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散歩道のささやき
蛇行はどのようにできるのか


*蛇行とは*
 川が大きく曲がりながら流れていくことを蛇行といいます。曲がりくねった川の流路を指していうこともあります。 一例を挙げてみます。熊本県阿蘇市内牧を流れる古川のようすです。
阿蘇内牧温泉古川蛇行
 蛇行 熊本県阿蘇市内牧 古川の蛇行
  マウスを重ねると流路を示します。

 川の流れの中に島のように取り残されたところがあります。この場所は周囲が堀のような水域で取り囲まれていたことから、お城が設けられたこともあるようです。 この時に一部分に人手が入った可能性もあります。

#   語源としては、蛇が体をくねらせて進んで行くときの体の形に似ていることからつけられたようです。 蛇が進むときに体をくねらせているようすを「蛇行」として説明しているのを見かけます。 川の蛇行がこの言葉から採られたのかについては不明です。 これから派生してできたのか同じ感覚から名付けられたのかはっきりしませんが似たような現象についても蛇行という場合があります。 例えば車が右左に振られながら走っていくような場合です。
 少なくとも蛇はまっすぐ進んで行きますから、蛇の進行を蛇行というには疑問なところもあります。

*蛇行はどのようにできるか*(よく聞く説明)
蛇行のできかた
     蛇行のでき方

 蛇行のでき方の説明としてよく聞くのは以下のようなものです。
 川の流れが下図水色で示したようにわずかにまがっている場合を考えてみます。
 曲がっている外側は水の流れがそのまままっすぐ進んできて直接ぶつかるので流れが速くなって岸が浸食されていきます。 浸食されたところを青の点を打って示しています。この部分は水が流れるようになるので新しく川の流路へと替わっていきます。
 内側では流れが岸から離れる方向に進んでいくので、流れが遅くなります。そのため、このあたりではあらたに土砂がたまっていきます。 図中には黄色の点を打って示しています。ここは水が流れなくなり、新たな川岸は青線で書いた位置まで移動していきます。
 流れの外側が削られたり、内側が埋め立てられることによって、川の流れは青線で挟まれた範囲へと移動していきます。 初めの水色の位置から比べてみると、曲がり方がきつくなっています。このようなことが繰り返してと、流れが大きく曲がりくねっていくようになります。 このようにして大きく蛇行した川ができます。以後この考えについても検証していきます。 話の都合上この考えを「蛇行拡大説」と呼ぶことにします。
 川の曲がりの外側の岸を攻撃斜面、内側の岸を滑走斜面ということがあります。

*日本に蛇行が少ないのはどうしてか*
 蛇行のでき方の説明を聞いてみると、簡単にできそうな感じがします。それなら、日本の川にも蛇行はふつうにあってよさそうです。 探してみると、多少曲がりくねっているのがあるものの、蛇行と呼べるほど曲がりくねっているものは少ないようです。 どうして、川は蛇行しないのでしょうか。
 静岡県島田市付近を流れる大井川を例に考えてみることにします。下に周辺の航空写真を示します。
網状河川
静岡県島田市付近の大井川(地理院地図より)

 川の水は曲がりくねって流れているようにみえます。でも蛇行と決定的に違うところがあります。 途中で枝分かれしたり、どこがで合流したりということを繰り返しています。 河川敷の間を網の目のように流れています。このような川を網状河川といいます。
 水が流れていないところを見ても、水の流れによって削られ浅い溝のようになっている所がいくつもみえます。 水が多いときはこのあたりも水没していて、水が引いたときにいくつもの細い流れを作っていたのでしょう。川の水位が変化していることが見て取れます。
 江戸時代には、東海道が通っていましたが、ここには橋が架けられていなくて、徒歩または人足に手伝ってもらって越えていたといわれています。 大雨が降ると川が増水して、渡ることができず、川岸にある宿場町で何日も足止めされるということがあったようです。
 洪水が起こると、濁流となって流れていきます。それまであった流れに関係なくまっすぐ流れていきます。 この流れによってその時までにあった流路は削られてなくなってしまいます。 水が引いてきて川底が露出するようになってくると、新しくできた低い所をつなぐような流路がいくつもできます。 流路によっては行き止まりになって水がたまり、あふれ出して別の流路に合流する流れもできます。このように網の目のような複雑に入り組んだ流れができます。
 日本の川は、それまでに蛇行ができていたとしても洪水によって壊されてしまいます。 日本の川に蛇行が少ないのは洪水によって壊されているというのがその理由の一つに挙げられます。

#   実際には、洪水対策のためにまっすぐにつけ替えられなくなってしまったものの方が多いようです。

*流れが速いと浸食、遅いと堆積なら何が起こるか*
 蛇行のでき方の説明の根底には流れが速いと浸食、遅いと堆積が起こるという考えがあります。 蛇行の説明で注意して欲しいのは、攻撃斜面で削られた土砂はすぐ内側の滑走斜面にたまるのではないということです。 内側に運んでくれれば、川の流れが外側に移動していくということは間違いなく起こるでしょう。
 ところで攻撃斜面にぶつかった流れは、そのままの勢いで次の屈曲部まで行くのでしょうか。 それならすぐ内側にたまるのと似たようなものです。
 曲がりが緩くなってくるとそれに従って流れは遅くなるでしょう。とするなら、流速の低下につれて土砂をためていくはずです。 これによって川底は浅くなっていきます。水は流れてきた勢いでここに乗り上げてくでしょう。 そうなると流れはさらに遅くなり、もっと土砂をためることになります。
 土砂がたまってくうとダムのようになっていきます。流れを堰き止められた上流部には水がたまっていくでしょう。 水面が高くなるので、流れは緩くなっていきます。その結果、水深が深いゆったり流れるところができます。 このような場所は一般的には「淵(渕:ふち)」といいます。
 せき止めているところはどうなるでしょうか。土砂が一番高く盛り上がっているところを水が越えると後は下っていくだけです。 流れが速くなるので、土砂はたまらなくなります。場合によっては削られるかも知れません。 全体的に、水深が浅く流れが速いところになります。小石や砂がたまっている上を流れているでしょう。 このような場所は「瀬(せ)」といいます。
 川岸に流れがぶつかるところでは淵ができ、その下流には瀬ができるということを繰り返しながら川は流れて行くでしょう。

※ 淵でも流れが速いところがあるので川遊びには注意が必要です。

 新宮市熊野川町付近の航空写真で確認してみます。
新宮市熊野川町付近の熊野川
新宮市熊野川町付近の熊野川 地理院地図より

 この付近で熊野川(新宮川)は南西(左下)から流れてきて北に大きく迂回するように流れた後。南東方向に流れていきます。 川の屈曲部の外側は急斜面で山がせまってます。内側には広く土砂がたまっているところがみえます。 屈曲の外側が浸食され、内側に土砂が堆積しているようにみえます。 全体的に、蛇行のでき方の説明通りのようです。
 もう少し細かく見ていきます。川の流れでは、深いところは青色がかった色になり、浅いところでは川底の砂がみえることで茶色が混ざった色でみえます。 青っぽい色をしているところが淵、茶色っぽい色をしているところが瀬というように色で区別できます。 瀬のところをよく見ると波頭がたっているところもみえます。流れが特に速くなっていることがわかります(早瀬)。
 川の流れの方向を見ると岸にぶつかるように流れているところがあります。青矢印で示します。 それが岸にぶつかって岸に沿って流れるようになると淵になります。水色線で囲っています。 しばらく流れた後だんだん浅くなって瀬に変わります。橙色線で囲っています。岸にぶつかる流れは瀬の中を通りぬけているようにみえます。 マークはマウスを重ねると表示します。
 川はたくさんの土砂を堆積しています。増水したときに運ばれてきたのではという見方もできます。 北側に迂回して流れが南向きに変わろうとしたころではどうなっているでしょうか。ここではまだ曲がりきっていません。 河床いっぱいに土砂がたまっています。行く手を塞いで仕方なく外側の岸に沿って細々と流れているようにみえます。 説明どおりならここに立派な淵があってもよさそうです。
 川はまっすぐ流れようとします。どうしても曲がらないといけないときにだけ大きく曲がるようにみえます。 どこでも自由に曲がれるというのではないようです。 川で起こっていることはふつうに考えるほど単純ではなさそうです。

*蛇行ができているところ*
 蛇行のでき方を蛇行拡大説にたよるとなにかすっきりしません。そこで、蛇行ができているところに成因についてのヒントがないか探すことにします。 蛇行は少ないとはいえ国内にはいくつかあります。その例を見ていきます。 いろいろなタイプの場所にできているようです。話をわかりやすくするためにできている場所によってタイプ名をつけてみることにします。

石狩川
石狩川河口付近の蛇行跡
 石狩川河口付近の蛇行跡 地理院地図を加工

 石狩川は蛇行河川として有名だったそうです。写真は石狩川河口付近の航空写真です。地理院地図から引用しています。
 ほぼまっすぐ流れる石狩川の横に川のようなものが残っています。 まっすぐ流れているのは、治水のために川の流れをつけ替える工事がおこなわれたからです。この工事は大正4年(1915年)に始まっています。 つけ替えられた川を捷水路(しょうすいろ)といいます。 横に残っている川のようなものは古い石狩川が流れていた跡です。かなり曲がりくねっているのがわかります。 古い航空写真なども使ってわかる範囲で石狩川の流れていた跡を追いかけてみました。図にマウスを重ねると流路跡が表示されます。
 写真であげた河口付近だけではなく石狩平野にでてくる深川付近から蛇行のようすが見られます。 また。本流だけでなく周辺から流れ込む中小河川も、かなり蛇行しています。
 石狩平野は幅の広い谷を石狩川が運んできた土砂によって埋め立てられてできたようにみえます。 河口付近はかなり最近になって平野化したでしょう。 陸地化したころに多少の屈曲があったとして、これだけ大きく曲がるようになる時間的な余裕があったのか疑問なところもあります。
 河口付近にできているので、とりあえずこのタイプの蛇行を「河口型蛇行」と呼ぶことにします。 他にも、四国吉野川(旧吉野川)の河口付近でも見られます。
 石狩川中流域に見られる蛇行も、河口が近かったころにできた屈曲がその起源になっているのかも知れません。 天塩川中流域にも同じように捷水路によってショートカットされた蛇行が見られます。

※ 石狩川・天塩川の蛇行、特に中流域については後半で再検討することにします。 (2025.10.20)



釧路川
釧路川の蛇行
   釧路川の蛇行 地理院地図より

 釧路川も蛇行河川としてとりあげられることがあるようです。 湿原の中を流れているます。航空写真で見る限りでは滑走斜面に土砂が堆積しているようにはみえません。 現地でも川に近づけるところが少なくはっきりしませんが、あまりたまっていないようにみえました。
 石狩川の蛇行に比べて蛇行の直径が小さいように見えます。石狩川では直径が500m程ありましたが、釧路川のものは100m程度の大きさです。 何となく、でき方が違うのではと思えてきます。とりあえずこの形の蛇行を「湿原型蛇行」と呼ぶことにします。
 このタイプの蛇行は尾瀬ヶ原でも見ることができます。 猫又川沿いは見ていませんが、下ノ大堀川沿いでは、両岸ともスゲを中心とする湿地性植物で覆われていて、土砂の堆積は確認できませんでした。

信濃川中流域(長岡市付近)
信濃川の蛇行
  信濃川中流域の蛇行 地理院地図に作図

 信濃川はほとんどのところはまっすぐ流れているようですが、新潟県小千谷市片貝付近から上流部では蛇行するようになります、 図では信濃川は南西(左下)から北東方向に流れ、東から流れてきた魚野川と合流した後、北西方向に向きを変えて流れていきます。 地図の端と魚野川合流点の真ん中あたりから上流側で蛇行が激しくなっているのがわかります。
 蛇行が始まる付近では、川に山が迫っているのがわかります。緑色で塗ったところです。 この南端に山があります。山本山といいます。この山の山頂部は河岸段丘で平らになっています。 山頂の東側にある段丘面は東南東方向へ、西側では西北西方向に傾いています。 このことから山本山山頂部から北北東−南南西方向の線を中心に盛り上がっていることがわかります。 段丘面ができた数十万年前以後隆起を続けていますので、このような構造を活褶曲(活背斜)といいます。
 軸を延ばしていくと緑色に塗った付近に行き当たります。このあたりを中心に隆起が続いていることがわかります。 隆起することで流れがせき止められます。そのために上流側では水はけが悪くなります。
 蛇行する原因かどうかははっきりしませんが、ここを見る限りでは水はけが悪くなると川は蛇行するようにみえます。 このようなタイプの蛇行を「閉塞型蛇行」と呼ぶことにします。

阿蘇カルデラ内部
阿蘇赤水温泉三日月湖
  阿蘇赤水温泉三日月湖

 阿蘇カルデラの内部を流れる川でも蛇行しているようすが見られます。冒頭にあげた阿蘇市内牧古川の蛇行もその一例です。 阿蘇カルデラ内部は、中央を東西に連なる阿蘇五岳で南と北にわけられます。 五岳の南側は谷のようになっているので南郷谷といいます。中心部を東から西に白川が流れています。 北側も同様で阿蘇谷といい、東から西に向かって黒川が流れています。古川はその支流にあたります。
 黒川と白川は立野付近で合流し阿蘇外輪山のすき間を縫うように通りぬけそのまま熊本平野まで流れ下っていきます。 立野付近は元から外輪山が途切れていたのではなく、大きく浸食されたために深い谷ができたのでしょう。 それまでは阿蘇谷・南郷谷とも水没していて、外輪山を突っ切って水が流れ出すようになってから、平野化したと考えられます。
 湖の水がなくなった跡にできているので、このタイプの蛇行を「水抜け型蛇行]と呼ぶことにします。

六角川・筑後川
六角川の蛇行
  六角川の蛇行 佐賀県大町町付近

 いずれも、有明海の北側に広がる筑紫平野を流れる川です。北東側から流れ込んでいるが筑後川、西から流れ込んでいるのが六角川です。 筑後川は蛇行しているようにはみえませんが、 行政区界を見ると、所々で川から離れるようにぐるっと回って再び戻ってくるというところがたくさんあります。 この線は昔の川に沿って引かれたもので、川が蛇行していたことを示しています。 六角川については、現在でもきれいな蛇行が見られます。
 河口型といっていいのですが、有明海の干満の差が大きいいために干潮時には深い谷のようになるので区別したおいた方がよさそうです。 「干潟型蛇行」と呼ぶことにします。

※   有明海の北側に広がる平野を筑紫平野としています。 このうち筑後川よりも東を狭義の筑紫平野、その西側六角川河口付近までを佐賀平野、さらに西側を白石平野とわけていうこともあるようです。

蛇行の大きさ
 蛇行の大きさを円形に迂回している部分の直径で表すことにします。楕円形の場合は長径と短径の平均値です。 このようにしてみると、蛇行は2つのグループに分けることができそうです。 100m程度のものと500mより大きなものです。小さい蛇行と大きい蛇行という事になります。
 小さい蛇行は、湿原型蛇行と水抜け型蛇行に見られます。川幅が1m程度よりも小さな川にできているようです。 大きい蛇行はその他の型の蛇行に見られます。川幅が10m位より大きな川にできているようです。 河口型蛇行や干潟型蛇行のあるところをよく見ると、周辺にある小さな川には小さな蛇行ができているのがわかります。
 蛇行の大きさと川の大きさは関係がありそうです。

*蛇行が大きくなったら*
 川の蛇行が大きくなった場合を考えてみます。大きくなる前となった後では蛇行の開始点と終了点の標高差は変わらないはずです。 蛇行が大きくなることによって流路は長くなりますから、全体的に傾斜は緩くなっていきます。 そうすると流れは遅くなります。
 流れが遅くなるところでは渋滞が起こります。上流から流れてきた水がたまって水位が上昇します。 場合によっては行き場を失って周辺にあふれ出すこともあるでしょう。川が氾濫しやすくなっていきます。 また、流れが遅くなるところでは、土砂の堆積が起こります。河床が盛り上がっていきます。こうなるとより上流部でも氾濫する危険性が強くなります。
 実際には川の傾斜は土砂が運ばれてくる量によって変わってきますが、同じ川なら中下流部での傾斜は一定となります(平衡河川)。 蛇行ができると上流部での河床の高さは上昇していきます。 房総半島では水廻しといって蛇行の流路が狭まったところに水路を作っているところが何ヶ所かあります。 この水路上では段差が大きいことによって濃溝の滝のような滝ができているところもあります。 また石狩川では、捷水路を作ったことによって、中流域で水位が下がって船が陸地に乗り上げたようになったという記述もあります。

 蛇行が大きくなったことによる川へのメリットはなさそうです。 川の水はまっすぐ流れようとします。この原則に逆らうのならその原因がありそうです。 少なくとも、こういうことのために蛇行しないといけないといった必然性は見当たりません。
 逆に、蛇行が大きくなると流路が長くなることによって流れが遅くなります、攻撃斜面での浸食力は弱くなりそうです。 曲率半径が大きくなったことによって岸にぶつかる勢いも弱まります。どちらの要因でも、攻撃斜面での浸食力は弱まります。 蛇行が大きくなるとしても、ある一定の大きさ以上はなれないと見ていいでしょう。蛇行拡大説には限度がありそうです。
 このようにな蛇行を見ていると、蛇行拡大説で説明できない問題がみつかります。問題点を洗い出した上で状況を確認してみます。

岸の高さについて
 川が曲がって流れている場合を考えてみます。外側では水の流れがぶつかるので水面が上昇します。 逆に内側では水を持って行かれるので水面が下がります。渦潮のような回転する流れがある所では中心側で窪むのと同じです。
 攻撃斜面では平均よりも高い水位のところまで浸食することができます。場合によっては窪みができてその上の土砂が崩れ落ちるかも知れません。 そうなれば岸が水面よりも高い所であっても浸食されていくことになります。逆に滑走斜面では水面よりも高い所まで土砂を堆積することはできません。 その水面も攻撃斜面よりも低くなっています。 必然的に攻撃斜面側の岸に比べて、滑走斜面側の岸の高さが低くなるという結果になります。
 川の中流域では、大きな氾濫があると流路が別のところにつけ変わることがあります。 その場合でも古い流路はなくならず、残されています。これと同じように、流路が横に移動していったのなら 移動前に流れていたところは痕跡が残されていてもいいのではないでしょうか。

細粒堆積物の問題
 閉塞型・水抜け型・干潟型蛇行については、別の問題があります。 このようなところはもともと流れがゆるやかか停止しているところです。 堆積物の粒度は必然的に小さくなります。こうなってくると、少々流れが遅くなったところで土砂はたまっていきません。 土砂の粒度のよっては、削る流速の10分の1まで流速が落ちてもたまることはできません。 さらに、たまっていく速度、言い換えれば静水中を落ちていく砂粒の速度もゆっくりになります。 滑走斜面側に土砂がたまるということは非常に起こりにくいでしょう。 さらに土砂は粒が細かいほど削られ難くなります。攻撃斜面も削られにくくなるでしょう。 単純に速度が速いから浸食、遅いから堆積というように割り切ることはできません。
 流れの速さと浸食や堆積が起こるかどうかの関係についてはこちらで説明しています。
 湿原型蛇行についてはもともと土砂がありませんから、滑走斜面に土砂がたまるということはありません、 攻撃斜面についても。草は根で地面にしっかり固定されていますから、かなりの激流でないと流されないでしょう。 このようにしてみると攻撃斜面が削られて滑走斜面にたまるということはないでしょう。ここでは蛇行が大きくなるということは考えられません。

六角川の蛇行
 状況を六角川で確認してみます。下の写真はJR長崎本線で六角川を渡る時に下流側を見たようすです。 川はこの先で右に曲がりながらほぼ反対方向に流れの向きを変えています。この時間帯は干潮になっているようです。
六角川の蛇行
 六角川の蛇行 JR長崎本線六角川橋梁より
 まず注目したいのは、岸の傾斜角度です。攻撃斜面側の方がきついような感じがします。 滑走斜面は横から攻撃斜面は正面から見ていることを考慮するとそれほど実際の傾斜は変わらないようです。 上から崩れ落ちた土砂が下の方でそのままたまっているようにみえます。 このことからすると、攻撃斜面で浸食されて滑走斜面で土砂が堆積していると単純に言い切れないでしょう。
 実際にはこの場所は満潮時には完全に水没するところになります。川が蛇行してるといったことを判断する場所ではないでしょう。 蛇行の場所としては、周囲の氾濫原よりも一段低くなって川の水が流れるところにできると考えるのがふつうですから、 川の横手に広がる平坦面を考えます。ここが氾濫原にあたりここから少し低くなったところが川の流路になります。 川の左岸側では二軒の大きな家の手前側に堤防がみえます。右岸側は黄緑色の草の横にある濃い緑色の盛り上がったようにみえるところが堤防になります。 堤防に挟まれた平坦面に注目します。
 カーブの始まる右岸側が少し低くなっているようにみえます。全体的に右岸側はここより高いので部分的なものでしょう。 カーブを曲がって右方向に流れているところでは川のある場所がわかりません。 ずっと同じ高さの平坦面が続いているようにみえます。 これからすると、滑走斜面側が低く攻撃斜面側が高くなってはいないようです。 もしそのようになっているとしたら、少し高い所から見ていることもあってはっきりとした段が見えるはずです。
 これからすると川の流路が昔は内側(右)にあって、だんだんと外側(左)へ広がっているとは考えられません。 少なくとも六角川では、蛇行は大きくなっていないでしょう。

*蛇行はどのようにできるのか*
 六角川では蛇行が大きくならないとすると、川ができたときからそこにあったという事になります。 川は、運んできた土砂によって海が埋め立てられた時にその影響が残されててできると考えられます。 河口付近で川が沖合に広がっていく場所になります。このような場所には三角州がでるといわれています。
三角州と何か関係があるのでしょうか。三角州のある川は中流側にさかのぼっていくと流れが1本になります。もちろん支流は考えていません。 1本で絞られる過程で流れが曲がりくねりそうです。でも実際の川で見ると多少は曲がりくねっているものの蛇行しているものは少ないようです。
 三角州とは関係なさそうです。むしろ石狩川のように三角州が発達していない川もあります。 三角州と蛇行では全くでき方が違うようにみえます。三角州についてはひとまず置いて蛇行のでき方に絞って考えることにします。

小さな蛇行のでき方
 川ができるときにすでに蛇行しているということなので、河口付近に注目してみます。 もう少し土砂がたまれば陸地になるような場所です。そのような場所は干潮時に干上がるような浜になっているでしょう。 そこで気になったのが、五島列島中通島蛤浜で見た干潟です。
中通島蛤浜の干潟
   五島列島中通島蛤浜の干潟
 砂がマウンドのように少し高く盛り上がっているところとその間で海水が残って潮だまりになっている所があります。 マウンドは、満潮時に海水が揺さぶられるように動くことによって土砂が揺り動かされて高く積み上がったのでしょう。 風呂桶の水を揺らしてしばらく放置すると、水垢のようなものが揺れながら集まって塊を作ります。これと似たようなものでしょう。
 このマウンドの間にできた潮だまりを結ぶ水路のようなものができていて、曲がりくねった水の流れがみえます。小さな蛇行そっくりです。 この流路に沿って土砂が干潮時には溝状に削られることによって流路は固定されていくでしょう。 満潮時に全体的に土砂がどんどんたまって陸地化すれば、流路は蛇行となって残りそうです。
 ここで見られる蛇行の大きさは100mくらいですから、小さな蛇行と同じくらいです。 小さな蛇行はこのような干潟の凸凹が元となってできたと考えてよさそうです。
 水抜け型蛇行でも状況は似たようなものでしょう。 潮の満ち引きこそありませんが、水が完全に抜けきる直前のころは洪水時には水がたまり雨がやむと水が引いていくということを繰り返します。 これは潮の干満と同じです。 洪水時にマウンドが作られ、渇水時に曲がりくねった流路が作られるということを繰り返している内に流路は蛇行として固定されていきます。
 湿原型蛇行を考えてみます。このようなものができる場所も洪水時に水浸しになり、渇水時には地面がみえてくるような場所です。 水が引いたときとかあまりひどくない氾濫時にはマウンドのようなちょっとした高まりは草で覆われます。 草が枯れるとそのまま積み上がって泥炭化していくことで陸地化します(低層湿原→高層湿原への変化)。 逆に流路では植物は水に浸かると育ちにくくなりますから、そのまま残されます。 湿原ではマウンドが草地となり、その間を水が蛇行しながら流れるようになるでしょう。

河口型蛇行・干潟型蛇行のでき方
 浜は入江の奥にできます。このような場所には陸地から水が川となって流れてきます。 川が小さいときは水たまりはすぐには満杯にならないので、土手のどこか一番低い所から流れ出していくことになります。 そこは水の流れ込んでいるところとは無関係にできますから、小さな川なら蛇行となっていきそうです。
 ところで川が大きくて流れ込む水が多ければどうなるでしょうか。 あふれ出すところが1ヵ所にとどまらずたくさんできるでしょう。 水たまりに水が流れ込んでくるところの水位が一番高くなりますから、その近くからあふれ出すということが一番起こりそうです。 結果的に、川の水はまっすぐ流れていきそうです。 長崎県松浦市の志佐川河口の干潟で確認してみます。
長崎県松浦市志佐川河口の干潟
   長崎県松浦市志佐川河口の干潟
 干潟にはマウンドと潮だまりができています。潮だまりの間を結ぶ水路ははっきりとしません。 志佐川は橋の下からそのまままっすぐ向こうの方で左側に流れています。蛇行しているようにはみえません。

 大きな川と小さな川では蛇行のでき方が違うようです。大きな川を蛇行させそうなものは何かないか探してみます。
長崎県壱岐市母ヶ浦の砂堆
 長崎県壱岐市母ヶ浦(ほうがうら)の砂堆
 上の写真は長崎県壱岐島母ヶ浦で見た光景です。ここは深い湾になっています。右側が湾奥になります。 湾の真ん中を横断するように砂地の島ができています。 このような状態から海が干上がっていくと川は湾の向こう側かこちら側のどちらかを流れるようになります。 確率は五分五分です。
 この現象は砂堆といわれ、沖合から波浪によって海底の砂が運ばれてきたものが盛り上がってできます。 何度も繰り返しできる事が知られています。これがやってくるたびに、川の流れはあっちに行ったりこっちに来たりと不規則に繰り返しそうです。 結果的に蛇行となるでしょう。

 石狩川で考えてみると、蛇行は河口付近ばかりではなくかなり上流部でも見られます。 この付近が河口だったころは深い湾になっていたようですが、これだけ奧深くとなると波浪が弱まらずに入りこんでくるとは考えらません。 さらに上流部にあったと見られる湾は南に開いていますから、冬の季節風など大きな風に運ばれてくるということもなさそうです。 石狩川については、このような砂堆が蛇行の原因と考えるのは無理がありそうです。
 バリアとなるものがこんなに大きくなくても、ほんの小さなものであってもその後にできる川はまっすぐに流れずに蛇行するでしょう。 海に川が流れ込んだ先でちょっとだけたくさん土砂がたまればじゅうぶんです。そのようなものが他にないか探してみます。
 下の写真は、新潟港から佐渡に渡る途中で見た光景です。
新潟港沖に流れる阿賀野川の洪水
 新潟港沖に流れる阿賀野川の洪水
 この時数日前に降った豪雨によって、阿賀野川は濁流となっていました。それが、河口から新潟港沖に流れだし、海は泥色一色になっていました。 ところが船の後方を見ると、船が通ったところだけが泥水がなく青いふつうにみられる海の色となっていました。 船が通ったことによって、少し深いところにあった海水が巻き上げられたようです。
 このことから、泥水は海の表面にだけ広がっていることがわかります。 海水の塩分濃度が濃いために泥水よりも密度が大きく、泥水は海水と混ざることはなく、さらに海水中に沈むこともできなかったのでしょう。 似たような現象が観察されています。 満潮時に海水が河川を遡っていくときに、河川水の下にくさび上に入っていくことが知られています。この現象は塩水くさびと呼ばれています。 川の水が多少濁っていてもくさびはできるようです。

 川の水が海面上を流れていくとしたら、河口沖にバリアを作るのに有利な条件となります。二つあります。
 一点目は、海底地形形成に関係した問題です。ほとんどの河川では河口から沖合に向かって細長い海底谷ができているのが知られています。 海面上を河川水が流れているのなら、裏返せば海底を流れているのではないことになります。 海底谷を浸食していくような流れが存在しないことを示しています。この場所にたまろうとした土砂が運び去られることもありません。 このような海底谷は、氷河時代に海水面が低下して作られたものがそのまま取り残されているだけだと考えられます。 将来的に海が埋め立てられた後も、海底谷が川の流路として残されるとは限らないでしょう。
 二点目は、河川などで使われている流速と堆積・浸食の関係が成り立たないことです。 流速が低下するところで堆積が起こるのではないということです。 表層を流れる泥水ははコップに入った泥水がベルトコンベアで運ばれているのと同じです。 水中に含まれる泥などの粒子はその粒径に従う速度で沈んでいきます。 河川水中を落下しているときは、流れに流されて沖に運ばれていきます。 落下し終わって海水がある深さまで落ちてきたら、そのまま海水中を落下していきます。 海水には動きがないとみなせますから、その場所で海底に降り積もるようにたまっていくことになります。
 どんなことが起こるか考えてみます。洪水で河川から押し出された水はそのままの勢いで沖の方まで運ばれていきます。 その形は上空から見ると舌状に伸びているでしょう。砂泥粒子が同じ大きさだとしたら、この区域に一様な厚さでたまります。 洪水の大きさや粒子の大きさの違いによって舌状部の大きさは変わることを考慮しても、河口の前方を塞ぐように土砂がたまっていくでしょう。 これがある程度浅くまでたまってきたら、干潮時には沖合にまっすぐ流れるのには障害となるでしょう。 さらにちょっとした波浪の影響があると、土砂が海岸に平行に打ち上げられて、完璧なバリアとなります。
 河口型蛇行や干潟型蛇行はこのようにしてできたと考えるのがよさそうです。

閉塞型蛇行のでき方
 いろいろな蛇行のでき方を見てきましたが、まだ一つだけ残っています。閉塞型蛇行です。 水の流れが塞がれてできたダム湖のようなところでにできますから、海の場合と違って泥水は水面上を流れていきません。 むしろ、泥を含んだ分だけ重くなっていますから水底を流れていきそうです。河口型や干潟型のようなでき方とは違っていそうです。
 信濃川の例で考えてみます。一つありそうなのは次の場合です。幅の広い谷があってその両側はそれほど高くない山に挟まれています。 その一部が隆起して水がせき止められます。上流から流されてきた土砂はダム湖を埋めていきます。 これとは別に、両脇の山から流れ込む土砂もあるでしょう。この土砂は川の流れに対して横方向にたまって水底の高まりを作ります。 増水時は流れに変化はありませんが、減水時にはこの高まりを避けるようにして流れていきます。 白馬村付近の姫川はこのように流れているように見えます。でも何かすっきりと説明できていないようです。
 河口型・干潟型とはバリアを作るものが両脇の山から流れてきた土砂であるという点で違っているだけです。
 石狩川中流域で見ると、両岸の地形は信濃川と似ていますから、山から流れてきた土砂も蛇行させるのに一役買っているのかも知れません。 このあたりのところは何ともいえません。再検討の必要があります。後半で信濃川の場合も含めて考え直してみることにします。今のところ保留です。

ここまでのまとめに代えて
 蛇行は、川ができたときにすでにできているのではという考えを進めてきました。 この考えを蛇行拡大説に対して「蛇行初成説」ということにします。 このようになっているところを見つけられれば話は簡単なのですが、ほとんどの河口は埋め立てられていてどうなっているのかわかりません。 さらに急に深くなっているというのもあります。
 何かないかと探していると六角川の河口付近の干潟に行き当たりました。
六角川河口の干潟
 六角川河口の干潟 国土地理院空中写真より
 1997年に撮影された空中写真(白黒)です。川の流路になるとみられるところを強調するためにコントラストを調整しています。 左(西)側から流れ込んでいるのが六角川です。写真より西側では北東方向に流れています。 埋め立て地を抜けると向きが南へと振れているように見えます。 さらに進んだ左岸側の干潟の形から見るとそこから進行左(東)に曲がり始めているようにもみえます。 これをみると海の中にあるときから蛇行が始まっているようです。

*蛇行の変化*
 ここでは蛇行その後ともいえる地形を追っていきます。

三日月湖(河跡湖)
 蛇行の狭まったところが削られてなくなり、川の流路がつながってしまうと、遠回りしていたところが円弧状に取り残されます。 これを三日月湖(河跡湖)といいます。 また、川の流れだけで流路がつけかえられる現象を自然短絡というようです。 はっきりこれとわかるものがあれば蛇行拡大説の証拠ともなります。
 国土地理院によると石狩川中流域にたくさんあるとされています。ここに注目してみます。
浦臼町付近の石狩川
 浦臼町付近の石狩川 地理院地図を加工
 石狩川のようすについては国土交通省北海道開発局のサイトに詳しく述べられています。 ここには自然短絡によってできたと書かれています。そうだとすると気にある点があります。 一つは自然短絡が一番起こりそうな場所でつながっていないという点です。 実際には川が一番接近しているところではなく、「Ω」の下辺をつなぐように新しい川が流れています。 二つ目は、明治33年から38年の短期間に集中してつながったと書かれている点です。これはどう考えても不自然です。
 開拓の進展や大洪水によるものなのかは明らかではないという記述もあります。 状況から見ると「開拓の進展」によるものと見た方がよさそうです。
 開拓がすすんでくるととれた作物をどう運搬するかという問題が発生してきます。当時の大量運搬の主体は水運になります。 兵庫県の北播磨地域では加古川を利用した水運が発達してきました。それに伴う河川の改修も至る所でおこなわれています。 重要な輸送手段だったようですが、播州鉄道(現JR加古川線:大正元年)の開通によって衰退していきます。 これと同じで、石狩川中流域でも水運に頼るようになったでしょう。しかし蛇行していることによってロスが大きくなります。 そこで、人為的にショートカットする事で利便性をあげたということは考えられないでしょうか。 もっとも、人為的におこなわれたとするならその工事の記録が残っていてもよさそうです。あるかどうかは不明です。
※  地図の加工方法について  地理院地図写真(色むらを修正)と淡色地図、 三軒屋沼と茶志内沼で位置合わせをした国土交通省北海道開発局サイト内の開拓史測量地図の計3枚を貼り合わせた後、 沼の名前・現石狩川堤防の位置を記入しています。
#  流路付け替えの有無について  石狩川流域の物資輸送手段としては、流域で石炭が産出したこと、凍結により長期間船が使えなくなる事もあって、 明治15年(1882年)にはすでに手宮(小樽市)−幌内(三笠市)間に鉄道が敷設されています(小樽−札幌間は明治13年開通)。 以後輸送手段は鉄道が中心となりますが舟運も併用されていたようです。流路をつけ替えるほどのメリットはなくなっていたようです。
 明治30年頃の航路図を見ると、三軒屋沼が石狩川の流路として書かれています。 西沼付近に寄港地として晩生内(おそきない)があり、その南側で川がショートカットされているようにみえます。 流域全部をつけ替えなくても、部分的におこなわれていたということも考えられます。
 自然短絡が起こった原因については、明治31年に大洪水、明治37年に2回の洪水が起こっていることも考慮する必要があります。

 なお、新沼については開拓史地図に比べて半径が大きくなっているように見えます。 測量図の流路に現沼が斜交しているところがあること、他の蛇行では変化がないことを考えると単純に大きくなっているのではなさそうです。 原因については今のところ不明です。(#詳細については後述します。2025.10.20)

 川が接近しているところで川がつながればどうなるかを考えてみます。 そのような例があります。北海道幌延町付近の天塩川です。
幌延駅近くの三日月湖
 幌延駅近くの三日月湖 地理院地図を加工
 中央北端よりにJR宗谷本線幌延駅があります。この近くまでに達する大きな三日月湖と、その根元の現天塩川近くに小さな三日月湖が見られます。 まるで親子のようです。川はこの付近では全体として東(右)から西に流れています。 小さな蛇行は、大きな蛇行が接近したところから大きな蛇行の下流域側に流れ込んで反対岸を削ってUターンしてさらに下流で合流しています。 Uターン区間の内側には土砂の堆積が見られます。
 何が起こったのかを考えてみます。小さな蛇行が大きな蛇行で川が接近しているところから西側に流れ出していることから、 ここで大きな蛇行がショートカットしたとみられます。 ここで北上していた流れの一部は西に向かって流れだし、大きく迂回してから南下してきた流れと合流します。 近道した水は北上していた勢いで南下してきた流れと激しくぶつかります。これによって北上する勢いは弱まります。 流れは、濃溝の滝にみられるようにできた段差によって西に向かう急流となります。その勢いで対岸にぶつかり浸食していきます。 全体的に川底は南側に低くなっていたこともあって、流れの向きは南へと変わっていきます。 対岸をある程度浸食したところでUターンして戻ってくるでしょう。 カーブの内側(流れの側方)は、熊野川で見られたように土砂が堆積します。ショートカット部では段差ができることによって川底が削られ、 そこからの土砂がたまっていきます。段差は削られながら上流側に移動していきますから、土砂は大量に運ばれてきます。
 ショートカットが起こった原因も色々ありそうです。 一般的にいわれているように上流側と下流側から岸が削られ幅が狭くなってつながってしまったというのもあるかも知れません。 もう一つ考えれるのは、堤防を越えた水が、堤防を浸食して最終的に決壊させるように越えた水があふれた先から削っていくということもあります。 こちらの方が岸を削る勢いは強そうです。もちろん人為的に削られたということもあり得ます。
 これからわかるのは、いわれているような自然短絡が起こって三日月湖ができれば、親子のようなかたちになるということです。 そういうものがほとんど見られないのは、蛇行が拡大して三日月湖ができるのではないということでしょう。 河川改修などでその痕跡が消されている可能性もあります。。
 なお、ここの短絡は特に証拠はありませんが、人為的なものではないかと見ています。 このようにショートカットしてみると、流れが渦巻いて操船どころではなさそうです。 段差がある程度上流部に移動して流れが安定するまでは使えません。これはいつになるかわかりません。 人為的に流路を変更するなら、Ωの下辺を結ぶように作るでしょう。

 日本に見られる三日月湖には明らかに人為的に作られたものがあります。 自然短絡によってできたものだけを三日月湖と限定するなら、三日月湖というものは残らなさそうです。 あまり細かいところにこだわらずに、自然的人為的にかかわらず、 川の流れが変わって三日月型に残されたものを三日月湖というのがいいのではないかと思っています。

嵌入蛇行(穿入蛇行)
 今まで取り上げた以外でも、川が非常に曲がりくねって流れているという例があります。大阪から沖縄に向かう飛行機から見た光景です。 コントラストを強調しています。
四万十川の蛇行
 四万十川の蛇行 高知県四万十市上空から
 川が山の中を曲がりくねって流れているのがわかります。流れているのは四万十川です。 蛇行というのは氾濫原を流れる川に対して定義されていますからこれは蛇行とは呼べません。 元々は蛇行していたものが地盤の一様な隆起がおこり、川の流れているところだけが下方に浸食していって曲がりくねった流れが残されたものです。 このようなものを嵌入蛇行(穿入蛇行)と呼んでいます。 四万十川以外にも、四国仁淀川・那賀川、紀伊半島古座川・日置川、房総半島小櫃川・養老川等に見られます。
 蛇行拡大説に従えば、高い所ほど古い河床位置を示しますから、滑走斜面側では傾斜が緩く攻撃斜面側ではきつくなりそうです。 攻撃斜面側はほとんどのところで急傾斜となっています。 逆に滑走斜面側が蛇行が拡大したのに相当する分緩くなっているというところはあまりなさそうです。

 閉塞型蛇行でとりあげた信濃川中流域は、河岸段丘で挟まれた谷の中を流れています。 沖積地の中を流れていない点で、厳密には蛇行ではなく、嵌入蛇行とした方がいいのかも知れません。

蛇行の形がそのまま残されたものを掘削蛇行、蛇行がだんだん大きくなりながら削られていくものを生育蛇行として区別するようです。

*蛇行初成説の問題点*
 蛇行が河口付近で川ができるときにはできているとしたら、問題が一つ発生します。 一般的には河口付近には三角州が発達します。三角州ができるところ、蛇行ができるところという違いは何にあるのでしょうか。 海が埋め立てられていって陸地化してその間を川が流れるようになる過程についてはよくわかっていないのではないでしょうか。 干潟が埋め立てられることで自然に陸地化していく過程がみられるところはなくなってしまったように見えます。 蛇行拡大説なら三角州とうまく棲み分けられます。でもそれで解決できたのでしょうか。よくわかりません。
 いろいろなところの蛇行をみて、立地条件で分類してそれぞれの場合についてでき方を考えてみました。 一部の説明にかなり無理があるものもあります。これについては再検討します。 これで全ての蛇行が網羅できているという保証はありません。ひょっとすると条件に合わないものがあってそれが全部を否定するかも知れません。 少なくとも後に述べる四万十川の蛇行は最初の最初がどうだったのかさえもわかりません。蛇行している流域自体が蛇行しているようにもみえます。

 砂などの粗粒な堆積物は早く沈殿します。ふだんからたくさん運ばれてくる川では河口付近を中心に堆積します 海に出たとたん流れがゆるやかになるので、河口を塞ぐように土砂がたまっていきます。 川はまっすぐ進めなくなるので、左右のどちらかあるいは両側に流れていくようになります。 両側に分かれたものがそのまま続けて流れ、またその先で分かれてというのが繰りかえさえれば三角州が形作られます。
 これに対して、増水時のみ土砂が運ばれてくる川では、流れてきた勢いそのままで海面を流れていきます。 河口前方の広い範囲に土砂を堆積させます。たまった土砂は波と潮流の影響で河口前面に砂堆を作り川の前進を妨げます。 同じように左右のどちらかか両側に分かれて流れるかのいずれかになります。 両側に分かれた場合でもわずかな流量の違いで少ない方に土砂がたくさんたまり塞がれていくようになります。 最終的にはどちらか一方のみが選択され、左右にくねりながら流れるようになるでしょう。(2025.10.20)

 いろいろなところの蛇行を見ているときに不思議なものを見つけました。 尾瀬ヶ原の蛇行です。
尾瀬ヶ原下ノ大堀川
 尾瀬ヶ原下ノ大堀川 地理院地図に加筆
 空中写真で東(右)から西に通っている白い線は尾瀬ヶ原を縦断する木道です。途中で南から北に横断している川が下ノ大堀川です。 川の流れが北から南へと変わるあたりから、流れと平行に川跡のようなものがみえます。 これからすると、川の位置がある時期にジャンプしたようにみえます。これはどのようにできたのでしょうか。 蛇行拡大説では徐々に移動していくはずだし、蛇行初成説では一つの流れしか存在できません。
 尾瀬で写した写真の中にここのものがありましたので確認してみます。空中写真上にどこからどの方向を撮ったのかを水色矢印で示しています。
尾瀬ヶ原下ノ大堀川
尾瀬ヶ原下ノ大堀川(水芭蕉群生地) 謎の水路 
 右側にみえる川が下ノ大堀川の流れで、みえなくなってから灌木の向こう側を左に横断しています。 手前側に水に浸かった草地のようなところが見えます。一旦左側にはみ出してから再び写真内に戻ってきて灌木の手前で左に曲がっていきます。 写真より手前側ではしっかりとした流れになって下ノ大堀川に合流しています。 間に水芭蕉がたくさん交ざった草地があります。水芭蕉は完全に水に浸かるところでは育ちません。 二つの流れの間は少し高くなっているのがわかります。 灌木のある所は完全に陸地化しているでしょう。このことから二つの流れは全く別の水路といえます。 これがどのようにできたものか今のところ不明です。
 尾瀬ヶ原にはこれ以外にも川跡のようなものはたくさんあります。池塘の中には川跡のように並んでいるものもあります。 これからすると、尾瀬ヶ原の蛇行は蛇行拡大説はもちろん蛇行初成説でも説明できないようにみえます。

ここまで、2024年10月19日作成

 蛇行初成説の出発点は六角川にあります。ここで説明できたとしても他でも使えるというわけではなさそうです。 ここまでの本文中でみると、三日月湖のところで新沼が拡大しているという見方ができると書いています。原因については保留としています。 少なくとも石狩川では川の流路が変化しているようです。 もう一つそこにあげた図面には不思議なものがみえています。 浦臼沼の東側三日月沼の南側にある川の流路のような跡です。これは明らかに三日月湖です。 見つけていた開拓史測量地図でも半分しか描かれていなかったのでこの時は詳しくは触れませんでした。 石狩川流路が3つに折りたたまれたようになっています。これは明らかに奇妙です。 今後何回もでてきそうなのでこの場所の呼び方を決めておく必要がありそうです。グーグルマップによると袋地沼と書かれています。 この名前は他に使われてところがあるので適切でありません。 とりあえずこの三日月湖のある町名を使って奈井江の沼と呼ぶことにします。
 この現象は、少なくとも初成説では説明がつきません。川が行き違う間のせまいところに大きな高まりができるのは考えられないからです。 拡大説で説明しようとしても膨らんでいくはずなのにしぼんでいるようになっているのはうまく説明できているとはいえません。 この2つの問題について再検討することにします。

*粗粒堆積物があるところの蛇行*
 石狩川で起こったことを考える前に、現在の状況を見ていくことにします。写真は、留萌自動車道深川大橋から石狩川下流方向を見たものです。
石狩川
 石狩川 深川市深川町 2016年6月撮影
 六角川と異なり、手前右側の河床に砂礫の堆積が見られます。 左側手前では砂礫の堆積がありませんがこちらは攻撃斜面にあたります。 蛇行拡大説がいうようなことが起こっているように見えます。
 これ以外にも六角川と異なるのは、水面と川岸との高さの差が横の氾濫原も含めてあまりないことがあげられます。 干満の差による水位の変化もないでしょう。六角川とだいぶ様相が違うようです。比較してみます。本論と関係なさそうなものも書いています。
 六 角 川 石 狩 川 
周辺の土質 
 (粒度)
 砂泥
 (細粒砂以下)
 砂れき まれに泥炭
 (中粒砂以上)
水位の変化  干満による変化が大
 +洪水時の増水氾濫
  洪水時の
 増水氾濫のみ
氾濫原の高さ 満潮時水位の少し上 通常時水位の少し上
滑走斜面   堆積物は見られない 砂れきが堆積
その他 海水の遡上あり 冬期凍結

 石狩川では運ばれてくる土砂が粗粒なために、川岸に砂れきが堆積しています。 これが流路にどのように影響するのか見ていくことにします。 なお、どこに砂れきがたまって、どこを川が流れているのかについては、空中写真を見ることで確認できます。 ここでは、自然の流れの変化を知りたいので、できるだけ人工的な影響がない時代の写真を使って考えていきます。 基本的には、終戦直後(1947年ごろ)に米軍が撮影した写真を国土地理院が公表していますから、これを使用します。

基本的な流れ方
 堆積物で埋まった平野(堆積平野)を流れる川は、そこにある土砂を浸食をしないし、同じ大きさの土砂をためることもない程度の速さで流れています。 これが何かの理由で、例えば流路が曲がるといったことで流れの一部が速くなると浸食を始めます。 全体の流速は一定なのでどこかに流れの遅いところができます。そこでは堆積が起こります。
 実際にどのようになるかについては、熊野川の例で示しています。もう一度整理しておきます。 流れが岸にぶつかるところでは、土砂が削られて淵ができます。流れがはねかえるように曲がり、ぶつかったのと反対側の岸に土砂をためます。 さらに進行前方にもたまって川底が浅くなり瀬ができます。瀬を乗り越えた水は速く流れその前方で岸にぶつかります。 このようにして、淵と瀬を交互に繰り返して流れていきます。 砂がたまった岸を「州」、川の流れの道筋を「澪筋(みおすじ)」と呼ぶようです。以後この呼び方も使います。
 澪筋が川のカーブに沿ってできているのなら、浸食した土砂は遠心力で壁に押しつけられたまま流れます。 そのまま下流に運ばれていき、内側の岸にためることはできません。 このようにはね返るように流れると水がすぐに混ざって少し流れたところの反対側の岸にたまっていくことができます。

流れの曲がり始め
 蛇行拡大説では、曲がりのゆるやかなところから曲がりが大きくなって蛇行するようになると説明しています。 まだ蛇行といえるほどになっていないゆるやかに曲がった川がどのようになるかを考えてみます。 そのような例は南幌延駅近くの天塩川で見られます。天塩川は石狩川と条件は似ていますから同じようなことが起こると考えられます。
天塩川の空中写真
天塩川の流れ 国土地理院より(1947年米軍撮影)

 この付近では、天塩川は南から北に流れています。図面の関係で北が右側になるように置いています。川の流れは左から右になっています。 いくつか三日月湖が見られますが、ここには水が流れていませんので無視して考えます。
 灰色のべたっとしたところが川の流路で、澪筋はほぼこの中心と見ていいでしょう。 その横にある白く明るいところが州になります。さらに濃い色でざらざらとした感じのところが古い流路になります。
 マウスを図に重ねると流路を水色、州のある所を黄色、川の流路跡は緑色で塗りつぶします。 また。澪筋を青矢印で記入します。その他、これからの説明で必要な事項を色別の矢印で示します。
 澪筋はほぼ直線で、反対方向に交互に折れ曲がってジグザグになっているのがわかります。  この流れも蛇行という人もいますが、それにはちょっと曲がりが物足りない感じがします。
 ところで州のある所は少し前までは川が流れていたところです。それが現在の流れの位置までずれたことになります。 そのずれの方向を赤矢印で記入しています。矢印の反対側を見ると流路跡がありますから、川はこの方向にずれ続けていたことになります。
 流路全体で見るとどうでしょうか。ジグザグを波としたときの山や谷にあたるところの動きをピンク矢印で入れています。 どこで見ても下流方向にずれています。つまり、川の曲がりはそのままの形で下流方向に移動されていくことになります。 この方向は大きな矢印で記入しています。このことは河川のようすを見立てた実験でも確認されているようです。
 なお、波の山や谷にあたるところの動きは少し内側を向いているように見えます。 これだと、振幅がだんだん小さくなっていることになります。最終的にはまっすぐになるのでしょうか。 何らかの理由で小さくなるようにみている可能性もありますので、振幅は変化しないことにしておきます。 流路がまっすぐに近くなると流れが速くなるので流路に影響を及ぼしそうです。

 ここでは下流方向とは、川全体を見たときの下流側をさすものとします。水の流れの方向ではありません。 この場合は澪筋の方向と呼ぶことにします。

曲がりが大きいと
 曲がりが大きいといった場合は2通りのことが考えられます。一つは角度が大きな場合です。 もう一つは、弧状になっている半径をいいます。
 角度が大きな場合では、川は基本的にジグザグに流れています。澪筋は右・左と交互に向きを変えます。 この場合は角度が小さいときと同じで、川の形がそのままで下流方向に移動していくだけです。角度がさらに大きくなるということはありません。

 円弧の半径が大きな場合です。この場合、澪筋が向きを変えるのは交互ではなく、同じ方向に2以上回曲がることがでてきそうです。 右→右か左→左です。この場合は、水路実験では蛇行が大きくなること確認されているようです。 しくみについてはいろいろな場合が想定できるので何ともいえません。
 はっきりしているのは、ジグザク型からこの形へどのようにして変化するのかについてはわかっていないということです。

 見方を変えることにします。実際の蛇行している川でどのようなことが起こっているかを検証します。 場所は三日月湖のところでてきた浦臼町近辺の石狩川にします。 昭和22年(1947年)に米軍が撮影した空中写真が国土地理院から入手できます。これと開拓史測量地図を比較することにします。
石狩川空中写真
石狩川の蛇行 国土地理院より(1947年米軍撮影)

 新沼からトイ沼の手前までの間の空中写真です。何枚かの写真を貼り合わせ、全域が入るように右に約30度傾けています。 全体的な流れの方向はやや右上から左下側になります。左側から新沼・浦臼沼・奈井江の沼の3つの三日月湖がみえます。 右上にトイ沼の一部もみえています。これらの沼は、マウスを重ねると青色で塗りつぶします(以後「マウスを重ねると」は省略して書きます)。
 この図とウツギ沼・茶志内沼の位置で合わた開拓史測量図の石狩川流路を水色線で挟んで示します。 ぴったり重ならなかったので多少ずれがあるものとみてください。
 開拓史測量図には新沼の横に三日月湖のようなものが書かれています。空中写真でもそれらしきものが認められます。水色で塗りつぶして示します。
他にも茶志内川の流路も水色線で示しています。
 開拓史は明治15年までありましたので、測量図はそれ以前に作られたものとみられます。 明治30年頃の石狩川航路図とほとんど変わりませんから、明治30年(1897年)のころのものとして見ることにします。
 その後昭和46年までの間に流路に影響しそうな事件としては、明治31・37年、大正11年、昭和7年にあった大洪水があげられます。 また河川改修は石狩川全体ではかなり早い時期から始まりますが、中流域ではほとんど手がつけられず昭和16年頃から本格化します。 より下流域と上流域から大規模な改修は始まりますがすぐに戦争に突入しています。図に示した区域では、改修がなかったように記されています。 その中で、真ん中の浦臼沼については、明治41年(1908年)に切り離されたという記述があります。

新沼の変化
 浦臼沼近辺については、河道やその跡が複雑に絡み合っていてどう変化したのかを読み取るのは非常に困難です。 もう少しわかりやすい左側の新沼近辺について開拓史の測量図と米軍空中写真との違いに注目して、この間の変化を考えることにします。
 新沼付近を見ると大きく流路(河道)が変化しているのがわかります。変化のパターンは、大きく見て3区間で異なります。 流入部と屈曲部、流出部とわけることができそうです。順番にその特徴を述べます。
流入部− −河道が北北東から南南西に押し流されたようです。河川敷に見られる縞模様(黄線で表示)もその途中のようすを示しているように見えます。
屈曲部− −河道の半径が大きくなったように見えます。全体的に屈曲が外側に押し出されたという見方もできそうです。
流出部− −流入部同様北から南に押し流されたようです。その量は流入部に比べるとわずかです。
流れが二つに分かれています。外側にあった小さな河道跡にも流れていくようになったようです。

 同じような現象が、奈井江の沼でも測量図ができる以前に起こっているように見えます。 測量図に書かれた河道の内側に河道跡のような模様が見られます(橙線で囲っています)。 更にその上流側では、その位置に河道が移動していってできたのではないかとみられる縞模様ができています。 これ以後の変化については、間にある大きな施設の下になっていてわかりにくくなっています。

 何が起こったか考えてみます。流入部・流出部では澪筋が下流方向に流されているように見えます。 このような現象は、ふつう、南幌延駅近くの天塩川のようにジグザクに流れている場合を除いて起こらないでしょう。 川の片側が反対側に比べて浸食力が強いということは起こりえないからです。
 もう一つ気をつけないといけないのは、通常時の川流れによる変化だけではなく、洪水時にどのようなことが起こるかを考慮する必要があります。 流れが速いほど浸食・堆積の力は大きくなります。地形に与える影響ははるかに大きくなります。 このことは「天井川はどうしててできる」でも書いています。 測量図ができてから米軍が撮影するまでの間に4回の大洪水が起こっています。
 ここで一つ問題が発生します。蛇行した川で洪水が発生したときに水がどのように流れるかということが全くわからないということです。 何らかの研究があってそれを見つけられていないだけなのか、そういうことは全くわかっていないのかということさえ今のところつかめていません。 これだと先に進めませんから、常識的な範囲で考えてみることにします。
 はっきりわかっているのは、川底との間で抵抗を受けることです。 その結果、川底近くでいちばん遅く0に近い速さになり、ここから離れるに従って速くなっていきます。 また水面近くでは空気に触れますからこの間でも抵抗を受けます。少しは流れが遅くなりますが、川底で受ける影響に比べると少ないでしょう。 とりあえず空気の抵抗は少ないということで無視します。

洪水時の水の流れ
 だんだん増水していくときのようすを考えてみます。水位があがっていって、川筋からあふれ出してきます。 初めのうちは河道に沿って流れていくでしょう。この時は河道の中心部の流れがいちばん速くなります。
 あふれた水が増えてくると、蛇行でぐるっと回ってきた氾濫水とつながるようになります。 こうなると、氾濫した水は迂回せずに下流方向に流れるようになります。 それでも河道を流れる水に比べて水位が浅い分流れはゆるやかです。 水の流れの大半は河道に沿って流れていくでしょう。
 更に増えた場合です。地形的には河道方向の傾斜に比べて下流方向の傾斜の方がきついので、氾濫水はそれほど深くならないうちにより速く流れるようになります。 こうなってくると流れてきた水の大半はそのまま真っ直ぐ下流方向に下って行くことになります。 この時でも河道に沿った流れは残っていそうです。そうはいっても表層を流れる下流方向への流れの影響を受けるでしょう。 ただし、どんな場合でもというわけにはいかないでしょう。より大きな洪水になってくると表層の流れで河道の流れはかき乱され、 最終的には氾濫水の流れに飲み込まれてしまいそうです。でも、洪水がどれくらい大きいとこうなるのかはつかめていません。

 中程度の洪水を考えてみます。まだ河道の流れが完全にかき乱されていない状態です。 河道の流れは表層の流れによって下流方向に押しつけられます。両岸では下流側の浸食力が大きくなるでしょう。 この結果、河道は下流側に移動していくことが考えられます。新沼流入部や流出部が下流側に移動したのはこれが原因でしょう。
 屈曲部はどうでしょう。新沼もそうですが、このような場所は川全体の流れの軸部から離れた所にあります。 氾濫水の水深は浅くなりますから、流れもゆるやかでしょう。河道の流れが下流側に押さえつけられる力も弱くなります。 こうなると流れは正面の岸に集中してぶつかるようになり、川岸をまっすぐに削っていくでしょう。河道の曲がりがだんだん外側に移動していきそうです。 あるいは、蛇行拡大説がいうように蛇行が大きくなるのかも知れません。新沼や奈井江の沼で見る限りは。屈曲部が外側に移動しているように見えます。

 川の流れに話を戻します。流れの勢いが強いのは増水しているときです。泥水が流れ込み、より下流側に水をためるためにどんどん流れていきます。 雨がやむようになってくると、下流側にあった水から順番に排水されていきます。この時の流れはそれほど速くないでしょう。排水には時間がかかります。 このあいだに水中の泥がどんどん沈んでいき堆積します。この時には新たに川岸を削るということはないでしょう。 河道の位置が大きく変化するのは、増水時に起こっているのでしょう
 2つの図が作られた間には4回の洪水が起こっています。 流路の変化がこのどれか1回で起こったのか、4回かけてじわじわっと変わっていたのかは図から読み取ることはできません。 最終的にどのようになるのかを考えるのなら、どちらでも大差はないでしょう。深く考えないことにします。
 不思議なことがあります。新沼は大きく変化しているのに対して、浦臼沼や奈井江の沼はほとんど変わっていないように見えます。 さらに、図には示しませんでしたが、より下流にある三軒屋沼でも変化が見られません。 当時三日月湖化していたかいなかったかの違いもあるかも知れませんが、明治41年(1908年)浦臼沼の切り離しが関係しているとみるのはどうでしょう。 この区域の流れがよくなることによって、その下流の新沼近辺で水が滞留し、洪水の影響が大きく出るというのは容易に想像できます。 さらに、新沼流入部と流出部での洪水の影響の違いもこれでうまく説明でそうです。

大洪水があると
 大きな洪水があると流路が流されていくようです。これが起こるのは10年に1回起こる規模の洪水でしょうか。もう少し規模の大きな洪水となるとどうでしょう。 例えば100年とかそれ以上に1回です。氾濫水が下流方向へ流れていく勢いはもっと大きくなります。 流路に沿う流れも飲み込まれていきそうです。そうなると流路は完全に破壊されるでしょう。 水が引いた後の流れは今までと全く違ったものになりそうです。その後のことも考えないといけないでしょう。
 ここで、注目したいのは氾濫した水が完全に引くまでかなりの時間がかかることです。 昭和7年の洪水でも2ヶ月近く水が引かなかったという記録があります。大洪水だともっとかかりそうです。 ほとんど水が引いたときに初めて流路がどうなっているのかがわかります。それまでは流路がどうなっているかは確定しません。 言い換えればこの時点で川が蛇行しているかを考えるのは無意味だという事になります。大半の水が氾濫水となっています。
 洪水がピークに達した後を考えます。それまでは氾濫水が通常時の地面をかき乱しています。 その土砂は一斉に底に沈んでいきます。ふだんの川の流れが削ることができるかできないかくらいの粒度の土砂です。 氾濫水が引いていく流速では削っていくとはできません。何も起こらないような感じがします。
 この時には、浅く広い湖が形成されています。水面には吹いてくる風によって波が立つでしょう。 冬の北海道で水が凍っていないのなら強烈な季節風で大きな波が立っているのは容易に想像できます。 波の波長に比べて水深が浅い場合、水底の土砂は波によって揺さぶられます。 これにゆっくりとした下流方向への水の流れが加わると土砂は下流方向にゆっくりと流されていきます。 海岸付近で砂浜に影響を与えないほどの強さの海流が波の力も加わって砂を運んでいくのと同じ原理です。
 このような場合、流れの方向と垂直に砂でできた高まりができる事が知られています。これを砂堆といいます。 どのようなものかについてはすでに母ヶ浦の砂堆のようすで触れています。 流れの方向が長くなってくると、砂漠にできる砂丘列のようにいくつも平行に砂堆が並ぶことがあります。 能登半島千里浜と与論島百合ヶ浜でのようすを示します。たくさんの砂丘の列が並んでいるのがわかります。
能登半島千里浜の砂堆
与論島百合ヶ浜の砂堆

 氾濫水の底ではこのような砂堆が流れを横切るようにたくさん並びます。はしご状というか、洗濯板、あばら状、湯たんぽとかそんな感じです。 この状態で少しずつ水が引いてくると、高く盛り上がった部分から順番に水面上に顔を出してきそうです。
 流れを横切るように畝のようなものがたくさん並んでいるのが見えてくるかも知れません。 畝の高さはそれほど高くないと思われます。洪水が起こって水が引くまではどちらかというと短期間ですからそれほど高くなるほどの余裕がありません。
 水は上流側から下流側へと流れていきますから、どこかでこの畝を越えていきます。畝の中でもいちばん低くなったところです。 これはどこにできるかわかりません。少なくとも真ん中付近は高くなるので端っこのどちらかでしょう。 越える位置を上流側から見ると右左に行ったりするでしょう。少し上からだと、蛇行しているように見えます。
 水が畝を越えた後、わずかな下り坂になりますから、流速が上がるでしょう。これに伴って底の土砂が削られます。 水流は前方の水たまりにつっこむと遅くなります。削って運んでいた土砂をためていきます。 畝を横切った正面にある畝は高くなっているかも知れません。これなら、次の畝を越える位置は反対側の端になりそうです。
 この現象は、水がほとんど引いて底とか畝の部分とかが水面から顔を出す前に完了していそうです。 なぜなら、畝が低い部分は他の場所に比べて水深がより深くなるのでその分だけ流れが速くなるからです。 水が引いたときには新しい蛇行した流れがいきなり見えていそうです。

 このような蛇行はまだ頭の中だけの話にはなりますが、とりあえず洪水型蛇行と呼ぶことにします。

閉塞型蛇行などとの関係
 石狩川の場合、河口付近まで蛇行していたようすが見られます。この蛇行は洪水によってできたものでしょうか。 もちろん洪水によって川が氾濫するでしょう。ふつうなら、海が近いので直接海に流れ出してすぐに水が引いてしまいそうです。
 ところが河口付近の地形図を確認すると、海岸に沿って砂丘が作られているのがわかります。 これは北西からの季節風によってできた波によって海岸に打ち上げられた砂が吹き飛ばされ、より内陸側にたまってできます。 石狩川はこの砂丘を横切ってから海に注いでいます。海岸から吹き飛ばされてくる砂は川の中にもたまっていき、流れを悪くします。 場合によってはこの砂は河口を塞ぐこともあります。こうなれば別のところに河口を移動させることになります。 地形図からは4kmほど北東側に移動したと読み取れます。河口が遠くなればそれだけ流れが悪くなります。
 石狩川の河口が移動しているということは、時々河口が塞がれているのでしょう。 その時に別のところに新たに河口が作られることによって河口が移動していきます。これは1度や2度のことではなく何度も繰り返し起こったでしょう。 これは閉塞型蛇行ができる条件と同じです。
 河口付近にできる蛇行は、河口型蛇行としました。六角川のように川ができる前からできているものもあります。 石狩川のように閉塞型蛇行と呼んだほうがいいものもあります。2つにわけてみた方がよさそうです。 区別点は干満の差があり、氾濫原の高さと川底の高さの差が大きいか、 高さの差はそれほどないものの河口付近に砂丘列ができていて川が海岸線に対して平行に流れてから海に注ぐかといったところでしょう。
 石狩川中流域の蛇行は洪水型蛇行、下流域の蛇行は閉塞型蛇行とみなせます。それではこの2つは何が違うのでしょうか。 洪水の場合は初期に大量の水が流れ込んできます。その時にいろいろなものが押し流されるでしょう。河道だって流されることもあります。 これに対して閉塞型蛇行はそれほど水が流れが増えなくても水位がじわじわっと上昇してきます。この時にはなにかを押し流すということはないでしょう。 流れが弱い分土砂を運んでくるということも少なくなりそうです。そのかわり、水に浸かっている期間は長くなりそうです。 これによって、運び込まれる土砂の量は増えるし、砂堆も蛇行を作るくらいには成長できそうです。
 信濃川中流域の蛇行を考えてみます。川が塞がれ始めた頃はまだ深い谷を作っています。 このときはまだ谷底を川が流れていくので蛇行はできません。 谷は上流や側方から流れ込んで来た土砂によってどんどん埋め立てられていきます。最終的には水面の高さまで埋め立てられていくでしょう。 川周辺の地面は平らになります。こうなった後に活褶曲の部分が再び隆起すると、それより上流部では湖が作られます。 この状態は石狩川河口が塞がれたときと同じです。時間をかけて水が引いていく間に砂堆列が作られ、その低い所を縫うように蛇行ができます。
 以前に側方がら流れ込んでくる土砂が関係しているかも、と書きました。 水が引くまでの間に、たくさんの土砂が横から流れ込むのはその場所に集中して雨が降るといったことがなければ起こらないでしょう。 こういう偶然にあまり頼りたくありません。これではいつもできるとは限らないからです。 運ばれてくる土砂の発生源も横の谷が埋められていることでかなり遠くになっています。これだけの距離を多量に運ばれてくるのは少なそうです。 少しくらいたまったところで、砂堆の移動で持っていかれるでしょう。川の流れを変えるような流れ込みなら地形から確認できるでしょう。
 このように考えてみると、横からの土砂の流入によって高まりができて蛇行になるという可能性は少なそうです。 横から運ばれてくる土砂によって蛇行ができるという考えはありそうもないということで撤回します。

氾濫水域翼部
 氾濫時にできた湖も、翼部では軸部に比べて水深が浅くなっています。これによって波の伝わる速さは遅くなります。 また、岸からの反射波も加わって波の立ち方が複雑になってきます。水底での砂の揺すぶられ方も場所によって違ってきます。 砂の盛り上げられ方もかなり不規則になってきます。高い所低い所が細かく入り混じった形になります。 水が引いてきたときに、このような場所に側方から小さな川が流れてきた場合を寒鴉がえてみます。 低い所を縫うように流路が細かくあちらに行ったりこちらに行ったりとうろうろするでしょう。これによって細かい蛇行ができそうです。
 石狩川流域を見ても、新沼近辺では茶志内川のように曲がりくねりながら流れている支流がたくさんあります。 河口近辺でもそのような川をたくさん見つけることができます。このような大きな蛇行・小さな蛇行が混ざったような場所を何とか説明ができそうです。


*まとめ(蛇行はいつできるか)*
 蛇行拡大説はいくつかの点で無理があります。まとめてみます。
.拡大することによって流路が長くなる→勾配が緩くなる→流速が遅くなる→浸食力が弱まる(削れられなくなる)
.半径が大きくなる→遠心力減少→浸食力が弱まる(これは3の理由で無視できます)
.澪筋はカーブに沿ってできないこと(例:熊野川町の熊野川)=攻撃斜面全体が均一に浸食されない
.澪筋が川岸に左右交互にぶつかる場合、そのままの形で下流側に移動していき蛇行にはならない
さらに、六角川では
.浸食できる流速に達していない
.滑走斜面に土砂が堆積したようすが見られない
いちばん大きな問題として
.地形に大きな影響を与える洪水時のことが考慮されていない
という理由で本論では蛇行が拡大するとは考えていません。
 河口付近、洪水や川の閉塞によってできた湖では。波と水流の作用で砂丘列状の砂堆があるいはマウンド群のようなものが作られ、 水がなくなるときに底の低い所を縫うように川が作られることで蛇行できると考えます(蛇行初成説)。


 下ノ大堀川の二重蛇行の問題については、まだ解決できていません。 おなじようなものが、石狩川新沼周辺でもウツギ沼や新しくできた分流のところなどいくつかあったように見えます。 現在のところはお手上げ状態です。 何かわかれば加筆します。

ここまで、2025年10月20日追加



参考にしたサイト
国土交通省北海道開発局 札幌開発建設部 石狩川治水に係わる主な事業 治水100年
https://www.hkd.mlit.go.jp/sp/kasen_keikaku/kluhh40000000oac.html
  主にP.2 生振捷水路 P.57 自然短絡河跡湖 P.58 浦臼沼

国土交通省姫路河川国道事務所 加古川水の新百景
https://www.kkr.mlit.go.jp/himeji/torikumi/river/database/kako_scene/list.html
  加古川水運に関係する史跡などが多数紹介されています

以上 2024年8月28日閲覧
三輪河川技術事務所HP
https://miwahajime.jimdofree.com/3-川の流れと形-専門家向け詳細版/

国土交通省北海道開発局 札幌開発建設部 治水100年
https://www.hkd.mlit.go.jp/sp/kasen_keikaku/e9fjd600000003ko.html

以上 2025年9月15日閲覧
その他国土地理院など多数あります。
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2024年10月19日このページ作成
2025年10月20日  後半部追加




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