所々に駐車場があります。何カ所かで車を駐めて景色を見ながらゆっくり降りていくことにします。
遊歩道のあるところも何カ所かあります。こまくさ平と書かれていた場所です。溶岩原が広がっています。
展望台があり、足元にある深い谷を見下ろすことができます。対岸の遠くに2段の滝が見えます。帰ってから地図を見ると振子滝というのが書かれている場所に相当します。
川の上流側にも滝があります。不帰ノ滝というものでしょうか。この付近には説明を書いた案内板は見当たりません。
車を駐めたところまで戻り、少し下ると仙台平野が見えてきました。天気が悪かったのは刈田岳山頂付近それも西側を中心に下ったあたりだけのようです。
ここから少し下ったところにあるのが、不動滝です。駐車場になっているスペースの前に不動明王の像があります。
少し歩いた所に展望所があって、そこから不動滝が見られるようになっています。全景はちょっと無理なようです。
蔵王山の下りは続きます。
不動明王のいるところからさらに下ると、三階の滝展望所があります。少し脇道に入ったところに駐車場があります。行きすぎてUターンして入ったのですが、脇道は道路に再び合流していました。そのまま進んだ所からも入れたようです。
展望所からの三階の滝です。木が生えていて、見える場所が限られます。滝全体も見えないようです。
三階の滝は支流にありますが、本流の上流側には、先ほど見えていた不動滝が見えています。その上が蔵王山ですが、あいにくと雲がかかっています。
これで、蔵王山を降りる途中の見所はおしまいです。このあとの行き先ですが、宿のある北の方に向かいたいのですが、南に寄り道をしたところに白石市があります。お城で有名らしいのですが、道路地図には書かれていません。ちょっと興味があります。もう一つ山を降りる道を真っ直ぐ進んだところには、船岡城址公園があると書かれています。どちらかは見ておきたいので、まずは白石市に向かうことにしました。
蔵王山を降りる道から、南へ白石にぬける道に入り、白石ICをぬけてしばらく進んだところで国道に合流します。そのあたりは町外れで建物一つありません。案内も見えなかったので、どちらに町があるのかわかりません。国道を突き抜けた先で地図やカーナビを確認しようとしたのですが、後続車がついるうえ道が狭いので車は止められません。そのまま直進してもついてきます。やむなく先の交差点でICのあった側に左折し北東に向かいます。道は再び国道に合流ました。そのまま進んだのですが白石の町らしきものはありません。どうやら町は反対側でICかなり町から外れたところにあったようです。このまま真っ直ぐ進んでも船岡山城址公園には行きます。白石城は次回ということにして船岡山に向かいます。
船岡山の近くまでは来たのですが、城址公園の入口がわからず、近くをまわってしまいました。なんとか山の登り口を見つけました。登り始めた横の斜面にはヒガンバナがいっぱい咲いているのみえます。
城門らしきものが見えてきました。張りぼてのような感じで、ちょっと手軽すぎます。観光物産協会が簡易に作ったもののようです。この奥にある三の丸跡で菊花展が開かれるので準備をしているようです。
駐車場まで誘導されます。その脇に赤紫の花が咲いています。コルチカムです。
雨が降っていますが、小雨ですのでそのまま行くことにしました。公園では、第4回しばた曼珠沙華まつりがひらかれています。といっても今日は特にイベントがあるわけではありません。まずは、一通り曼珠沙華(ヒガンバナ)をながめてみます。
展望デッキに向かう途中のヒガンバナです。少しですが白いものも混じっています。このあたりは道が雨でぬるぬるしていて、滑りやすく歩きにくい場所でした。
展望デッキ近くのものです。
展望デッキから下に降りるリコリス坂の途中です。リコリスというのはヒガンバナ属の学名です。
三の丸広場入口から、公園入口に降りるところにある桜坂のものです。
観光物産館の前の鉢(プランター)植えです。オレンジ色のものがあります。
次はヒガンバナ以外のものを見ていくことにします。
船岡山城址公園展望デッキからの眺めです。山が見えます。蔵王山のようです。まだ山頂部は雲の中です。
麓を列車が走るのが見えます。東北本線です。線路沿いにさくら並木があって千本桜とよんでいるようです。このあたりは、どちらかというとさくらの名所として有名なようです。ここからは船岡の町並みもよく見えています。
展望デッキのある丘にはモミの木があります。船岡城は、仙台藩のお家騒動を描いた小説「樅の木は残った」の主人公原田甲斐の居城でした。騒動後、仙台藩は残りますが、船岡城はその後取り壊されます。小説では、残った仙台藩の象徴として樅の木がタイトルになっています。この丘の一番高いところに樅の木が植えられています。真ん中にあるクリスマスツリーのような木です。この展望デッキは「樅の木は残った展望デッキ」と名付けられています。
駐車場に戻ります。観光物産交流館近くで咲いていたコルチカムです。たくさん密集しています。ちょっと頭が重そうです。
駐車場脇の萩の木です。秋の花の代表です。
ヤマツツジも咲いています。こちらは狂い咲きなのでしょうか。かれたものが落ちずにくっついています。
駐車場の近くに古墳もあります。石室の入口の説明が書かれています。
城址公園は駐車場から山頂まで遊歩道かスロープカーで行くようになっています。ここには大観音像とかがありますが、ちょっと離れているのと、駐車場付近とあまり変わらないような気がしたのでいっていません。
城跡といいますが、三の丸はわかりますが、二の丸、本丸がわかりません。位置的には駐車城あたりが二の丸、展望デッキあたりが本丸なのでしょうか。山頂を本丸とすると離れすぎています。気になりますが、確認方法がないので次に行くことにしました。
この次に行く場所です。とにかく一関方向を目指します。途中の、仙台市内はいつでもいけそうな気がします。その横に多賀城というのがあります。整備されているみたいなので、こちらによって行くことにします。
船岡の町中を通って国道に戻り、岩沼に出たところで、海岸沿いの道に入ります。その前に、ガソリンが少なくなってきています。いったん給油します。海岸沿いの道に入るために、仙台空港の南沿いの道を東に進み、滑走路の下を通る道に入るのですが、標識を見誤り一つ手前で曲がってしまいました。300m先と書かれているものをよく見落とします。下の方のわかりにくいところにあるのがよくありません(といういいわけです)。
戻って予定の道に入ります。以外とトラックがたくさん走っています。裏道としているのか、復興のためなのかどちらなのでしょうか。道は仙台港を過ぎたあたりからどちらに進んでいいのかはっきりしなくなりました。何か適当に進んでいる内に多賀城跡の標識を見つけそれに沿って進むことができました。結局は多賀城のぐるっとまわり、かなり遠回りをしたようです。
標識に従って進んで行くと、狭い道に入りこんでしまい、最後はどこに行ったらいいのかわからなくなってしまいました。途中でJR国府多賀城駅の前を通ったので、そこで近辺の地図を確認することにしました。国府多賀城駅です。仙石線に多賀城駅がありますがこちらは東北本線の駅です。まわりには駅向こうの博物館以外ほとんど何もありません。
国府多賀城駅の観光案内所は、駅のこちら側、駅舎横にありました。地図をもらって道を確認しようとしたのですが、ここまで道に迷っています。方角はわからない、縮尺はよくわからないで地図ではわかりません。そこでいわれた説明に従っていくことにします。地図のどこをどう走ったのかわからないまま何とか、いわれた駐車場に着きました。正面に見える丘がそれのように見えるのですが、それなのでしょうか。
駐車場から、入口といわれるところに入ったところに、遺跡の一部が復元されていました。このあたりは外郭(外側を大きく取り巻く柵)南門があったあたりだそうです。先ほど見えていた丘は、この右側にあります。
後で見つけたのですが、ここの小屋の中に多賀城碑がおかれていました。古代にここが多賀城であると書かれて石碑です。
ここから政庁に向かう道が復元されています。道脇にミヤギハギを植え輪郭を示しています。その先にある石段の上が政庁跡です。
このあたりは雨で濡れた草の植えを歩きます。もう靴の中に水がだいぶ入ってきています。
政庁にだいぶ近づきました。この段の上が、政庁南門跡になります。
段上に上がると、政庁を囲っていた塀の跡が盛り土で示されています。
政庁正殿のあった場所です。
こちらは政庁北門になります。
正殿から外郭南門方面です。南門は写真上の端ぎりぎりの所になります。
政庁域や、外郭で取り囲まれた範囲はかなり大きいことがわかります。構造的には太宰府に似ているような気がしました。
前回は、鳴子峡を車窓から眺めただけです。ゆっくりと歩いてみる価値はじゅうぶんにありそうでした。ちょっと寄り道にはなりますが、多賀城から宿のある一関までの途中にあります。次の目的地は鳴子峡に決まりです。問題は時間的にぎりぎりなことです。時間節約のため、高速道路を利用することにします。地図で確認すると降りるのは古川ICとわかりますが、入口がわかりません。目の前に高速道路が見えているのですが、地図にはこの近くにICが書かれていません。とりあえず高速道路の方に行ってみることにします。
高速道路の近くまでくると、高速道路入口の標識がありました。どうなっているのかわからないのでカーナビで確認するとICが表示されています。どこにつながっているのかを見ると、この先にJCTがありそこから東北道にぬけられるようです。ここから、高速道路に入ることにしました。この道は昨年に使った道でした。競技場の大きな建物など見た風景があります。
古川ICで高速道路を降り、鳴子温泉から鳴子峡を目指します。途中から雨が降り出してきました。鳴子峡に着いたときも雨は降り続いています。傘を差しながらあるくことになります。まずはレストハウスに行き、案内図をもらおうとしました。1枚だけあったのですが、去年のものでした。それによると通行できるのは、レストハウスや駐車場のある場所近辺と、大深沢の遊歩道だけです。
レストハウスの横に展望台があります。そこからの眺めです。前回、鳴子峡をバスからみていた大深沢橋方面です。
正面の鳴子峡です。谷底まではよく見えません。
遊歩道入口まで、行ってみます。昨年4月現在の看板があって、下の回顧橋から先の鳴子側へは通行できないと書かれています。回顧橋まで行こうとしたのですが、このすぐ下にゲートがあって、開放時間と書かれている時間をわずかに過ぎています。人がいないのでそのようなことはないと思われますが、閉じ込められるとどうしようもないのでゲートの見えるあたりまでがまんします。そこからの眺めです。
大深沢橋に行ってみます。そこから見た鳴子峡レストハウス方面です。
谷底です。大深沢という支流になります。川の両岸には切り立った岩場のようなものは見えません。
大深沢上流方向です。紅葉があればきれいかも知れませんが、まだちょっと早いようです。時間の余裕もなくなっていますので、遊歩道を歩くのはパスすることにします。
橋を渡ったところの駐車場近くの展望所からです。遠くに鳴子側入口が見えています。
上流側です。
レストハウス前駐車場の川沿いにも展望所がありますが、ほとんどの所は木しか見えません。木の間からとか何とかと書かれていますが、そのすき間さえありません。最上流側からは何とか斜面が見えましたが、渓谷といった雰囲気ではありませんでした。おまけに濡れた草の上を歩かないといけなかったので、せっかく乾いた靴がまたびしょ濡れになりました。
そろそろ宿に向かわないといけない時刻になっています。道も暗くなるとわかりにくくなる上、複雑そうなのでカーナビをセットします。予想所要時間は2時間と表示されます。1時間ちょっとと見ていたのですが、考えていたよりかかりそうです。遅くなりそうだっら途中で宿に電話を入れることにして、カーナビの指示通り進むことにします。
途中は信号とかがなく、始め予想していた時間通りに着くことができました。宿に着く直前で、この先右折という指示通り進んだのですが、宿への道は見つけられませんでした。交差点を過ぎた所で右折しないといけなかったようです。
宿は、日帰り入浴客の多いところで、専用の入り口までありました。入浴する頃には日帰りは終了していて一緒になることはありませんでした。夕食は栗ご飯だったのですが、目の前で炊きあげるシステムでした。できあがるまで待っていられずふつうのご飯を先に注文してしまいました。コース料理は、酒を飲まない人のことを考えてくれないので困ります。
食後すぐに空の様子を見に行きました。雨はやんでいるものの、雲は全天に広がっています。今晩も星見はなしです。
宿の窓から見た朝の風景です。霧がかかっています。ここから栗駒山が見えるらしいのですが、これでは無理なようです。
外に出てみたのですが、ちょっと雨がぱらついています。すぐに戻ってきて、朝風呂に入ることにしました。あまり時間はつぶれません。朝ご飯を食べたらすぐに出発することにしました。最初の行き先はこの近くにある厳美渓です。立てた予定では、そこから平泉の方にぬけて達谷西光寺・柳の御所跡を見た後、猊鼻渓の方に向かいます。いったん一関に戻り、北上してえさし藤原の里にいった後宿のある横手の方に向かうことになっています。もちろん、途中興味を引くものがあったら、変更が可能です。水沢には緯度観測所があります。置き換え可能場所になっています。
厳美渓は宿からすぐの所です。天気がよければ朝の散歩に行ったかも知れないくらいの距離です。厳美渓周辺は道が狭く、駐車場も狭く有料だったので、ちょっと離れたところにある道の駅に駐めることにしました。道の駅のモニュメントです。もちと湯の郷と書かれています。臼が並んでいるのは、もちにちなんだのでしょうか。
厳美渓にぬける途中の、須川温泉神社の境内に江戸彼岸桜が市指定天然記念物となっています。伊達政宗にちなんで貞山桜と呼ばれ親しまれているようです。
この向かいの道路を渡ったところを降りていくと吊り橋があります。御覧場橋といいます。
橋の上からは渓谷がよく見えます。上流側です。厳美渓の中心の方向になります。
川底に甌穴が見えます。岩の上には所々でこのような甌穴を見ることができます。
下流側です。川岸の崖は低くなります。渓谷はここまでのようです。
遊歩道とか東屋のある広場とかが設けられています。川岸は危険なのでロープが張られて立ち入りが規制されています。
こちらは、川を渡るように張られたロープです。対岸の店からこれを伝わらせてだんごを送るシステムになっています。郭公だんごというそうです。
ここから見た上流側です。谷が深いのはこのあたりからのようです。
川の右岸の遊歩道はここまでで、橋を渡り左岸側から渓谷を見ることにします。川沿いの道は長くはないのですが、渓谷は浅くなり終わりになります。
ここまで、濡れた草の上を歩くことが多く、すぐに靴の中がが水浸しになりました。今日も足元が不安です。
厳美渓に入る道を逆方向に進んでいくと、平泉に出ます。その途中に達谷西光寺というお寺があります。
道を進んでいくと、正面に崖が見えてきました。これが達谷の窟と呼ばれるものでしょう。右側にお寺らしきものも見えています。霧がうっすらとかかっています。わかりにくくなっていますが、磨崖仏も見えているようです。
西光寺は、坂上田村麻呂が東北遠征で勝利したのは毘沙門天の庇護のためと考えこの地にこれを祀るために立てられたものです。西光寺の前に駐車場があります。ここに車を駐めます。そこから見た西光寺の入り口です。雨が降っていますので、傘を差して行くことになります。
ここでは、お寺というのに鳥居があります。それも3つ並んでいます。真ん中の鳥居です。2番目の鳥居ですが、丹の鳥居ともいうようです。
正面に見えるのが、毘沙門堂です。えぐれた崖にめり込むように立てられています。達谷窟といわれる所以です。
その向かいにあるのが、弁天堂で、蝦蟇が池の中島に立てられています。
沙羅の奥の崖の面に、岩面大仏が掘られています。阿弥陀如来だそうです。大日如来に似ているそうですが、違いはわかりません。平泉が阿弥陀信仰の場所なので関係があるのでしょうか。
岩面大仏の前から見た毘沙門堂です。前にサルスベリの花が咲いていました。もう夏はおわりなのですが。
鳥居の上にある姫待不動堂です。簡素なお堂です。
不動堂からさらに奥に行く階段にツチグリができていました。
上がったところにあるのが金堂です。
金堂の前に大オッコウの木というのがあります。北海道や東北ではふつうオンコといいます。イチイの木です。根元から大きく枝分かれしています。
谷間にある白山池です。
見学場所はここまでです。次の場所に向かうことにします。
西光寺の前で、次の場所までの移動手段がなく困っている2人連れがいました。次のバスまではだいぶ時間があるし、タクシーを呼ぶにもここまで10分以上かかるみたいです。平泉の方に行くけれどものっていかないかと聞いてみたら、駅まで行きたいといいます。駅前は通るかどうかはわかっていないのですが、近くを通ることは間違いありません。とりあえず送ることにしました。
世界遺産に登録されたので平泉を回りたいとのことです。それなら、途中に毛越寺の前を通ります。まだいっていないというので、行ってみたらといって、その前で下ろしてしまいました。それでよかったのでしょうか。駅はここからすぐの所にありました。
駅を過ぎて、町中の狭い道を走っていると伽羅之御所跡と書かれた案内があります。予定では、ここは柳之御所から自転車で来るつもりでした。民家が密集し、道が狭いところなので案内板だけを写真に撮って次に進みました。案内板以外それといった変わった点はなさそうでした。
そこから車をどう走らせたのかはよくわかっていないのですが、堤防沿い内側の開けたところに柳之御所史跡公園がありました。柳之御所跡と関連施設があります。資料館とその奥にある、調査事務所です。
資料館の展示の目玉は、柳之御所復元CCのようです。発掘風景とかとあわせてビデオで放映されています。
建物の裏手から道路を渡った向こう側に柳之御所の主要施設跡が並んでいます。雨はほとんどやんでいますので、傘はささずに行きます。
道路の手前側にも復元模型とかがおかれています。これは堀の跡です。正面の建物の右側からその奥にかけての場所が伽羅之御所があった場所になります。堀の右側に道路がありその先に橋が架けられ、伽羅之御所に行けるようになっていたようです。
柳之御所中心施設のあった場所です。白い筋のあるところは施設を取り囲む塀が作られていました。
黒っぽい土を被せているところが、中心建物があった場所で、東西に二つの建物が並んでいました。右手前は付属建物の跡です。向こうの小山は高舘です。
廊下状の建物があった場所です。輪郭が示されています。上の写真の左側に続いています。
中心建物前の広場の西側にあった園池が復元されています。池の中心には中島があります。
要らなくなったものを捨てた穴です。いくつか並んでいます。元々は井戸だったものもあるようです。
園池の北西から無量光院のあった方向です。無量光院跡は住宅の向こう側になります。
中心建物北側の竪穴建物から資料館の方向です。四角く黒いところは、東側の中心建物跡です。奥のクレーン所で道の駅を作っているようです。
ここまで、雨で濡れた草の上を歩きました。乾いた靴は再び靴は水浸しです。
平泉から東に進むと、猊鼻渓という渓谷があります。こちらは石灰岩地帯をぬける谷にできています。ちょっと興味があるのでそちらに向かいます。
入口に到着しました。両岸に切り立った岩肌が見えています。こちら側からは、船下りしか行けそうにありません。のぞいて見るだけなら、有料駐車場に車を駐めるほどのこともありません。雨が降っていますので、ここはパスすることにします。
ここに来るすぐ手前に、石と賢治のミュージアムと書かれた標識をみました。「石」と「宮沢賢治」と2つ並べられたら行かないわけにはいきません。戻って探したのですが、その標識を見つけられず、行きすぎてしまいました。一関側からしか標識がなかったようです。その道に入っても、休憩用パーキングのような場所があるだけで、すぐ元の道に戻ってしまいます。細い脇道があるのですが、車が通れる幅はありません。カーナビで場所を探したのですが、建物の位置はわかっても入口はわかりません。何度も道を行ったり来たりして、やっとそれらしいところにつきました。雨はあがっています。
この前の道は、「デクノボーの道」というそうです。宮沢賢治の代表作「雨ニモマケズ」に書かれているデクノボーからとっています。
案内に従って狭い道をぬけると、線路沿いに出ます。線路の数がたくさんあります。貨物の運び出しに使われているようです。
線路沿いに、板やトロッコ線路が敷かれていてその脇には、宮沢賢治の作品にちなんだ彫刻が並べられています。トロッコ道のギャラリーといいます。
ここにあるのが「太陽と風の家」で、中は鉱物や化石が展示されているほか、この地と宮沢賢治との関係についての解説や映像を見ることができます。宮沢賢治に関係した書籍論文を集めた文庫もあります。つきっきりで解説してくれるのはいいのですが、最後に宗教的な話になったのは、ちょっと閉口しました。
晩年の宮沢賢治は、農地改良のための石灰を広めるために、この地にある東北採石工場に勤めます。その時に、近くの陸中松川駅から工場まで通った道がデクノボーの道になります。
トロッコ道のギャラリーを工場の方に歩いて行くと、石灰岩粉砕器が保存されていました。
東北採石工場の建物です。この裏手の階段を上っていくと道路沿いのパーキングに出られるようです。
反対側の駅の方に行ってみました。ちょうど列車が入ってきたところです。ドラゴンレール大船渡線ですが、震災以後気仙沼以遠は復旧されていません。
駅近くのデクノボーの道です。
ミュージアム展示室で、近くに鍾乳洞があると教えてもらっています。次はそこに行くことにします。
この近くに鍾乳洞があるといわれて、こんな所にと思いましたが、猊鼻渓は石灰岩だし、東北採石工場で採っていたのは石灰岩です。陸中松川駅の向かい側にも石灰岩の採石場が見えていたし、松川駅も石灰岩の運び出し駅だったようです。それからみると、この付近には石灰岩が広く分布していることがわかります。当然鍾乳洞ができていてもおかしくはありません。教えてもらった鍾乳洞は幽玄洞といいます。
いわれた通り進むと、鍾乳洞の前につきました。石灰岩の岩肌がむき出しになった崖が目の前に見えます。
雨が上がったところです。カタツムリが出てきていました。
チケット売り場から鍾乳洞の入口までいくつかの建物があってその一つでは、化石が展示されています。これは、リンボクです。
最後に見えたこの建物が鍾乳洞の入口になります。
洞内は鍾乳石は少なめで、どちらかというと石灰岩が融かされているようすがよくわかります。
洞窟の壁にわずかにできた、鍾乳石(フローストーン:カーテン?)です。
洞窟の同じくらいの高さの所がへこんでいるのがわかります。このようなへこみはノッチといいます。地下水面付近が融かされてできます。現在水がたまっていないのは、地下水面はずっと低いところに変化したからです。
竪穴の底にたまった地下水です。浄魂の泉と名付けられています。
天井からぶら下がる、鍾乳管です。
幽玄洞は、鍾乳石はあまりないのですが、その代わりに変わったものがみられます。
幽玄洞は、壁が鍾乳石で覆われていない分、壁面の石灰岩がむき出しになり、石の中に含まれているものをみることができます。これは腕足貝の化石です。
紡錘虫(フズリナ)の化石です。解説には、小さくて見えませんと書かれています。観察場所を覆っているガラスが曇って見づらいです。その横の岩肌でも白くて丸い点々がいっぱい見えています。この一つ一つが紡錘虫化石になります。これ以外にも、いろいろな化石を見ることができます。
こちらは、洞窟サンゴです。サンゴのようにぎざぎざしたものが出ていますが、自然現象で作られます。本物のサンゴではありません。
コウモリの糞がたまってできた泥です。ふつうはグアノといいます。
ここを過ぎたらすぐに出口です。
チケット売り場の横に来たら、平成14年の台風6号の水位が示されていました。赤線の高さです。東北採石工場の建物の横にも同じ様なものがありました。
ここから、再び一関市街の方に戻ることにします。北上川の橋近くに来たときに見えた栗駒山です。天気は回復してきているのですが、まだ山頂部は雲がかかっています。焼石山も同じような感じです。
一関市街を流れる磐井川にかかる東大橋の橋脚です。過去の洪水時の水位が示されています。平成14年台風6号の水位は一番下の緑色です。それでもかなりの水位です。
このあと、田んぼと同じ高さの道を走っていたら、正面に堤防のようなものがありその下を通りぬけるようになっています。ぬけると河川敷かなと思うのですが、同じような田園風景が広がります。帰ってから地図で見たら、北上川沿いの低地を堤防で囲って田んぼにした場所のようです。おかけでここから抜け出す道がわからなく、復帰するのに苦労しました。
だいぶ時間をとったので、次に急ぐことにします。とりあえず、えさし藤原の郷を目指します。新幹線水沢江刺駅を過ぎてから案内があったので、それに従って進むと目的地に着くことができました。山の中をくねくねと走ったので、どこをどう走ったのかよくわかっていません。GPSロガーも、幽玄洞を出た後一関に戻るまでの間で電池が切れてしまい、記録が残っていません。
ここに着く頃には青空が広がっていました。入口前の田んぼです。ここは稲刈りが終わっています。
ここが、えさし藤原の郷の入口です。この左側には、えさし郷土文化館、右側にレストハウスがあります。
入口でチケットを購入して入ります。閉園時刻まであと1時間ちょっとです。標準コースとしてじっくり体験コースが120分、お急ぎコースが50分となっています。120分コースを回れるところまで急いでいくことにします。
園内に入ってて最初に目についたのが望楼櫓です。園は全体として、奥州の藤原氏の施設を再現しているようです。
政庁と書かれている場所です。平安装束?を着た案内係に政庁と説明されたので、柳之御所のことかと聞いたら、不勉強でわかないとのことでした。入ってすぐの所に(位置関係がおかしいような)平泉の地図があり、そこに主要施設の配置と名前が書かれていました。
先ほど平泉でみた柳之御所は、東西に二つの建物が並んでいたのですが、ここは正面に大きな建物が一つあるだけです。
柳之御所と伽羅之御所の間です。柳之御所史跡公園では堀があり橋が架かっていたと書かれていました。堀も復元されています。もっと離れているような感じです。敷地面積の関係でこれはいたしかたないですね。
藤原清衡の父、藤原経清の館の復元です。旧豊田館といいます。
藤原清衡が、平泉に移る前に住んでいた豊田館の復元です。豊田館跡は、地図にはこのすぐ近くにあると書かれています。この地に藤原の郷が作られたのもこれで納得できました。
高台からみた、柳之御所(後方)と伽羅之御所です。
伽羅之御所の一部です。水色の装束を着ているのは案内係です。
伽羅之御所の庭先に作られた、無量光院の復元です。実際より近くに作らないといけなかったため、同じ大きさに見えるように小さく作ったと説明がありました。建物は宇治平等院を模しています。平泉で見た感じでは、柳之御所からの方がこんな感じのように思えます。間に園池もありました。
藤原氏の関係する施設は以上です。次はその他の施設を順番にみていきます。園内は広いので、巡回するバスも用意されています。ゆめひら号といいます。
奥州藤原氏に直接?関連しない施設を中心にみていきます。トリックアート館です。だまし絵が展示されています。正面にもいくつかあります。脇にいる女性や牛若丸が浮き上がって見えるようにできているようですが、光線の関係でそれほどではありません。それ以外にもう一ヵ所あるのがわかりますか。答えは現地で。
義経持仏堂です。源義経と武蔵坊弁慶の最後のようすが、人形で再現されています。
こちらは安宅の関です。勧進帳の一場面が再現されています。
アラハバキといいます。東北地方によく見られる環状列石を再現したものです。といっても、実物は見たことはありません。
金色堂です。実物は建物の中に保護されています。外にある雰囲気だけでも。ちょっと色あせていましたので、画像処理でそれらしくしています。
東北地方に作られた柵遺跡も復元されています、河崎の柵城門です。藤原清衡の父、藤原経清が機転を利かせて逃げ込んだと、説明にあります。前九年の合戦の時のことです。源義家に命をねらわれるのではないかと藤原経清に思わせる事件が起こります。そこで経清は源義家を見限り、敵方の阿部氏の陣地(城柵)に逃げ込んだということです。
河崎の柵の向かい側にあるのが、伊治城(いじじょう、これはるじょう)です。城門が作られています。朝廷側の本拠の一つです。地理的にも河崎の柵に対する位置にあります。造営が始まったのですが、その頃に多賀城の焼き討ち事件が起こり、完成したかどうかはよくわかっていません。
園内の花です。ミヤギノハギが見頃だと説明がありました。その並木?です。
ムラサキシキブです。紫色の実がたくさんついていてきれいでした。
園内にロケ資料館というのがあります。ここの施設を使って撮影された、映画やテレビ番組の撮影時のようすなどが展示されています。ロケに使う程度の時代考証はできているようですが、どの程度まで復元されているのかちょっと怪しくなっています。
一通りまわったら、閉園時刻が迫っています。2−3土産物を買って宿に向かうことにします。この施設から町にぬける道がよくわかっていません。カーナビをセットします。到着予定時刻は、ちょっと遅めかなという時間です。前回もそうでしたので、それよりは早く着くだろうと高をくくって出発です。国道まではすんなり案内してくれたのですが、車が多くすんなりと進みません。渋滞というほどではありませんが、かなりゆっくりとした流れです。これではカーナビの予定時刻でもオーバーしそうです。高速道路の入口が近づいたので、そちらの方に曲がったら、新しい道を設定してくれました。その道順に従って車を走らせます。それでも車が多めのせいなのか、時間はかかります。仕方なく1区間だけ高速道路を使うことにしました。北上西ICから入って秋田側の湯田ICまでです。
北上西ICの料金所を過ぎてから、カーナビは盛岡の方に行けと指示を出します。どう考えても秋田の方のはずです。地図で確認しカーナビに逆らうことにしました。その後カーナビはしばらく黙っていました。
時間も遅くなっています。宿に連絡を入れようと錦秋湖SAに立ち寄りました。入口分岐から1km以上もあり、相当無駄な時間を使ってしまいました。これだと一般道を走っていてもそれほど時間は変わらなかったかも知れません。湯田ICをでたあとは、黒沢というところから山越えをするのが近いのですが、カーナビはその道を指示してくれました。目視でもそろそろということは確認していたのですが、道が狭く指示がなければ見落とすところでした。
ここから峠越えをしたところで、タヌキが栗の実を食べに出てきていました。急いでいて写真に撮るのを忘れていました。車がすぐ近くに行くまで逃げようともしませんでした。よっぽど食べるのに必死だったのでしょう。
谷を走る道に出てしばらく走ると目的の建物らしきものが見えます。対向車が入ろうとしています。建物の看板が見づらいので先に入ってもらおうとしたのですが、なかなか入ってくれません。車のライトがまぶしくなくなってから周辺を確認したところここで間違いないようです。中に入っていきます。夜遅くまで、日帰り入浴を受け付けていて、ひっきりなしに車の出入りがあるようです。
昨晩も星を見ようとしたのですが、霧がかかっているようで、星は見えません。早く寝ることにしました。
朝は、近くには何もなさそうなのですが、歩くだけになっても行ってみることにします。部屋の窓から外をみると、滝のようなものが見えます。こちらから行ってみることにします。
外に出てみると、濃い霧がかかっているのがよくわかります。山の稜線の小立が霞んでいます。
道沿いにあった施設です。圧力計がついています。温泉の吹き出し口で、出力調整をいているのでしょうか。
滝のように見えていたところは、石が組み上げられています。小さなダムの堰堤であふれた水が流れ落ちているだけでした。
これより奥へは行けないみたいです。引き返します。
川沿いに園地になっているところがあって、花壇のようなものがあります。コルチカムの花が密集して咲いていました。
これはダリアと書かれています。ちょっと小さめです。
花壇の脇のおがくずのようなものを積み上げたところからキノコが出ていました。栽培キノコは、おがくずで作りますので、キノコができて当たり前ですね。
このあたりも、草の上を歩くところがあります。靴の中がだいぶ濡れてきました。道を渡って反対側の畑に行ってみます。ここの畑は草が枯れているように見えていたのですが、よく見るとそばの実がついていました。
この頃になると霧もだいぶ薄くなってきているようです。青空が見え始めてきました。
宿に戻ります。この時間帯から宿に来る人がたくさんいます。朝から日帰り入浴をやっているようです。
朝食を食べて準備ができたら出発です。今日の宿は羽黒山です。途中にある興味を引く場所としては、横手市増田町に伝統的建造物が多数保存されているところです。横手市の南にあります。もう一つ寄っておきたいところは肘折温泉です。増田町に行く前にもう何カ所かよることができそうです。南郷から国道に出たところに道の駅があります。そこで情報を入手することにします。
道の駅でわかったのは、二つあります。1つ目は、宿の前の道は秀衡街道ともよばれ、平泉に金を運ぶ道であったようです。その途中にも金山跡があります。そうとわかっていれば、道をそのつもりでみておくのでした。道の始点は美郷町の金沢あたりになっています。このあたりに関連の施設があるようです。2つ目は、美郷町の六郷という所に湧水群があって、その涌水にはハリザッコという魚がいるらしいということです。これも興味があります。詳しい場所はわかりませんが、美郷町にも道の駅があるのでそこによって情報を得ることにします。地図を見ると、この道の駅の近くの相野々というところに奇妙な形の池が書かれています。ちょっと探したのですがわからなかったのでパスすることにします。
美郷町の道の駅「雁の駅せんなん」で湧水群の事がわかります。この先もう5kmほど行ったところが六郷の町でその真ん中に観光案内所と駐車場があるようです。そこまで行けばさらに詳しいことがわかりそうです。美郷町の鳥は雁だそうです。一度雁もみておきたいものです。
六郷の町中で、広い駐車場のある「湧太郎」という建物があったので、一度は車を中に入れたのですが、店の駐車場だと思い出庫してしまいました。行きすぎても他にそれらしき建物はないので、そこに駐めることにしました。中に入ってみると、レストランの他、観光案内所や学習施設「水文館」が併設されています。駐車場はここでよかったようです。ここの観光案内所で、涌水の見られるところの地図をもらって回ることにしました。範囲が広いので、歩いてはちょっとというので、自転車で回ることにします。レンタサイクルもあるようです。
ハリザッコのことも聞いてみました。みるのは難しいかもということです。水文館でみることができるそうです。雁のことも聞こうと思っていたのですが、聞くことが多く聞き忘れてしまいました。
水文館は、有料で入口の箱に料金を入れておくシステムになっているようです。メインの展示は、湧水群の事とこの付近で行われている酒造りのようです。とりあえずハリザッコはみておきます。
ハリザッコの正式名称は「イバラトミヨ」というようです。棘のあるひれが目立ちます。その他の展示も一通り見たら、涌水巡りに出かけます。この付近の涌水は、扇状地の扇端にできたもので、水の化学分析によって、どの泉がどの水脈に関係しているかわかるようです。隣同士でも水脈が違っていたり、離れていても同じだったりということが、展示からわかります。
涌水巡りは、説明に従っていくことにします。最初はハタチや清水です。ハタチやという酒屋さんにある清水です。残念ながら水は涸れています。ハタチやさんによると、この時期は枯れていることが多いそうです。このハタチやさんでもハリザッコをみることができます。泉の方はハリザッコがすむのは無理なようです。
その隣にある、久米清水です。ハタチや清水は行きすぎてこちらを先に見ていました。ここも水がたまっていません。
キャペコ清水です。キャペというのは男の子のお○ん○んのことを指していう方言だそうです。形が似ているのだそうです。ここまでくるとやっと水がたまっていて、泉らしくなりました。
御台所清水です。秋田藩主が鷹狩りの際に炊事やお茶の水に利用したことからこの名前がつけられたようです。洗い物がしやすいように、足場があります。横のポストのようなものには、泉ごとに解説が書かれていて、中に案内図が入っています。
水面をみているとミズカマキリがいました。ここでもハリザッコはかくれるところがないので住めそうにありません。
湧水地はまだまだたくさんあります。
藤清水です。近くに藤の木があって春先にはきれいな花が咲くそうです。藤の木まではみていませんでした。
側清水です。ちょっと離れたところにあります。案内所では時間に余裕があればということでした。自転車なのでくることができました。地蔵堂があって、清水そのものの場所は、わかりづらいところにあります。地蔵堂の横を潜っていくような感じになります。
ニテコ清水です。横の道を真っ直ぐ引き返した所にあります。一番利用されているという感じがします。
横には、手作り工房や食堂があって、ここの水を利用した製品が売られています。建物には渡り廊下があって、この清水から流れ出る川をまたいでいます。
前に六郷駅本陣跡の標識があります。このあたりは宿場町だったようです。お寺もたくさんあってお寺巡りもできるようですが、際だって大きなお寺ではないようです。
案内書で紹介された清水は以上ですが、もらった案内図ではこの北側離れたところに、いくつか清水が書かれています。行ってみることにします。北に向かう道を真っ直ぐ進んで、神社に突き当たる手前右側に沼(つつみ)清水と神清水が二つ並んでします。こちらは沼清水の方です。水面に浮き草がいっぱいあります。持って帰ったパンフの一つにはここがハリザッコの繁殖地になっていると書かれています。これではいても見つけるのは無理でしょう。
神社の前を左に進むと、馬洗い清水と大工清水にでます。馬洗い清水のほうです。馬を浸からせて洗うのにちょうどいい深さになっています。
ここにも水草が生えています。近づくと小魚が一斉にかくれるのが見えます。しばらく待ったのですが、出てこないのであきらめました。別のパンフにはここにもハリザッコがいると書かれています。
水底に動かない魚がいるのですが、これはハリザッコではなくドジョウでしょう。
この先には泉はないようなので引き返します。途中横切った広い道の方を通って戻ります。この道沿いの造り酒屋さんの入口にあるのが笑顔清水です。花が植えられてきれいに整備されています。この酒屋さんの銘柄はこの泉の別名をとって「奥清水」です。
道沿いにもう一つあるのが座頭清水です。ここまでくると山に近づいたせいか水が湧き出していません。
この前の信号を右に曲がって真っ直ぐ進むと湧太郎に戻ることができます。
湧太郎の所まで戻ってきました。出るときは気が付かなかったのですが、湧太郎の前には、ちょっと古い旅館のような建物があります。今は使われていないような感じです。
ひととおりまわったので次に行くことにします。実は横手市の方からここに来る途中に「払田の柵」と書かれた案内を見ています。ここの観光案内所で聞いていたのですが、わりと近くにあるようです。ここにします。この付近の書かれた地図を見ていると、途中に通る、美里町役場のある本堂城回にも湧水群があるようですが、六郷でみていますので、今回はパスします。別の案内図には天然記念物の断層があると書かれていますが、これは見落としていました。
いざ出発となって車の中を見るとGPSロガーが残されていました。だいぶ動き回っています。持って歩くべきものでしたね。
案内所でいわれた通りに車をはしらせると城門のようなものが見えてきました。思ったより遠いところにありました。
先に駐車場があり、その横にガイダンス(総合案内所)があります。発掘のようすなどが展示されています。展示されていた払田の柵の復元模型です。
払田の柵は9世紀の官衙の跡で、3重の柵で囲まれているのが特長です。中心の小高い丘の上に政庁と思われる建物があります。規模の割には歴史的な記録には該当するものがなく、その点で謎の遺跡です。
外に出て、政庁の方に向かいます。近くで見た外柵南門です。柵は板を埋め込んで作られています。
中に入って振り返って見た南門です。柵が一部しかないのはこれだけしか復元していないからです。
反対の政庁側です。川があり橋が架かっています。
丘に上がって振り返って見たところです。外柵南門から道が続いています。柱のあるところから両側に石垣が続いています。これが2つ目の柵外郭になります。柱の所に南門が作られていました。右向こう側の四角いところにも建物があったようです。
外柵南門の右向こう側が秋田県の埋蔵文化財センターでその右側の青白い屋根がガイダンスです。
丘の上からは鳥海山がよく見えます。
次は、政庁域を中心にみていくことにします。
政庁側をみたところです。道路の脇に建物跡があります。東西の前殿です。
さらに進みます。丸太のようなものが埋まっている場所です。ここに柱穴があり、両側に板塀が続いています。柱の所には門があったようです。政庁南門です。
さらに奥に進みます。正面の四角い区域が正殿のあった場所です。手前は大きな広場になっています。その両脇には、東西の脇殿があります。
正殿も通りぬけてみます。木のあるところに柱が2本立っています。ここが外郭北門です。その左側に白っぽい柵のようなものが見えます。ここが外柵北門になります。
ここから右に目をやると遠くに山が見えます。秋田駒ヶ岳です。
外柵北門です。今は工事中のようです。
丘を降りたところに、井戸があります。ホイドスズといいます。このなかから木簡など貴重な遺物が出てきたそうです。
丘の反対側です。外郭南門の横に建物が復元されています。大路東建物です。重要な施設だったと考えられています。今は展示室になっています。ミヤギノハギの植わっているところは外郭のあったところです。
駐車場に戻り次に向かいます。来た道を真っ直ぐ進むと、道を斜めに横断する青い線が引かれていて、その先に板塀が作られています。外柵のあった場所は、この道路を横断しているようです。というより、道路が外柵を横切っているのでしょう。
外柵のあった場所は再び道路を横断して遠くなっていきます。
計画していたよりだいぶ北まで来たようです。宿のある羽黒山とは反対側です。引き返さないとけません。再び、美郷町六郷付近を通ることになります。道脇に六郷城趾と書かれた標識があります。この向こう側かなと思って写真を撮ったのですが、標識の足元から右側にかけての場所だったようです。説明がないとよくわかりません。六郷駅跡でもそうでした。
この付近は、なんかみたことのあるような景色だと思ったら、側清水があったすぐ近くでした。ここまで来ていません。
この先の目的地としては、金沢公園があげられます。秀衡街道の始点になっています。行こうとしたのですが、入口が見つけられず行きすぎて、平安の風わたる公園分岐まで来てしまいました。先に公園に行くことにします。
公園の入口で、車を駐めようとしたら大きな音が鳴りました。車に何か異変が起こったのではと思ったのですが、何もありません。しばらくするともう一度なりました。鳥おどしのようです。
駐車場の前に奇妙な建物があります。頼山陽物見台と名付けられています。
公園の入口です。塀が作られています。どういう意味があるのか理解できません。
公園の中心域です。後三年の合戦の中心となった4人の像が向き合って並べられていまます。源義家と清原3兄弟です。
公園の塀には、後三年合戦絵詞の主要部分が何枚かにわたって書かれています。
そのまま進んで行くと3連の太鼓橋が見えてきました。雁橋といいます。
太鼓橋は大きな沼にかかっっていて、上からはその沼がよく見えます。西沼です。
沼には水鳥がたくさんいます。カモでしょう。望遠レンズは車においてきたので、大きく写すことはできません。
太鼓橋を渡った先は、美郷町雁の郷公園です。公園の命名からすると、雁はここをねぐらとして朝になったら出かけるようです。今はいる季節なのかどうかはわかりません。
ここに平安の風わたる公園ができたのは、絵詞にある「雁行乱れる」の場面がこのあたりと推定されるからでしょう。源義家が雁の列が乱れたことから伏兵の存在に気が付き、相手側を殲滅させたという話です。この話の信憑性に疑問符がつけられているようです。これは、場所を推定する以前の問題でしょう。
金沢公園にはいってみたいので、ここから戻ることにします。
金沢公園の入口が見つけられなかったのは、標識が横手側からにしかなかったためのようです。道路からの分岐を入ってすぐの所が広くなっていて車が駐められるようになっています。前に案内板があるので、確認するとさらに奥に駐車場があるようです。そこまで行きます。こちらの駐車場は車がたくさん止まっています。何とか1台分のスペースがあったので、そこに入れました。
案内板に金沢柵址(本丸址)と書かれていた入口近くです。案内板には二の丸といったようような、近世のお城に使われる用語が出てきます。金沢の柵址というのがここなのか不安になってきます。
金洗沢です。ここの水が金洗清水といい柵の用水として使われたそうです。金沢の名前の元となっています。
兜杉と書かれていました。朽ちた杉株の形が兜の形に似ているからでしょうか。
金沢八幡宮拝殿です。この公園の一番高いところにあります。
西の丸址です。テントが張られています。何か作業をしているのでしょか。車が多かったのもこれが関係していると思われます。
金沢公園にはこのほかにも納豆発祥の地の碑があったようです。関係ないと思って無視したのですが、納豆の発祥については後三年の合戦の時に源義家にさしだそうとした煮大豆が関係しているようです。ただそのいきさつは色々あるようです。
山を降りることにします。開けたところでは正面に鳥海山が見えます。
山を降りた先、国道に面して後三年合戦金沢資料館があります。
入口で入館券を購入します。横手市内にある他の3つの施設とあわせての料金になっています。他の施設は寄っている時間はないでしょう。ここだけでも、入館料に対する価値はじゅうぶんあります。共通入館券にある横手公園展望台というのは横手公園にあるお城のような建物のようです。
資料館内の展示は、後三年合戦に関する解説が主です。金沢柵についても説明ありました。登場人物については、理解でき始めたところです。
資料館裏手の山です。陣館遺跡が見つかっています。11世紀の遺物や立派な建物跡は後三年合戦に出てくる金沢柵に対応できますが、規模が小さいのが問題となっています。
金沢公園側です。14〜15世紀の中国青磁が見つかっています。この頃にお城が作られ、元の地形が大規模に改変されたようです。遺物を見直したところ11世のものも混ざっていたようです。金沢柵関連施設跡は見つかっていませんが、何らかの関係が推定されます。今後の発掘によって新しいことがわかるのが楽しみです。
横手近辺をまわっている内に気になるところが出てきました。大鳥井山遺跡です。払田柵が終わりを告げた頃に現れる遺跡です。その作りも払田柵に似ているといわれます。その後、藤原清衡の柳之御所にその様式が受け継がれていきます。ここは、金沢柵と同じようにこの付近を支配していた清原氏の居城だったと推定されます。
道は、後三年合戦金沢資料館で教えてもらっていました。ここでも入口を見落としていきすぎてしまいましたが、何とかたどり着くことができました。
現在は大鳥公園としてスポーツ施設などが作られていて、建物などの跡はほとんど残っていません。斜面に段として、堀や土塁の跡が見られるようです。
堀と平行に見たところです。この段の所に作られていたようです。2重になっていると書かれていますがそこまではよくわかりません。
一番堀っぽいところです。後で誰かが掘ったといえばそれまでです。
山に登る途中に十三塚というのがあります。直径2-3mの小さな塚が並んでいます。後の時代に作られたものです。
山の一番高いところにある大鳥井山神社です。この建物と一部被さるようにして、4方向に庇のある建物跡が見つかっています。
建物のあったあたりから、横手市街がよく見えます。別方向には鳥海山も見えています。
だいぶ遅くなっています。大鳥井山遺跡を後にします。隣の小吉山や道路を隔てて台処遺跡などもありますが、なにも跡は残っていないようなので、寄らずに次にいきます。山を降りたところからみた大鳥井山です。
初めの予定にあった増田地区の伝統的建物保存地区にはよっている時間はないでしょう。羽黒山を目指して南下を続けます。ガソリンもだいぶ減ってきています。湯沢で補給します。南の方に山が見えます。あのあたりまでいかないと宿にたどり着けません。月山と思っていたのですが、ほぼ同じくらいの距離にある並びの山です。
秋田山形県境に来たあたりで暗くなり始めました。肘折に寄っている時間もないようです。肘折は明日にします。ここから新庄を通っていくのは遠回りになります。直接戸沢にぬける道がありますが、コースは覚えきれませんし、車を止めて地図をゆっくり見ていられる場所もありません。カーナビに頼ることにします。
カーナビは、戸沢まではすんなりと案内してくれたようです。GPSロガーは1日電池切れで記録をとっていなかったようです。どこを通ったのかは確認できません。羽黒山の入口に来たところで、国道から風車の見えるところまで案内してくれました。途中で近道らしい案内は見ました。カーナビの方をを信用しました。その結果はかなり遠回りになったようです。おまけに、車がの通れる幅のない道まで入れと指示してきます。これは適当に無視して進みました。
山道では、後に車につかれたのですが、無視して走っているとカーブでものすごい勢いで抜いていきました。だいぶいらいらしていたのでしょうね。こちらは望遠鏡とかを積んでいますので安全運転でいきます。
カーナビの指示は宿ではなく羽黒山有料道路の入口までです。宿の位置が表示されていません。道路地図には書かれていますが、このあたりのどこかという事ぐらいしかわかりません。ビジターセンターがあったのでその入口前で車を駐め、宿から送られてきたパンフで位置を確認します。場所は何とその斜め前でした。ここも看板が暗く見つけにくいようです。
この宿だけが温泉ではありませんでした。別にこだわっているわけではありません。気にせずにいきます。今晩も雲がいっぱいです。旅行中、一度も星を見ることはできませんでした。
朝になりました。宿の近くに「自然の小径」というのがあります。そこに行ってみることにします。最初の観察地として湿性植物園というのがあるのですが、草が多く入口も見当たらずどこなのかわかりませんでした。たぶん背丈の高い草の多かったところなのでしょう。そのまま進むと池が見えてきました。二夜の池です。向こう側に水門のようなものが見えますから、人工的な池なのでしょう。
水面にみられる草です。水に浸かっているのがヒルムシロ、水から顔を出しているのがミツガシワです。ミツガシワがあるのはそれほど深くないことを指しています。
近くにあったミズナラの葉です。ミズナラというよりコナラっぽい感じがします。この付近には、コナラもあるようです。交配したものでしょうか。
権現の森にある、大山祗神社です。
社殿の前には明らかにコナラとわかる木がありました。葉っぱの形は先ほどのものとよく似ています。
もうひとつ、境内にあった木です、赤い実がついています。コブシのようですが、形が何となく違っています。タムシバでしょうか。
道は宿の方に戻りますが、キャンプ場の方に行ってみます。道を歩いていると聞き慣れない鳥の声がします。みると管理棟の横の木で頭の赤いキツツキ類がいました。アカゲラと思ったのですが、後で調べ直してみるとオオアカゲラでした。こちらの方数が少ないようです。
木に幹を一生懸命つついています。こちらには全く気が付いていないようです。
ちょっと離れたところにいったのですが、戻ってきてもまだいました。
ここらでいったん宿に戻ることにします。
宿に戻ってみると、出勤してきた人が途中の道路上でリスが出ていて、なかなか動かなかったといいます。だいぶ時間が経っていなくなっていそうなのですが、まだいることを期待して行ってみることにします。途中で何台かの車とすれ違いました。こうなると、いない可能性がますます高くなってきます。栗の実が落ちているところが目印なのですが、それらしいところには何もいませんでした。戻る途中に、石畳のある道が横切っているのが見えます。ちょっとのぞいてみました。昔の羽黒山の参詣道です。道から坂を登っていくのですが、こちら側が山を降りる側になります。両側の杉の木も立派です。
山側には、お寺があります。荒沢寺といいます。羽黒山の行場の一つだそうです。
朝食時間になっていますので、宿に戻って食事をします。終わって荷物の整理ができたら出発します。まずは、目の前にある月山ビジターセンターに寄ります。ここは早くから空いています。羽黒山に歩いて登る人たちでしょうか、ハイキングの格好をした人たちがたくさん出てきました。
ここには、月山の自然についての展示があります。その中でも興味の対象は貝化石でした。
次に向けて出発します。昨日行きそびれた肘折に向かいます。ここはカルデラがあり、活火山と認定されています。
羽黒山を下りる道は、昨日通らなかった尾根の東側の道です。谷に降りると正面に鳥海山が見えます。今日も昼間だけは天気が良さそうです。
最上川に出たら川に沿って遡っていきます。戸沢村から行く道があるのですが、寒河江にはぬけられませんと書かれています。寒河江はどこなのか検討がつかなかったので、国道の方から回っていくことにします。前回気になった本合海の崖が見えてきます。対岸からになりますが、脇道に降りてみていくことにします。
地層が大きく東側に傾いているのがわかります。新庄盆地のある東側が沈み、最上峡のある西側が隆起したため傾いたようです。
この崖の先で、肘折にぬける国道があります。ここでも寒河江にぬけられませんと書かれています。気になったので地図を見ると寒河江は肘折の先、山をぬけたところにあります。肘折までは行けるようです。
国道を進んで行くと、川沿いに切り立った崖が並びます。肘折カルデラを作った火砕流を削ってできた崖のようです。はっきりしたことは、もっと近くで見る必要があります。
道は、尾根に出ます。火砕流の作った平坦な地形が続いています。水はけがいいので、そばの栽培に適しているようです。尾根上のそば畑です。
地名では湯の台になります。ちょっと高くなったところがスキー場になっていて、下の広場には農産物直売所があります。広場前から来た道を振り返って写してみました。
ここから、東側遠くに見える山が何なのか気になります。かろうじて栗駒山が見えているようです。遠くの一番高いところです。
直売所で2−3野菜を買って車に戻ろうとすると、正面からにこにこしたおじさんがやってきます。マイタケを見つけたそうです。見せてもらったところ、一抱えもあるような立派なものでした。これでは笑顔になりますね。
湯の台の広場からトンネルをぬけると、この先の国道は通行止めになります。ここから分岐して肘折の温泉街に降りる道があります。この道を進むと、すぐに視界が開けてきて温泉街が見えるようになってきました。丸く取り囲まれた窪地が見えます。肘折カルデラです。それより驚きなのは、下る道は斜面を削って作られているのではなく、橋がせりだすようにかけられています。
温泉街の方に入ってしまいました。道はかなり狭いです。途中に昔風の郵便局があります。べつの場所にも新しいのがありましたから、こちらは今は使われていないようです。
この先、急に道が細くなります。旅館の駐車スペースを借りてUターンして戻ります。元の橋までは戻らず、途中から左折する道に入ります。こちらがカルデラの中心に向かう道です。横に見えてきたのが鎌金野火口です。一番新しい火口です。
道路脇に車を駐めて写真を撮っていると、道を行ったり来たりしている車があります。道に迷っているように見えます。違う方向に行ったので、そのままここを通過します。正面に見えてきたカルデラ壁です。
道はこの崖を一気に登ります。登ったところからみたカルデラです。手前側に植物が茂っていて、よく見えません。
この先で急に道が狭くなっていました。対向車があると行き違うのに苦労しそうな道です。なかったのですんなりと通過することができました。先ほどの車は、ここを避けて帰りたかったのでしょうか。これをぬけた先に、再び平らな台地が広がっていました。こちら側にも、広いそば畑があります。
そのまま進んで行くと、台地の上から谷におります。肘折に来た時と同じように、川岸にはほとんど垂直な崖が連なっています。これも、カルデラを作った火砕流で運ばれてきたものでしょう。
道はこの先で、最上川沿いの国道に出ます。そこからは、川に沿って下っていきます。昨晩、羽黒山の方に曲がった交差点までやってきました。山かげから鳥海山が見えています。朝と違って、雲がかかってきたようです。
この先で鶴岡市街に行く道に入ります。
時刻は昼近くになっています。肘折は思ったより遠かったようです。車はそのまま進み鶴岡市街に入ります。駅前を通過してから市役所の方に左折します。少し進むと右手に鶴岡公園が見えてきます。駐車場があり、車がいっぱい駐まっているので、中に入れて駐めます。公園の中を少し歩いてみます。鶴岡公園は、鶴岡城趾を中心にして作られた公園です。城跡らしく、周囲は堀に囲まれています。
その真ん中にあるのが荘内神社です。鶴岡城の本丸跡に立てられているそうです。何かのお祝いなのか、お祓いにようなものを受けている人たちがたくさんいました。駐車場の車は、このためのものだったようです。後日ウェブページで確認してみると、この時間帯、結婚式のため祈祷はできませんと書かれています。それだったのでしょう。この神社では、かなり頻繁に結婚式が行われているようです。
先ほどの駐車場は、バス専用です。駐めているのは何となく気になります。移動させることにします。こちら側には、他に目立ってみたいものがないこともあります。南側の公園中央駐車場に行きます。こちらも無料です。
中央駐車場に車を入れたら、歩いて東に向かい、市役所前にある致道館に行くことにします。鶴岡藩の藩校だった建物です。道路向かいから撮っています。
最初の門をくぐって行くとその先にも門があります。表御門です。藩主がおなりの時に使われた門です。教員や生徒は別の門から出入りしていました。
御成門を入ると正面に講堂が見えます。
講堂に向かって少し進んだ左側にあるのが聖廟です。塀で囲まれて、廟門があります。正面に孔子の像が見えます。
講堂です。中では、致道館で教えていた資料とかが展示されています。
講堂前から御成門を振り返って見ました。右側に聖廟が見えます。
裏側に回ってみます。敷地内には、他にも幾つかの建物があったようで、その位置がわかるように礎石などが置かれています。
御入間です。藩主がお成りの時に入った部屋です。
藩校で教えていた資料が充実しています。でも、みてもさっぱりわかりません。次に行くことにします。
致道館をでたところで、持っているはずのGPSロガーがないことに気がつきました。致道館では落とすようなことはしていません。車の中の方が可能性は高いようです。車になければ探し直すことにします。
鶴岡のお城の南側に古い建物がいくつか残されています。そのひとつが大宝館です。大正時代に立てられた擬洋風建築だそうです。本丸南門跡に立てられています。中では鶴岡の名士が紹介されています。あまりなじみのない人たちでした。建物の中の飾りも凝ったものがあったのですが、展示物撮影禁止なので紹介できません。
致道博物館です。三の丸や藩主の御隠殿となっていたところです。昔の建築物やこの地域の民具コレクションなどがあるようですが、中は広く時間たっぷり要りそうです。帰れなさそうになるので、入るのはパスしました。
加茂博物館だけ入っておきたいので、そちらに向かうことにします。駐車場に戻って最初にGPSロガーがないか見たところ、元のところに戻していました。城の北側を見た後、いったん戻していたようです。
駐車場から加茂に向かって車を走らせていたのですが、途中で大阪まではガソリンが持たないことに気が付きました。町外れで入れてからいくことにしました。スタンドでついでに加茂までの道を確認したのですが、ちょっと要領を得ない説明でした。一本道かどうかを知りたかっただけです。途中で一回だけ右折するところがありました。
何とか無事に加茂水族館に着くことができました。駐車場は近くの海水浴場の駐車場との兼用です。たくさんの車が来ています。海水浴の季節でもないので、ほとんどが水族館目当てでしょうか。
駐車場の海岸側から北側を見た写真です。鳥海山が見えます。雲がかかっていますが、山頂は見えているようです。手前の小山の左側に見える建物群のあるところが、湯野浜温泉です。前回の旅行で泊まったのはこの向こう側の外れになります。
加茂水族館です。こちらから見ると船を思わせるような建物です。
入口のレリーフです。クラゲで売り出しているだけあって、クラゲの絵が描かれています。
この奥から海が見えます。こちら側は磯になっています。
水族館から海側には灯台が見えます。これも、前回の旅行でみています。この横に水族館があるとはわかりませんでした。
水族館に入ることにします。
加茂水族館に入って、一番最初にあった展示が、庄内竿の説明です。釣りをしないので詳しいことは知らないのですが、その道の人たちの中ではよく知られているものなのでしょうか。
次が淡水魚のコーナーです。鮎とか色々いました。タナゴの仲間のようですが、詳しい名前まではみていません。
変わったところでは、タコが卵を守っていました。滅多にみられるものではありません。
大きなイソギンチャクです。クラゲの仲間なので、しっかり展示されていたのでしょうか。
身近な魚もいます。これはアジです。
館内は人が多く、水槽の前は並ばないと見えない状態です。しばらくするとアシカショ−をするというので、人がそちらの方に移動していきます。この間がゆっくり見るチャンスです。
海獣類についても、ここで紹介しておきます。白いアシカでしょうか、行ったり来たりしていました。向きを変えるタイミングで撮ってみたのですが、ピントは手前のガラスにあっています。
ゴマフアザラシです。これも反射が強くてうまく写りません。
とにかくショーの間がゆっくり見るチャンスなので、クラゲをしっかり見ることにします。
加茂水族館はクラゲだけでもたくさんの種類がいます。覚えきれないので、いちいち確認するのはやめておきます。記録もとっていません。それでもみていると、クラゲに光が当たってどれも幻想的です。
タコクラゲの仲間です。イメージとは違い、逆さまに泳いでいるものがほとんどです。
触手が長いクラゲです。これもみんな逆さまです。
小さなものですが、宇宙船のようなものもいます。
クラゲは、ゼリー状の体をしていて、海中を漂って生活をしている動物です。毒針のある触手をもっているのが一般的です。毒針のことを刺胞といい、これのある仲間をまとめて刺胞動物といいます。これに対して、ラグビーボール型で、櫛状の板(櫛板)があらるものもいます。こちらは、クシクラゲとかウリクラゲといい別のグループに属しています。この仲間は櫛板が光るものが多いようです。
こちらの方が、クラゲが密集しすぎていますが、光っている様子がよくわかります。
展示されている中では、ミズクラゲが一番たくさんいます。
ミズクラゲの飼育のようすも展示されています。これは、ストロビラという段階のものです。網の目のような所にいっぱいついています。小さいのでわかりにくいのですが、横に拡大モニタがありそれで細かいつくりを見ることができます。
ストロビラは園芸用のバーミキュライトのように、薄く輪切りになるようにはがれていき、その一つ一つが、エフィラというものに変わります。ビーカーの中でいっぱい泳いでいます。エフィラの一つ一つが大きくなると一つの個体になっていきます。
大きくなったクラゲに、色のついた光線をあてて展示しています。カラフルできれいです。
大きな円形の水槽に入れられています。薄暗い部屋の中でみるととても幻想的です。
加茂水族館に、クリオネ(ハダカカメガイ)がいました。クラゲの近くにいたので、クラゲの仲間のように思えてきます。れっきとした貝の仲間です。これも飼育しているのでしょうか。自然にやってくるような場所とは思えませんし、その季節でもありません。
水族館の屋上です。芝生が貼られていますが、みんな両脇の道を歩いています。横の灯台とか遠くの景色がよく見えます。
これ以上長居すると、帰阪が真夜中をまわりそうです。売店で2−3お土産を買って帰ることにします。少し小腹も空いていたので、館の前の屋台でだんごを買って食べました。お土産ではないのですが、最近野菜が高騰しています、途中に無人販売所とかがあれば、何か買って帰りたいものです。
そのまま海岸に沿って南下し、途中から高速道路に入ろうと思ったのですが、どの入口も鶴岡方面へしか行くことができません。結局高速道路の終点も通り越してしまいました。この道では、後ろのトラックが車間をとらずについてきます。落ち着いて運転できないので、道が広くなっているところで、先に行かせました。前の車は、このトラックにぴったり着かれたまま走っていきます。
途中で念珠ヶ関という標識があったので、休憩がてら寄ろうとしたのですが、狭い町の中を通りぬけただけで、何も見つけられませんでした。帰ってから確認したら、100先を左折ではなく、100m先左側にあるということのようでした。国道はこの先、山の中に入り、山をぬける手前で、新潟方面への高速道路に接続します。高速道路に入るまでに、野菜の無人販売所はありませんでした。
高速道路に入ると、あとはその上を走るだけです。長岡JCTが近づいてくると、来しなにみた、越後三山が気になります。栄PAで景色を確認したのですが、それらしき山は遠くに霞んでみえているようです。ここからだとちょっと遠いようです。
次の大積PAはまわりが高く景色は見えないようです。そのまま通り過ぎます。その次の米山SAは行きすぎのようです。夕日がまぶしくて走りにくいのと、トイレ休憩もしたいので、ここに入ります。このSAからは、佐渡島が見えるようです。展望所が設けられています。そこから、正面の見やすい方向に島みたいなものが見えます。帰ってから調べてみると弥彦山のようです。こちらではなかったようです。
海の左の方に霞んで見えるのが佐渡島です。どちらかわからなかったので両方写しておいて正解でした。
空は、だいぶ薄暗くなっています。太陽はほとんど沈みかかっていました。
ここの景色は、なんか見たことがあると思ったら、パッケージツアーで尾瀬に行った帰りに寄っていました。この時は関越道の沼田から北陸道の富山までバスで走っています。
太陽が沈んだので、まぶしいのはなくなりました。逆に、暗くなって周りが見えにくくなりますが、ゆっくり走らせることにします。
福井県に入ったあたりから、だいぶ眠たくなってきました。次のPAで休憩を入れようとしたのですが、一つ行きすぎてしまいました。その間に、眠気覚ましになることを色々していたら、今度は目がさえてきました。2つ目のPAにはよる必要がなくなってきました。そのまま通り過ぎます。このあたりまでくると、帰りの距離がだいたいわかります。ガソリンメーターの示す残量と比べてみると、家までたどり着けるかどうかのきわどい量です。このあと高速道路上で給油できるところは2ヵ所あります。できるだけぎりぎりの所まで行ってようすを見ることにします。
ガソリンは計算した通りの減り方をしていきます。残量は余裕をみて示されているようですが、途中でなくなることは避けたいものです。念のため、草津SAで補給することにしました。5リットルだけ給油しました。残ったガソリンとあわせると、これだけあればここからじゅうぶんに帰ることができます。鶴岡ではなく、村上で入れていれば、途中の補給は必要なかったようですが、村上近辺にはガソリンスタンドがなかったような気がします。鶴岡で入れたのが正解だったでしょう。
帰宅できたのは、近くのガソリンスタンドやスーパーマーケットの開いてる時間帯で、真夜中にはならなりませんでした。給油しないといけません。一緒に洗車もしたいので翌日に回します。給油時にガソリンが入った量からすると、途中で補給しなくてもまだまだ走れていたようです。
<旅のテーマ>
今回の旅行では、どこをみるかというのはほとんど決まっていませんでした。あるとしたら、全国の活火山は一通りみておきたいというのがあって、そこを通るコースを選定していました。南東北にある活火山は、燧ヶ岳・那須岳・沼沢・磐梯山・安達太良山・吾妻山・蔵王・肘折・鳴子・栗駒山・鳥海山です。このうち、燧ヶ岳は尾瀬から、那須岳は那須高原からみています。磐梯山・鳥海山は山頂まで登ったことがあります。鳥海山は前回の旅行で鉾立展望台まで登っています。その時には鳴子は何とかみたものの、栗駒山はみられなかったので、もう一度と行ったところでした。残ったものを左回りに結んだのが今回のコースです。栗駒山・蔵王山は山全体が見えなかったので再度チャレンジといったところでしょう。
観光地を回っていて、何かの事柄について追いかけていたということもあります。今回では、奥州平定の歴史のようなものがそれにあたります。道々である事柄に関連した遺跡や施設などがたまたまたくさんあったせいかも知れません。藤原清衡といえばこの地方では有名人ですから、言い伝えなどがたくさん残っていて当然です。今回、見聞したことを整理してみます。もらって帰った資料や、ネットからの情報も2−3付け加えています。
724年に、朝廷が陸奥国の国府として作ったのが多賀城です。800年頃に蝦夷との対立が激しくなり、坂上田村麻呂が使わされます。その時に制圧されたのが、窟に立てこもる人たちです。盗賊扱いされていますが、実際は単なる対立勢力だったのかも知れません。坂上田村麻呂はこの窟に毘沙門天を祀ります。これが現在の西光寺になります。
田村麻呂は、さらに北の軍事拠点として胆沢城を作ります。その時に、蝦夷軍団の中心だった人物が投降してきます。これで、一応奥州は平定されます。胆沢城が完成すると、東北制圧の拠点は多賀城から胆沢城に移され、多賀城は後方支援基地の役割を持つようになったようです。
胆沢城を作ったのとほぼ同じ頃に、出羽では払田柵が作られます。こちらは文献に登場しないので、どういうものだったのかはよくわかっていません。遺跡の状態からみて、多賀城や胆沢城と同じような政庁を伴う城柵官衙だったと考えられているようです。
その後、東北地方は朝廷から派遣された役人が力を持ち地域を支配するようになっていきます。陸奥は阿倍氏、出羽は清原氏が支配するようになってきました。10世紀後半になると、払田柵のような朝廷が作った城柵は廃れていき、大鳥井山のような地方豪族の作った城柵が見られるようになり、そこで政治的な儀式が行われるようになっていきます。このような豪族は、兵力も持っていますから中世でいう武士にあたります。そういう意味では、大鳥井山遺跡は、お城の初期の形といえます。
次第に力をつけていった阿倍氏は、朝廷に逆らうようになり、ついには戦になります。こうして1051年に始まったのが、前九年の合戦です。第一戦は朝廷側の敗北に終わります。その後しばらくの間は、和睦が成立し戦は小康状態になります。そして朝廷側の代表であった源頼義の任期が切れる1056年、再び戦闘状態になります。この時も初めは朝廷側が不利でした。清原氏が朝廷側について加勢したため、形勢が逆転し阿倍氏は追い詰められ1062年に全滅します。
これによって、清原氏は陸奥国の管理も任されるようになり、東北全体を支配するようになります。
1083年に、清原氏の部族内での対立が激化し再び戦闘状態になります。清原家の頭領である清原真衡とその叔父である吉彦秀武との間のいざこざが発端のようです。結婚式のお祝いに来たのに無視されたからどうのこうのということが文献に書かれています。これだけでは、大きな戦になる根拠としては弱いような気がします。とにかくこのようにして始まったのが後三年合戦です。
清原家衡・清衡は秀武に誘われて、真衡が秀武との戦に出て留守の館を襲撃します。1度目は成功するのですが、2度目は真衡が守りをかためて遠征したため、返り討ちに遭います。ところが真衡の方は遠征先で急死します。これで戦闘相手がいなくなり、戦はいったん収まります。
しばらくすると、今度は家衡と清衡との仲が悪くなり再び戦闘状態になります。この時に朝廷側の源義家は清衡に加担します。義家・清衡の軍は、家衡を攻めますが、城がなかなか落ちず、攻めあぐねている内に冬になり戦ができなくなって引きあげることになります。
義家を追い返すことができた家衡に、清原武衡が加担し、拠点となる場所も金沢柵に移ります。義家・清衡の軍はここを攻めることになります。初めのうちはふつうに戦を仕掛けていたのですが、兵糧攻めに切り替えます。食料がなくなった家衡・武衡は城に火を放って、その混乱の中を逃げ延びようとします。武衡は捕まり処刑され、家衡は見つかったところで殺されます。
前九年合戦、後三年合戦の詳細をみても、つじつまの合わないところがところどころにあるようです。たとえば、家衡は所領が陸奥にあったのに、どうして出羽の城にはいったのかとかいったことです。後三年合戦絵詞に書かれているエピソードなども作り話ではと思えるところがあります。
前九年と後三年の合戦で、清衡は阿倍氏清原氏の所領であったところを全て手に入れる事ができました。これが奥州藤原氏の隆盛につながるのですが、清衡についてもう少しくわしくみることにします。
清衡は藤原経清と阿倍氏の娘との子として生まれます。経清は陸奥の国の官人で、江刺の豊田に館を構えていたようです。国府のあった胆沢城にも近い場所です。前九年合戦の時は、初めは源頼義に従いますが、途中から阿倍氏の側につきます。同じ阿倍氏の娘婿である平永衡が阿倍氏に密通しているとして源義家に討たれる事件があり、それが原因で阿倍氏側についたとされています。最後は、源義家にとらえられ処刑されます。
清衡の母はその後、清原武貞に嫁ぎます。この時に姓は藤原から清原に変わります。母はその後家衡を産みますから、清衡と家衡は異父兄弟ということになります。真衡の死後、清衡は陸奥国の南半分を分け与えられています。父が居を構えていた豊田の館が使えたので使ったようです。
後三年合戦が終わって、自分以外清原姓を名乗る者がいなくなったので、姓を藤原に戻します。豊田の館は家衡の奇襲に遭い焼け落ちていますが、その後建て直して使われました。えさし藤原の郷で、経清と清衡の二つの館を(推定)復元しているのは焼け落ちる前と建て直した後のもののようです。
清衡は1095年頃に拠点を平泉に移します。清原氏の作った大鳥井山遺跡などが参考になっているようです。阿倍氏清原氏がおこなう政治のようすをみてきたのが参考になったのでしょう。この完成によって清衡が政治的な活動をおこなう拠点ができました。奥州藤原氏の時代が始まります。その礎になったのは、広大な領地を手に入れたことにありますが、それ以外にもそこで金がたくさん採れた事も関係しているといわれています。秀衡街道は金を運ぶ道として設定されているようですが、近辺に金山らしき所は1ヵ所しかないことはその役割をはたせたのか疑問を持たせます。金沢の柵から始まっていることとあわせてみると、後三年合戦の後に清衡のたどった道をなぞっているだけのようにも見えます。
<鉄道の復旧>
奥会津では、JR只見線が只見−会津川口間で不通になっていました。これは、2011年に新潟会津地方で起こった集中豪雨(平成23年7月新潟・福島豪雨)によるものです。この豪雨は、その直前に起こった東北日本大震災の影に埋もれてあまり報道されていませんでした。住居の損壊などの被害も大きかったのですが、同時にJR只見線は3ヵ所で落橋しています。そのうちの1ヵ所は、ブログに示した場所になります。その後、5年が経ったいまでも鉄橋は修復されず、不通のままになっています。修復費用が捻出できないものと思われます。
落橋した場所以外の不通区間は、そのまま放置され雑草が伸び放題になっています。草を刈るだけでも相当な費用がかかります。それでも、修復するつもりなら、ここまで雑草を伸ばさないと思います。このままでは、修復時には線路の路盤全体を掘り直して、砂利などの入れ替えをする必要が出てきます。草を刈るだけの費用が出ないとなると、鉄橋の修復費はまずださないと言っていいでしょう。
復旧に向けての取り組みで一番気になるのが地元の対応です。早期復旧をといった看板類は一切見かけませんでした。それよりも、草が伸び放題になっている線路の横に、三条にぬける道路(トンネル)の完成を要望する看板が大々的に掲げられていました。これをみて、地元では鉄道の復旧などどうでもよいと思っているように感じるのは私だけでしょうか。
旧国鉄が分割民営化されてから、災害に対する復旧が遅くなったような感じがします。同じ年に起こった東北日本大震災についても、鉄道の復旧は遅れています。それどころか廃線にした上で、高速バスシステムによる運行が決まったところもあります。それに関する資料を見ていても、採算性がどうという議論が中心になっています。同じ災害があっても、道路はすぐに復旧します。この時には採算性の問題など一切議論されません。国がやるか民間がやるかで、考え方が全く違っています。民営化されたことの最大の弊害でしょう。道路と同じように鉄道に関しても、災害によって損害を受けた部分の補填くらいは国が中心になって面倒を見ても良いような気がします。もちろん、修復したことによって前より資産が増えるのはよくありません。
この記事の大元の原稿を書き終わったあとで、不通区間復旧に向けてJRと地元自治体との協議がまとまり、復活できる目処がついたようです。震災後の建設資材高騰により一時は100億円を越えていた復旧費が、復旧方法を見直すことによって80億円ほどになり、その2/3ほどを地元自治体が持った上で、上下分離方式(線路の補修とかは地元負担)で運営されるようになったようです。
これで一段落といいたいところですが、乗客数が少ないのは大きな問題といえるでしょう。JRからいつ廃線といってきてもおかしくない人数です。なんとか増やす方法はないものでしょうか。
春先に乗ったいすみ鉄道は菜の花とのコラボレーションで、観光客を集めています。このように鉄道は道路と違って絵になる風景を作り出します。現に、只見線の開通区間で鉄橋を渡る鉄道の観察スポットが作られています。鉄道がある意味は、運賃収入だけでは計れないものだと感じます。
<車の速度>
30年ほど前に東北地方を車で走ったことがあります。どの車もゆっくり走っているというのが印象でした。今回は、他の車の後ろに追いついて走っていたというより、追いつかれて後につけられていたことの方が多かったようです。全体的に車の速さが早くなったような感じがします。主要道路でないところはそんなに飛ばしていない車も見かけたのですが、国道はあきらかに速くなっているよう感じました。特に平行して高速道路のない所では、際立っていました。トラックが増えたのと、飛ばしているものが多いという印象があります。いきなり追いついてきて、ほとんど車間を取らずに走るトラックなどはちょっと恐怖です。運送業界は過当競争になっているようで、少しでも早くというような気持ちが働くからでしょうか。あと、都会と高速道路でつながったことによって、都会の車が増えそれに合わせて地方の車も速くなったのでしょうか。高速道路ができて速いのが当たり前という気持ちが出きてきているのでしょうか。
<GPS>
今回GPSロガーを持って行きました。帰ってきてから写真をどこで撮ったのかを確認するには非常に便利でした。問題なのは、電池の消耗が速く、アルカリ電池だと2日持たないことです。時々様子を見ながら使っていたのですが、それでも途中でなくなっていたことがあります。容量が気になるため、できるだけ節約しようと入れ忘れていたこともあります。
三郷町の湧水を回り終わってから、ロガーを持ち歩かなかったことは失敗だったと気がつきました。広い範囲を自転車で巡っていました。いつ頃どこを通っていたのかはこれではわかりません。次回からは、歩いて回る場合は持ち歩くことにしました。もっともこの日は、電源を入れ忘れていたのか記録が全くとれていませんでした。翌日は鶴岡城で持ち歩いたものの駐車場所を変えた直後は持ち歩かなかったばかりか置いてきたことさえ忘れて、なくしたのではと心配になる始末でした。
ログは100mごとに記録する設定になっていたようです。高速道路では100mくらいの距離は数秒で通過してしまいます。記録がたまりすぎになります。間隔はもっと荒くてもかまわないようです。最終日などは途中米山SAの手前で電池切れになっていましたが、それでも6000件以上の記録が残っていす。家までとれていたらどれだけの数になっていたかわかりません。記録の取り方を考えないといけないようです。
カーナビも持って行っています。目的の設定方法がわかったので、道案内を音声でしてくれるようになってだいぶ便利になりました。
このカーナビはアンドロイドがベースでナビのアプリがその上で動く仕組みになっています。これに、ロガーの働きを持たせられたら、別にロガーも使わなくてもすみます。GPSのデータを読み取って記録させればいいだけですから、アプリも簡単にできそうな気がします。作るためのソフトと、関連するコマンドを調べるのがかなり面倒そうです。何かないのでしょうか。カーナビはポータブルタイプなので、持ち歩くのはちょっとかさばるだけで、それほど邪魔にならないでしょう。このあたりも検討の余地があります。
<天気>
星を見ようと望遠鏡を持って行きました。天気が悪く出番がありませんでした。秋雨の時期だったのでしょうか。たしかに前半は雨が多かったようです。昼間は晴れ間が見えることもありましたが、夜になると雲が広がってきて、星が見えなくなっていたようです。前後の様子から見て5日目は晴れていたかもしれないのですが、星は見えませんでした。ここでは、地形の影響で霧が流れ込んでいたようです。
1週間もあれば1日くらいはと思うのですが、これだけはどうしようもありません。また次の機会にすることにします。
<植木鉢>
出発前に水枯れ対策を取っていた植木鉢の状態です。間の適当な時期に雨が降ったようで、受け皿の水は残っていました。心配するほどのことはなかったようです。ペットボトルの給水器は、水が全然減っていませんでした。水滴がほんの少しずつ落ちるように穴を小さくしたのが原因のようです。穴が大きくて、逆さまにして水が落ちるようでも、上部にたまった空気の圧力が低くなると自然に水が落ちるのが止まります。もう少し穴が大きくてもよかったようです。次回使うときは、穴を大きくして使うことにします。
<経費>
使った経費です。交通費と宿泊費が大半です。交通費と宿泊費はだいたい同額くらいになっています。走行距離は2585kmです。ガソリン代が1kmあたり10円というのは最近に車に比べたら高めになるのでしょう。
通行駐車料 22200円
ガソリン 25400円
宿泊 58100円
入場料 4600円
土産他 6200円
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合計 116500円