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散歩道の宝物



長目の浜
長目の浜
鹿児島県薩摩川内市上甑島

 南九州の沖合、東シナ海上に浮かぶ上甑島には、細長い砂州が伸びているところがあります。長目の浜といいます。 ここの砂州は、海岸と平行に延々と続いていることと、内側の入り江を完全に塞いでいる点で他の砂州とだいぶ様子が違います。
上甑島周辺地図  地図から確認してみることにします。右図は海上保安庁の海洋状況表示システムのウェブページからとりました。 背景地図は地理院地図の淡色地図です。長目の浜とその近くの砂州のようなもの(海浜堆積物と呼ぶことにします)の ある場所を黄色で塗りつぶしています。
 写真は、荒人崎西側の道路屈曲部(長目の浜展望所)から北西方向を見たものです。 地図からは、荒人崎から北西方向に海岸線に沿ってやや沖合に、細長く続く陸地を確認することができます。
 荒人崎付近には海浜堆積物はみられませんが、南東方向に続く海岸線に沿って再び多くなっています。 その先では、沖合に張り出すようになり、向かい側の島との間を陸続きになるように埋め立てています。
里トンボロ  このような地形は陸繋砂州(トンボロ)と呼ばれ、陸繋砂州によってつながった島を陸繋島といいます。
 上甑島の陸繋砂州と陸繋島を右に示します。砂州の上に里という町ができています。 東(右)側の海岸は人工的に埋め立てられ港湾が作られています。
 陸繋砂州を作った海浜堆積物は、長目の浜の方から運ばれてきたのでしょう。 そう考えると、この付近には海浜堆積物の元になるようなものがたくさんあったことになります。 何となくここだけでは足りなさそうな感じもします。 普通、大きな砂州の近くには堆積物を運んでくる川があるといわれますが、長目の浜の北西に流れ込むような川はありません。
天草下島 富岡半島  北隣の天草下島にもその北端に陸繋砂州と陸繋島があります。 富岡半島です(右写真)。ここには、陸繋島の先に沖合に延びる砂嘴(曲崎)までできています。 この付近の地理は上甑島とよく似ています。
 それほど大きな川がなくても、砂嘴や砂州が発達することがあるようです。 どこから、海浜堆積物のもととなる土砂が運ばれてきたのか詳しく考えてみることにします。 もう一つ、長目の浜については、海岸に沿って沖合に砂州が伸びているのがどうしてかということも考えてみることにします。
 ここから以後の説明では、島(上甑島)といえば陸続きになった部分を除いて指すことにします。 陸続きになった部分も含める場合はわかるように記述します。

 まず、島の地形からみていきます。長目の浜などの海浜堆積物は取り除いて考えます。 島の形は斜めになった長方形と見ることができます。長目の浜があるのは島北東側の海岸です。 海岸から切り立って斜面になっているようにも見えます。小さな谷がいくつもあります。 沖合は1kmほど先でも深さは20mほどと、ゆっくりと深くなっています。
 反対の南西側です。こちらには大きな谷とその先には深い入り江があります。 氷河時代の海面が下がったときに作られた谷のあったところが、海面があがったことによってできた入江です。
 南東側と北西側は切り立った斜面になっています。一気に高さは300mほどになります。海に流れ込む谷はほとんどみられません。 海の深さも急激に50mをこえるまでになっています。

長目の浜 海岸のレキ  海岸の堆積物をみてみます。海鼠池の南端から海岸に出て南西方向を見たものです。浜は、ずっと奥、写真の左端まで続いています。 レキ(石ころ)が目立ちます。大きさは10cmから20cmくらいのものが主体です。 形は角の取れた四角形をしています。 陸地がわに2−3mの高さの高まりがあって、植物で覆われています。 この高まりを越えた向こう側には海と区切られることによってできた池(貝池)があります。
 このような高まりのできかたも気になるところです。波の打ちつける浜では、堆積物が積み上がって丘のようになることがあります。 リッジといいます。こちらに写真があります。
 リッジができるかどうかは、波が打ちつけるときに運ばれてきて積み上がる堆積物の量と、 引いていくときに運び去られる堆積物の量との関係で決まります。
 レキは強い波でないと運ばれません。冬の季節風が吹き荒れているときか台風が接近したときとかに限られるでしょう。 この波が、高く打ち上げられるとき、レキがたまっていると波の水はすぐそのすき間にしみこんでいきます。 その分、引いていく波は弱くなります。波打ち際近くでは浸みだしてくる水も加わってきますが、 レキを運び去るというほど強くならないでしょう。
上甑島 海岸のレキ積み上がり状況  長目の浜のように土手状になっていれば、向こう側にも浸みだしていくので、海側にしみ出る量は少なくなります。 そうなると運び去れるレキの量は少なくなり、波が運び上げる限界の高さまで積み上がりやすくなります。
 右写真は、陸繋砂州になっているところの西側海岸のようすです。陸繋島の方をむいて写しています。左後方に長目の浜があります。 防波堤の海側にレキがたくさん積み上がったところがあります。 レキは防波堤内側の道路とそれほど変わらない高さにまで積み上がっているのがわかります。
 長目の浜の高まりがこのようにしてできたのがどうかははっきりしません。植物が生い茂っているからです。 それでも、10年もすれば植物はこれくらいに育ちそうです。何10年に1回という大波でつくられたとしても良さそうです。
長目の浜 ビーチロック  この浜に出てみてわかったことは、もう一つ考慮に入れないといけないことが出てきたということです。ここにはビーチロックがあります。 上の写真にも写っていますが、拡大して載せることにします(右写真)。波打ち際に土管のように横たわっているように見えるものがそれです。
 ビーチロックは海岸の砂やレキのすき間に沈殿物がたまって、砂やレキごと固くかためられたものです。 どのようにしてできるのかとか、どれくらいかかってできるのかといったことはまだ詳しくはわかっていません。 少なくともすぐにはできないでしょう。ということはこの浜の位置は昔からそれほど変わっていないことを示しています。
 長目の浜がもっと奥の方にあって、それが徐々に押し出されてきて現在の位置に到着したというようなことは考えなくてよくなりました。

 長目の浜のできかたについて、考えをまとめていくことにします。 ここで問題になるのは。大量の堆積物はどこにあったのかということと、砂州が海岸線から離れたところで伸びているという理由です。 一番妥当だと思われる結論について述べていきます。

 今から4万年ほど前のことからみていきます。この頃は、非常に寒く大陸に大きな氷河(氷床)が広がっていました。 氷河によって地球上の水がたくさん陸地に取り残されます。そのために、海水がすくなりなり、海面が下がっていました。 海退といいます。最大で120mほど低くなったといわれています。地図の中で3本目の等深線が100mですから、 これより少し沖合まで陸地が広がっていたのでしょう。
 島の北東側に注目してみます。海底は20mほどの深さまでは、平らと見ていいでしょう。 島内部に小さな谷がいくつかあります。この谷の流れによって山が削られ、土砂が運び出されます。 現在の海面より20mほど低い所は平坦になっています。土砂はここまで運ばれてたまり、扇状地を作ります。 だいたいこんな感じだったと考えられます。 このあたりの深さのところが平坦なのは、運び込まれてきた土砂によって埋め立てられたからかも知れません。
 ちなみに島の南西側は深い谷ができていて、土砂はかなり沖合にまで運びさられたでしょう。 北西側と南東側は崖が切り立っているので、それほど土砂がたまらなかったのかも知れません。

 氷河時代が終わって、海面が徐々に現在の高さにまで戻ってきます。海面下10〜20mまで回復した時を考えます。 島北東側では、扇状地の一部が浸かるくらいになっています。扇状地はほとんどがレキでできています。 強い季節風が吹いたときに、このレキは海岸に沿って高く積み上げられたでしょう。
 ここから海面が少し高くなっても、レキの作る土手の上に、土手の海側のレキを積み上げることで、海面からの土手の高さは維持されます。 積み上げる量から考えると、それほどたくさんは必要なさそうです。土手のできる場所はそれほど変わらなかったでしょう。 実際には、海岸に沿って南東方向に運ばれる物の方が多くわずかに内陸側に移動したたかも知れません。 この運び去られた土砂が、島東端近くで沖合に向かってたまるようになり陸繋砂州を作るもととなります。
 島南西側では、深い入り江のために、波が強くあたらなくなり、レキを積み上げることはなかったのでしょう。 南東側では、冬の季節風では島影ということで、あまり強くあたりません。レキを積み上げるには至らなかったのでしょう。

 海水面が上昇してきて、現在とほとんど同じ高さになりました。土手はほとんど同じ位置に残されたままです。 土手より陸側は、海面下に没して池となります。このようにして、陸から離れたところに細長く伸びる砂州状の地形ができたのでしょう。

 このように書いてしまうと、どこにでも作られそうな気がしてきます。 海水面が上昇してくる速さと、レキが積み上がっていく速さの兼ね合いでうまくできるかどうかが決まってきます。 また、内側に池ができてから以後のことを考えてみます。土手に積み上がっていくレキは、その時点で土手を作っているものだけです。 海面が高く上がり過ぎると、海面上に積み上がる分のレキがなくなり、砂州はできなくなるでしょう。
 甑島の地図をよくみると、島の西端にある掛平瀬から北側に向かって海面下20mの深さぐらいの尾根が北に延びています。 単なる尾根かも知れませんが、砂嘴状の張り出しのようにも見えます。 このあたりにもよく似た形の砂嘴(両端が陸につながっていないので砂州とはいえない)ができていて、 それが水没してしまった可能性も考えられます。

2019.09.22





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