2018/03/12-16 大陸接点・北部九州
春先の旅行について検討することにします。やっぱり暖かいところということで、四国か九州にしたいものです。四国はざっと回ったようですが、九州はまだ北側には行っていないところがたくさんあります。有名なところでは吉野ヶ里遺跡や名護屋城、世界遺産になった宗像大社などがあげられます。全体的に一昨年・昨年とかけて南九州は回っていますので、九州北部にまだ見ていないところが多いようです。
九州はフェリーで行って帰ってこられるので、車で行くことも可能です。望遠鏡を運んでいく事ができますから、車での移動を考えることにします。フェリーが着くのは、門司・別府・大分・宮崎・志布志とあります。まだ、宮崎県北部に見ていないところがいくつかありますから、宮崎港を利用することにします。とりあえず、行きに利用することにします。
帰りのフェリーは、行程の最後の方が九州北部の海よりになりそうなので、門司からのものを使うのが良さそうです。神戸港と大阪南港に戻るものがあります。自宅に近い方ということで、大阪南港にします。このフェリーは1日2便出ています。できるだけゆっくり出られるように遅い方の便を使うことにします。
つぎは、日程の候補です。星を見に行きますから、新月の前後になります。3月に行くとして、17日が新月です。土曜日になります。土曜日の宿泊場所は見つけにくかったり料金が高かくなる所があります。翌日観光客が多くなることもあります。これらのことを考慮して、11日から17日の間を候補とします。17日発のフェリーで帰ってくる事もありです。
宮崎を起点にして、宿泊場所を順番に決めていくことにします。星を見ることを考えて市街地の中はできるだけ避けることにします。まず、宮崎県北部に行くとして、日向・延岡は町中なのでパス、西側の高千穂近辺で探すことにします。国民宿舎もありますが、高千穂ではどこも宿泊料は高めになっています。車なのでちょっと離れていても良いということで、グーグルマップを見ていると、となりの五ヶ瀬村にごかせ温泉木地屋というのがあるのをみつけました。値段も手頃です。運動公園の中にあるのが難点です。最悪車で移動できるということで、1泊目(船中泊の分は無視することにします)はここを候補とします。
この近くですが久住高原荘は市からの宿泊補助が出ます。実質半額になりますから利用しないという手はないでしょう。ここを2泊目とします。2日目は、阿蘇のカルデラ内や外輪山を見て回ると1日使うことになるでしょう。中央火口はだいぶ前に行っていますので、時間が余りそうな場合に考えることにします。
そろそろ、吉野ヶ里のある方向に向かわないといけないでしょう。佐賀県までは距離がありますからこの間に1泊入れたいところです。間に星野村がありますが、前回と逆コースになります。通る道筋が同じになると同じ場所を見て回ることになります。これは避けたいので、道筋が重ならないよう帰る直前に入れることも考えることにします。となると宿泊場所の候補はもう少し南側になります。どうしても町中になってしまいます。そう思っていているとかんぽの宿柳川があります。かんぽの宿のポイントが消滅しそうなので、使うか期限を延長させる事も考え、柳川を候補にします。町中といっても、町からすこし外れたところにあります。
柳川を出た後、吉野ヶ里による事ができます。その向こう側に国民宿舎波戸岬があります。一昨年から夕日がきれいなところということで宿泊地の候補になっていたのですが、ネット関係がうまく見られなっていました。ことしはつながるようになったみたいです。春先には日没後の黄道光は見やすくなりますので、これも目的に入れることができます。もう一つ行きたいところの名護屋城の近くなのでこちらの見学にも使うことができます。ここが4泊目の候補とします。柳川から距離もちょうどいいでしょう。
波戸岬から門司までもう1泊入れるかどうかです。距離的にはちょっと遠いような感じがします。宗像近辺で入れると門司までが近すぎるようです。星を見るのに適したところがありません。星野村も微妙な位置です。門司発の船は遅めなので何とかなるような気がします。とりあえずそのまま帰ることにします。
宿が決まったところで、ネットで泊まれるかどうかを確認します。だいたいは大丈夫のようでした。一点だけ、柳川が15日は広い部屋しか空いてなくて料金が高くなります。これを避けるように入れるとすると、11日出発か13日出発になります。13日出発では波戸岬が17日土曜日になり追加料金が発生します。日曜観光が入ってきますので、11日出発17日朝帰阪ということにします。この日程で宿とフェリーの予約を入れます。一応すんなりとOKがとれました。
コースは決まったので、途中の立ち寄り所を検討します。基本的にはグーグルマップを開いて、途中の観光地と書かれているものをピックアップするのがメインです。だいたいのものをメモしておきます。地図にすると範囲が広くなりすぎます。その他に、旅行会社から送られてくるパンフも参考にします。佐賀県のツアーを見ていると、南西部の方にもいくつか見所がありそうです。明治何年かの博覧会みたいなものも開かれるようですが、これは帰ってきてからの開催になります。
準備するものは基本的にはいつもの通りです。望遠鏡と車関連のものが入ってきます。荷物はいつもより多く持っていくことができます。カメラは2台持っていくことにします。標準ズーム用と望遠ズーム用です。往復フェリーを使うので、船内用の食料や飲み物も買っておくことにします。運転中の眠気覚ましになるものも必要です。初日の出発が遅いので、出る前に買うことができるでしょう。
前回の旅行でGPSロガーの動作不要の原因が、電池の電圧低下による可能性が出てきました。そこで容量の大きな電池を使うことにしました。といっても、単3電池ではアルカリ型より容量の大きなものは、ニッケルカドミウム電池かニッケル水素電池、リチウム電池になります。リチウム電池は入手しにくい、ニッケルカドミウム電池は放電が激しいという問題があります。最終的にニッケル水素電池という選択になります。これでも普通の乾電池に比べて電圧が低い(1.2V)という問題があります。ネットなどで見ても、ニッケル水素電池は推奨されていないようです。とりあえず手持ちの電池を入れてみたところ動作しているようです。カメラ用にはいくつかありますが、4本セットの同じ組み合わせて使うようにしています。1本だけ抜くとそのセットが使えなくなります。新しいものを購入することにします。大型家電店ならどこで買っても同じ値段なので、市中心部の家電店で2本セットのものを購入しました。また、ロガーの中には前回のログがだいぶたまっています。全て消去しておきました。
出発の1週間ほど前に、帰りのフェリーの会社からメールが届いていました。何度も電話したけれどもつながらなかったということです。その日はたまたま何度か外出していました。その間に電話がかかってきていたようです。内容は、予定の船がドッグに出したところ、故障が発生して運休になるということです。代替の処置が3つ書かれています。1つ目は乗船を取り消すことです。別会社の便(神戸着)で帰ることになります。予約が取れるか不明です。2つ目は、3時間ほど早く出発する船で帰ってくることです。これには空きがあって乗れそうです。3つ目は別日の便を利用することです。この場合、その便が空いていないと乗れません。他にも、その間の宿の手配もしないといけなくなります。かなり手間がかかりそうです。結局一番簡単な2つ目の処置を利用することにして、そのように連絡を入れました。
だいぶ前に久住高原に行ったときには、峠越えで雪に遭い、苦労しました。今回も、計画立案時点ではまだ寒さが厳しい状態です。久住高原ではその峠がある方に行かないので大丈夫としても、五ヶ瀬村も近くにスキー場があり雪が多そうなところです。宿に確認をとったところ、準備はしておいた方がいいとのことです。雪用タイヤを履かせる準備だけはしておきます。実際のところは、2月の終わりから3月の初めにかけていったん寒くなったものの、その後は暖かい日が続きました。しばらく寒波はやってこない感じです。タイヤは替えずにそのままでいくことにしました。
今回の旅行は、行く前から大変です。この先大丈夫でしょうか。
出発日になりました。神戸港出港は18時です。午前中に買い物を済ませ、車に積み込んでいなかった荷物をいくつか積み込みます。これで出発の準備は完了です。出港2時間ほど前に家を出ることにします。しばらく家を空けるので、植物にたっぷりと水をあげておきます。鉢物は深めの受け皿に水を満たして、その中に浸かるようにしておきます。いくつかのものはペットボトルの給水器を利用します。これだけで何とか持つでしょう。真夏だとちょっとたりないかも知れません。これが終わったら戸締まりをしっかりして出発準備完了です。
予定時刻に家を出て、最初にガソリンを補給しておきます。スタンドに入ったときはそれほどと思わなかったのですが、スタンドにいるちょっとの間で車が動かなくなっています。前回はこの状態で高速道路の入り口まで40分かかってしまいました。高速道路を反対側の入り口から入れば、渋滞を避けることができます。問題は、100mほどのの間で3車線の道路を横切らないといけないことです。失敗したら、その先で渋滞が待っています。それでも、予定していたコースと同じくらいの時間でつけるでしょう。
しばらく渋滞している車を横目に見て走り、ぐるっと迂回して進みます。問題の道路横断ヵ所も車が1台だけだったのですんなりとクリアできました。高速道路は1ヵ所渋滞という表示が出ていましたが、車がちょっと詰まったくらいの感じで通りぬけることができました。早めにフェリーターミナルに到着です。
ターミナルでは、いつも通り乗船車待機場所まで誘導されます。まだ乗船券は入手できていませんから、長い通路を歩いて切符売り場まで行き、乗船券を受け取ります。切符売り場の2階にある待合室には、サッカー少年団風の面々がたくさん待機していました。一緒になると、寝させてくれるか心配です。待合室でこれから行く先のパンフ類がないかチェックした後、再び長い通路を歩いて車まで戻ります。このフェリーは、通路を延々と歩かないと乗船券がもらえないというところが難点です。
車の待機場で、船内に持ち込む荷物と車に残す荷物の仕分けをします。いろいろとやっている内に乗船開始になります。車両甲板に車を止め、船内に持ち込む荷物を持って船室に上がります。前回までとだいたい同じような場所の部屋になりました。サッカー少年団とは、反対の側になります。
荷物を置いて、デッキに上がります。太陽はだいぶ西の空に傾いています。
そんなにしないうちに太陽は低いところの雲に入り、見えなくなってしまいました。あと少しで出港です。
周りの景色とか、いろいろ見ているうちに出港となります。もやいを外すようになったらいよいよ船は岸壁を離れることができます。
今回の出港時に、船はやたらと汽笛を鳴らします。船の進行方向を見ると、すぐ近くを高速で横切ろうとする船があります。船はバックして進んでいますから船の後方になります。船腹にPILOTと書かれています。素人の運転する船ではないはずです。こんな事をしてぶつかったらどうするつもりだったのでしょうか。
岸壁から離れてから六甲山を見ると帆掛け船の形をしたイルミネーションが見えます。神戸市のマークがあったような気がしたのですが、変えたのでしょうか。
神戸港を出てから、明石海峡大橋がいつ見えるか気になっていました。意外と早く、防波堤を出た直後でした。
この後はすぐに暗くなってきたので、船内に戻り、食事をしたり、風呂に入ったり、とかで時間をつぶします。そのあとは、持ち込んだ本を読んでいたらすぐに消灯時間になりました。
九州1日目の朝は6時前に目が覚めました。外のようすを見に、静かに部屋を出て、デッキに行きます。もうすでに朝日を見ようと、たくさんの人が出てきていました。風が当たるのでちょっと寒く感じます。だいぶ寒そうにしている人もいます。上着を1枚余分に着ていて正解でした。
船の右舷前方には、海上にいくつかの明かりが見えます。漁船が明かりをつけて操業しているのでしょうか。それにしては明かりが暗いような気もします。写真の露出時間が思ったより長くなったので、明かりは横に流れています。
東の空です。だいぶ明るくなってきています。日の出はもうすぐのようです。左側が暗くなっているのは、船から出る煙のためです。
太陽が昇ってこないかと見ていると、ようやく上がってくるのが見えました。今回も海面ではなく、雲の上から上がってきています。
南の空です。月が出ています。下弦をすこし過ぎています。すぐ下を飛行機が横切っていくのがみえます。
先ほど漁船と思っていたものの横に接近しました。だいぶ大きくなっていますが、何かははっきりしません。後方に山のシルエットのようなものが見えます。足摺近辺かと思っていましたが、あとでGPSロガーの記録を見ると日向市に近い位置でみています。祖母山系のようです。写真では船ではなく建物のようにも見えます。
いったん船室に戻り、朝食をたべます。他にもいくつか用事を済ませて再びデッキにでると、進行右前方に宮崎海岸が見えてきていました。特徴のある白い建物が見えています。
船内にもどり、トイレをすませようとしました。サッカー少年が並んでいます。よく見ると、和式トイレのある場所はどこもがらがらです。こちらの方を並ばずに使わせてもらいました。最近の少年は和式ではできなくなっているのでしょうか。
終わって再びデッキに出てみると、宮崎海岸にだいぶ近づいていました。霧島山も見えてきています。左側に三角形をした高千穂峰、建物の向こうあたりが新燃岳になります。新燃岳からの噴煙は確認できません。あれば真っ先に見えるはずです。噴火は小休止しているようです。
いったん船内に戻り、すぐ出られるように荷物を整理し、寝床を片付けます。再びデッキに出たら、もう宮崎の港内に入っていました。霧島山はどこにあるのかわからなくなっています。これかなと思って写したものですが、全然方向が違ったようです。後で調べたところ市房山のようです。人吉盆地の東側にあります。去年相良村から見えていた山です。
船はまもなく着岸です。
今日の宿は、五ヶ瀬町にとっています。延岡から高千穂を通っていくルートをとることにします。まずは、宮崎港から北上します。海岸沿いの有料道路を通るか、内陸側の国道を進んで行くかのどちらかです。有料道路をとると時間は節約できますが、何か見所になりそうなものがあっても、道から外れることは難しそうです。国道を進みます。
国道を走っていったのですが、それといったものは何もなく、有料走路の終点からの道と合流してしまいました。そのまま真っ直ぐ進んで行きます。途中空を飛んでいる2つのものが気にかかります。一つはツバメです。この付近にはもうやってきているようです。もう一つは、戦闘機風の飛行機です。大きな音がしますので、飛んできたらすぐわかります。何機かで編隊を組んでいます。どちらも見つけても車を止めることができず、そのうち見かけなくなりました。
さらに進んで行くと、九州道高鍋IC方面分岐の標識がありました。そのまま通過したのですが、しばらくしてから事前にチェックした情報にICの近くには城跡と古墳群があったのを思い出しました。城跡からは山沿いに国道と平行に道が続いています。山側に曲がる道を見つけてこの道に入れば城跡に戻ることができます。曲がる道を探しますがなかなかありません。やっと見つけた道も、斜めに進んだり、並行するように走っているみたいです。なかなか合流できません。
やっと予定の道と交差します。そこの標識を見るとこの先真っ直ぐ行くと矢研の滝に行くと書かれています。ここはもう一度通ることができますので、その時によることにして、城跡の方に引き返します。
城跡の下に到着しました。そのままふもとを進んで行けば、駐車場に入る道があるはずです。このあたりというところまで来たのですが、それらしいものはありません。確認しようとしたのですが、後はダンプカーがずっとついてきています。脇道に入って確認しようとしたのですが、曲がった方向についてきます。さらに次のT字路も狭い方に曲がったのですが、こちらの方に来ます。完全に車を止められなくなりました。そのまま走っていったらいつの間にかいなくなっていました。
そのまま進んでいると、広い道がやってきていました。そちらの方に曲がっていくと城跡の下に行けそうです。カーナビの表示を参考に進んで行くと城跡の下まで戻ってくる事ができました。城跡の駐車場ははっきりしていません。木城町の役場の駐車場には、車を止められそうですから、ここに入れることにします。あとでGPSロガーの記録を確認すると、ICの入り口交差点からここにたどり着くまで40分もかかっています。そのまままっすぐ来ていたら10分もかからなかったでしょう。それと、城跡の駐車場は、道を曲がった先に見えていた坂を登ったところから入るようになっていたようです。
役場の駐車場から、城跡に向かいます。道路に出るところの電線にツバメが止まっていました。もうやってきているのだという記録として写しました。
城跡の下の方に行くと、交差点の向こう側に、城山公園入り口と書かれゲートがあります。そのまま進んで行くと山に登る階段と、その前に狛犬とお坊さんの石像があります。
坂を登り切って見えてきたのは、お城風の建物です。メロディー時計台だそうです。
メロディー時計台にある時計です。遠くから見える方を向いていません。文字盤は十二支になっています。
時計台からみた、木城町の町並みです。間を流れているのは小丸川です。
空の方にで大きな音がするので見ると、ヘリが編隊を組んで飛んでいくのが見えます。近くに自衛隊のの飛行場があるようです。
時計台前の広場を横切って向こう側に行くと駐車場がありました。その間は狭い谷のようなものがあります。前には第一空堀と書かれた標識が立っています。
ここにあった、お城は高城といい戦国時代の難攻不落の城だったようです。シラス台地が細長くのびた先にあります。城としては、台地側から攻められるとどうしようもありませんから、舌状に伸びる付け根部分にたくさんの溝を掘って攻め込まれないようにしていたようです。お城の中心に一番近い溝です。
この空堀を下りていくと、役場に戻れそうです。下りていくことにします。途中に平らになったところがあります。曲輪だったのでしょうか。
木城町役場に戻って、次は川南古墳群を目指します。カーナビで確認すると、距離は1500mほどですが、道は表示されません。歩いて行くのはちょっと遠いので、自転車で行くことにします。
自転車を車から降ろしていざ乗ろうとすると、後輪タイヤに空気が入っていません。家を出るときには入れてきました。空気入れも持ってきていますので、入れておきます。空気が入り終わって空気入れを外すと、バルブからものすごい勢いで空気が吹き出してきて、あっという間にタイヤの空気はなくなってしまいました。
症状的には、虫ゴムの劣化のようです。バルブを分解してみると、虫ゴムがなくなっていました。これでは自転車に乗ることはできません。車に積み直し、歩いて行くことにします。
カーナビを外して画面で方向を確認しながら、歩いて行きます。川を渡るところに看板があります。これによると、ここは高城川古戦場の跡地のようです。戦国時代に薩摩の島津氏と豊後の大友氏がここで戦い、大友氏が破れ敗走していくことになります。
川は切原川といいこの左側に大友氏、右ずっと奥に島津氏が陣取っていたようです。なお高城は、この後方にあり島津氏関係の居城でした。
ここの田んぼの土手にはツクシが出ていました。ホトケノザの花も咲いています。
古墳群は橋を渡った側にあるのですが、この先ずっと橋らしきものは見えません。カーナビにもそれらしきものはかなり先です。橋を渡って進んでいったのですが、山の中に入っていきます。行くだけでも大変そうなので引き返して車で行くことにします。
車でこの道を進んでいくと、台地の上に出ます。かなり登りました。自転車でも大変だったようです。使えなくてよかったのかも知れません。
道を進んでいくと、古墳のような小高い丘がたくさん見えてきます。
道は狭いのですが、車はあまり通らないようです。道脇に寄せてとめ、見に行くことにします。止めたところから見えていた古墳です。いくつかあります。
ちょっと大きめの古墳があります。墳丘が壊れるからよくないのですが、登らせてもらいました。ここは前方後円墳のようです。前方部が見えています。わかりにくいのですが他にもいくつか古墳が写っています。
墳丘で咲いた花です。キバナキンポウゲのようです。
このあたりの畑は、ほうれん草を栽培しているところが多いようです。この冬は、ほうれん草は高くて手が出ませんでした。これだけあれば、もう安くなってきているのでしょうか。ほうれん草と古墳が入るように写してみました。
川南古墳群を出るときには12時になろうとしています。あまり何かを見たというわけではないのに、時間だけはたっています。無駄に行ったりきたりが多かったせいでしょうか。気を取り直して、矢研の滝に向かうことにします。
標識のあったところまで戻り、そこから山の中に入っていく道を進んでいきます。15分ほど走ったところで、広い駐車場と案内看板があります。車を止めて看板を見ると、ここが滝の入り口のようです。
この付近には滝がたくさんあり尾鈴山瀑布群と呼ばれています。ここを流れる名貫川はこの先で、三つの沢が合流しています。右側に進むと矢研の滝に出ます。左側の欅谷に入るとたくさんの滝があるようです。距離も3倍近くあり本格的な登山になりそうです。こちらは無理そうなので、矢研の滝を目指すことにします。矢印で示されていますからその方向に進んでいきます。
道に入るといきなり橋を渡ります。遊歩道にしてはしっかりとした橋です。
次に待ち受けていたのは、トンネルです。電灯はついていませんから中は真っ暗です。出口の明かりを頼りに、通りぬけていきます。
次に見えてきたのは、細長く掘られた構造物です。建物の地下室のようにも見えます。深さは2mくらいです。何なのかは皆目見当がつきません。
5分ほどでキャンプ場に到着します。ここには大きな樅の木があるようです。遠くから見て、たくさんあるように見えましたがよく考えるとほとんどがヒノキです。右上の方に樅の木のような枝振りの木が見えています。
木には名札がつけられています。この木はイヌガヤです。イヌガヤとしてはかなり大きくなっています。
そのまま案内に従って矢研の滝の方に向かいます。駐車場の案内図に書かれていた、二見滝あたりまできました。川の方は木が生い茂っていてよく見えません。所々に滝のようなものが見えます。
これもまた違う滝です。これくらいだと落差が小さすぎて滝といっていないのかも知れません。
道を進んでいくと、大きな滝に出ました。近くにある看板を見ると、矢研の滝と書かれたものと若葉の滝と書かれたものの2つがあります。矢研の滝と書かれた看板の前には、道があるのですが、通行止めになっています。かといって滝の方はこの先どこかに行けるような雰囲気ではありません。
滝自体は支流にできているので、大きいといってもこのあたりでは、それほどではないでしょう。いろいろ探していると、滝の前を横切るように石が積まれているように見えます。その延長方向を見ると道が続いているようです。これで、この滝が何者なのか判明しました。
矢研の滝の看板には滝はまだ先のようにも書かれていました。この滝の前を横切ってされに進んで行かないといけないようです。ということから、この滝は若葉の滝ということになります。滝の名前がわかったところで、その滝のようすです。石垣のようなところを渡って、矢研の滝に行きます。
滝の前から本流側を見たところです。本流の上流側にも小さな滝の滝壺が見えています。
若葉の滝から矢研の滝に向かう道です。険しい崖の間を通っていきます。
こちらは転落があるのでしょうか。ネットでは入れないようにしています。
道沿いで見たツツジの花です。まだ季節的には早いような気がします。
本流は、段差がいっぱいあり滝のようになっています。やはり木の茂みの向こう側になりよく見えません。
道の先に見えた矢研の滝です。若葉の滝に比べてかなり大きな滝です。神武天皇が、この滝の水で矢を研いだからといういわれがあるようです。落差は73mあると書かれていました。
道はここで行き止まりです。先にあった石には神社と彫られています。どういう意味があるのでしょうか。その左側(手前側)にある石碑には矢研の滝と書かれています。
矢研の滝から元来た道を引き返します。トイレに行きたくなっていたのですが、キャンプ場のトイレは閉まっていました。駐車場まで戻らないといけません。駐車場でトイレをすませます。途中ですれ違った人がここで弁当を食べていました。残っていたパンをおなかの中に入れることにします。
軽く食べ終わったら出発です。日向・延岡方面に向かうことにします。いったん木城町からの道に戻り、そこを北上していくと、国道と合流するようです。
道を下っていってしばらく走ると、橋が見えてきました。欄干の形を見るとめがね橋っぽいので、止めてよく見てみることにしました。
橋を見るとめがね橋でした。きれいに見えるところがなかったので、少し下流側まで歩いて行っています。
橋の名前はさかい橋というようです。昭和14年12月架橋と書かれていました。
橋の正面にも小さな滝があります。落差は3m以上あるのですが、滝扱いされていないような感じです。
ここから山沿いの道まで戻り、北上して国道と合流します。しばらく走っていると大きな町の中に入ります。町に出たらしないといけないことがあります。自転車の修理です。虫ゴムを買うか自転車屋さんに寄るかのどちらかです。
最初に見つけたのは100円ショップです。ここでパーツを購入します。パンク修理キットか虫ゴムかどちらにしようか考えた結果、虫ゴムを買いました。早速店の前で修理します。何とか空気は入りました。このまましばらく置いて。空気が抜けないか確認する必要があります。
さらに北上を続けます。途中見所になりそうなものはあったのですがスルーしました。ずっと走り続けて美々津に到着です。ここの町並みは、伝統的建物群に指定されていて、ツアーコースと組み込まれていることもあります。海岸も見所のようです。寄っていくことにします。美々津のどのあたりにあるかよくわかっていないのは問題です。
とりあえず駅の方に向かう道を降りていきます。T字路に突き当たって左折しました。駅前に出ないまま再びT字路に出ます。左に進と駅から離れるので、右折します。線路を渡ったあとは引き返すように進みます。駅ホーム横を通り過ぎますが駅舎はありません。こちら側ではないようです。
海に沿って進んでいますから、海岸に出られるかも知れません。そのまま走り続けます。防風林が続いていて、海岸には出られないようです。やっと防風林の切れ目を見つけました。ここに車を入れます。
その先から見た、海岸の南側方向です。防波堤の上です。海岸には下りられないようです。波打ち際には消波ブロックが並んでいます。
直下の海岸です。礫浜になっています。波が引いたあとは、レキのすき間から海水がしみ出してきて、細長い流れを作っています。
沖合です。小さな島があって、上に灯台が見えます。
このあたりに、目的の海岸はないようです。元来た道を引き返します。情報入手のために駅に向かうことにします。最初のT字路を曲がらずにそのまま進んで行くと、駅まではほんのちょっとの距離でした。ちょうど電車が入ってきたところです。
美々津駅で観光情報をチェックしました。海岸や町並み保存地区は、駅の北側、川を渡った先にあるようです。いったん国道に戻り、橋を渡ってすぐに右折して進むといいようです。
書かれていたとおりに車を走らせると、人家の間をぬけて海岸に沿って走る道に出ました。この道路の海側は広くなっていて車が止められそうです。Uターン気味に進むと前方に駐車場らしきものがみえてきました。そこに車を入れます。
駐車場にあった案内図によると、町並み保存地区はまだ先のようです。ちょっと距離がありそうですので、自転車でいくことにしました。その前に海岸が気になります。自転車に乗って海岸に行きます。タイヤには空気がしっかりと入っています。
堤防にでてその上から見た海岸です。沖合に海岸と平行に消波ブロックでできた防波堤がありその内側に砂浜が広がっています。防波堤の切れたところでは、砂浜はえぐられたようになっています。
町並みのある側に砂浜から海にせり出すように展望所のようなものができています。
展望所から見た沖合側です。駅近くの海岸から見えていた灯台のある島が間近にあります。灯台の断面形は六角形をしています。島は七ツバエというようです。
展望所から堤防に戻る途中の浜から見た北側です。海が入りこんでいるのはすぐそこまでのようです。町並み保存地区の一部が見えています。
砂浜のにできていた砂紋とその上に鳥の足跡のようなものが見えます。
堤防の上を端まで来ました。ここから町並みまではすぐなのですが、間にもう一段高い堤防ができています。高さは1mちょっとくらいですが、自転車があるために越えることができません。半分以上引き返したところで、やっと堤防は途切れました。そこから町並みに入っていきます。
道は海岸と平行に2本あって、山側の方を行くことにします。白壁作りの建物がたくさん見えてきます。先にみえるポストのある建物は郵便局のようです。
そのまま進んだ先にあったのが井戸です。旧上町共同井戸と書かれています。
美々津の町は、横を流れる耳川の河口付近にできていて、川の上流で生産される木材などを上方に運搬するための集積港として江戸時代の初め頃に発展したそうです。藩の番所なども設けられ、千石船を持つ廻船問屋が何軒も並んでいたようです。大正時代に鉄道ができてからは、船運が振るわなくなり、衰退していったそうです。
旧上町共同井戸の前に、町の案内図があります。それによると、このまま進んだ向こう側に、古い建物がたくさん残っているようです。いったん町を通りぬけていきます。
道は旧豊後街道で現在は上町筋と呼ばれています。国道へ向かう道の分岐に、高札場跡があります。復元された高札場に絵馬の形をした板が掲げられています。ここには耳川上流の町や村の観光名所が記されています。奥の白壁の建物はトイレです。
ここに見える道から海側を見ると、こちら側にも白壁の建物があります。現在は町並み防災センターとして使われています。
古い建物は、ここよりも左側に多いようです。ぐるっとまわってみます。庇をささえる飾りの彫られた板がある家が並んでいます。この板は、八幡浜では持送りといっていました。
他にも、組み立て式の縁台や、家の前の石畳(向こう側の建物にある)など、独特の建築様式があったようですが、あまり気づかずにいました。
立派な建物があります。廻船問屋河内屋だった建物です。現在は日向市歴史民俗博物館として使われています。残念ながら今日は月曜日、休館日です。他にある、町並みセンターや美々津軒などの公開施設も一斉に閉まっていました。
資料館前の道です。中町筋といいます。こちら側は石畳道になっています。妻入りの建物がたくさんみられます。平入りの建物は資料館です。
北側の町外れの広場に大きな石碑が建っています。日本海軍発祥の地と書かれているようです。詳しく見なかったのですが、神武天皇が、大和に都を移そうと、ここから船出したのを記念して立てられたようです。横に軍艦の碇のようなものが置かれているので、完全に近代のものと勘違いをしていました。奥に見える橋の架かった川が耳川です。
美々津海岸から見えていた灯台は、神武天皇がこの横を通ったということもあり、皇紀ン千年を記念して作られたという説明もみうけます。みひかりの灯というようです。海上保安庁は美々津港灯台と呼んでいます。
石碑のある公園の横に立磐神社がありす。境内には神武天皇が座ったという石があります。この先に入っていません。
下町筋もまわってみました。こちら側は古い建物は少ないようです。説明では、度重なる津波で壊れ、明治期以降に立てられたものが多いそうです。建物の間から海岸にぬけるところに、井戸がありました。こちらは、今整備しているところのようです。
山手側に、京都醍醐寺の庭園を模した橋口氏庭園があるようですが、見つけることはできませんでした。
美々津から北上を続けます。事前に調べた観光地メモには、道の駅日向裏とだけ書かれています。何があるのかはよく覚えていません。途中に何かあったら寄るつもりでいましたが距離が2kmもなかったので、すぐについてしまいました。
道の駅の案内板で、この奥にあるものについて調べてみました。サンパークという公園があって、温泉施設のほか、オートキャンプ場や運動施設があるようです。あまり興味のあるものではありません。海岸には下りられるだろうと考え、温泉施設の方に行ってみました。
温泉駐車場から海岸に下りられるところを探したのですが、見つけられません。案内図があったのでそれを見ると、温泉建物の奥から、遊歩道が続いているように書かれています。
温泉施設の方にも行きました。一般の立ち入りの可能なところに遊歩道の入り口のようなものが見られませんでした。誰かに聞いてみることにします。といっても、どこにあるか知っている人がいそうなのは施設の中です。受付で聞こうとしたのですが、長く話をしている人がいました。その間にも入浴客がたくさんやってきて、長い列ができてきました。私用なので全て終わるまで待って、聞いてみたところ事務室にいた人がわざわざ案内してくれました。従業員用の駐車場のようなところの奥に入り口がありました。
遊歩道に入ったところです。初めは林の中を進んで行きます。ヤブツバキが多いようです。
林床にあった花です。ムサシアブミです。仏縁苞が丸くなっているのが特徴です。根元から伸びる2枚の葉の間に花がつきます。小葉が3枚あるのが特徴です。
林をぬけると、細長い島が見えてきました。島の岩には、柱状節理が見られます。ここの特徴は、柱状節理の発達した岩が海岸に沿って2km以上も続くことでした。
島は細長いのですが、その間の海もほとんど同じ幅で続いています。
足下の柱状節理の表面です。割れ目のところの角が取れて、丸くなった石が並んでいるように見えます。
遊歩道を先に進んでいきます。みさきのようなところをまわると、入り江が見えてきました。フクトが浦です。海岸近くに岩場があり、その内陸側は低くなっていて砂浜のようなものがあります。
道は、浜のようなところに降りていきます。海岸側は岩場になっていますが、所々に切れ目がありそこから海が見えます。岩にはきれいな柱状節理ができています。
岩場と山の間の低くなっているところです。ちょっと大きめの石がたまってできた礫浜のようです。
奥に見える岩場の切れ目まで行ってみました。岩場の手前側では、海水が切れ目の方に向かってさかんに流れています。
その流れの元をたどってみると、波が打ちつける度に、岩場のすき間から大量の海水が流れ込んできています。
サンパーク沿いの遊歩道の正式名称はわかりません。美々津海岸遊歩道と書かれている資料も見受けます。しばらくは単に遊歩道ということにしておきます。
遊歩道は全長で3km以上もあります。端までいけば戻ってこないといけません。全部見るとなると、相当時間がかかります。アクセスポイントがいくつかあるみたいなので、主要ポイントのみ行くことにします。後で考えてみたら、行きか帰りに自転車を使うという方法もありました。入り口でのこともありました。現地ではそこまで考える余裕はありませんでした。
遊歩道の端まで柱状節理がずっと続いているようです。入り口にあった案内図に書かれている変わったものといえば、潮吹き岩です。ここに行くことにします。遊具広場の入り口からはすぐのようです。遊具広場まで車で移動し、そこから歩いて行くことにします。
遊具広場の横に車を止めようとしたのですが、近くに大きな駐車場が見えます。そこに車を入れました。オートキャンプ場の駐車場のようです。遊歩道の入り口は、入浴施設の入り口にあったのと同じ標識があるのですぐにわかりました。
標識のところを入ると、道はすぐに2手に分かれています。最初の場所に行く道と、さらに端の方に進んで行く道です。潮吹き岩は、引き返す方向にありますから右側の道を進んで行きます。
林をぬけて、海岸の岩場に出たところで、潮吹き岩の案内板があります。正面の方向にあると書かれています。その方向には大きな岩とその間に少し低くなったところがあります。
案内板に書かれていた説明には、「大潮の満潮の時に、岩の間から海水が勢いよく吹き上がります」と書かれています。時期的にはもう数日すれば大潮です。潮の具合は調べていないのでわかりません。見える範囲では潮が上がっていないようです。
このすき間から海水が吹き上がるとなれば、かなり大きな波が必要です。まわりの木も潮がかかって枯れているはずです。ようすを見るために右側からまわって海岸近くまで行ってみることにしました。まわる途中で見えた南側の海岸です。フクトが浦は森の奥になります。
海岸では、波が岩に激しく打ちつけています。
山の方をみると、岩の割れ目が真っ直ぐ伸びています。正面にある岩は、案内板から見えていた左側の大きな岩です。
この裂け目に波が入りこめば、大きな飛沫が上がるのではと見ていると、少し海側で飛沫の上がるのが見えます。霧状に海水を噴き上げているようにも見えます。
ようすがよく見られる場所を探して、移動します。割れ目は深いので、あまり近くまでは寄れません。これが限界というところでしばらくようすを見ます。
波が押し寄せてくると、割れ目の奥の方で時々飛沫が上がるのが見えます。かなり大きかったものです。
見ていると、飛沫の上がる手前側に、空気と一緒に潮が霧状に吹き出す所があるのがわかりました。そこから上がった大きな潮吹きです。
これなら岩に打ちつけてできた飛沫と区別できます。潮吹き岩といっていいでしょう。何処のことか詳しく書かれていませんが、潮吹き岩とはここのことと思われます。ちょっと小さいようにも思いますが、条件が完璧ではないからでしょう。
潮吹き岩から遊歩道を進んでいっても、フクトが浦に行くだけです。少しだけ行って見るというのもあるのですが、いったん遊具広場の入り口までもどってそこから北側のようすをちらっと見ることにします。
遊具広場入り口から北側の遊歩道へは、二股に分かれた道を左に進んでいきます。道は谷にまっすぐ降りていくようについています。林の切れ目から進行方向を見ると、崖に挟まれた凹地に進んで行くように見えます。正面に見える岩場には時々大きな波がかぶっていきます。
崖のきわにあるちいさな木に花がついていました。ミヤマシキミのようです。
道は灌木に覆われた、薄暗いトンネルのようなところを通っていきます。
トンネルのようなところをぬけました。ちょっと明るくなっています。船着き場のように見えますが、道は海から離れていくようについています。海水の入ってきているところはまだ先です。
入り江はまっすぐ沖の方に向かって続いています。右側の崖には柱状節理が見えています。
足下の岩に、柱状節理の作る六角形の模様がはっきりと見えます。
入り江の先端方向です。幅が狭く奥行きの大きな入り江です。入浴施設のあったところから、このような入り江はいくつもあるようです。
入り江出口の海面に、泡のかたまりが漂っていました。泡に付着したネバネバ成分が濃集することで、泡が壊れにくくなっているのでしょう。波の花みたいです。冬の日本海などでは、これが吹き寄せられ、風で飛ばされてくることもあるようです。
サンパークを出る頃には、もう遅い時間になっています。ここからだと宿のある五ヶ瀬町まではまだだいぶあります。このあとどこかでゆっくりと見ている時間はないでしょう。道脇にあるものならわずかな寄り道は可能でしょう。とりあえずカーナビをセットして、指示通りに進む事にします。
日向ICから東九州道に入って延岡方面に進みます。延岡南ICで「この先一般道」の指示が出たので、高速を下りたら、こんどは違うといわれてしまいました。一般道でリルートをしてくれましたが、出口を出てからぐるっと回って高速に入り、延岡方面に進みなおしました。
延岡から高千穂方面の高速に入ったのですが、最初のICで下りて一般道をすすめとの指示です。高速道路でどこまで行けるかわからないのでそれに従います。出口では料金を徴収されません。無料区間だったようです。そのあと走った感じではずっと最後までいけたようです。
高千穂までの途中、いくつかチェックしたポイントがあったのですが、それらしきものは見えてきません。旧道を調べていたようです。今はバイパスを走っています。唯一あったのは、日本一のアーチ橋という案内です。行ってみて見えたのは、確かにアーチ橋でした。めがね橋と勘違いしていました。天翔大橋といいます。何が日本一かわかりませんがこの感じでは谷底からの高さのようです。底は全く見えていません。
この後、道に戻ってすすんで、高千穂を通過します。五ヶ瀬町の運動公園についたのですが、宿の位置がわからず行ったりきたりを繰り返しました。案内板を見落としていたようです。
宿は、他に誰も泊まっていませんでした。申込んだ時にエレベーターがないといわれました。階段派なので気になりませんが、これが影響しているのでしょうか。
食事の前に周辺を見て回ります。照明装置がたくさんあります。避けられそうな上の方を見たのですが、開けたところがないようです。こちら側は星見には使えそうにありません。宿より下側で明かりの影響の少なそうなところを探すしかないようです。
宿には、展望テラスがあります。ここから星を見られそうなのですが、望遠鏡を使うとなると、一度に運びきれませんから何回か階段を往復しないといけません。あとの写真とかを見ても、往復した方がよかったかも知れません。エレベーターがあれば間違いなく使っていたでしょう。
食事をすませて外に出てみると、宿前駐車場の明かりが、周辺一帯を照らしています。一番影響の少なそうな、一段下の駐車場で星を見ることにしました。望遠鏡をセットして、一番最初に写してみたのが、オリオン星雲です。よく写っている方ですが、光をかぶり始めています。3分露出
いまだにうまく写せていない、カニ星雲をねらうことにしました。このあたりとねらってみるのですが、なかなか入ってくれません。何処を写したのかわからない写真ばかりが増えていきます。その中でも、もうちょっとだけ左にずれていたら入っていただろう写真です。
望遠鏡をいじっているうちに、だんだんピントが甘くなってきました。星が大きく写っています。
ピントを合わせ直して、すばるを写してみました。星の周りの星雲が写り始めていますが、同時に光もかぶり始めています。星雲はうまく写らないようです。2分露出
再び、カニ星雲をねらいます。やっぱりうまく入ってくれません。何処かわからない場所です。
やっと、見つけることができました。ファインダーには何も見えないので、真ん中に移動させるのがなかなかできません。ヘタに動かすと、はみ出してしまって再び入れるのに苦労するでしょう。ここまで持ってくるのが限界でした。2分露出
これだけでもだいぶ遅くなってしまいました。終了することにします。望遠鏡を操作するのに手間取って、星野の写真は撮れていません。こちら側はまた次回ということにします。
五ヶ瀬町の朝です。ちょっと早めに目が覚めたので、周辺を歩いてみることにします。といっても宿のまわりは、スポーツ施設と学校幼稚園があるだけです。フロントにおいてあった五ヶ瀬町内の散策マップを見ると、ちょっと足を伸ばしたところにめがね橋があると書かれています。これを見に行くことにします。図は持ち出し禁止なので、簡単にメモをしておきます。
どうやって行くか考えてしまいます。遠いのですが、自転車だと坂があります。最後の宿につく直前50mほどは登っていかないといけないことを考えると躊躇します。舗装路があるので押して登ってもいいのではということで、自転車を出すことにしました。
外に出たときに空に見えた月です。昨日よりちょっとだけ細くなっています。
宿から、道を自転車で降りていきます。一番下りきった所から横に並んで通る道路に入ります。ここまでは楽でした。
道は六峰街道と書かれています。古い街道か何かと思っていたのですが、延岡からここまで山の尾根を通ってくる林道につけられた名前でした。
六峰街道から、人家のあるところに入り、めがね橋とメモのあるところに行きます。橋はあるのですが、ここは普通の橋でした。この近くに他に橋はなさそうです。あきらめてもう一つのめがね橋があるとメモしてある場所に行きます。こちら側には、めがね橋がありました。下中村めがね橋と書かれています。道路脇からはちょっと見づらいようです。
川原に下りられそうな所があったので、そこから見ました。橋にはこれ以上近づけません。
メモの位置と全く一致するので、もう一つの橋を見直しに行くことにします。戻る途中に、見たタヌキです。くるときも見たのですが、先に気づかれてしまいすぐに見えなくなっていました。この横の溝の中をねぐらにしているようです。
元のところに戻ったのですが、ほかに川を渡る道はないようです。この場は、つけ替えられたということであきらめて次に行くことにしました。
あとでわかったことです。下中村めがね橋は川の下流側に架かっている橋で、上流側に上中村めがね橋というのがあります。メモには上か下かを記録していませんでしたし、下中村めがね橋を見たときに上下を気にしていませんでした。さらに、下中村めがね橋より上流側には民家もなく、めがね橋が作られているとは考えませんでした。
六峰街道とは反対側の岸から、国道に戻ります。出たところにあったのが原田家のしだれ桜です。花が咲いていたらきれいだったでしょう。
朝食の時間が近づいてきましたので国道を戻り、宿の方に向かいます。六峰街道との分岐を過ぎて川に架かる橋を見るとこれもめがね橋っぽく見えます。
六峰街道からの延長にあります。少し戻ってこの道に入り、橋を渡って見えるところがないか探します。道路沿いからはよく見えるところがないのですが、田んぼの間から川に近づいて見た橋です。川久保めがね橋というようです。
再び国道に戻り、宿に戻っていきます。大半は自転車に乗らずに押していました。最後は、近道をしようと、階段の横の斜面を使って自転車を押して登って戻りました。
朝食を済ませたら、宿(木地屋)を出ることにします。今晩の宿は久住高原にとってあります。予定では山都町の蘇陽峡と通潤橋をみたあと阿蘇のカルデラを通り北側外輪山を通って行くつもりです。
出発の準備が終わって車を動かそうとしたときに、1つ見落としているものがあるのに気がつきました。宿の玄関前におかれている石です。車をその近くまで移動させて、見ていきます。
説明では、この近くにある祇園山で採れた岩石で古生代シルル紀の化石が入っているそうです。昨年、宮崎県立博物館にも鞍岡産と書かれた化石標本をたくさん見ました。どちらもほぼ同じ場所のものです。
近くで見ると、ハチノスサンゴや二枚貝などの化石がたくさん入っています。ハチノスサンゴの部分を拡大してみました。
ついでにここからの景色ももう一度よく見ておきます。Gパークの陸上トラックが見えます。遠くに見える山並は阿蘇の南西側外輪山で黒岩から駒返峠あたりのようです。もう少し右側の見えるところに行けば、阿蘇五岳が見えていたはずです。
Gパークの入り口に戻り、西に向かう国道に沿って車を走らせます。特産センター前にうのこの滝と書かれた案内があります。行ってみました。狭い道でしたが滝近くまで行くことができました。
うのこの滝です。崖の下半分の岩石がえぐられるように削れています。
滝の部分の拡大です。溶結凝灰岩とその下の地層が見えています。
駐車場に戻る途中で、きれいな声でさえずっている鳥がいました。サンショウクイのようです。
すぐに飛び立ったのですが、別の枝に止まりました。この付近を行ったりきたりしているようです。
駐車場から国道に戻ります。いったん特産センターによっていきます。駐車場におかれていた、いざなみ・イザナギ像です。前の道はひむか神話街道というようです。高千穂町から霧島山高千穂峰(御池)までつづいています。
五ヶ瀬町特産センターから西に車を走らせるとすぐに熊本県山都町に入ります。入って程なく、蘇陽峡への案内標識が見えてきます。指示に従って右折します。まっすぐ進むと蘇陽峡というのと、長崎鼻展望所という案内が出てきます。できれば両方行くことにします。
この時点で勘違いしていたことがあります。1つは、××鼻という名前は阿蘇の外輪山がカルデラ側に大きく張り出したところにつけられた名前だと思っていることと、2つめはのこの2つのものは別々のものであると思っていることです。
途中から蘇陽峡への案内標識はみかけなくなりました。だいぶ車を走らせて、本当にこれであっているのか不安になってきた頃に、開けたところに出て、深い谷が見えてきました。これが蘇陽峡なのでしょう。向こうに見えている山は祖母山系の山です。
その先に大きな駐車場があり展望台が見えています。長崎鼻展望所と書かれています。
展望所の向こう側にもまだ山があります。阿蘇カルデラに向かって突き出した鼻ではないようです。展望所から見ると周囲は深い谷で囲まれています。前方に見える谷です。
北側にうっすらと見える山が阿蘇の中央火口丘のようです。このあたりは阿蘇の外輪山の一画ということになります。
展望台から先に、降りていく道があります。いってみました。ちょっと進んだ所に再び展望台が見えてきます。
ここからの前方の谷です。水がたまっているところを見るとダムか何かあるようです。
さらに下りていくと水路があります。このすぐ先から水を落とし、発電しているようです。
長崎鼻展望所から下に降りてきたのには訳があります。展望所にあった説明によると、ここから、川底の方に行くに従って阿蘇山からの噴出物が新しいものから古いものまで順番に見られるというのです。阿蘇山から大規模火砕流は4回噴出していて、一番最初のものからそろっているようです。さらに下には、恐竜時代の地層も見られるとか。谷底までかなり深そうなこともあって、ためらわれますが、思い切って行ってみることにしました。
展望所から下り始めて最初に見えてくるのが、阿蘇3火砕流堆積物です。2つ目の展望所付近のものなので、岩という感じにはなっていません。
だんだん岩は硬そうになってくるのですが、ある程度下りた所で、泥のように崩れた地層が見えてきます。阿蘇3火砕流堆積物より古い堆積物になります。
さらに下りていくと横の崖は再び岩っぽくなってきます。火砕流堆積物です。順番からすると、阿蘇2火砕流堆積物になります。
さらに下りていくと、斜面に沿って進み道に行き当たります。どちらに進もうか迷ったのですが、左側に行ってみることにしました。ちょっと進んだ所で、黒っぽい崩れやすそうな岩石が出てきました。阿蘇2火砕流堆積物の下の地層が見えてきたようです。
崖の上に咲いていたショウジョウバカマの花です。
地層の岩石は火砕流の溶結凝灰岩と違ってすき間が多いため、地下水を通しやすくなっています。そのため、この付近では所々で湧水が見られます。
そのまま進んでいると、川に出ました。五ヶ瀬川です。
川底の岩石です。甌穴(ポットホール)ができています。阿蘇1火砕流堆積物でしょう。
近くに落ちていた石です。黒っぽい部分が横に細長くなっています。たまったときに含まれていた軽石が、火砕流の熱で軟らかくなり、上の堆積物の重みで押しつぶされてぺっちゃんこになったものです。溶結凝灰岩に見られる特徴の1つです。
長崎鼻展望所にあった説明によると、蘇陽峡とは阿蘇の火砕流台地を五ヶ瀬川が削って作った深い渓谷で、高さが150〜200mの崖で挟まれ、幅が200〜300m、長さが14kmに及ぶそうです。さらに下流は高千穂峡まで続きます。
蘇陽峡は日本のグランドキャニオンと呼んでいるようです。深い谷が延々と続いていることに関係しているのでしょう。もう一つ似ているのは、高いところの方が交通のアクセスがよく、見るには谷を下って行って、登って帰らないといけないということです。登山と全く逆になります。
今横を流れているのが五ヶ瀬川です。このあたりも蘇陽峡といいていいのでしょう。谷幅が広いせいか、あまり深い谷のようには見えません。川原に出たもののこの先は似たような景色でしょう。阿蘇の火砕流も一番古いものの底は見えていません。これより上流側には古い地層が出ていることは期待できませんから、来た道を引き返すことにします。
川の右岸に沿って戻っています。対岸に切り立った崖が見えます。ちょっと上の方に見ますから、阿蘇3火砕流堆積物になるのでしょう。
上から降りてくる道との合流点を過ぎ、さらに進んで行くと火山灰のような地層が見えてきます。このあたりが、阿蘇1火砕流から阿蘇2火砕流までの間にたまったものになります。
発電用導水管のところから道は斜面を下りていくようになります。下って行く途中のようすです。道脇には固そうな岩石が露出しています。阿蘇1火砕流堆積物になります。岩石が硬くなった分、斜面の傾斜がきつくなったので、道は何回かヘアピンカーブになっています。
一番下の発電所前です。ここの岩石も阿蘇1火砕流堆積物です。
白亜紀の岩石が見られると書かれていたので探したのですが見当たりません。下りていくことはできなかったのですが、川底の岩石もまだ火砕流堆積物です。
解説板に書かれていた白亜紀の地層というのは、蘇陽峡沿いの別の場所のようです。それよりも、この写真を整理していたときにおかしな事に気がつきました。五ヶ瀬川の川底に着いてから、川の右岸を下ってきたはずです。そのまま川底を見たら川の水は左から右に流れているはずです。これはどう見ても右から左です。
一瞬何処の写真かわからなくなったのですが、地図を見て納得しました。長崎鼻というのは、五ヶ瀬川と三ヵ所川に挟まれた細長くのびた台地で、その先端の先で2つの川が合流しています。今見えているのは五ヶ瀬川ではなく、三ヵ所川ということになります。
蘇陽峡遊歩道というのは、この三ヵ所川の上流にあるキャンプ場まで続いています。道はここで行き止まりになっています。遊歩道を探しに引き返します。斜面を登りすこし緩やかになったところで、導水管を越えていく道がありました。ここが遊歩道のようです。ちょっとだけはいってみました。そこから見た下流側です。
この足下の谷は、三ヵ所川なので上に書かれていた説明に従うと蘇陽峡ではないことになりますが、この遊歩道は蘇陽峡遊歩道なので、蘇陽峡なのでしょう。グーグルマップはこちら側が蘇陽峡になっています。
このままキャンプ場まで行くと再び戻ってくるのが大変です。ここで引き返すことにします。元の道に出て進んでいったところに水が湧き出している所があるのに気がつきました。水分補給をさせてもらいます。
斜面を登って、展望所まで戻っていきます。何とか見えてきた長崎鼻展望所です。
阿蘇の大規模火砕流は4回出ています。4回目のものが気になるところですが、この付近には見られないようです。展望所の近くに見られるものはそれより新しい時代のローム層です。
蘇陽峡の次は、通潤橋に向かいます。出発したのはいいのですが、どこにあるのか正しくわかっていません。国道を西に向かって進んでいると、T字路に行き当たりました。何となく熊本の方ではないだろうと思い込み、そうでない方向に右折してしまいました。
進んで行くとだんだん山の中に入っていきます。地図を確認した方が良さそうなので、車を駐めやすそうな場所を探してそこでチェックします。この道は阿蘇の方に向かう道で、通潤橋はT字路を左方向に進んだ方向にあります。T字路まで引き返すことにします。片道10分ほどロスしてしまいました。
国道を熊本の方に向かって進んで行きます。だいぶ走ったところで、田んぼのまわりの斜面に切り立った崖が目立つようになってきます。火砕流堆積物の下の方のかたいところが露出するようになってきたようです。
小さな峠を越えたところで、いきなり聖滝展望所という案内が見えてきました。気がつくのが遅く、車を中に入れることができません。後続車がいますが、この先道が広くなるという保証はありません。対向車もいたのですが気にせず、脇に寄せて先に行ってもらうことにします。道路に車が来なくなったのを確認してバックで展望所に車を入れました。
展望所から見える聖リ滝です。木があるので下の方はよく見えません。阿蘇の溶結凝灰岩にできているようです。これだけでは、何回目のものかはわかりません。滝の名前の由来は、滝の水が中段付近で岩にあたっているようすが、僧侶(行者?)が滝に打たれているようすにに似ているからだそうです。
聖滝展望所を後にして先に進みます。坂を降りきったところで、川を渡ります。ここに架かっている橋の横に目立つ文字で聖橋と書かれています。何かいわくがありそうなので先の広いところに車を止めて見にいくことにしました。
橋まで戻って橋の下をのぞいてみると、向こう側の橋脚が石組みのアーチ橋のように見えます。
道路を渡って、橋を眺めてみると確かにめがね橋(石組みのアーチ橋)です。残念ながら木が生えていてよく見えません。
対岸の道路は川沿いには木が生えていないのでよく見えそうです。向こう側に渡ることにします。国道の橋はめがね橋の横につけられたようで、2つの橋が並んでいます。どちらも聖橋のようです。古い方は男成川めがね橋という名前もあるようです。ちなみに下の川は笹原川です。
対岸から見ためがね橋です。川を一気にまたいでいます。
車に戻り通潤橋に向けて車を走らせます。案内標識が出ていますからそれに従っていきます。道の駅「通潤橋」というところに入り奥の駐車場に車を入れます。
駐車場の奥に、古い民家のようなものがあります。旧矢部町にあった民家を移築したものだそうです。3つの建物がつながった造りになっているのが特徴で、平行三棟造りというそうです。
建物の内部です。昔の農具や民具がたくさんおかれています。
その前にあった像です。山都町で9月に開催される八朔祭りで展示される大造り物で、昨年の作品だそうです。タイトルは「避暑と移住」だそうです。この通りに読まないでください。写真からよみが読み取れますね。
通潤橋は、この南側にある台地上まで用水路を通すために、五郎ヶ滝川にかけられた橋です。水抜きのために橋の真ん中から放水するようすが有名です。
道の駅でこの付近の案内パンフを探したのですが、中国語で書かれたものしかありませんでした。横に並んで展示施設もありますが、ここでも見つけることはできませんでした。パンフ類はなしで回ることにします。通潤橋は目の前に見えています。
間に川があって、こちらの岸からは途中から通行止めになっています。いったん駐車場入り口まで戻り、そこにある橋を渡って対岸に渡ります。そのあとは川に沿って進んで行きます。途中で川に映る通潤橋が見えました。
石組みのアーチ橋がめがね橋といわれるきっかけになったのは、長崎市内にある眼鏡橋なのでしょう。2連のアーチが川面に映り、円が2つ並んだように見えるようすから眼鏡橋と呼ばれるようになったみたいです。この橋が、石組みの橋としては最古のものということもあり、あとから作られた、石組みアーチ橋はこれに習って呼んでいるようです。
橋の下まで来たのですが、ここから上にあがる道は通行止めになっています。ここから先には道はありませんから引き返すしかありません。
川を渡った橋の正面から丘に登っていく道があります。通潤橋展望場所と書かれていますので登っていきます。
展望場所近くの一番高いところから見た通潤橋です。上から見下ろすような位置にいます。
下に板で囲まれた台が置かれています。ここが展望場所になります。ここまでおりていきます。
展望所からの通潤橋です。3本の筋が見えます。ここが水が流れるところです。熊本地震で漏水しはじめました。現在は、その修復工事をしているようです。ふだんは、管は埋まっていてこれほどはっきりとは見えないようです。
下を流れている川の先を見ると向こう側に落ち込んでいるように見えます。この先には五老ヶ滝という滝があります。それなのでしょうか。
展望台の下には水路が続いています。奥をのぞいて見ると、ここで行き止まりになっているように見えます。
ここから向こう側の台地まで用水路を作りたかったのですが、まっすぐになる高さまで橋を作る技術がありませんでした。そこで、できるかぎりの高さまで橋を作り、そのあとはサイフォンの原理を利用して向こう側の台地で用水が流れるしくみになっています。ここはその吸い込み口になります。
進んでいけるのはここまでです。戻っていきます。先ほどの高台のあった場所は広場になっています。このあたりには戦国時代の岩尾城がありました。このあたりはその二の丸にあたっていたようです。
通潤橋は見えたものの、この近くにある五老ヶ滝が見えていません。そのためには通潤橋よりも下流側に行かないといけないのですが、通れそうな所は何処も通潤橋の手前で通行止めになっています。もう少しその付近を探してみることにします。
岩尾城趾二の丸跡の周囲を探していると、道の駅と反対側に降りる道を見つけました。下りていくと通潤橋につながる用水路を橋で越えたあと、用水沿いに進む道に出ました。このまま用水沿いに下って行くと、通潤橋で通行止めになります。その標識はここからでも見えています。五老ヶ滝は下流側にありますから、上流側にいくのは方向違いです。遠くを見わたしてみると低くなったところにある田んぼの向こう側斜面を横切るように道が続いているようです。ここをすすめば何とかいけそうです。
道に出るには、同じ高さのところをぐるっと回っていくか、いったん下って再び登っていくかのどちらかです。どちらも大変そうです。ここは距離の短い方でいきました。
低い所まで下りた所で、通潤橋が見えてきました。橋の上をケーブルで資材が運ばれていくのが見えます。
目的の道には、五老ヶ滝への案内標識もありました。これで五老ヶ滝にたどり着けそうです。ずっと進んで行くと吊り橋が見えてきます。
この橋から上流側を見ると滝が見えます、五老ヶ滝です。滝背後の岩石は、阿蘇の溶結凝灰岩でしょう。
日が差したり陰ったりしてます。日が差しているときには、滝壺にできた飛沫に、虹が架かるのが見えます。
滝壺下の岩石は、溶結凝灰岩の下にあるものです。溶結凝灰岩の直下に、白い火山灰の層が見えます。蘇陽峡遊歩道で分岐点から導水管との間にあった火山灰に似ているような気がします。だとすると、この上の火砕流堆積物は阿蘇2火砕流によるものということになります。
道は続いていますが、この先に何があるかはわかっていません。ここで引き返します。途中の道脇で咲いていた梅の花です。
二の丸跡入り口まで戻りましたが、北側に広場が見えています。案内板もあるようなので行ってみました。この上に本丸があったと書かれていました。
上にあがってみえた本丸跡です。林の向こう側に見えているのは、山都町の町中心部です。
振り返って見ると、通潤橋とそこにつながる用水路が見えます。ここから見るとその高さの違いがよくわかります。
岩尾城本丸跡は行き止まりになっています。再び案内板のあった広場に戻ります。ここから駐車場に戻るまでの間に見ておきたいものがもう一つあります。岩尾城趾大手門跡近くにある赤禿滝です。五郎ヶ滝川に架かる橋の上から見ることができるようです。
広場から二の丸跡に入る手前に城を下りていく狭い道があります。そこを下って行きます。川沿いの民家の間を通りぬけると橋があります。この橋の上から上流側を見ると、堰のように見える段差の小さな滝があります。
目的の赤禿滝ではないようです。帰ってから調べてみるととどろ滝という名前がついているのがわかりました。轟滝というのは、他にも山都町内に何カ所かあります。
赤禿滝に行く道がわかりませんから、このまま川の左岸を歩いて駐車場に戻ります。車に戻ったら、次に向かいます。次の目的地は阿蘇のカルデラ内です。ここにくるとき間違えた走った道を進んでいくことになります。
国道を戻っていると聖橋のところで円形分水公園と書かれた案内標識を見ました。伊那市で同じようなものを見ています。同じものなのか確認しにいってみました。1kmほど走ると円形分水と書かれた駐車場に到着します。ここから円形分水まではすぐのようなので歩いて行きます。
橋を渡った先の道路沿いに道があります。横に水路があり公園風になっています。この水路も、この南側の地域への用水のようです。
そのまま進んで建物の向こう側にあったのが円形分水工です。伊那市のものと全く同じ仕組みです。真ん中に丸いプールのようなものがあります。その真ん中で下から水がわき出るようになってます。水は周囲の溝のようなところにあふれ出ます。溝を仕切ってあふれた水をいくつかの水路に流れるように分けるようになっています。
しきりは、建物側と斜め右向こうにあります向こう側に流れ出たものは先ほど見えていた水路に、手前側にあふれ出た水は右側の水路に流れ出ていきます。これで見ると大半が右側に流れていくようになっています。
右側の水路は通潤用水と書かれています。この先通潤橋を渡ることになる用水路です。分水工は古いものと思っていましたが、昭和30年完成だそうです。通潤橋は江戸時代の終わり頃のものですから、時代は相当違っています。
円形分水工に流れ込む用水路です。いったん四角く広くなった所で砂を沈殿させ櫛歯のようなところでゴミを取り除いたあとトンネルで円形分水工の真ん中につながります。向こう側に分水工が見えています。
円形分水公園から国道に戻って進んで行きます。阿蘇方面への国道は、こちらの方に戻ってくるような形で通っています。近道がないか注意して走らせていると、阿蘇方面という標識が出てきました。こちら側に入って進むとだいぶ近道になりました。
阿蘇方面の国道に出る直前に立派な山門が見えてきました。車を降りて確認はしていません。屋根が二重になっているので二重門ですが、控え柱が4本しかありません。2階には釣り鐘がさがっているので、正式には鐘楼門ということになります。玄高寺というお寺ということがあとでわかりました。
国道に入ってさらに進んで行きます。外輪山も終点近くと思われたところで、展望台のようなものが見えてきました。
展望休憩所と書かれてはいますが、周囲に比べてさほど高くないので、展望とまではいかないようです。牧場のようなところがあるのがみえます。正面にうっすらと高い山があります。阿蘇山の中岳と高岳のようです。
さらに国道を進んで行きます。高森峠をトンネルで通過します。ここから、阿蘇のカルデラに入ります。トンネルをいくつかぬけたところで、みはらしの良さそうなパーキングがあります。ここに入って景色を眺めてみました。
正面に見えるの、阿蘇カルデラの南半分です。カルデラ壁と中央火口丘に挟まれた低地は南郷谷と呼んでいるみたいです。
中央火口丘です。阿蘇五岳の内根子岳は右側に離れていて外輪山にかくれています。高岳・中岳・杵島岳・烏帽子岳が見えています。火口からの噴煙のようなものも見えます。
阿蘇のカルデラ内は、南郷谷を中心に見て回る予定です。最初は、高森駅周辺で情報を収集したあと、涌水公園にいくつもりでいます。
高森峠から国道を下っていくと、高森方面への分岐があります。涌水公園も曲がるように書かれています。この案内に従って進んで行きます。曲がりくねった道です。峠を越える旧道だったようです。
そのまま進んで行くといきなり、湧水公園前の駐車場に着いてしまいました。ここから湧水公園の方に歩いて行きます。切り割りの上に出ます。高いフェンスがあって見にくいのですが、下には切り通しがあってその先にトンネル入り口のようなものが見えます。高森湧水トンネル公園と書かれています。
熊本から延岡までの鉄道建設のために掘り始めたトンネルですが、入り口から2kmほど掘り進んだところで大量の水が湧き出してくると同時に、町内の湧水が枯れ始めたため工事が中断され、その後工事が継続されることはなく鉄道建設そのものが中止となってしまいます。その残されたトンネルを公園として整備して使っています。
下に見える入り口にいくためには、下りていかないといけません。向こう側に階段が見えます。トンネル入り口の上からまわっていけるようです。まわっていきます。
トンネル入り口の上です。湧水館という建物があるのですが閉まっています。トンネルに関する資料が展示されているみたいですが、見ることはできませんでした。その前から見た、切り割りです。真ん中に水路が通っています。
下に降りて、トンネルの中に入っていきます。入り口の係の人は出払っていました。入場料をおいていこうとしたときに戻ってきました。パンフレットを受け取ります。
トンネル内は真ん中に水路があって、右側通行で進みます。奥の方まで、クリスマスツリーの飾りが並べられていました。幼稚園とかいろいろな団体が作ったもののようです。季節によって並べられているものが変わるようです。
トンネルの壁を利用したプロジェクションマッピングもあります。両サイドの壁が鏡になっているので、奥行きがいっぱいあるように見えます。季節の移り変わりを表現しているようです。ミライズンと名付けられています。
水の流れを利用した、小電力水力発電機だそうです。さかんにまわっています。
水滴を制御して落とし、ストロボで止まったり動いたりするように見える仕掛けもありました。ウォーターパールといいます。
水滴が止まって見えるときのものです。きれいに並んで浮かんでいます。
この先でトンネルは行き止まりです。突き当たりに積み上げた岩の隙間から水が流れ出います。
この後は来た道を引き返していきます。駐車場にもどり車をだします。道路を進んでいくと、切り通しの正面に出ました。そこからみたトンネル入り口方向です。トンネル入り口上の建物が湧水館です。
阿蘇南郷谷を下って行きます。次に行く予定の場所は、白川水源です。ここもわかりやすいところにありました。駐車場がいくつもあります。一番最初に見つけたところのものに入れたので、ちょっとだけ歩く距離が長くなりました。
入り口までいって、環境協力金を支払おうとしたのですが、財布の中に小銭が入っていません。入り口には箱が置いてあるだけなのでこのままでは支払うことができません。横にあった店で、崩してもらえないかと聞いたところ、両替してくれました。
ここで、領収書も発行してくれるみたいなので、もらうことにしました。何処で何に使ったかという記録にするのが目的です。書いてもらったのですが、領収書発行システムがかなり複雑です。まず封筒に協力金を入れて封をします。同時に領収書を書いてもらえますが、領収書番号を封筒と領収書控えに2ヵ所に書き写します。ここでもらった領収書と封筒をもって、入り口の料金箱までいき、協力金の入った封筒を料金箱に入れて入場可です。手間なわりには意味がないように思えます。
中に入って水路に沿って進んで行きます。水路の水量は豊富なようです。
正面に見えてきたのは白川吉水神社です。
この神社の鳥居の右側に池があります。透明度の高いきれいな水がたまっています。ここで水が湧き出しているようです。
池の底で砂の動いているところがあります。ここで、水が湧き出し、砂を巻き上げています。写真に撮ろうとしても何が何かわかりません。カラフルなところは、水面がプリズムの働きをして色の光を集めたのでしょう。
露出時間を延ばしてみました。これも意味不明の写真になっています。綿毛のようになっている所が動いている砂粒でしょう。
こちらも同じように写した写真です。何かよくわかりません。
湧き出した水が流れる水路に架かっている橋です。小さいですが、石組みのアーチ橋です。
道路まで戻ったところにある土産物屋さんの前の狛犬です。こちらは阿形です。
ここまででだいぶ遅くなっています。距離的に考えると、ぐるっと回っていくだけでも宿への到着は遅い時間になるでしょう。この先に、涌水地や城跡などチェックしたところはたくさんあります。よっている時間はほとんどありません。鮎返の滝だけはみておきたいので、ここに向かうことにします。
鮎返の滝は南阿蘇村の栃の木にあります。白川水源の前の道を西に進んでいき、国道を少し進んだところから栃の木温泉の方に曲がっていったところにあります。
国道に合流してから少し走ったところにある栃の木交差点で、迂回路の指示が出ています。この先で熊本地震による橋の崩落と大規模な崖崩れがあったためです。交差点を左折すると熊本方面、右折で阿蘇谷方面になります。元々ここは左折する予定だったので左折します。迂回路になったため車が多くなると思ったのですがそれほどでもなかったようです。
この道からさらに脇道に入ります。下の道と合流したところで、滝に行く右側の道はこの先工事通行止めと書かれています。この近くに車を駐めて歩いて行くことにしました。
正面に崖崩れのあとが見られます。このあたりは熊本地震で被害の大きかった一画になります。その影響でしょうか。
滝が見られるかどうかはっきりしていないのですが、栃の木温泉の旅館の下にある道路の所まで行ってみました。滝が見えてきました。大きな草の影になって全景が見えていません。
滝の奥から右横にかけて大規模な崖崩れの跡が見られます。南阿蘇鉄道が不通になっている最大の原因は正面の崖付近にあるトンネルが通れなくなったことにあります。
さらに進んで行くと滝と崖崩れの位置関係がよくわかるようになってきました。滝の全景も見えています。この付近の道路は広くなっていて車を駐められたようです。ここまで工事をしている場所はありませんでした。
車のところまで戻り、車で栃の木交差点まで引き返します。大規模崩落のようすなども見たかったのですが、見られるかどうかもわかっていません。迂回の指示に従って交差点を直進します。
迂回の指示に従っているものの、何処をどう走るのかわかりません。前のダンプは何となくわかっていそうなのでついていきます。それでも、山を登っていったり、パノラマラインという表示が出てきたときには、中央火口丘に登るのではと不安になってきました。
道は阿蘇谷を通る国道の赤水付近に出ました。予定では赤水からカルデラ壁を登って二重峠に行き、外輪山上のミルクロードを進むつもりでした。
二重峠に上がる道もすぐに見つけることができました。登り口に旧街道の石畳道があるのですが、時間の関係でよることはできませんでした。そこから少し入ったところに展望所があります。そこからの中央火口丘です。
さらに登ってミルクロードに合流します。その間にももう一度旧豊後街道の石畳への案内がありました。時間がないので省略しましたが、こちら側は見る時間はあったようです。
ミルクロードでは、途中に展望所があればカルデラを見ておきたいと思っています。この道路は車の速度が速すぎます。80km/hは出しているようです。後に車が見えたと思ったらあっという間に追いつかれています。迷惑にならないように速度を上げないといけないので、景色を見ながらとか何かないかとか探している余裕はありません。進んでいてやっと見つけたのが、かぶと岩展望所です。ここからカルデラを眺めてみることにします。
大観峰方面です。正面に見えます尾根が夕陽に照らされた赤く染まっています。
一番赤く染まっている付近です。右端が大観峰の駐車場付近になります。向こう側にうっすらと見える山は久住連山のようです。
中央火口丘方面です。展望所はカルデラから張り出した窪地の方を向いているので、火口丘は山かげになります。先の地震で地割れとかがたくさんできたので整備中です。立ち入りのできるところがだいぶ制限されています。
かぶと岩展望所に着いた時点で5時半をまわっています。今晩の宿の久住高原荘までは30km以上あります。1時間くらいはかかるでしょう。到着時間の予想を宿に入れておきます。
道はわかっているのですが、念のためにカーナビをセットしておきます。用意ができたら出発です。ミルクロードを東に向かって進みます。南小国方面への国道を越えると大観峰への分岐があります。ちょうど太陽が沈もうとしているところです。前回来ているのと宿へ急がないといけない時刻になっているのとで通過するつもりでしたが、夕陽が見たくなったので寄っていくことにしました。
大観峰に一番近い駐車場は、時間が遅いこともあってゲートが閉まっています。歩く距離が長くなりますが、その手前の駐車場に車を入れます。
駐車場からの中央火口丘とカルデラ(阿蘇谷)です。谷底は薄暗くなってきているようです。
外輪山の北西部方向になります。外輪山といっても、外側への傾斜は非常に緩やかです。大きな山があって、山頂部が陥没したというより、普通の大きな台地の真ん中が陥没したように見えます。
大観峰の頂上に向かいます。土産物屋さんの横をぬけてから、太陽の方をみると、太陽は山陰に入ってしまっています。このままだと太陽は沈んでしまったということになります。
太陽の沈んだところを見ると、左側が斜面になっていて低くなっています。このまま進んで行くとその横から太陽が出てきそうです。この先に日が当たっているところもあります。
大観峰の近くに来ると再び太陽が見えてきました。ここから振り返って見た景色です。建物のあるところから歩いてきました。土産物屋さんとテレビ局の送信所です。
展望所からの中央火口丘(阿蘇五岳)です。下の方にみえる先端まで行った人たちがいるようです。急ぎますので遠慮しておきます。
太陽です。だいぶ山の端に近づいています。このようすだとあと5分か10分くらいで沈んでいくでしょう。場所によっては太陽が見えたり見えなかったりするのと、先を急がないといけないので、もう沈んだことにして宿に向かうことにします。
この後ミルクロードからやまなみハイウェイ、旧小国街道と進んで、久住高原荘には7時まえには到着することができました。
食事をすませて、星を見に行きます。前回も来ているので何処かよいかだいたい見当がついています。赤川温泉への道路脇の駐車場に入れようとしたのですが。入り口にロープが張られています。思ったより空が開けていなかったのでここはあきらめました。たいした距離でなかったので、望遠鏡を台車で運んでもよかったようです。
南側の駐車場で星を見ることにしました。入り口の強力なライトが空を照らしているのが難点ですが、こちらを避ければ何とかなるでしょう。
望遠鏡をセットして、すばるを写してみました。プレアデスを写したのですが、何か変です。流れているように見えますが、よく見ると3本の筋が見えます。バーティノフマスクを外すのを忘れていました。
マスクを外して撮影開始です。今日は、極軸があっていなかったのか、星が流れています。露出時間を短めでいくことにしました。すばるは、これが限界です。それでも星雲は何とかわかります。
かに座のプレセペです。望遠鏡でとると、星がまばらになっています。比べてみるとすばるでもこれくらいです。
カニ星雲です。再挑戦しました。昨晩よりは早く入れることができたのですが、時間切れで真ん中まで持っていくことはできませんでした。もうちょっと露出が必要です。そのためには極軸をしっかりあわせておく必要がありました。
久住高原荘は門限があります。望遠鏡を片付けて、戻ったときには時間になっていました。今日の到着が遅かったのと、最初に周辺をぐるっと回って時間をとられたので観測時間は少なめでした。
昨晩は門限近くまで星を見ていました。戻ってからは、風呂にも入れませんからそのまま寝ました。起きて最初にすることは風呂に入ることです。朝は早めから開いています。いつもならその付近を散歩するのですが、今日はこちらが優先です。
前回までは夜に入っていたので、普通のお湯だと思っていました。朝に見ると白濁しています。温泉だったようです。説明を見ると、入れたては白く濁っているけれども、だんだん透明になってくると書かれていました。
風呂に入っている間に、だいぶ明るくなってきました。部屋に戻ってから空のようすを見てみました。今日も天気がいいようです。九重連山には雲がちょっとかかっているようです。
阿蘇山方向です。条件がよければ阿蘇五岳が見えるのですが、山頂部だけがかすかにわかります。
食事をしている間に雲はなくなったようです。戻ってロビーから山を見ると、星生山と中岳の間に、わずかに見えるだけです。この向こう側には、噴気孔があります。そこから流れてきているように見えます。噴気孔からの蒸気でしょうか。
出発の前に、フロントで精算をすませます。市に宿泊補助を請求するための書類を書いてもらう必要があります。昨晩お願いしていたのですが、宿泊施設名の印がたくさん押されて大変なことになっています。間違えて押したものと、正しいものと、間違えたものへの訂正印とそれぞれが2こずつあります。
今日の予定は、とにかく西に進んで、八女か大牟田にぬけることを考えています。まずは、目の前の国道を進んで小国町まで行きます。日田往還とか小国街道とかに沿って作られています。
黒川温泉・田の原温泉と通過します。七滝温泉の案内が見えてきました。温泉の近くに滝もあります。七滝といいます。見に行くことにします。
道を進んでいって、駐車場が見えてきました。七滝駐車場と書かれています。まだ滝のありそうな雰囲気ははありません。近くにあった案内図には、まだこの先に駐車場があるように書かれています。それに従って進んで行きました。二つ目の駐車場がありました。こちらが第二駐車場になるようです。
駐車場入り口の前の道路に沿って遊歩道があります。駐車場前から谷の方に下りていくようにつけられています。狭い急階段です。降りていく途中に祠があります。何が祀られていたのかはよく覚えていません。狭くて正面からは撮れないので横からの写真です。写せていれば何だったかはっきりしたでしょう。滝には不動明王と弁財天が祀られているようです。
道は、川底に着く手前で展望台のようになっています。そこから見える一番上流側の滝です。
下流側にも小さな滝があります。七滝という名前は、ここに全部で7つの滝があるからつけられたようです。どれとどれで7つなのかは見ただけではわかりません。どれくらいの小ささのものを滝にしているかもはっきりしていません。
展望台先端から見える下流側です。この間とか先にも見えていない滝がいくつかあるようです。
すぐ横を流れている川です。木があってはっきりとは見えないのですが、この右側から急に落ち込んでいるように見えます。
川原の岩石が気になります。パッと見た感じでは泥岩のようですが、このように滝を作ることはありません。ちょっと上の崖を見ると溶結凝灰岩のようです。板状節理の発達したところなのでしょうか。柱状節理のような割れ目は見えません。
道は行き止まりなので、引き返します。戻る途中に見えた一番上流側にあった滝です。
見えていた滝はそれほど大きなものはなかったようです。全部あわせてもそれほどの落差にはならないでしょう。比較的大きそうなのは、下流側の谷底との間にありそうです。
駐車場まで戻ってきましたが、滝のことは気になっています。遊歩道はしばらく道路沿いに下流側方向へ進んだ後、道路から離れます。ここからも、しばらくはなだらかなところを進んで行きます。その後、急に斜面を下りだします。そこからは滝が見えます。といっても手前にある木々の間にやっと見える状態です。これ以上はっきりと見える場所はありませんでした。比較的大きな滝のようです。
実は、駐車場に着いた後、一度ここまでやってきています。道が下流側に向かっているのでこちら側ではないと判断し引き返しています。こちらへ進んで行ったら下流側からアクセスできるかも知れませんので先に行ってみることにします。遊歩道は工事現場の階段のようなところを通り、最後はらせん階段で降りていきます。道というより橋です。下から見た最後の部分です。
正面の川原です。甌穴のような穴も開いています。岩石には水平方向に細かい割れ目が無数に入っています。
上流側です。深い谷になっています。崖の岩石は柱状節理が見られます。溶結凝灰岩にもできます。左側の岸は木の枝や幹が絡み合って積み重なっていて、いく手をはばんでいます。崖崩れでもあったのでしょうか。これ以上進む事ができません。上流側の滝はみられないようです。
遊歩道は下流側に向かって続いています。ちょっと進むと開けたところにでます。温泉旅館の建物のようなものも見えています。
これ以上進まずに引き返しました。車で再び国道に戻ります。国道に出て左に曲がってすぐのところに夫婦滝茶屋があります。滝があるみたいですが、茶屋の駐車場はそれほど広くはありません。前の道路の路肩が広くなっていますので、ここに車を駐めて見に行くことにします。
茶屋の横から川底に降りる道がついています。道脇にはいわれなどの書かれた看板があり、ハート型の絵馬のようなものがたくさんぶら下がっています。
川底から見た滝です。二つの滝が並んでいます。別々の川から流れてきた水が滝の下流側で合流していることから、出合の滝とも呼ばれているようです。縁結びの滝とも呼ばれているようです。
左側の雄滝です。田の原川にあります。黒川温泉や田の原温泉を流れてきています。
右側の雌滝です。上の方が崩れたようになっているので少し低めですが、一番高いところからの段差は雄滝と同じくらいでしょう。川は小田川といいます。この上流に七滝があります。
滝の写真を撮っていたら、カメラの書き込み中ランプがなかなか消えないのに気がつきました。メモリーカードへのアクセスがおかしくなったようです。何枚か記録されていません。予備のメモリーカードもここまで持ってきていません。このカメラの使用は一時中断します。カメラは2台とも持ってきています。もう一台には望遠レンズがつけてあります。レンズを交換するには2台のカメラ本体と2本のレンズを持たないとできません。どこかに置いてする必要があります。ここではレンズ交換はあきらめます。望遠レンズ側は画角に入りきらないところがあるのでこちらもきっちりとは写っていません。ここでの写真は少なめです。車に戻ってから交換します
車を小国町の方に向けて走らせていきます。次にチェックしている場所は、小国町の下城公園です。大きなイチョウの木と二つの滝があります。うろ覚えですが、今走っている国道から北に走る国道に入り、少しいったところにあります。
途中何処もよるところもなく、何となくそれらしい国道に出合います。ここだと思い右折していきますが、今回も何か様子が変です。ちょっと広いところがありましたので、ここで確認して見ることにしました。
ついた場所には駅のホームのような形をしたものが見えます。駅がどうのこうのというような案内もあったような気がします。こんなところに鉄道があるわけないと、あまり意識していませんでした。当然、降りて周りを見たりとか写真を撮ったりとかはしていません。
帰ってきてからわかったことです。旧国鉄の宮原線(みやのはるせん)というのがあります。久大本線から九重町で分岐して、小国町まで通っていたようです。ちょうどここには北里駅がありました。そのホーム跡を中心に公園と整備しています。近くには鉄道の遺構とかがたくさん残されています。
行き先を確認することで頭の中がいっぱいになっています。カーナビを見る限りでは目的の場所はわかりません。近くに案内板もないようです。元の国道をさらに進んだ所に道の駅がありますから、ここで確認するのが良さそうです。引き返します。
道の駅です。さかずき型をした建物があります。ゆうステーションと書かれています。1階が店で、2階に情報コーナーがあり写真展もしていました。トイレの位置は不思議な配置でした。近くの案内図やパンフを見るとこの先を右折するといけるようです。
駐車場の横に宮原線の駅が残されていたようです。駐車場からは建物2階に入るスロープの陰で気がつきませんでした。
道には案内もつけられていて、無事下城公園に到着します。駐車場正面に、大イチョウが見えます。まだ葉っぱはでていないようです。周囲に何もなく大きな木なので、黄葉すると。遠くから見てもきれいでしょう。
大イチョウと川の間に道があり、その脇に滝見所があります。周辺に背丈より高い木や草が生えているので、滝はほとんど見えません。カメラを頭の上に上げて、何とか写すことができました。下城滝です。
道はこの先で通行止めになっています。こちら側からは見られないようです。対岸に向かうために、少し引き返し橋を渡ります。橋の手前に、不思議な人形が置かれています。真ん中のものはくまモンでしょうか。
橋の上から見た川下流側です。すぐ先で滝になっているようです。
橋を渡って、川沿いに遊歩道があります。少し下って行ったところからみた滝です。
案内図によるとこの近くに鍋釜滝というのがあります。滝らしいのはこれだけなのでこれが鍋釜滝でしょうか。さらに説明によると、甌穴が連続してつながってできていると書かれています。甌穴といえば下流側にある渓谷にたくさん見られます。つながっているようにも見えます。こちらが鍋釜滝でしょうか。単なる急流といってもいいような感じのところです。
橋があるので渡ってみました。そこからは川底のようすがよく見えます。川岸の壁が丸く削られたようすは、確かに鍋や釜のようです。
川底に見られた甌穴です。
橋を渡って滝の方に行き、反対側から見てみました。
こちら岸は行き止まりです。橋から遊歩道に戻って先に進んでいきます。滝見テラスとかがあるのですが、こちら岸からは下城滝は見えません。滝は向こう側に向かって落ちているようです。対岸の切り立った崖が見えます。溶結凝灰岩でしょう。柱状節理が見えます。
下城から、前の国道をまっすぐ進むとうきは市の方に行きます。かなり北側に行ってしまいます。いったん道の駅まで戻ります。その後の行程ですが、そのまままっすぐ進むと阿蘇山に出ます。こんどは南によりすぎです。道の駅前の交差点を右折すると、中津江村から大牟田や八女の方にぬけられます。目的地に近づけますのでこちら側に進んで行きます。その先でチェックしている場所は鯛生金山です。
右折して、しばらく走っていると、鍋ヶ滝という案内板が何度か見えてきます。気になるので見に行くことにします。
国道から右折して進んで行きます。道幅は狭くなります。乗用車どおしなら、場所を選べばすれ違うことができます。案内標識はたくさんあるので間違うことはありません。駐車場につくまで、対向車は1回だけすれ違いました。後から車が1台ついてきていますが、この車が何処に行くのか気になります。
駐車場についてびっくりです。たくさんの車が駐まっています。何とか空いているスペースがあったのでそこに車を入れました。これだけの車があって、途中1台しかすれ違わなかったという方が不思議です。後ろの車もここにくるつもりだったようです。駐める場所がなくいったん出て行きました。
入り口ゲートの前も人だかりでいっぱいです。韓国語が飛び交っています。まむしと何回も叫んでいた人がいました。韓国には毒蛇はいないのでしょうか。この時期はまだ出てきていないでしょう。まむし注意の看板がいくつかありました。
川底まで遊歩道があります。降りていくと滝が見えてきました。
滝の落ちているところの向こう側に、人がいます。滝の裏側に入れるようです。
横からみた滝です。裏側が大きく削られています。
滝の裏側にまわってみた滝です。水がカーテンのように落ちています。
裏側のようすです。かなり大きくえぐられています。上の岩石は阿蘇の溶結凝灰岩のようですが、ふつうは柱状節理があるので、それに沿って崩れ落ちてしまいます。これだけ幅で落ちないというのは、ちょっと考えられません。
えぐられている部分の地層です。何層かありますが、白っぽいところは、軽石層で斜交葉理があります。水の流れで運ばれてきてたまったもののようです。
対岸にまわってみた滝です。
対岸からは中州に渡ることができます。そこからみた滝です。高さに比べて幅の広い滝です。
普通の滝に見られない所がいくつかあります。そのために外国では有名になっているのでしょうか。
鍋ヶ滝から国道に戻って鯛生金山を目指します。だいぶ走って中津江村のダム湖に到着、さらに延々と走って、やっと鯛生金山の入り口に到着です。
入り口の道脇に、金鉱石がおかれていました。車を駐車場に入れるのを先にします。すぐにあると思っていたのですが、200m以上も離れていました。さらに目的の建物近くまでは100mほどあり、ここまでくると引き返す気にはなれませんでした。
駐車場から山側には、選鉱所だったような建物がならんでいます。
駐車場から入坑口までは右側が砂金取りの体験ができるようになっています。これはパスします。左側は土産物屋さんの入った建物です。帰りに寄ります。入坑口で入坑券を買います。入坑口といっても有料区域の入り口です。小さいですがここにも金鉱石がおかれていました。あまりはいっているようにはみえません。
菱刈鉱山のものもあります。ここのものは金の含有率が世界一です。
入坑口からしばらく遊歩道を歩いて行きます。道横に水車があります。昔はこれで鉱石を砕いていたそうです。
小さな坑道の入り口です。古い坑道でしょう。トロッコのレールが引かれています。中には入れないように柵がしてあります。
こちら側が見学用の坑道入り口です。先ほどの坑道に比べると非常に大きいものです。入り口に近代化産業遺産と書かれています。経済産業省が定めたもので、鯛生金山は佐渡金山と一緒に近代化日本経済を安定化させる上で貢献した事によって登録されているようです。世界遺産の明治日本の産業革命遺産とは違うものです。
坑道内部です。すぐに2手に分かれています。見学順路は反時計回りにまわっていくようです。右に進みます。
少し進んだ所で、金鉱脈と書かれていました。その近くの壁面です。鉱脈っぽいものは見当たりません。
鯛生金山の見学場所は3つのゾーンに分かれています。竪坑ゾーンと採鉱場ゾーン、初期採鉱ゾーンです。この順番にまわっていくように見学コースが作られています。
採鉱場へは、坑道を通っていかないとたどり着けません。しばらくは坑道を歩いて行くことになります。出入り口からでもだいぶ距離があります。その間にも、入坑の風景を復元した人形があったり、いろいろな解説が書かれているところがあります。
これは、坑内の落石防止のための木組みのしかたを説明したところです。橦木打柱とか櫓組みとか書かれています。
竪坑ゾーンの中心部に到着です。大きな機械が置かれています、立坑巻き上げ機と書かれています。ケーブルが斜め上の斜坑の方にのびています。この先の竪坑につながっているのでしょうか。それにしては斜坑が大きすぎます。
機械の向こう側にある竪坑です。昇降用のゲージがあり、それに人形が乗せられています。
横にのぞいてみてくださいと書かれた場所からのぞいて見たようすです。ここから下に510mの深さがあります。このあたりの標高が550mくらいですからほとんど海面の高さまで降りていくことになります。
再び坑道を歩いて行きます。ここにも鉱山で使われていたものなどが展示されています。これは、バッテリー式の機関車と鉱石を運ぶ鉱車です。
酒瓶が並べてあるところもあります。坑内は熟成させるのに適した気温・湿度だそうです。このお酒は、売店で販売されています。
坑道のようすを復元した場所です。鉱車がおかれています。横の管は空気を送り込むためのものです。
近くの岩盤にたれていたしずくがきれいなので写してみました。
鯛生金山から、まっすぐ進むと八女にぬけます。山鹿を通って大牟田にぬけるにはダム湖まで引き返して、そこから別の国道を進みます。事前のチェックではこちらがわに見所がたくさんあります。八女側は1ヵ所だけです。だいぶ距離があったようなので、ダム湖までひき返すのは気が引けます。
周囲を見ていると、県道がここから山鹿にぬけられると書かれています。道が狭くなっているかも知れませんが、こちらからいくことにしました。
道は思ったほど狭くなく、対向車もなくてスムーズに山鹿までぬけることができました。その後、山鹿からのコースです。南関町から大牟田にぬけて海岸沿いに柳川へいくコースを考えています。山鹿の町をぬけた後、菊水方面への道沿いに古墳群があるようです。菊水にも古墳群があります。どんなものか見ておきたいので、このコースをとることにします。ちょっと遠回りになりますが、菊水からは南関にぬけることができます。
山鹿の町をぬけるときに、肥後古代の森鹿央地区への案内標識がでていました。目的の古墳群の方向と一致するので、そちらの方に進んで行きます。菊水への道から分かれてすぐに、岩原横穴墓群があると書かれた場所に到着します。
駐車場に車を入れて、周囲を見わたしたのですが、案内板らしいものは見当たりません。しかたがないので、まわりを探してみたところ、溝の横に穴が開いているのを見つけました。これが横穴墓でしょうか。一つだけなので墓群とはいえないようです。まわりに草がかぶっていて、見づらい位置にあります。
溝沿いに谷の奥の方に行ってみました。ちょっと高い位置に、横穴がたくさん見えてきます。これが横穴墓群でしょう。入り口がいろいろな形をしています。
崖全体が見えるように離れてみました。たくさん並んでいるのがわかります。
さらに谷の奥の方向です。一段高くなったところに奥まで並んでいます。
駐車場近くです。ちょっと離れてみると、高いところにたくさん並んでいるのがわかります。溝沿いにあったのは何だったのでしょうか。
解説を読んでも、横穴墓の時代のことがわかりません。疑問点として残したまま次にいくことにします。
目的の古墳群の真ん中に、装飾古墳館というのがあります。そこを目指します。案内はたくさん見ています。すぐ近くだと思っていたのですが、だいぶ走りました。丘陵をまわるように道がついていたようです。
最初に見えてきた大きな駐車場に車を入れます。ここが古墳館と思ったのですが、物産センターだったようです、古墳館はもう一段高いところにあります。駐車場のまわりではさくらが咲いていました。早咲きのさくらのようです。
坂を登っていくと、古墳ようなものが見えてきました。これは、なにか不自然な感じがします。
さらに高い台地の上には、いくつかの古墳が見えてきました。目的の古墳群に到着したようです。
古墳群に着いて最初に装飾古墳館を見学します。ここの見学でわかったのは、横穴墓群というのは、古墳時代に作られたものであるということです。当時の首長の墓は古墳として祀られますが、その家族などは横穴を掘ってそこに埋葬されていたようです。宮崎県の生目古墳群でも古墳の周囲に横穴墓がたくさん掘られていて、その古墳の関係者が埋葬されていました。
装飾古墳館の展示の中心となっているものは、装飾された古墳石室を復元展示していいることです。そのような古墳は装飾古墳といいます。一番代表的なのは、高松塚古墳でしょう。熊本県は全国で一番多く、県内だけで200こ近くあるようです。単純なものになると石室や横穴墓の入り口に線刻のあるだけのものもあります。岩原横穴墓群のいくつかにもそのようなものがあったようです。そういうものがあるかはみていませんでした。知っていても遠くからではわからなかったと思います。
装飾古墳館をでて外の古墳群を見ることにします。建物のすぐ横にあったのが、石蓋土壙墓です。古墳時代は土に穴を掘って埋める習慣もあったのでしょうか。
古墳館の近くで比較的大きな寒原1号墳です。円墳です。
その左側です。馬不向1〜3号墳塚原古墳と岩原双子塚古墳が見えています。
近くまで寄ってみた、岩原双子塚古墳です。県下最大級と書かれています。前方後円墳です。右側にあるのが下原古墳で円墳です。
ここから振り返って見た景色です。馬不向1号墳と寒原1号墳、その向こうの建物が装飾古墳館です。
横にまわってみた、岩原双子塚古墳です。前方後円墳のようすがよくわかります。
一段低い所にあるのが、横山古墳です。九州自動車道の建設現場で見つかったもので、こちらに移築復元しています。中の石室が見られるようになっているのですが、残念ながら今日は公開されていませんでした。
狐塚古墳というのがあったようですが、そこまではいきませんでした。
肥後古代の森は、いくつかの地区に分かれてあるようです。これから行こうとしていた菊水の古墳群も、肥後古代の森の一つです。近くに行けば、鹿央地区と同じようにしっかりとした案内標識があるでしょう。とりあえず目的地の近くにある道の駅を目指します。
道の駅についたら古代の森の位置を確認しようとしたのですが、道路の先の方に肥後古代の森の案内標識が見えます。道の駅に入らずに、標識に従って進んで行きます。すぐに古代の森に到着です。駐車場がいくつかあるようです。できるだけ先の方に駐めようと進んでいったのですが、民家村の入り口までいったら行き止まりで駐車場はありませんでした。最初のところまで戻ってそこに駐めます。
駐車場の周囲の樹木です。ハクモクレンの花が満開です。
民家村入口のあった方に進んで行きます。歴史民俗資料館は民家村の中にあります。進んで行くと、正面に古墳が見えてきました。江田船山古墳といいます。この名前を見たときに、何となく据わりの悪いというか居心地の悪い感じがしてきました。原因は何だったのでしょうか。
古墳は後回しにします。民家村入口は古墳の向こうにあります。左からだと道路沿いになります。右側からいくことにしました。
途中石人の丘というところを通ります。ここには石人が並べられています。三角形の出っ張りのついた石の柱がそれです。
石人というのは埴輪のように古墳に飾られている石で作った人型です。関西では見たことはありません。この地方独特のものでしょうか。
石人以外にもいろいろなものがあります。これは蓋(きぬがさ)と書かれていました。
四角いのは腰掛けまたはまな板だそうです。どちらにしても変な形です。奥の石人は、人の形だと一目でわかります。
民家村の入り口に到着します。入って右側に進んで行きます。ここにあるのは旧布施家住宅です。新潟県上越市にあったものを移築したようです。
建物内部です。天井が高くかなり立派な広間です。
2階に上がる階段です。箱階段になっています。建物の奥の方に天井までの間を仕切って2階が作られています。
2階は、工房の作業場のようでした。たまたま外出中だったのか人はいませんでした。留守中のお邪魔は気が引けます。早々に引き上げてきました。
布施家から坂を降りていくとその下に歴史民俗資料館がありました。
和水町歴史民俗資料館の展示の中心は、江田船山古墳から出土した遺物でした。展示を見ていて、昔日本史の授業で江田船山古墳から銘入りの太刀が出土しているのを習ったのを思い出しました。古墳の名前を見たときに感じた居心地の悪さはこのことに関係していたようです。わかっていればそのままスルーできる名前ではありません。
太刀は復元されたものも展示されていました。直刀だったのですね。古い刀なので当然なのですが。他の出土品などからも、大陸との交流に関わっていたことも推定されるようです。出土品は全て国立博物館にあって、ここのものがレプリカというのがちょっと残念です。
建物の外にも、展示があります。これは石棺です。
このあとは民家村をぐるっと回ってみることにします。建物はいっぱいあります。案内図には、工房のような名前が書かれています。旧布施家住宅もそうでした。移築復元されたものか、古民家風に建てられたものか区別がつきません。中を見てもよいのかどうかも不明です。説明の書かれているものを中心に見ていきます。
石屋根倉庫です。対馬のものです。対馬で見たものと同じものです。現地で見たものはもう少し大きかったような気がします。
菊池市下長田にあった中原家の倉です。手前側の屋根が2段になっています。
玉名町の山野家の住宅です。藁葺き屋根で庇が瓦葺きになっています。L字型の建物と書かれています。切妻の平入りの建物のように見えます。
隣にあった菊水町の旧河野家の民家と外見や内部の配置はよく似ています。このあたりの民家の特徴なのでしょうか。
菊池市七城町にあった旧緒方家です。18世紀の農家です。二つの棟が向こう側に見える土間の建物でつながった構造になっています。作業場としてひろい土間を使っていたそうです。
玉東町にあった境家の建物です。19世紀の山村農家の建物です。国指定重要文化財になっています。
これもコの字型の建物のようです。正面からでははっきりとはわかりません。土間の建物と床のある建物がつながっています。
建物内部です。広い土間があります。農作業の道具などがおかれています。
境家の前の門をでると民家村の外に出てしまいました。
民家村に入ったときは、布施家の前には門がありました。境家の門を出た後もまだ民家村の中だと思っていました。当然、民家村から出るには入り口に戻らないとでられないと思っています。民家村の営業時間終了も迫っています。門をでた後は、緒方家や山野家のあったところの裏側に向かう左側へ歩いていきます。
緒方家の裏側あたりまで来ると、緒方家との間には生垣があって中に入ることはできません。右側には古墳が見えてきます。民家村の外側に出てしまったような感じです。
見えていた古墳は虚空蔵塚古墳です。前方後円墳です。後方部は小さめです。前円部に大きな木(クスノキ?)が生えています。見たときはまだ民家村の中にいると思っていますから、古墳の名前までは意識していませんでした。入り口が閉まるまでに戻ることに意識が集中しています。
そのまま進んで行くと民家村入口の外側に出てしまいました。境家の門を出たときに民家村の外側に出たようでした。それなら、塚坊主古墳によっていくことができました。
江田船山古墳を目指しまず。広場を横切っていく途中左側に見えた京塚古墳です。円墳ですが頂部が平らになっています。
江田船山古墳です。こちらは、林のようになっています。周壕のまわりには土手があります。
説明板と墳丘くびれ部です。墳丘に上がる階段がついています。
上がっていくと、部屋のようなものがあって扉がついています。
中に入ると、保存されている石棺が見学できるようになっています。電灯を点灯させて見学します。家のような形をした石棺でした。
江田船山古墳の形は、くびれ部に丸く張り出した造出部のあるのが特徴です。ここから多くの遺物が発見されたようです。儀式の場として使われていたと想像されています。
くびれ部から見る京塚古墳です。丸いケーキのような形がよくわかります。
肥後古代の森菊水地区には、古墳群や民家村の他に縄文時代の遺跡があります。石人の丘の裏手から江田川を渡り、その向こう側、菊池川との間の丘陵にあります。もうだいぶ遅くなっていますが、行ってみることにしました。
石人の丘から縄文のむらに行くのに橋があります。案内図にはつり橋となっています。見た感じでは普通の橋のように見えます。渡るときにちょっとゆらゆらしていたような感じがします。
橋から見た江田川上流方向です。この先右側に水辺公園があって、その向こう側が道の駅です。
橋を渡った先に広場があり、そこにいくつか解説がかかれています。片隅には竪穴住居の跡があります。
ちられは貝塚の断面です。このすぐ下、菊池川との間にあった若園貝塚のものです。縄文人の食べていた貝の殻などをここに捨てていたようです。
階段を降りてみました。このあたりが若園貝塚があったと書かれている場所です。今は普通の広場になっています。
丘陵の奥には、竪穴住居の跡がいくつかまとまってあります。向こう側に2つ見える石のようなものは、縄文人の石人形です。
こちらは大型住居です。縄文人と土器が置かれています。
案内図には、復元住居と柱組だけを復元したものがあると書かれていたのですが、復元したものは見当たりません。壊れてしまったのでしょうか。
縄文のむらはここまでです。駐車場の方に戻ります。ここを出発する前に、塚坊主古墳を見ていないので、ちらっと見ていくことにします。遠くから見た塚坊主古墳です。時間も遅いので近くまで行っていません。後で確認してみると、装飾古墳で石室が見られたようです。
だいぶ遅くなっています。宿まで一部高速道路を使っていくことにします。カーナビを設定します。すぐ近くの菊水ICからみやま柳川ICまで高速を走り、その後はカーナビの指示に従って進んで行きます。柳川市内をだいぶぐるっと回ったようです。カーナビもちょっと古めです。もっと近道ができていたようです。宿のパンフには新しい道が書かれていました。
市内で2車線区間をすぐに右折するだろうということで、渋滞していない追い越し車線を走っていたら、右折専用レーンにつながっていました。右折しないといけないのはまだ先です。どうせ右折しないといけないと思って右折したら、こんどは宿の方向に行く道がありません。カーナビは狭い道ばかり指示してきます。その中でもましな道を進んで何とか宿にたどり着くことができました。
食事時間までに、星見の場所を探しがてらぶらっと歩いてみました。前回来た時は、川下りの船着き場に大きなおひな様が出ていたのですが、今年はありませんでした。宿の受付で聞いてみたところ話が通じませんでした。だいぶ長いこと飾られていないようです。家で調べたところ沖端水上ランタンといっていたようで、2013年頃まではあったようです。
宿に戻って夕食です。誕生月ということでワインがついてきました。飲めないので持って帰ることにします。宿泊の予約を入れたときには前もって連絡をということでしたが、しらなかったので入れていませんでした。到着時にフロントで確認したところ、会員情報を確認してもらえることになっていました。
食事の方はちょっと困ったことがあります。おかずを食べるとご飯が食べたくなります。そのご飯は鯛釜飯なのですが、目の前で炊きあげています。できるまでおかずに手をつけられません。おかずが全品そろうのも待っていましたが、最後の1品もなかなか出てきません。じっと待っていると、係の人がどうしたのか聞きに来ました。ご飯を待っていると答えると、早めにつけておいた方がよかったですねとのことです。できあがりを待つのが30分のところが20分になってもあまり変わらないような気がします。
夕食後外を見に行きましたが、星は見えないようです。雲が出てきているのか、まわりが明るいからなのかはっきりしません。たぶんその両方でしょう。事前にチェックしていた場所も思ったより明るく星見にはむいていないようでした。
部屋に戻って、荷物を整理がてら、今朝の宿でもらった書類を確認していたところ、その中に宿用の宿泊補助申請書書き方マニュアルみたいなものが混ざっているのがわかりました。昨晩の宿に連絡を入れ、処理の方法を確認したところ郵送で返却して欲しいとのことでした。一応旅行中なので帰るまでは返却できないとは告げておきました。
対応できないかということで、今泊まっている宿のフロントにいき封筒がもらえないかと聞いたところ、定形封筒はわたせないとのことでした。サービスでおいているホテルはたくさんあります。元親方会社の関連ものだというのにないというほうが不思議です。切手もないそうです。封筒は、車の中にどうゆうわけか1つだけありました。切手はコンビニで入手できました。返送の準備ができたところで、宿の玄関前にあったポストから返送することができました。これだけは昔の名残であるようです。
朝は早くに目覚めたので、付近をぶらぶらっとしてみることにします。前回もまわっていますので、それより遠くの駅付近までいってみたいと考えています。駅までは歩くには遠いので、自転車を出すことにします。
宿から東にちょっと行ったところに、足湯ができていました。そこから水路が見られます。直線的なので、柳川城の掘の一部だったのでしょう。
柳川には水路がたくさんあります。横切るときに眺めていきます。両岸にたくさん花が咲いていた一画がありました。
駅前からつながるとおりに巨大さげもんと書かれた小屋のようなものがありました。前は、ビニールで覆っていますのでぼんやりとしか見ることはできません。日本一と書かれていますが、柳川以外ではあまり見たことがありません。
通りを駅に向かっていると正面に太陽が上がってくるのが見えました。
道路と並行している水路の方に行く道があったので行ってみました。橋の上から、昇る朝日とそれが水面に映っているのが見えました。どちらかが明るすぎたり暗すぎたりとなるので両方をうまく写真に写すのはできませんでした。
柳川駅には、通勤通学には早い時間帯です。人通りは少なめでした。
駅に西側を南北に流れる水路の方に行き、水路沿いの広い道を南に進んでいきます。広い々にあたる少し手前に水門があります。柳川城掘水門と書かれています。
ここの水門を閉めて、近くを流れる川の堤防を切り崩すと、周辺は水浸しになり城は島のように残されたと書かれています。仕組みが、全く理解できません。
柳川城の方に行ってみました。城跡だけと思っていたのですが、不思議なものが立っています。修復するつもりなのでしょうか。
こちら側にくると、昨日と同じで宿の北側の水路を渡る橋がありません。昨日とはちょっと近めの、柳川藩主旧邸のお花を通って戻ることができます。ここでは、何かの工事をしていました。地震の影響を受けていたのでしょうか。
宿に戻りました。毎年正面には雛飾とさげもんがおかれています。左側の人形さんが、前は二人いたような気がしたので聞いてみたら、毎年飾りを変えていて、今年は一人なのでそうです。昔に比べて飾りが増えています。
朝食を食べ終わって、荷物をまとめ終わったら出発です。今日の宿は佐賀県北西部名護屋城近くの国民宿舎波戸岬です。吉野ヶ里遺跡には行きたいと思っています。そのあと見学場所を探しながら武雄の方までいってから北上して名護屋城通って波戸岬までの行程を予定しています。
もう一ヵ所、佐賀市の早津江川河口付近に、三重津海軍所跡というのがあります。明治日本の産業革命遺産として世界遺産に登録されています。ここもよろうと思います。ここも海軍発祥の地とかいっています。この旅行では2ヵ所目です。
吉野ヶ里が先か三重津が先か微妙ですが、三重津の方が近いのでこちらを先に行くことにします。
柳川からは海岸沿いに北西方向に行き、筑後川・早津江川と渡った後、右回りにまわるように進んで行き、佐野記念公園に到着します。佐野常民記念館の横から早津江川の堤防に上がり、少し進んで河川敷の駐車場に車を入れます。
駐車場北端に解説看板があります。そこから先が三重津海軍所跡になります。看板の先が海軍所跡です。
海軍所跡はいくつかの区画に分かれています。一番手前を修復場地区といいます。佐賀藩の洋式軍艦を修理した場所です。発掘時のようすを示した図が地面に書かれています。発掘したときと同じ場所に書かれているようです。
ここのものはドライドッグといい、満潮時に船を入れて固定し、干潮時に水門を閉めて海水が入らないようにした状態で船の修理をする場所です。木組みの遺構がたくさん出土したようです。木組みのものはここだけだそうです。
3つ平行にある細長い穴です。鋳型に鉄などを流し込んで金属部品を作った場所とされています。溝に炭火を入れ鋳型を暖めていたようです。
となりにあるのが稽古場地区です。軍隊の訓練をしていたようです。整備中で周囲が柵で覆われています。
一番北の端が船屋地区です。整備中なのか発掘中なのこちらも入ることはできません。大きな穴が開いていました。
一番近くにあった、溝の壁面です。何かあるようには見えません。干潟にたまった泥の表面を、いろいろな生物が穴を掘ったりしてかき乱しているように見えます。
船屋地区から堤防側です。入り江のようになっています。もともと、佐賀藩の藩船を係留していた船着き場です。入り江と川の間に港湾関連の施設があったようです。
堤防の上から、全体のようすを見ようと上がってみました。ちょうど記念館の裏手あたりになります。あがったところで、記念館のガードマンさんが、中でスコープを貸してくれると教えてくれました。初めは双眼鏡のことと思っていたのですが、話が合いません。中に入って確認することにしました。
記念館でのメインの展示は2階にあり、佐野常民に関係したものです。日本赤十字社の創設者だそうです。どちらかというと、興味の対象外なので、パスさせてもらいます。海軍所とも関係があったようですが、具体的なことは今ひとつよくわかりません。
3階に海軍所のインフォメーションセンターがあり、関係した解説や模型が展示されていました。ここの窓から、海軍所跡の全景が見渡せます。修復場地区から早津江川下流方向です。川から斜めに入るようにドライドッグが設置されていました。大きめの木の向こう側、城っぽく見えるところがパネルのあった場所です。
稽古場地区と船屋地区です。それぞれ別々に柵で囲われています。船着き場は、堤防に隠されていて見えていません。
1階には、ドームシアターがあります。工事中のようでした。2階にスコープの貸出コーナーがありました。その場所に行って、のぞくと当時の風景がコンピューターグラフィックスで表示されて、解説も聞くことができるというものです。再び、海軍所跡を一周する事になるのでどうしようか迷ったのですが、もう一度回ることにしました。
スコープをのぞいて映像が見られるのは、旗の立っている場所の近くだけです。これが第一ポイントになります。
海軍所跡の見学は、先に記念館に行くべきでした。佐野常民関係の展示だけだと思っていたのが間違いでした。
次の目的地は吉野ヶ里遺跡です。道順、特に国道34号線にでるまでの道がよくわかりませんから、カーナビをセットして進みます。目的の国道までは、案内通り進んで無事に到着です。国道に入ってすぐに吉野ヶ里公園左方向の案内標識が出てきます。カーナビの指示は直進です。道路標識の指示に従うことにしました。
一応公園前には出ました。T字路で右が西口、左が東口になっています。カーナビは左に行けと行っていますから、左に曲がります。この場所は、西口のすぐ前でしたから、右の方が入り口に近かったようです。車とか人とかが全くいませんでしたから、入り口とは思えませんでした。でも、こちら側にある施設は遊び場が中心で、遺跡が復元されている場所まではだいぶ離れています。
公園の下をくぐるようにして東側にまわり、公園南半分をぐるっと回るようにして東口に到着です。駐車場から見えた、歴史公園センターです。
ゲート前の、券売機コーナーです。古代風衣装を着た案内係が待機してます。
入場券を買ってゲートを越えると、左前方に古代風建物が見えてきました。遺跡の大きさに圧倒されます。
最初に越えるのが田出川です。遺跡の東側を流れています。掘のような役割をしていたのかな?
橋を渡って、正面に古代風ゲートが見えてきます。ここが遺跡の入り口になります。
ゲートを越えたところです。柵の内側に掘があります。弥生時代の遺跡は集落を取り囲むように、掘が作られているのが特徴です。環濠集落といいます。集落どうしで戦さがあったためと考えられています。ここにはさらにその内側に、先を尖らせた木を斜めに埋めています。逆茂木といいます。
入口を入って正面にあったイノシシのオブジェです。そっくりにできています。
左側に上がっていくと、弥生くらし館があります。勾玉を作ったりとかできます。遺跡の説明もあります。土器の復元もやっているようです。
建物を出たところにあったのが、丸木船と竪穴式住居の復元模型です。
吉野ヶ里遺跡を、どのようにまわっていくかを検討します。もらった案内図には、4つのコースが書かれています。このうちの、「やよいのみち」と「ひみかのみち」は、それぞれ遺跡の西側と東側を巡るようになっています。二つコースをたどれば、復元されている地域のほとんどを通ります。ほぼこのコースに沿って進むことにします。
順路としては「やよい」を先にします。遺跡群を先に見ることができます。この経路だと順路とは逆順になります。全長は4km近くになります。
最初に向かうのは「南のムラ」です。正面に見えています。
南のムラまで、ほとんど真っ直ぐ進んで行きます。近くまできてみた復元住居群です。竪穴住居と倉庫があります。
復元住居は南北に並んでいます。時計回りに見ていくことにします。南端近くの竪穴住居です。
この竪穴住居は中に入ることができました。天井方向を写してみました。縄で縛られているところがいっぱい見えます。
外に出て東側です。四角い台地のようなものがあります。案内図には、祭壇と書かれています。
住居群の西側にまわり、北上していきます。先ほどの住居の隣に、倉庫が2つ並んで建っています。
南のムラは、竪穴住居と倉庫のセットよって、4つに分けられています。この区画は、南の一家と名付けられています。先ほど、一番最初に見たのは中の一家です。
ここから西側です。遠くに柵と物見櫓のようなものが見えています。公園西口は森のまだ向こうにあります。
「南のムラ」でみられるのは、農作業に従事していた人たちの建物です。説明では、編み物をしたりとか、鉄器や土器を作ったりしたようすも復元されています。実際にあっ建物はこれだけではなく、もう少し周辺地域までひろがっていたでしょう。その中には鉄器を作っているところもあったし、土器を作っているところもあったでしょう。農作業関係以外の仕事もここに集約されているようです。
「南のムラ」西側を北上します。「中の一家」まで戻ってきました。「南のムラ」に到着した場所の裏側になります。ここは竪穴住居4戸と倉庫が一つです。
その前方に見えているのが、「ムラ長の一家」の区画です。
ここには、大きな板壁造りの建物があります。集会所ということになっています。ムラの人たちが集まる場所があったということで、ここがムラで一番偉い人がいた場所と考えたのでしょう。
倉庫も他の一家のものと比べて大きく立派です。たくさんあります。階段は上がって中を見るためにつけられたものです。
倉庫の間から「北の一家」の建物群が見えています。
「北の一家」建物群のすぐそばには柵と環濠が作られています。ここは集落の端っこだったようです。
北の一家は、布を作る関係の作業していたところということで、養蚕や糸、布を作っている設定になっていました。これは竪穴住居の中で養蚕をしているところです。これだと住居とはいえないですね。
「南のムラ」の「北の一家」の建物群をすぎると、柵の外側に出ます。といってもまだ西側遠くには別の柵が見えていますから、遺跡の内部になります。段差があって少し低くなります。
向こう側正面には、たくさんの建物群のある一画と右側の高くなったところに物見櫓がたくさんある一画が見えます。低いところの建物は倉庫が多いようです。
まっすぐ倉庫の多い一画に進んでいって、小さな土手を越えたところです。倉庫がたくさん見えています。手前にある屋根だけの建物は兵士の住居だそうです。
その裏手にあるのが、兵士の倉だそうです。
倉庫群の方に近づきます。たくさん並んでいるのがわかります。竪穴住居もいくつか見られます。
倉庫の一つの内部です。収穫した穀物を入れているようすを再現しています。
倉庫群の中に立派な建物があります。市楼ということになっています。倉庫は、市で取引する物品を入れておく場所で、ここの建物では、市の進行を監視していたと考えているようです。
市楼の2階部分です。太鼓がおかれています。開催終了を知らせるためのものです。太鼓は近代的な感じがします。
高台側です。柵があってその向こうに物見櫓が見えます。竪穴住居もあるようです。
市楼の奥に見えていた建物です。壁のない造りになっています。兵士の詰め所という設定だそうです。見張りの順番が来るのを待つための建物です。
吉野ヶ里遺跡の案内図を見るとこの隣が、南内郭になっています。2つの見学ルートでは、中には入らないで素通りする事になっていますが、見ていくべきでしょう。
倉と市からは、物見櫓は見えるものの、何があるのかは見当もつきません。間に柵があってまっすぐはいけないようです。
南側に物見櫓のある門があってそこから中に入れそうです。こちらのものは出入りをチェックするためのもののようです。そのわりには出入りを制限する扉がありません。あまり深く考えずに、ここから入っていくことにします。
入ったついでに、物見台に上がってみました。ここから中のようすがよくわかります。さらに奥にもう一列柵があって、細長い区画になっています。間にあるのは倉庫のような建物ばかりのようです。柵の向こう側は高台になっていて、柵に囲まれた建物群が見えます。内郭はまだ上のようです。柵が続いていますので、ここからは行けないようです。
倉と市の方向です。市楼を中心にしていろいろな建物があります。建物は100棟ほど発掘されています。これの3倍以上あったことになります。
ここからは南内郭にいけないようなので、倉庫群の方に行くしかないようです。倉庫群の真ん中にあった、建物は、高床になっていません。原料の倉と書かれていました。中には、石炭と鉱石のようなものが置かれていました。市で集めたものなら、加工場に運んでいくはずです。ここのものは、売るためのものでしょうか。
一番奥の倉の内部です。ここは武器庫ということになっています。弓や楯、剣などがおかれていました。
市と倉との間の柵がなくなりました。2つの倉が隣接して建てられています。右側の倉は稲穂の倉と書かれています。
ここをすぎると、物見台がもう一つありました。こちら側は柵とは無関係で、単独で立っています。
上から見た、柵に挟まれた区域にある倉庫群の方向です。
物見櫓からは、南内郭の方向もよく見えます。こちら側の柵に切れ目があります。そこから環濠を渡る橋が架けられています。橋を渡ったところでゲートのようなものがあり、その先の道は坂を登っていくようにつけられています。南内郭の周囲には柵が巡らされていて、ここからは切れ目が見えませんが、この道を進んで行けば南内郭にいけそうです。
物見櫓を降り、柵の切れ目の方に行ってみます。橋の先のゲートを越えると道は左に曲がっています。その横に見える竪穴住居は、兵士の詰め所だそうです。
橋の上からは環濠のようすがよくわかります。環濠を掘るときに出てきた土は、柵の方に積み上げ土塁として防御に使ったようです。柵の右側に倉庫群の屋根が見えています。左側の高くなったところは柵で囲まれていて、その向こうに物見櫓が見えます。
坂を上がった所で、南内郭の周囲の柵が途切れているところがあります。そこから内郭に入ることができました。ここは正規の入り口ではなく、見学のために切り開いたようです。柵の内側には環濠があって、物見櫓と竪穴住居が見えています。
左側です。倉庫のような建物とか、竪穴住居、何に使ったのか理解できなかった建物などがあります。
物見櫓に上がって全体のようすを見ることにします。先ほどこちら側を見るために登った物見櫓が見えています。柵の向こう左側が倉庫群、右側の竪穴住居が兵士の詰所です。
柵の内側にある建物が南内郭の建物です。一番手前が倉庫で、他の3つが竪穴住居になっています。
その左側です。柵に囲まれた建物群があります。ひときわ重要な建物という感じがします。左端に物見櫓が写っています。
広場のようなところを挟んでさらにその左側です。ここが正規の入り口のようです。それを挟むように物見櫓が二つ建てられています。
入ってきた柵の切れ目の方角です。遠くに大きな建物が見えています。案内図によると北内郭のようです。
物見櫓から降り、重要そうな建物群から見ていくことにします。柵に沿って進み向こう側から見たようです。入り口には門があります。横に渡した木の上には鳥の形をした木彫りが置かれています。ここまでに、いくつか見た同じ形をした門にもありました。鳥形というそうです。後でネットで読んでいるとこの門の形は鳥居の原型になったというようなことが書かれていました。
門を入った正面にある建物です。これだけ屋根の飾りが立派です。特別な建物のようです。入り口には王の家と書かれています。
中のようすです。生活の一部が復元展示されているようです
右側には土器類、左側が寝所になっています。寝所の配置のようすです。
さらに奥には、王の娘夫婦の家、王の妻の家があります。王の家の説明では、王の家族がくらしていますと書かれていたような..。
さらにその奥の建物です。煮炊き屋と書かれています。倉庫を地面に直接おいたような形をしています。
内部です。隅の方にかまどのような穴と、食材を積み上げた棚があります。そういえば王の家などでは、建物の中にかまどの穴がありませんでした。
南内郭は王の一家の居住区があり、吉野ヶ里遺跡で政治的な中核区域と考えられます。この区画内には、王の他に今でいえば官僚にあたる大人(たいじん)やその妻の家があります。役職ごとに妻の家が別にあります。この時代は、妻は家族ごと引っ越してきたということでしょうか。
祭祀・儀礼を取り仕切る大人の家です。中では祭りの相談をしているようです。
土木工事を取り仕切る大人の家(手前側)とその妻の家です。屋根覆いが、切妻型ものは王や大人で、寄棟型のものはその妻の家と区別しているようです。
広場の反対側にあるのが、裁定をする大人の家です。何をする大人なのかは建物では区別できないようです。
その裏側にあるのは、集会所です。壁がありません。王の家と同じように棟の上に太い木を載せています。
広場から南側をみたところです。物見櫓があって、その横に南内郭への入り口が見えています。
南内郭には物見櫓は4つ復元されています。2つほど上ってみました。他のものはだいたいにたようなものでしょう。内側から見た出入り口です。ここにも鳥形が載せられています。南内郭を出て行くのは正規の出入口からにします。
入り口から、さらに北側に進んでいきます。公園区域はこのあたりでいったん狭くなります。ちょうど公園の真ん中付近にあたります。ここからが公園の北半分ということのなるのでしょうか。
狭くなっているところから見た北側です。左側に柵が、正面右側に竪穴住居が見えています。
柵の内側の環濠の中に降りられる場所がありました。降りてみた環濠の断面です。壁の傾斜はきつく一度降りたら上るのは大変です。
正面に見えていた住居群です。「中のムラ」といいます。一番目立つこの建物は休憩所と書かれています。見学で疲れたら中で休憩する場所のようです。元々の用途は何だったのかはわかりませんでした。
この建物は、酒造りの家と書かれています。
中のムラに着くまで1時間以上かかっていて、だいぶ疲れてきています。これでやっと公園の半分ほどを見たことになります。残り半分の区域で、遺跡が復元されているのはあとわずかのようです。気合いを入れて続きを見ていくことにします。
「やよいのみち」はこのまままっすぐ行くようになっているのですが、東側に見えている建物群の方が気になりますので、そちらの方をみてからいくことにします。こちらのコースは「ひみかのみち」になります。
建物群のある区画の入り口です。この区画は「北内郭」といいます。中に入る門が見えています。その向こう側にひときわ大きな建物が見えます。主祭殿です。
北内郭の入り口です。柱や梁も今までの中で一番立派です。入った後、道が曲がっています。城などに見られる枡形のようなものなのでしょうか。それとも、沖縄などで見られるように邪気が入ってこないようにするためのものなのでしょうか。ここにも鳥形が飾られています。
柵の内側に環濠があってさらにその内側にも柵があります。侵入を監視する物見櫓もたくさんあります。
二つ目の柵を越えたところです。ここにも環濠があります。左側の柵はそれほど長く続いていません。進入路を制限するものでしょう。その向こうの建物が主祭殿です。
主祭殿の屋根の上です。つの型の飾りがあって、その上に鳥形があります。
主祭殿は、祈祷などをおこなっていた場所とされています。内部ではそのようすを再現しています。
主祭殿の地上部は壁がなく柱だけになっています。そこから北側のようです。竪穴建物の向こう側に高床建物が見えます。その向こう側に物見櫓が見えます。物見櫓は環濠を外に膨らませるように掘ってその内側に立てられています。
高床建物の内部です。最高司祭者の生活場所とされています。薄く剥いだ木を組んで作った網代の壁があります。奥の部屋に司祭者が寝起きしていたようです。
高床建物の東側にある東祭殿です。内側の環濠より外側にあります。壁は2方向だけつけられています。季節ごとのまつりの儀式に使われたのではと考えられています。何度も建て替えられた跡があるようです。
吉野ヶ里歴史公園の主要部は残りわずかとなってきました。最後までがんばっていくことにします。
北内郭はまっすぐ通りぬけられるようにコースが作られています。コースを進んでいって、北内郭をぬけた正面に大きな丘のようなものが見えてきます。北墳丘墓です。その手前に立柱(精霊の宿る大きな柱)と祠堂(お供え物を捧げたりお祈りをする場所)がまっすぐ並んでいます。
振り返って、北内郭の横側を見たところです。倉庫が並んでします。まつりなどの行事で使う道具がしまわれていたと考えられています。その向こうに中のムラが見えています。ここは、司祭者につかえる人たちが、いろいろな道具を作ったりしていた場所だったようです。お酒もその一つだったのでしょう。
北墳丘墓に向かう道に沿って、小さな塚のようなものがたくさん並んでいるのが見えます。甕棺墓列と書かれています。昔のお墓だったようです。
一部の甕棺墓では、甕棺で埋葬していたようすも復元されています。甕棺は、2つセットで使われていたようです。甕棺を使うのは北九州独特の埋葬方式のようです。
北墳丘墓に向かうようにつけられた墓道です。柵や環濠の外側から道が続いています。
北墳丘墓の内部では、発掘時のようすが復元されています。発掘時のようすなども展示されています。
甕棺の埋まっているようすです。副葬品が他のものより立派だったことから、北墳丘墓は歴代の王の墓と考えられています。14基の甕棺が見つかったそうです。
北墳丘墓から北側500mほどのところにも甕棺墓列があります。北墳丘墓南側のものと大差ないと勝手に判断し、ここで折り返すことにします。だいぶ疲れてきているというのもあります。ここから東口ゲートに向かうバスがでているようですが、見残したところを確認しながら戻ることにします。まわりの山も見ていきます。
途中展示室がありました。遺跡から発掘されたものや、魏志倭人伝のこととかが展示されていました。
他には見ていないところはなかったようです。東口ゲートに到着です。ゲートにある公園センターで軽く食事をしていくことにしました。団体客が食事をしたためか、出てくるまで少し時間がかかりました。
向いにある多目的室では、甕棺墓展をしていました。たくさんの甕棺が並べてあります。時代によって形や模様が違うようですが、詳しくは理解できませんでした。
歴史公園はかなり見応えがありました。この時点で1時はゆうにまわっています。
吉野ヶ里からは、佐賀県南西部を目指す予定です。ここまでに時間をだいぶ使ってしまいました。後どれだけまわれるでしょうか。とりあえず、西を目指します。佐賀市の町中に入ってきたので、佐賀城を目指して進む事にしました。
佐賀城の駐車場へは案内通り進んですんなりと到着です。城跡が見えていますから、そちらの方に向かって歩いて行きます。間にあった鍋島直正公の像です。城の方を向いていますから、振り返って写しています。
鍋島直正は、幕末期の佐賀藩藩主です。朝に行った三重津海軍所を作った人です。よく考えてみたら、三重津海軍所はここから5kmほどしか離れていません。今日はまだほとんど移動できていないようです。
鍋島直正像の前から見た城跡です。石垣に囲まれているのがわかります。
佐賀城(本丸跡)入り口にある鯱の門です。屋根の上に、青銅製の鯱がある事がその名前の由来です。左側に続き櫓へとつながっています。
内側から見た鯱の門です。
本丸内にあった本丸御殿の一部を復元して、佐賀城本丸歴史館と使っています。入り口には大砲などの模型がおかれていました。
復元された本丸御殿の側面です。非常に大きな建物です。復元されているのは一部分だけのようです。
本丸御殿(本丸歴史館)の入り口です。昔は殿様の出入り口でした。
内部です。外書院前の廊下になります。
佐賀藩のことが全くわかっていませんでいた。展示内容についてはポイントが絞れず、理解不能でした。
外に出て、見えた天守台です。慶長年間には天守閣が作られていたようですが、後に焼失しています。
駐車場前にある、佐賀レトロ館です。明治時代の警察庁舎です。中には売店とかがあるのですが、入り口がわからず入っていません。
佐賀城の後はとりあえず、佐賀城前の国道を西に走っていくことにします。目的は佐賀県西部です。何があるかわかっていません。正面に見える山が近くなってきて、佐賀平野もそろそろ西の端かなというところで、ムツゴロウ王国と書かれた案内板がありました。ムツゴロウも一度は見ておきたかったものです。距離は6kmほど、ちょっと遠いですが何とかいけそうです。みられるかどうかはわかりませんがいってみることにしました。
案内標識に従って、ムツゴロウ王国らしいところにつきましたが、どこがどうなっているのかわかりません。とりあえず、堤防が見えたので、上にあがって向こう側のようすを見ることにしました。堤防の向こう側は川になっています。有明海が見られると思っていたので、かなりの期待外れです。ムツゴロウがいるのかどうか不安になってきます。
いったん駐車場に戻り、付近に何があるかを調べることにしました。まずは、トイレです。ムツゴロウの形をしています。
横に飼育施設があって、ムツゴロウが見られると書いてあります。見わたしてもどの建物のことかよくわかりません。とりあえず展示館と書かれているところを目指していきます。たどり着いたのは、水産振興センターです。建物の入り口に展示館と書かれているのですが、展示館の位置がわかりません。中に人がいましたので聞いてみたところ案内してくれました。電気はついていませんでした。中のようすです。漁業関係の道具や、魚などの標本が展示されています。ムツゴロウいませんでした。標本はあります。
ムツゴロウのことも聞いてみました。まだ寒いのでいないのでは、晴れて気温が高くなれば出てきたかも知れないとのことでした。今日は昼頃から雲が広がりだして、今は曇り空です。
有明海の生物や漁業のことをまとめたビデオを上映してくれました。ムツゴロウを見たかっただけなので、いないとなれば早々に退散したかったのですが、上映が始まった以上はそうもいきません。終わるまでつきあいました。
ムツゴロウの飼育施設は、ここと駐車場との間のようでした。建物自体が倉庫ぽく、案内もなかったのでわからなかったようです。そもそも使われているのかどうかもわかりませんでした。
さらに先に公園があります。そこからもムツゴロウ観察場と書かれた場所に行けるようです。いってみました。遠くの方にいれば、写せるようにと望遠鏡の鏡筒も担いでいきます。ここからも見られるのは六角川の川岸です。遊歩道もあって川岸近くまでいけるようになっています。間の泥の出ている所は、ぬかるみを体験する場所のようです。
水辺にはカモがたくさんやってきています。マガモです。
今は干潮のようなので、川縁は干潟のようにはなっています。泥がたまっていて、ぬかるみそうです。
水辺近くの泥の上を探してみたのですが、何もいません。カモに踏み荒らされたのか、グジャグジャになっています。これだと生物はどこかに行ってしまうでしょう。
この区域は、ムツゴロウやシオマネキなどの生物の保護地区になっています。それに合わせて公園として整備されているようです。川岸ですが、満潮時には、海水が上がってきて海水に浸かる感潮域になっています。干潮時には、川は深いところを流れていて淡水はかかりません。海岸の干潟と全く同じでしょう。
時刻は4時を過ぎています。名護屋城も見ておきたいので、佐賀県南西部は次回ということにして宿のある唐津の方を目指します。小城から山の中に入ったところで、教習車の後になります。そんなに遠くまではいかないだろうと思っていたのですが、40分近く前を走ったままです。往復のことを考えると、2時間近く連続して教習を受けていることになります。長時間の教習ができるようになったのでしょうか。
唐津到着がだいぶ遅くなってしまいました。名護屋城到着は6時前になっています。明日見学することにします。普通に来ていても遅くて見学はできなかったようです。
その後10分ほどで宿に到着です。今晩の夕食は奮発してイカの料理を追加しています。この付近の名物だそうです。出てきたときも、色が変わったり動いたりしています。ゲソは、この後から揚げになって出てきました。
夕食が終わった頃には雨が降りだしてきました。今晩の星見は無理でしょう。早めにねることにしました。
夜になってから、雨が降りだしていました。夜中には、かなり激しく降っていたようです。風もかなり強かったようです。朝になって窓の外を見ると、雨はだいぶやんでいるようにみえます。風の音は相変わらず聞こえてきます。
外に出てようすを見ることにしました。雨が降っているようなら出歩くのはやめにしようと思います。玄関まで行くと、ドアが開きません。ちょうど、宿の人が来たので聞いてみると、昨晩風雨が強く雨が吹き込んできたので、手動になっているということでした。床にも吹き込んだ雨を吸い込ませるためにぞうきんが引かれていました。このあたりは、風あたりが強いところだそうです。
ドアのことを聞いたのでわざわざ開けてくれました。かなり重そうでした。外に出てみると、吹き飛ばされそうなくらいの風が吹いています。雨も多少混じっているようです。普通なら、出歩くのはやめようというところですが、わざわざ開けてくれています。すぐに戻ってはということで、ちょっとだけ行ってみることにしました。
宿から坂を降りていくと、海水浴場に着きます。その向こう側には波戸岬が見えています。
波戸岬の先端に行くには、岬のこちら側と、向こう側に道があるようです。向こう側はまともに風が吹き付けています。こちら側は、森陰になりますから、弱くなっています。雨も防げるでしょう。こちら側を進んで行きます。
海水浴場の端まで来たところから、海水浴場の入り口方向をみたところです。高台の上に泊まった宿が見えています。
岬先端近くは、外海側の道と合流します。風当たりが強くなってきました。灯台が見えてきましたが、そこまで行ける状況ではありません。神社のようなものもありますが、風当たりが強い場所のためか、石垣で囲まれています。
引き返します。外海側の道を通りました。こちら側は広場のようになっています。遠くにハートのモニュメントが見えます。ここは恋人達の聖地だそうです。風のため近くまで行って見るほどの気力がありません。
池のような水たまりができていました。元々このようなものがあったのか、昨晩の雨できたのかは不明です。
海水浴場の入り口まで戻ってきました。不思議な形をした像が、二つ並んで置かれています。トルハルバン(石のお爺さん)というそうです。朝鮮半島済州島の城の城門に設置され、出入りする人たちを見守ってきたそうです。韓国西帰浦市から寄贈されたそうです。
宿まで戻りましたが、その先に広場のような所があります。いってみました。案内板に書かれていたのは北条氏盛陣跡という文字です。この半島一帯には、秀吉の朝鮮出兵時に、各地の武将が陣を張った跡が残されています。ここもその一つです。何処にどのように張られていたのかは見てもわかりません。
先に展望広場があります。ここから見た波戸岬方面です。天気がよければ壱岐島が見えるそうです。右に見える島は松島です。
増田長盛陣跡という案内標識もあります。あのあたりにあったのでしょう。
ここからは宿の裏口に続いていました。こちら側は風もあまり強くなく普通にドアを開ける事ができました。
宿に戻ってきたときには、だいぶ人が出入りするようになったためか、ドアには「手で開けてください」と書かれた紙が貼られていました。だいぶぬれています。開け閉めの度に風雨が吹き込んだのでしょう。
部屋に戻って、カメラのゴミチェックをしてみました。あまり使っていない方のカメラは大丈夫でしたが、よく使っている方のカメラはゴミだらけでした。早速除去します。
戻ってから写真をチェックしてみると、下の大きなゴミは、最初のフェリーの中からついています。糸くず状のものは美々津海岸での写真に写り込んでいます。場所が違っています。動いたようです。ブログの写真は、投稿前にゴミのみ消去しています。
食事をすませ、少し休んでから精算をして出発します。今日の予定は、門司港17時出発のフェリーに乗って帰ります。それまでは、昨日見損ねた名護屋城を見てから、海岸に沿って唐津にぬけます。呼子での遊覧船も考えていたのですが、強風のために欠航になっています。朝市もあります。
そこから先です。チェックしているのは、魏志倭人伝関連の国の遺跡、唐津城、河津桜です。世界遺産に指定された宗像大社も興味があります。ちょっと量が多いようです。様子を見ながら進めていくことにします。
宿から、海岸に沿って車を進めていくと、島津義弘陣跡と書かれた案内標識がありました。このあたりでは、最大の陣跡のようです。陣跡はたくさんあります。一つ一つ見ていたら切りがありません。ここは素通りです。石垣などが残っていたようです。
先にキャンプ場があるので、どこかにぬけられるのかなと思っていたのですが、行き止まりでした。引き返してから、狭い道を通って本来の道に戻ります。後は道なりに進んで名護屋城に到着です。昨日通っているのでだいたいのことはわかっています。
駐車場から奥、左手に進むと博物館、右に進むと名護屋城跡です。トイレによってから、名護屋城跡の方に向かいます。
坂を上がって広場に着きます。名護屋城大手口跡です。
観光協会があり、環境協力金を払って入場します。簡単なパンフレットをもらいましたので、これを見ながら歩いて行くことにします。
まずは、名護屋城趾大手口です。内側から見ています。左側に大手口櫓台があります。この道は登城坂といいます。
登城坂を進んで行くと東出丸につきます。ここから見た呼子大橋方面です。
東出丸からぐるっと回って広場のようなところにでます。三の丸です。
右側に坂を上る道がついています。本丸大手門跡です。
本丸大手門跡を登り切って上から見たところです。
ここからが本丸になります。
三の丸から本丸大手門を通って本丸に上がってきました。それまでも風は吹いていたのですが、ここは吹きさらしです。雨も少し混じっています。周囲には風をさえぎるものはほとんどありません。おまけに高台というのもあって、強い風が吹き付けています。体感温度も下がって、ちょっと寒いくらいです。
本丸跡の真ん中にあるのは石碑です。名護屋城趾と書かれているそうです。強い風の中歩いて近くまで行く気力がありません。
本丸跡を反時計回りにまわっていきます。こちら側には、木があって多少は風をしのげるかなと思ったからです。全然影響ありませんでした。このあたりは、玉石が敷かれています。
四角く玉砂利のない所があります。新石垣櫓台跡です。周囲に玉石が敷かれてあった状態を復元したようです。
新石垣櫓台からの眺めです。直下に馬場があります。櫓台のようなものも見えます。その奥に石垣が続いています。さらに先、上が平らになった一段高いところが弾正丸です。
本丸の縁に沿ってずっと進んで行くと、赤土の盛られた一画に到着します。本丸南西隅櫓跡です。ここも櫓が取り壊された後、盛り土で埋められたそうです。その場所が赤土のところだそうです。柱跡の上には礎石を置いてその場所を示しています。左手前に付櫓の礎石も見えています。
ここまで来ると、本丸の東側よく見えるようになってきました。真下に見えるのが二の丸跡です。
その左隣にあるのが弾正丸です。
まだ本丸は、一辺を歩いただけです。寒さがだいぶひびいています。この時の気温は、10℃を下回っていたようです。雨交じりの強風が吹きさらしになっています。後残り3辺気合いを入れていきます。といっても、名護屋城趾で見るところは、この本丸以外にもたくさんあります。
南西隅櫓から北に延びる石垣の上にあるのが、多門櫓跡です。薄茶色のところが、城を壊したときに、大量の瓦を捨てた場所で、もとは玉砂利が敷かれていたようです。一部分だけそのようすが復元されています。そこと、向こう側の崖のようなところとの間に多門櫓がありました。その礎石が残されています。実物だそうです。
瓦を捨てたところの手前側が一段高くなっていて、玉砂利が敷かれています。こちら側は、旧石垣の石塁と呼ばれています。名護屋城は作られた後、外側に新しい石垣を組んで拡張しているようです。多門櫓はその拡張部に作られたようです。
西側の縁に沿って進んだ先にあるのが天守台跡です。五層七階建ての天守閣があったそうです。玉石の中に見える礎石は心柱を支えていたもので、周囲(手前に3つ写っている)のものは1階の床を支える柱用のものだそうです。
壱岐対馬から朝鮮半島が見渡せる位置に立てられています。天気がよければ見えていたようです。
天守台から振り返ってみた本丸御殿跡です。ここにも広大な建物が建てられていたようです。
本丸大手口まで戻ってきました。一周が終わりです。ここには、旧石垣が埋められる前の状態で残されていました。石垣が折れ曲がっているのが特徴です。外側から攻めてきた敵を迎え撃つために作られたと考えられているそうです。
大手口から降りて、三の丸に戻ります。ここからは本丸の石垣に沿って三の丸を通りぬけ、二の丸の方に向かいます
。
正面の一段高くなったところが三の丸南東隅櫓台跡です。ここに上がる石段は、二つ見つかっています。こちら側が新しい方で、櫓台を作っている内に設計変更されて作られたものだそうです。
三の丸櫓台です。名護屋城では最大規模の櫓台だそうです。門礎石も見つかっていることから、三の丸への入り口にもなっていたことがわかります。
三の丸櫓台をぬけた先になるのが馬場です。細長い区画なので乗馬の訓練をしていたと考えられています。
馬場の途中にも櫓台が設けられています。馬場櫓台です。
名護屋城について、わかっていたのは秀吉が朝鮮出兵にでたときの拠点だったことくらいです。廃墟になっているのは、その後使われなくなったからだとくらいにしか思っていませんでした。
ここに来てわかったのは意図的に城を壊したということです。破却と呼んでいるようです。何のためかというところまでは、解説には一切触れられていませんでした。帰ってから調べてわかったことです。大坂夏の陣の跡、江戸幕府は一国一城令をだします。唐津藩は唐津城があるので、名護屋城を持つことができません。名護屋城を残すには、大きすぎることもあったでしょう。この時に徹底的に壊したようです。
これは馬場から二の丸に入ったところから上の方を見上げてみたものです。本丸南西隅の石垣がみえます。石垣の上部がV字型になくなっていてその下に土砂がたまっています。破却の時に徹底して、石垣まで壊したためだそうです。横に細長い石を使っていたために、壊れやすかったことも関係しているそうです。
そのまま石垣に沿って進みます。二の丸をすぎてその先にあるのが、遊撃丸です。明国からの講和使節を持てなした所だそうです。
遊撃丸にはいって後ろを振り返ってみると天守台が見えます。
二の丸に戻ります。遊撃丸下の石垣に沿って進むと船手口にでます。そこから二の丸に続く石垣があります。石垣には合坂といって城の内側から石垣に上り下りするための階段がつけられています。
二の丸で目印として残されているのが長屋建物跡です。2列の柱跡が示されています。
二の丸を通りぬけたその先にあるのが弾正丸です。浅野弾正長政が居住していたのが、その名前の由来とか。ここに搦手口があります。
搦手口を下りたところからみた、搦め手口です。裏口といっても、道幅はかなり広くなっています。枡形になっています。
搦め手口をでて、弾正丸の下側に沿って進みます。上に弾正丸の石垣が見えます。
林の中に入り、それをぬけた後、馬場下の石垣の横を通ります。ほぼ通りぬけ終わったところから振り返って見た様子です。右側が馬場下の石垣、正面の高台が弾正丸です。
名護屋城馬場下の道を進んでいくと、大手口に戻りました。城の北側地区を回れていませんが、ほぼ一通り見たことになります。この一画には名護屋城博物館があります。そちらの方ものぞいて見ることにします。
入り口を入ってロビーのようなところを通りぬけると、裏口のようなドアがあります。そこには木下信俊陣跡と書かれています。木下信俊は、秀吉の正室おねの甥になります。陣跡らしいものはまだ見ていませんので、こちら側を先に行くことにしました。後で見たパンフには展示を見てからいってくださいと書かれていました。
陣跡の一番高いところから見た全景です。遺跡保護のために、一周するように木道がつけられています。
博物館から上がっていったところにあるのが、虎口(入り口)です。全景写真の左外側になります。ここには玉砂利が敷かれていたようです。
全景写真の左側通路の真ん中くらいにあるのが石畳です。御殿がここにあったと考えられています。
一番奥にあるのがトイレ跡です。形はそれらしいのですが、実際に使われていた様子はないそうです。
右側通路の外側に石垣が見えます。陣跡は石垣で囲まれていたようです。
石垣と木道との間に、石が整然と並ぶように置かれています。飛び石ということになっています。
木道を一周して高台に上がります。ここと陣跡の間は、石垣を組んで一段高くなっています。石塁と書かれています。
この上にも何かあるようですが、博物館に戻ることにします。名護屋城に関することやこの付近の歴史などが多数展示されているのですが、一気に情報が押し寄せてきたので、頭の中に入りきっていません。名護屋城見学の参考にと復元模型が置かれていましたが、これさえもよくわかっていません。そもそもどの方向なのかがわかりません。
博物館はここまでにして、次に向かうことにします。駐車場に戻るときに見えた東出丸です。
名護屋城からは、東松浦半島を海岸線に沿って時計回りに進んで行きます。最初に呼子の町を通ります。ここからの遊覧船に乗ることも考えていたのですが、強風のために欠航となっています。朝市にも寄らずにそのまま通過しました。
そのまま走り続けていると、七ツ釜への案内標識が出てきました。七ツ釜は、呼子からでる遊覧船の寄港地です。この付近では名の知られた観光地の一つみたいです。見に行くことにします。
標識に従って進んで行くと遊歩道の入り口に到着です。車はその手前にあった駐車場に入れて、遊歩道を歩いて行くことにします。風は強めです。雨は傘なしで歩ける程度の降り方です。
遊歩道を歩いて行くと、唐津方面の海岸が見えます。かなり波が荒れています。これでは遊覧船を出す事はできません。柱状節理の見える岬が友崎で、その向こうに見えているのは加部島です。
いろいろまわりたいところですが、風が強いのでとりあえず七ツ釜を見に行くことにします。広場の真ん中を突っ切るように進んで行くと、七ツ釜のある入り江が見えてきました。海面は白く泡立っています。時々、飛沫が、水煙のように上がっていくのが見えます。
見えてきた七ツ釜です。柱状節理のある玄武岩の崖に、いくつかの洞窟が開いています。波が激しくあたって、海面はかなり泡立っています。洞窟の奥にまで海水が流れ込んでいっています。
波がぶつかったときの様子です。洞窟の入り口は全く見えなくなります。砕けた海水は崖の上面を越えています。
七ツ釜の展望所はまだ先のようです。もう少し進んで行きます。小さな岬の先端近くにに到着しまず。そこから見た先端部方向です。となりの岬が見えています。波が激しく打ちつけています。ここから先は、波をかぶりそうなので、進んで行くのは危険です。ここまでにします。
この付近の足下です。柱状節理の六角形の割れ口がよくわかります。
振り返って見えた、七ツ釜です。洞窟のようすがよくわかります。といっても波が入りこんでいるので、穴の奥まで見える事はありません。
七ツ釜のある崖の岬先端部側です。こちらには洞窟ができていません。波のあたりかたが違うからでしょうか。
七ツ釜のあるこの一画は、七ツ釜園地といいます。いくつかの入り江のある岬になっていて、土器(かわらけ)崎と呼ばれています。この中に神功皇后が、朝鮮半島へ出兵する時に土器に酒を持って海神に供えたとされる場所があるようです。そこには土器崎神社がたてられているそうです。
七ツ釜からいったん広場の方に戻ります。行き先の書かれた案内標識が所々にあります。その中で、「象の鼻」と書かれたものがあります。そちらの方にも行ってみました。七ツ釜展望所の隣に見えていた岬の先端部です。展望所からも遊歩道が見えていました。断崖が近くに迫っているためか柵で囲まれています。ここでも、六角形の柱状節理がよくわかります。
七ツ釜展望所方向です。木のすき間のところに展望所があります。
反対側の岬です。平瀬と書かれた案内標識がありました。その方向になります。左(手前)側の柱状節理の柱は倒れています。右(奥)側のものは何となくべたっとしています。何となく六角形の模様が見えますから、柱状節理を上から見ていることになります。柱状節理は、溶岩に対して垂直にできますから、ここで溶岩の流れは大きく波うっていたことになります。
柵の先端部までいって振り返ってみました。ここでも柱状節理は向こう側に倒れています。降りてきたときに、六角形がはっきり見えたのはそのせいだったようです。
ここまできたのですが、象の鼻というのはどれのことかわかりませんでした。波の影響で見えなかったのか、満潮とかいった条件の時に見られるものだったのでしょうか。
めがね岩展望所と書かれた案内標識もありました。入り江のそこに見えるというのですが、道の先端までいってみたのですが、入り江のそこがはっきりと見える場所はありませんでした。そこからの入り江の入り口です。柱状節理は斜めになっています。
友崎から加部島方向です。海はかなりうねっています。
説明板のあったところまで戻って、下をのぞいたところです。黒っぽいところの間に白くなっている所があります。洞窟(めがね)をとおして、向こう側の波が見えているようです。それとも、洞窟を越えてきた波でしょうか。手前側の木が密に茂っていてどうなっているのかはっきりしません。
駐車場に戻る途中に、「玄武岩の風化」と書かれた説明板がありました。六角形の模様が見られると書かれているのですが、どれのことかよくわかりません。少し先に、典型的なタマネギ状風化の様子が見られる崖がありました。ここのものは柱状節理を上から見ているのかどうかははっきりしません。
土器崎から元の道に戻り、東松浦半島の東側を南下していきます。海岸に出たところで先に見える岬先端部に大きな岩が2本立っているのが見えます。どこかゆっくり見られるところがないか、探しながら車を走らせます。
立神岩とかかれた案内標識が見えてきました。案内に従って進んで行くと、駐車場が見えてきました。ここに車を入れます。
駐車場から、元来た方向を振り返って見ると砂浜が見えます。この付近は「立神の潮風が見える公園」というようです。浜にあたる波が砕けているのは海岸からだいぶ離れたところです。沖合の波は高いわりには、波打ち際から2−30mほどの間はそれほど波がたっていません。
岬の先端方向です。2本見えていた柱状の岩は重なって1本にしか見えません。岩の表面横向きに柱状節理が見えます。岩脈が海岸線に沿って走っているようです。手前の黒っぽい岩にも柱状節理が見えますが、向きはばらばらです。岩脈のものとか、落ちてきたものとかいろいろ混ざっているようです。
近くの波打ち際に見られた岩です。岩脈に見られる柱状節理の特徴がよくわかります。両脇で細かく、真ん中で粗くなっています。
一番近くで見た立神岩です。左側にわずかに、向こう側にある柱が見えているような感じもします。ここから先は立ち入り禁止になっています。これ以上近づくことはできませんから、詳しいことは不明です。
先に行くことにします。海岸を進んで行くと唐津市街に到着しました。最低限見ておきたいと思っているのは、菜畑遺跡です。メモには、道路に沿って進んで行き、高校の先の交差点を左に曲がったところにあるとかかれています。市街に入ってから、道は旧道とバイパスに分かれます。どちらの道を進んでいくといいのかわかりません。学校は新しい道沿いにはないだろうと考え旧道に入っていきました。
しばらく走ってもそれらしいものは見えてきません。広いところに車を止めて、地図を確認すると、バイパスの方に戻ります。だいぶ時間をロスしてしまいました。
目的の菜畑遺跡に到着しました。末盧館という施設の敷地内にあります。中に入って空いているところに車を止めてくださいとかかれています。中の道は車がすれ違うのがやっとの幅しかありません。いいとかかれているので邪魔にならないところを選んで車を止めます。
広めの庭という感じの敷地内に、いくつかのものが置かれています。これはたて穴住居です。吉野ヶ里のものに比べて小さく感じます。
内部です。太い柱が6本使われています。
市内の遺跡から見つかった、支石墓をこちらに持ってきて復元しています。墓の上に載せる石のようです。
菜畑遺跡からは水田跡も見つかっています。それを復元したものも展示されています。1枚の田んぼはそんなに広くありません。
小川というか水路に沿って何枚かの田んぼが並んでいます。
すぐ横にある末盧館には、菜畑遺跡から見つかった炭化米や石包丁などの遺物も展示されています。館の名前は、魏志倭人伝に出てくる末盧国があった場所とされていることに由来します。受付で時代が菜畑遺跡とは時代が合わないようなと聞いてみたのですが、てきとうにはぐらかされました。
この時点でお昼をまわってしまいました。この後、それほどたくさんはまわれないでしょう。いくつか候補があるのですが、見帰りの滝を目指すことにします。1月前に、あまりしっかりと見られなかった河津桜が咲いていることもあります。滝の少し下流のホタル橋近くになります。
昨日こちらに向かって走ってきた道を戻ることになります。教習車とわかれた少し先から、川を渡り、山道の方に曲がっていった先にあります。思ったよりも遠く、意外と時間がかかってしまいました。
広い駐車場がありましたので入れたのですが、観光協力金はこの先の駐車場で払ってくださいとかかれています。まだ先に駐車場があるようなので車で移動します。目的の駐車場は、たくさんの車が駐まっています。見帰りの滝の方にないかといってみました。見帰りの滝入り口とかかれたところの駐車場は満杯です。この先に駐車場があるかどうかはわかりませんので、引き返して、たくさん車が駐まっていた方に入れます。ここでの往復でも時間をロスしました。
協力金入れとかかれた筒の中にお金を入れようとしたのですが、筒の中にお金が落ちる音がしません。よく見ると、投入口の高さにまで100円玉が詰まっています。これ以上は入らない状態です。
駐車場近くの桜です。ほぼ満開のようです。
川沿いの桜です。伊豆に比べて数は少ないのですが、花が目立つのでボリューム感があります。
見帰りの滝とかかれた駐車場まではそれほどなかったようです。歩いて行きます。駐車場についてわかったのは、ここからまだ遊歩道が500m以上続いていることです。往復すると、かなり時間をロスしますが、車まで戻っていったところで駐車場がなかったらというリスクは負いたくありません。急ぎ足でいくことにします。
遊歩道はわりとしっかりとした道です。
横から流れ込む沢が滝になっています。横に「よひらの滝」と書かれた標柱がありました。これのことでしょうか。
本流側にも所々段差があって滝のようになっています。
見えてきた見帰りの滝です。一部が木に隠されて見えていません。
近づいて見たところです。こんどは、上段で傾斜が緩くなっているところが見づらくなっています。
道路に架かっていた橋から見た、滝の下流側です。そこそこの深さの谷といったところでしょうか。
この近くに駐車場がありました。車で上がってきても大丈夫だったようです。歩いて戻るしかないので、歩きます。帰りは車もあまり来ないようなので道路側を通ることにしました。
再びホタル橋まで戻ってきました。川の土手沿いに歩いて桜を見ていきます。
花のアップです。赤色の濃い桜です。
見帰りの滝と河津桜を見終わった時点で2時前です。フェリーが5時出港でその1時間前までに手続きをすませるようにいわれていますから。門司までの移動時間も含めてあと2時間ちょっとあります。もう1ヵ所くらいは立ち寄れそうです。宗像大社は無理そうなので、伊都国博物館を目指すことにします。魏志倭人伝で末盧国の次に出てくるクニです。
出発してから、道を間違え続けます。遅いゴミ収集車の後についたあと、先に行かせてもらったものの、曲がる道を一つ間違えて、再び収集車の後になります。せっかく早くいけたものが何にもなりません。やっと順調に進み、松浦川右岸の道路を北上して、唐津ICから唐津道路に入ります。その後何を勘違いしたのか、次のICで降りてしまいました。様子が変だと気づき、降りるICを地図で確認してからUターンして唐津道路に戻ります。
前原東ICから有料道路沿いの道を進むはずだったのですが、その道が工事で通行止めです。道を確認するために車を止めるところが必要です。車が来なさそうな山側の方に曲がりましたが、トラックがついてきます。脇道に車を入れて止められる場所を探し道を確認します。海側から前原ICにでれば、予定の道に行けそうな感じでした。海側に進進路をとります。この後のことを考えれば、そのまま進んで別のルートをとった方が早くつけていたようです。
前原ICについたものの、ここからも工事が続いています。さらにこの先の合流点まで迂回します。合流点では、工事はしているものの通行はできます。ところがこんどは渋滞で車は動きません。速めのジョギングぐらいの速度です。工事とは関係がないようです。
工事で削られて見える崖が赤茶色をしているのが気になります。段丘層の風化した表面のようです。車は止まっている時間が長いので、窓からは写真を撮ることができます。
結局伊都国博物館方面への分岐交差点に着いたのは3時です。この後のフェリーに乗る前に買い物をしようとしていることもあって、見学が終わってここを通過していないといけない時間になっています。博物館に行くのは次回という事になりました。逆に、大きく迂回して博物館に行っていたらここの渋滞のことはわからなかったので、ゆっくり見学して、もっと遅くなっていたかも知れません。
その後も渋滞からはぬけられず、車は進みません。1つ目のICで入れるかと期待したのですが、出口専用で無理でした。次はどこになるのか不安になります。1kmほどで次の入り口が見えてきたので一安心です。それでもこれから福岡市の中心部を走るので、渋滞にかかるかも知れません。
道は心配するほどのことはありませんでした。思ったよりも距離が長いのが難点でした。高速道路を降りたのが5時少し前、買い物はしている時間はありません。ここからの渋滞も心配でしたが、町外れのせいかそれほどでもありませんでした。
フェリー埠頭には5分ほどの遅刻で到着です。すぐに乗船の列に誘導されますが、返金を受けて乗船券を入手しないといけません。係の人にその旨伝えると、別の列に並び直しになりました。待機場所から見たフェリー埠頭です。
受付に行って、返金を受けて、新しい乗船券を入手しました。車に戻り、船内に持ち込む荷物を選んでいると、乗船が始まりました。いつでも車を動かせるように、荷物の選別は中止し、運転席で待機します。合図がでたので係員の指示に従って車を車両甲板に移動させます。車を指定された場所においてから、荷物の選別の続きをして、船室に移動します。
荷物を置いたら、デッキに出て周りの景色を眺めることにします。外に出たときは、ちょうど自転車の人たちが乗船しているところでした。車両甲板までのスロープを乗って上ってきています。そういえば、あまり自転車というのを見たことがありません。宮崎航路は人と同じ所から乗ってくるようでした。
見ていると、船は岸壁から離れていっています。出港になったようです。
反対側を見ると、タグボートが船を押しています。ここの港内は船の大きさのわりには小さいようです。
岸壁の続きを見ると、もう一隻のフェリーが見えます。乗る予定にしていた船です。エンジンは動いているようです。点検をしているところでしょうか。
ちょっと離れたところにも、別会社のフェリーがいます。一つは神戸行きと思っていたのですが泉大津行きでした。もう一つは、東京まで行くもののようです。
フェリーの中では、時間をつぶす方法があまりありません。夕食をとるといっても車に積んでいた非常用食料を食べるつもりだし、あとは風呂に入るくらいです。3大橋の通過時間が書かれています。来島海峡大橋で12時過ぎ、瀬戸大橋は真夜中、明石海峡大橋は夜明け前になります。出発時に、明石海峡大橋では点灯していなかったようなので、航空標識灯以外は見えないでしょう。わざわざ夜中に起きて見に行くこともないでしょう。
まずは、日没まで景色を眺めることにします。関門海峡大橋が見えるかどうか気になります。だいたいこの方向かなと思うのですが見えないようです。手前の岬は部崎で北九州北東端になります。真ん中あたりに光が見えますが、長府の火力発電所のようです。右側に薄ぼんやりと連なっている山が本州になります。
左舷後方には、工場地帯が見えます。宇部あたりになります。船は関門海峡から離れていく方向に動いているようです。取り外して持ってきたカーナビも南東方向に進んでいるとでています。
東方向です。島なのか山なのか区別のつかないものが点々とあります。この方向の空は晴れ始めているようです。
国東半島が見えてきました。ここをすぎれば、九州とはお別れです。
晴れ間は、西の方にも広がってきました。船の後方に夕焼け空が見えています。金星も見えます。
空も暗くなってきました。そろそろ景色も見えなくなってきています。かすかに見えるのは姫島です。国東半島の沖合にあります。
船室に戻って風呂にいきます。みんなは、船に乗ってすぐに行きますから、この時間帯になるとだいぶすいています。消灯時間まで本を読んだりして過ごします。後は寝るだけです。12時頃に、窓から来島海峡大橋が見えるか調べたのですが、無理なようでした。カーナビはすぐ近くまで来ていると表示しています。横で寝ていた人が見に行くといって起きていきました。結果は聞いていません。
朝、目覚めて甲板に行ってみました。まだ薄暗く空は見えません。前方には港の灯りが見えます。だいぶ大阪に近づいているようです。
南港に到着し、岸壁に接岸です。
これ以上見ていたら、車をだすのが遅れてしまいます。すぐにまとめた荷物を持って車にいきます。車はすんなりと出発させることができました。高速の入り口まですんなり行ったのですが、右端の車線を走らせていましたが、直前で左側にあるのに気がつき、大胆な車線変更になりました。車がまだ少ないので可能でした。
勘違いしていて高速の出口を間違え、降りてから違う方向に行ってしまいました。道はわかっているので正しい道に戻ることはできました。この道は渋滞が始まっていました。予定よりちょっと遅めの帰宅です。
今回の旅行も、いつも通り、見知らぬところに行って、そこにどんなものがあるのかみたいというのが主目的です。今まではふらっと行って、たまたま目にしたものを見に行くという形態でした。何もなく通り過ぎてしまうだけ、という場所もたくさんありました。
今回は何もなかったらということで、事前に何があるか下調べはしておきました。ほとんどがその調べた場所に行っていたことになります。立ち寄り地については、特にこれといってきめているものはありません。地学関連のものがあればまず優先です。それ以外については、自然景観や歴史的遺物などが中心になります。これと野生生物の観察が入ってきます。逆にグルメとか芸術芸能といったものはパスになります。
今回の旅行について、なにかテーマになりそうなものを探してみます。最初に見たものの順に列挙します。
「戦国時代の島津氏の台頭に関係する遺跡(高城跡、高城古戦場)」 飫肥城とか伊集院(前々回の九州)とあわせると物語ができそうですが、今回だけ、それも1ヵ所ではテーマにはならないでしょう。佐賀城、名護屋城も見ていますが、城跡見学というには時代がばらばらです。
「古墳時代の九州」 川南古墳群と岩原古墳群(装飾古墳館)、清原古墳群(江田船山古墳など)を見ています。川南古墳群は、生目古墳群や西都原古墳群とあわせてみると、この付近で文化が栄えていたのがよくわかります。美々津からの神武東征船出との関連もありそうです。熊本県にも独自の古墳がたくさんあるようです。比較して考えるのもありそうです。それには、日向側が今回は川南古墳群だけではテーマにしづらいようです。
「滝」 たくさんの滝を見てきました。最初の尾鈴山瀑布群や山都町の矢部48滝は一部しか見ていません。滝を集中して見にいったというのは気が引けます。
「海岸風景」 美々津海岸に始まって、浜とか断崖を見ています。今回印象的だったのが柱状節理です。これも、初日と最終日だけです。ムツゴロウの場所は海岸といっていいのかどうか迷います。
「歴史的建造物群(町並み)」 これも1ヵ所だけです。廻船船とかその他での他の場所とのつながりもなさそうです。復元した古民家も見ていますが、農家のものが中心です。
「橋」 近くで見たのは通潤橋も含めて4つだけです。
「渓谷」 1ヵ所だけです。ここで、阿蘇の火砕流堆積物を見ています。これと関連のものでいえば、滝やカルデラ、眼鏡橋などたくさんありそうです。
「涌水」 2ヵ所だけです。時間の都合で寄れていないところがたくさんあります。
「鉱山」 どちらかといえばついでに寄ったという感じです。
「縄文遺跡」 2ヵ所見ています。他のものとのつなげるのは難しいようです。
「三重津海軍所」 日本最初の海軍、幕末期の九州、町並みなど他の関連づける題材はありそうですが、それほど大きく広げられないようです。
「吉野ヶ里遺跡」 今回の旅行で最初に目的地として選んだところです。その前後の時代と合わせて、変化を考えてみるのもいいかもしれません。
「ムツゴロウ」たまたまよっただけです。それも肝心なものが見られていません。
吉野ヶ里遺跡か阿蘇火砕流がメインになっていそうです。どちらに中心を置かれているのか検討します。阿蘇山は昨年の九州でメインにしています。変化を持たせたいこともあります。
吉野ヶ里で考えてみます。時代的には、邪馬台国のあったころです。邪馬台国そのものはどんなものだったのかはっきりしませんが、吉野ヶ里遺跡はそれを考える上で大きな足がかりとなります。邪馬台国といえば魏志倭人伝です。大陸とのつながりが見えてきます。唐津付近にはそこに登場する末盧国(末盧館)、行き損ねましたが伊都国(博物館)があります。
大陸とのつながりで見れば、名護屋城は秀吉が朝鮮出兵の足がかりにした場所です。そのときに大名が陣をおいた跡もいくつか見ています。江田船山古墳の出土品も大陸とのつながりが見られるそうです。菜畑遺跡は日本で最初に稲作がおこなわれた場所とされています。大陸から伝わってきたものです。対比する意味で、それぞれの日本本来の形態を示す場所にもいっています。
末盧館には、支石墓というのが置かれていました。糸島半島より西側の北九州海岸沿いにみられるものです。時代的には縄文末期から弥生時代にかけてのものです。元々は、朝鮮半島にたくさんあって、それが日本に伝わってきたようです。甕棺墓をともなっていることがあるそうです。
唐津市の土器崎は神功皇后が朝鮮半島に出兵(三韓征伐)するのに船をだした場所とされています。これが史実かどうかははっきりしていません。装飾古墳館で何気なくもらってきた資料の中に、広開土王の碑について書かれたパンフがありました。これには三韓征伐と似たようなことが書かれていました。よく似たことがこのあたりから始まったのでしょう。
このように見ると、大陸、特に朝鮮半島とのつながりをたくさん見てきたようです。このあたりが、大陸文化が日本列島に入ってくる入口となっていたからでしょう。そういう事もあって、今回の旅行記のタイトルは「大陸接点」としました。
おまけのような話になります。鎖国中の日本は長崎が中国やオランダとの接点となっていました。そこを隔年で警護していたのが佐賀藩です。1808年に長崎に英国軍艦の侵入を許してしまったことや1840年に中国で起こったアヘン戦争がきっかけとなって、佐賀藩は近代化(西洋化)へとつき進んでいきます。その中心になった設備が反射炉の建設(大砲の制作)、洋式軍艦建造でした。三重津海軍所は軍艦建造場所ですし、その指令を出していたのが佐賀城(鍋島直正)になります。主に欧州ですが大陸とのつながりが見えてきます。
最近聞いた説には、秀吉が朝鮮半島に出兵したのも、当時、アジアに力を鼓舞し始めた欧州列強に力を見せつけるためたっだというものがあります。なにか幕末期の佐賀藩に似ているような感じがします。
旅行記ではわかったように書いています。ところが、現地で解説文などを読んでもちゃんと理解できていないことが多いようです。書いてあることが、頭の中を素通りしている感じです。写真を写すときに、その解説文も一緒に写しています。もらってきたパンフレットと一緒に見直して、そうだったのかとかちゃんと書かれていたのにとかということがたくさんあります。博物館の解説も同じです。こちらは情報量が多すぎて頭の中がパンクしてしまっているというのがその原因にあります。
家に帰ってから、写真を整理したり、行ったことのまとめの文章を書いたりするときに、わからないことがたくさんでてきます。そのほとんどは、調べなおしたりしています。写した写真の場所がわからなくてどこだったのか調べたりということも含めて、帰ってきてからの調べ直したりとかまとめたりとかの方に時間がかかっています。
今回特に手間取ったのは、吉野ヶ里遺跡と名護屋城です。どちらも場所が広く、ぐるっと回るだけでも時間がかかっています。まず、写真をみて、それはその中のどのあたりでどの方向を写したものなのかを確定するのに手間取ります。これは船の中から写した写真でも同じです。
場所がわかったら次は、それが何なのか、ここではどういう意味を持っているのかということを整理してみます。この段階でわからないことがあったら調べ直しということが多数出てきます。それでもわからないことはたくさんあります。そのあたりは、適当に処理しています。
今回の旅行記では、前回分の文章の整理が終わるまでだいぶかかったこともあり、まとめ初めがだいぶ遅くなり、何を見たのかが記憶から薄れてしまっていたことも、まとめを書くのに手間取った一因になっています。この文章も書き終わったら、次の旅行記が待っています。これも、どれだけ記憶に残っているか心配です。
ブログの文中では、わかったようにたくさん書いていますが、その大半は、調べ直してわかったことです。帰ってきてから調べたことをどのように書いて区別したらいいのかいつも迷っています。
<吉野ヶ里遺跡と邪馬台国>
吉野ヶ里遺跡を見た感想です。遺跡からは、あまりたくさんの人の気配が感じられませんでした。復元された建物が、その一部だけというのもあるのかも知れませんが、建物群の分布範囲を広げて考えてみてもだいぶ足りないような気がします。逆に、住居用建物よりも、倉庫の大きさ、数が目立って多いような気がしました。一家が収穫したもので、倉庫がいっぱいになるとは思えませんし、中のものを1年で使い切るには多すぎるような気がします。一家といわれる人たち以外にも、倉庫に入れるものを作ったり、蓄えた食料を消費する人がいたように思えます。
建物を作るにしても、材料集めから、加工や施工の手間などを考えるとかなりの人手がいりそうです。一度作れば、何十年と持つものですから一時的に人を集めてくればいいのかも知れません。それでもそういう人達の居場所が見えてきません。
大人クラスの人の住居として、一部の竪穴式住居が割り振られています。それからすると、このような竪穴式住居に住んでいたのは、かなり身分の高いものに限られのかも知れません。農作業に従事する人達は、このまわりか、別の場所でもっと簡素な建物にいたのでしょうか。
環濠を守る兵士とかもたくさん必要です。詰め所にいきなり降って湧いたように集まってきます。こういう人達もどこから来たのか、全く見えてきません。
吉野ヶ里遺跡では、主祭殿と思われる建物が見つかっています。占い(神のお告げ?)によって政策を決定する場所だったようです。これは邪馬台国について魏志倭人伝に書かれていることと一致します。記述に基づいてそう復元したのかも知れませんが、なんとなくここが邪馬台国だったようにも見えてきます。実際のところはどうなのでしょうか。邪馬台国について感じていることを書きます。
魏志倭人伝には、邪馬台国までの行程が書かれています。途中、対馬国一支国末盧国伊都国奴国まではだいたいの対比ができています。それとの位置関係で見ると、吉野ヶ里遺跡は、末盧国が一番近く奴国をわざわざ経由する必要がありません。方角的にも合わないようです。
倭人伝には卑弥呼の死後大きな塚を作ったと書かれています。吉野ヶ里遺跡には墳丘墓があります。ここには数人の王とみられる人達が埋葬されています。卑弥呼のために作ったとは考えにくいようです。
また、邪馬台国と対立していた狗奴国をはじめ多くの国があったとも書かれています。そのどれもがその位置がわかっていません。吉野ヶ里はそのような国の中の比較的大きな国だったと考えた方がいいでしょう。佐賀平野一帯にも国と思われる遺跡がいくつか見つかっているようです。
支石墓のことを調べていると、それを作る文化についても言及しているものがありました。朝鮮半島にそれを作る文化を持つ人達が移り住んできたというものです。もともと朝鮮半島に住んでいた人達は体に入れ墨をする習慣があったようです。そういう文化も受け継がれているとすると、邪馬台国では入れ墨をすると書かれていますから、支石墓を作らない文化になります。支石墓は北九州海岸沿い唐津から長崎にかけて分布しています。邪馬台国はそれ以外の地域にあったということになります。吉野ヶ里遺跡は支石墓ではありませんから、邪馬台国ではないとされたわけではありません。この問題も、日本では支石墓と甕棺と併用するなど独自の様式が見られますから、入れ墨と結びつける必要はないのかも知れません。
<フェリー>
旅行の直前に、フェリー会社から連絡があり、使う予定にしていたフェリーが欠航となったということです。原因は、2月25日からドッグ入りしていたものの、「造船所による作業不備で故障が発生した」ため、検査が終わらないとのことでした。予定していたものより3時間ほど前に出発する便があったのでそれに変更しました。連絡が来たのが、出発の1週間ほど前なので、返事はすることができましたが、旅行出発後にわかったのなら連絡がつかなくなっているところでした。おおきく変更しないですみました。
といっても、最終日の行程はちょっと慌ただしくなりました。道を間違えたり、道路が渋滞していたりとかで、よりかけていた伊都国博物館には行けずに終わりました。予定の便でもどうなっていたのかはわかりません。たぶんぎりぎりまで、いろいろとまわって最後は慌ただしくフェリー乗り場に着いていたことと思われます。
別会社の神戸着の便で帰るという方法はあったのですが、神戸が遠いということで二の足を踏んでいました。大阪に帰ってきてからのことで考えると、南港からだと渋滞する地道を通るのは避けられません。神戸からだと、家の近くのICまで高速道路を利用することができます。出発もちょっと遅めでした。こちらの方がよかったのかも知れません。検討課題としておきます。
使ったフェリー会社のフェリーが、帰ってきてしばらくしてから、航行中にトラブルを起こし動けなくなっていました。フェリーだったらいつでもいけるというわけにはいかないようです。
<GPSロガー>
帰ってきてから、GPSロガーの記録を見ると、1km移動するごとに記録するようになっていました。これだと、大雑把すぎてみていても必要なことはほとんどわかりません。たとえばどこかに立ち寄って引き返したとします。ロガーに記録されていたのは、立ち寄り所から1km以内のどこかの地点です。そこから引き返したことになっています。
出発前に、ロガーにたまっていたデータを全て消去しました。その時に、記録方法もリセットされていたようです。データ消去などの操作をした後は、記録方式の確認もしておく必要がありそうです。
内蔵電池で使用中は、1秒ごとの記録が続いています。この記録でなんとか行き先の確認はできました。それでも、記録データが大量になるので、何とか減らす方法を考えないといけないでしょう。ニッケル水素電池では電圧が低いのでしょうか。
<カメラのトラブル>
今回も初っぱなに、カメラの撮像素子にゴミが大量についてしまいました。出発前に吹き飛ばしたはずだったのです。今回は望遠鏡につなぐ時以外はレンズ交換をしていませんから、ミラーハウスに残っていたゴミが移動したようです。掃除が雑になっていたようです。次からは入念にやっておくことと、ゴミのチェックはできるだけこまめにやった方がいいようです。
一度、データをSDカードに書かなくなりました。正確には書き込むのに非常に時間がかかるようになっていました。記録中はランプが点灯します。それがなかなか消えないのでおかしいと思い調べてわかりました。その後は、カードを交換して使いました。書かなくなったのは、マイクロSDカードで、変換アダプターに入れて使っています。前にも「カードが異常です」が連発した事があります。あまりこの方法は使わない方がいいのかも知れません。これからはできるだけSDカードを使用することにします。
<イベント>
旅行先ではいろいろなイベントが企画されていました。そのほとんどが、3月17日からでした。これは大阪に帰ってくる日です。この日からというのは、春休みにあわせて開催されたためでしょうか。イベントとして覚えているのは「肥前さが幕末維新博覧会」と「装飾古墳一斉公開」です。これにあわせて、佐賀市では、幕末維新記念館なども開館したようです。
出発を遅らせようかなとも思いましたが、月明かりのことあるし、人が多いのもどうかということで、予定は変更しませんでした。どちらにしても、ゆっくり見ている時間はなかったようです。またの機会ということにしておきます。
<経費>
つかった経費です。500円単位でそろえています。
交通費 57500円
内 フェリー 39500円
ガソリン 11000円
有料道路 6500円
駐車料 500円
入館料 3000円
宿泊費 40000円
みやげ 5500円
食費 2000円
その他 500円
補助など −7000円
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合計 101500円
補助などは、宿泊補助、クーポン券、ポイント使用によるものです。
車の走行距離は970kmでした。