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散歩道の四方山話 


1.和泉層群と中央構造線

日本列島地質帯区分  大阪府南部から愛媛県にかけて(右図鶯色に塗っているところ)の地域では中生代白亜紀末期の和泉層群と呼ばれる地層が露出しています。 この地層からは、アンモナイトの化石をはじめとして貝化石やコダイアマモの化石を産出することで知られています。 また、四国ではカキの化石が密集して産出し天然記念物になっているところがあります。 最近では、恐竜やモササウルス、 翼竜の化石なども見つかってきています。
 和泉層群の南縁は中央構造線で断ち切られています。中央構造線に沿って、北側にはかこう岩を主体とする岩石が、 南側には結晶片岩を主体とする岩石が分布しています。全く性質の違う岩石が接していることになります。このような場所は構造線と呼ばれ、 中央構造線橋本露頭 そこには大きな断層がありのがふつうです。西南日本の真ん中を東西に横切っていることから、中央構造線と名付けられています。 中央構造線は地図中では、紫色に着色したところの北縁にある黒線の位置にあります。 かこう岩の露出している地帯は領家帯といいます(地図中レンガ色に着色)。和泉層群はその上に乗っている地層になります。 同じように結晶片岩を主体とするのが三波川帯で(地図中紫色に着色)、その上には新第三紀から第四紀にかけての堆積岩(菖蒲谷層や土柱層群など) が見られることもあります。月出露頭 右の写真は、和歌山県橋本市の中央構造線で、右側の白っぽい岩石が三波川結晶片岩、縞の見える黒っぽいところが破砕を受けた和泉層群です。 左の写真は、三重県松坂市飯高町月出にある中央構造線の露頭(月出露頭)です。中央付近にある黒っぽいところが中央構造線の断層破砕帯です。 右上角から下中央にかけて斜めに通っています。崩れやすいので谷となり、石ころが散らばっています。 この付近では三波川結晶片岩はなく、右下側(南側)に四万十層群と考えられる地層が接しています。破砕帯と区別がしにくいのですが、 やや白っぽい砂岩が層のように挟まっているところがそうです。左側の青白いところは、領家帯の片麻岩です。
 和泉層群の南縁が中央構造線で断ち切られている理由をふつうに考えれば、和泉層群ができた後に中央構造線ができ、 南側はどこかに運ばれていったということになります。運ばれた先ではかこう岩の上に乗っているはずですが、 中央構造線の南側にそのようなところは見あたりません。どのようなことが起こっていたのか詳しく検証してみることにします。
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2.和泉層群にある謎

和泉層群露頭  和泉層群を調べていると不思議に思うことが二つあります。一つめは、地層を作っている岩石にあります。 地層は、砂岩と泥岩が互いに繰り返しきれいにたまった地層でできています。(右写真は大阪府岬町のもの)砂岩内部を見ると下の方に大きな粒子、 上の方に小さな粒子が集まっています。また、砂岩から泥岩への境界面はその逆の場合に比べてはっきりとはしていません。このような構造は、 級化構造と呼ばれ、深海底に泥水が急に流れ込んだ後にできると考えられます。 つまり和泉層群ができた場所は、 海溝のような深海底であると推定できます。そこで、和泉層群が海溝でできたと考えてみます。海溝の反対側はふつうは海洋にです。 ところが、和泉層群の分布地域のさらに南側には、ほぼ同時代の浅海の堆積物でできている地層があります。 復元してみると、陸地ないし浅海に挟まれた海溝のような地形であったことになります。 現在の富山湾やカリフォルニア湾のような感じなのでしょうか。
 もう一つの問題は和泉層群ができはじめる過程にあります。和泉層群堆積初期の地層を調べてみるとどの地域でも、 基礎となる岩石や地層の上にレキ層がたまり始め、次第に細粒の堆積物に変わっていきます。現在干潟にたまっているような堆積物が主体となります。 100m以上の厚さになることもありますので、徐々に地盤が沈降していったようです。沿岸性の砂質泥岩がある程度たまった後は、 深海性の砂岩泥岩の互層に変わっていきます。このような変化は和泉層群が露出しているどの地域でも見ることができます。 プラビトセラス このような地層のようす(岩相といいます)の変化をみるとふつうは、和泉層群分布域の全域が一斉に沈降を始め、次第に深くなっていったと考えます。 ところが時々挟まれている凝灰岩層を調べてみると、東側の地域の方が新しい時代に沈降を始めたことを示しています。 和泉層群を作った海は西側から広がってきたようです。同じようなことが、アンモナイトの化石からもわかります。 和泉層群から化石がたくさん見つかるのは、堆積初期の沿岸性の砂質泥岩からです。この岩石中のアンモナイト化石は、 大阪府南部・淡路島からはS(δ)字型に巻いたプラビトセラス(右写真)という種類が見つかるのに対して、 淡路島や香川県からは6字型に巻いたもの(ディディモセラス)が見つかります。このタイプのアンモナイトは、 巻きがゆるんでほぐれた6字型になった後、ねじれてS字型へと進化していったと考えられます。西側の香川県から見つかるものの方のが、 古いタイプのものなので、西側の方が時代のものとわかります。
 これらのことまとめてみると、和泉層群を堆積させた海は、急に出現したのでなく、西から広がってきて、ゆっくり沈降を始め、 最後は非常に深くなっていったことがわかります。なぜこれほど深くなれたのでしょうか。また、西から広がってきたのはどうしてなのでしょうか。
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3.日本列島の地質構造上の謎

 和泉層群堆積時に、海溝の外側にも陸地があったように見えるということでしたが、同様のことが日本列島の地質構造を調べても見つかります。 これを解決することによって何かがわかるってくるのではないかということを期待してこの問題について考えてみることにします。
日本列島地質帯区分  右に、西南日本の地質構造区分図を再掲します。西南日本には、従来古生代後期と考えられていた地層があります。 紡錘虫などの化石を産出することからこのように考えていたのですが、その後、放散虫やコノドントと呼ばれる化石を調べたところ、 古生代末から中生代ジュラ紀にかけての地層が混じり合ってできていることがわかりました。このようなことから、 古生代末から中生代ジュラ紀にかけて海洋底に堆積した地層の元が、海洋底の移動に伴って日本列島近くの海溝まで運ばれ、 中生代ジュラ紀に海溝の縁(大陸斜面)にかき集められて地層ができたと考えられています。この時にできた地層は地図中で水色に着色しています。 三波川変成岩や領家花こう岩もこの時の地層が元になってできています。大陸斜面にかき集められた海洋底堆積物の固まりを付加体といます。 地図上で水色に着色された間は全てこの時にできた付加体といえます。当時の大陸は青や濃い青色で着色されたところにあります。 その後付加体の外側にさらに新しい時代の付加体が日本列島にくっつきました。地図で白色に着色しているところです。 このように、付加体が繰り返しつくことによって日本列島ができていったと考えられています。 その元となったのは、古生代以後、海洋底が移動してきて日本列島にぶつかっていたことです。
 ここで古生代末の大陸に目を向けてみることにします。大陸の一部と考えられる地層は、飛騨地域と北上山地にあります。 産出する化石から古生代中期にできました。大陸起源の凝灰岩や大陸を作っているようなかこう岩を含んでいます。このことから、 この地域は海洋の中ではなく大陸の一部だったと考えることができます。ところで、日本列島最古の化石が見つかる地帯がもう一つあります。 それは黒瀬川構造帯と呼ばれる地帯です。地図上では、水色に着色したジュラ紀付加体の外側縁のところに点々とあります。 外帯の水色に着色したところにしみのように青く入っているところです。これジュラ紀の付加体と考えられるところの海洋側にあります。 ふつうに考えてみると、ジュラ紀の海溝の外側にさらに古い時代にできた大陸性の地殻が細長く平行にあったこと示しています。 日本列島は付加体の繰り返しでできたと考えると、あるはずのない大陸地殻が海洋の中にあったという問題が浮かび上がってきました。
 日本列島形成時に、大陸に挟まれた海溝という奇妙な地形が繰り返し現れたのでしょうか。 それとも、なにか考えにおかしな点があったのでしょうか。
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4.中央構造線の運動

 再び話を中央構造線に戻し、形成時期について考えてみることにします。四国中央部の中央構造線は、平行に並んだ2本の断層からなっています。 一つは断層面が垂直で破砕帯が50mもある大断層です。もう一つは断層面が傾斜している断層です。この二つの断層は別々のものではなく、 地下深くではくっついていると考えられます。このような断層のでき方として考えられるのは次のようなことです。まず、 断層面が垂直の大断層が作られます。この断層運動によって、領家帯のかこう岩類と三波川帯の結晶片岩類が隣同士に接することになります。 このときにできた断層粘土の性質から左横ずれ断層であったと考えられます。また、動いた時代は、 かこう岩や結晶片岩類ができた後ですので中生代白亜紀以降となります。
菖蒲谷露頭  二本目の断層は、その動きが地形に残されていることや新生代第三紀〜第四紀の地層をずらしていることから、最近になってできたと考えられます。 右上の写真は橋本市菖蒲谷の中央構造線の露頭で、左側の黒っぽいところが和泉層群、右の白っぽいところが菖蒲谷層です。 中央構造線はこの2層の境界で、人のいるところから右斜め上の方向に伸びています。菖蒲谷層は右の方では水平にたまっていますが、 断層の近くでは断層に引きずられ上の方に曲がっていっています。このことから、北にある和泉層群側が大きく隆起したことがわかります。 古い中央構造線の断層面に沿って片側が急激に隆起しました。片側が乗り上げてくる断層では、乗り上げてできた山塊が、 低い方に覆い被さるように動き、地表に近づくにつれて断層面が傾いていくことが知られています。写真の断層面が傾いているのはこのためです。 根来断層 この時の動きによって、現在四国地方にある航空写真などではっきり確認できる断層崖ができたと考えられます。
 紀伊半島西部では、中央構造線の方向と斜交する何本かの断層があります。右下写真はその内の一つ保存されている根来断層の露頭です。 崖の斜面に対して斜めに断層が作った筋が見えます。上が和泉層群、下が菖蒲谷層です。中央構造線から枝分かれし、 和泉層群の分布域に伸びてきていますので、南に傾斜する断層面の南側に和泉層群があるという変則的な形になっています。 中央構造線の伸びる方向と枝分かれしている断層が斜交する向きから、断層の動きは右横ずれとわかります。 四国地方では、谷が規則的に曲げられている様子が見られこのことからも右ずれの動きがわかります。 和歌山県や徳島県では、断層の北側が急激に隆起し、同時に右横ずれの運きが、ここ数十万年以内の運動になります。
 中央構造線はこれ以外にもいろいろな時代で様々な断層運動をしていることが知られています。その中で最も大きかったものは、 先にあげた大断層を作ったときのものです。水平運動だけだったと考えると、かこう岩地帯に結晶片岩地帯の岩石を持ってきたのですから、 結晶片岩地帯やかこう岩地帯の長さ1000kmを縦断しています。その移動量はすさまじいものだったでしょう。 この時、結晶片岩地帯の南側にくっつけて中生代ジュラ紀以前にできた大陸の一部も運ばれてきたこともじゅうぶんに考えられます。
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5.横ずれ断層と内海

 中央構造線は、白亜紀の終わり頃に大きく動いたと考えられます。このときに三波川帯や黒瀬川構造帯といった西南日本外帯が、運ばれてきました。 左横ずれ運動を逆にして考えると、西南日本外帯はずっと南にあったことになります。現在西南日本外帯のある所は北の方に移動していきました。 当時そこはどうなっていたのでしょうか。少なくとも、大陸がないといけないという理由はありません。むしろ、中央構造線北側の領家帯が、 海溝の内側にある大陸斜面や大陸棚に相当する場所だったので、海溝やそれより外側の海洋であったほうが自然です。そう考えてみると、 ジュラ紀に大陸に挟まれた海溝という不思議な地形があったという奇妙な現象を考えなくてよいことになります。そうしたところで、 現在西南日本外帯があるところにあった地層はどこに行ってどうなったのか、それが見つかっていないのは不思議です。
 和泉層群ができたときも同じよう外側に外洋が広がっていたのでしょうか。ジュラ紀の付加体と和泉層群とは、 その規模以外に、できはじめた時に起こっていた現象に大きな違いがあります。和泉層群は、領家帯のかこう岩類や白亜紀の溶結凝灰岩 (泉南酸性岩類)の上に不整合で重なっています。和泉層群の最下部にあるレキ岩は、 不整合の上面にできる基底レキ岩といえるものです。和泉層群がたまったところは、激しい隆起をしていたのが、 急激な沈降に変わっていった場所でした。元々海洋底や海溝であったわけではありません。そのため、 海洋底であったことを示す緑色岩枕状溶岩、チャートといった岩石は、 和泉層群中には入ってきません。逆に、厚い酸性の凝灰岩を挟んでくることから大陸の近くであったことがわかります。 和泉層群を作った海は本当に大陸に挟まれていた可能性もじゅうぶん考えられます。したがって、和泉層群の形成過程を考える上で、 大陸内部で、細長い地域で深海を作るような激しい沈降がどうして起こったのかを考える必要があります。
 和泉層群がたまった当時そこは、細長い陸地と大陸とに挟まれた深く細長い海であったと考えられます。細長い陸地は大陸に沿って移動していたでしょう。 世界中でそのような場所を探してみると、バハ・カリフォルニア半島とカリフォルニア湾が見つかります。 カリフォルニア湾北端のコロラド川河口からサンフランシスコを結ぶ線上には、サン・アンドレアス断層があります。 この断層の右横ずれ運動によって、バハ・カリフォルニア半島は、北に移動しています。何となく形が似ていそうな気がします。 ところが、和泉層群が堆積した条件と大きく異なる所があります。カリフォルニア湾では、地殻が急激に沈降していません。 また、湾が北に広がっていっていることもありません。おまけに、カリフォルニア湾では中央海嶺に相当する地形があり、 海底火山噴火が起こっているようです。
 このように考えてみると、和泉層群は、単純に、横ずれ断層で移動してきた半島に塞がれてできた湾に堆積した地層ではないことがわかります。 琉球海盆のような、細長い列島の背後にある細長い海盆は、マントル物質湧きだしによる裂開がその成因と考えるのが一般的です。 それなら、このような場所には和泉層群のような地層は堆積しないでしょう。また、中央構造線が横ずれを起こした原因は、 サンアンドレアス断層のようなトランスフォーム断層によるものではないようです。なぞは深まるばかりです。
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6.白亜紀後期の西南日本

 いろいろ考えてきましたが、ここまでで説明できていない問題は2つあります。一つは、中央構造線の横ずれ運動はなぜ起こったのかということ。 和泉層群をためた海はどのようにしてできたかということです。一つづつ検討していくことにします。
 中央構造線の横ずれは、サンアンドレアス断層のようなトランスフォーム断層によるものではありません。トランスフォーム断層だとすると、 何千kmにわたるようなものは考えられません。それではこの断層以外に世界中にには大規模な横ずれ断層があるのでしょうか。 探してみると、タイプの違う大規模な横ずれ断層としてスマトラ断層が、見つかります。 この断層は、2006年10月1日10時52分(日本時間)にスマトラ島内陸部でマグニチュード6.6の地震を起こし、相当な被害を出しています。 スマトラ島といえば、2004年12月26日のスマトラ沖地震で大規模な津波が発生しました。こちらの地震は、 スマトラ島南方でインド洋を作っているプレートが沈み込んでいて、その引きずり込みによって発生したものです。 沈み込みによってできた海溝と、スマトラ断層はほぼ平行になっています。何か関係があるのでしょうか。
 インドネシア沿岸では、海洋プレートは海溝に対して斜めに沈み込んでいます。そのため、インドネシアの地殻は、 インド洋から押されているだけではなく、北の方向に引きずられるような力を受けています。この引きずりの力によって、 海溝と平行に右横ずれ断層ができていると考えられています。
中央構造線の形成  同じようなことが、白亜紀の日本付近でも起こっていました。復元してみると右図のようになります。 日本海はまだできていなかったのでできる前の形にしています(日本海の形成を参照)。 図では、陸と海の分布は位置関係をわかりやすくするために、現在のものを使って復元しています。 当時の海と陸地の分布はこのようではありません。少なくとも、海洋プレートは南から北に移動していていました(図中太矢印の方向)。 南西から北東方向に伸びる日本列島の沖合にある海溝(図中細直線)に対して、斜めにぶつかってきていました。 そのため、海溝に沿った大陸近くの一部は北側にも押され、海溝と平行にできた断層面でずれ、北側に移動していきます。 このときにできた断層が中央構造線で、西南日本外帯は南方から運ばれてきたことになります。そこで、西南日本外帯を、 現在よりもずっと南側に移動させた位置に移動させてみることにします。そうすると、西南日本内帯の外側は海洋であってもよいことがわかります。 また、日本列島の地質構造から考えないといけなかった、西南日本内帯の沖合にあるように見られる大陸地殻は、 ずっと南側にあったものということになります。そうしてみると、西南日本内帯を作った大陸斜面の海側に大陸はなくてもよいことになります。 これで、ジュラ紀にあったと考えないといけなかった大陸に挟まれた海溝という不思議な地形の謎は解消できます。
 続いて、和泉層群を堆積させた海がどのようにできたかを考えてみることにします。 そこには、中央構造線の横ずれ運動が関係しているようです。ここで、断層線が曲がっていたらどうなるか考えてみることにします。 和泉内海の形成 白亜紀の中央構造線のような左横ずれ断層の場合、断層線が左に曲がっていると断層運動によって、地盤が開いて隙間ができます。 実際には、海洋プレートがぶつかってきていることによる圧縮力と、岩盤の変形によって隙間はふさがります。 岩盤を、こんにゃくか豆腐のようなものでできているとして想像してみるといいでしょう。断層が動いていくことによって、 地盤が沈んでいくことがわかります。左図で、断層線向こう側が西南日本内帯とします。右側断面の断層によって開き始めた直後では、 地盤(紫色)の沈降量は小さく、海(青色)も浅い状態です。断層が動くことによって開きはじめの位置が遠く離れてしまうと(左側断面)海は深くなっていきます。 このようにしてできた海は最終的には、土砂に埋積されてなくなっていくでしょう。また、断層によってある程度開いた時の沈降域は、 水色に塗った楕円形の場所にできるでしょう。中央構造線の断層線は、実質上紫着色部と黄緑着色部の境界にあります。 紫色に塗った部分の上に和泉層群ができているとしたら、黄緑色に塗った部分の上にも同じような地層ができていることでしょう。 それは、どこにあるのかは黄緑色に塗った岩盤の行方とともに不明になっています。
 一般に、地盤が開くと、地下深部で玄武岩質のマグマが発生し火山活動が起こることが知られています。和泉層群には、 時々厚い酸性凝灰岩層をはさむことはありますが、このような玄武岩質の火山活動の痕跡が見られません。この点も、 以上の解説で未解決なこととしてあげられるでしょう。




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